蛭田瑞穂 2025年10月12日「夕刻」

夕刻

ストーリー:蛭田瑞穂
    出演:遠藤守哉

「ワインをお注ぎしましょうか」

ミシマは頷き、グラスを差し出した。
カフェ・ド・フロールのテラスで、
冷えたシャブリが注がれる。
その透明な液体は、夕陽を受けて黄金の輝きを宿した。

パリの空は燃えていた。

沈みゆく太陽が空一面に敷き詰められた無数の鱗雲を、
朱から紅へ、紅から茜へと染め上げ、
巨大な龍が天を覆うかの如き壮観を呈していた。

夕陽は何故かくも美しいのか。
朝陽は希望という名の幻想に彩られているが、
夕陽は何も約束しない。
ただ終焉を、漆黒の闇をもって宣告する。

美とは喪失であり、喪失こそが美の源泉である。
薔薇が永遠に咲き誇るならば、誰がその花弁に陶酔しようか。
恋も青春も、終焉という名の断崖を前にしてこそ、
最も激しく燃え上がる。

この夕陽と共に、すべてが幕を閉じるならば、
—— ミシマはシャブリを一口含んだ。
それは完璧な終幕ではないか。

世界が最も美しく輝く瞬間に、最も美しい形で完結する。
夕陽という巨大な幕が降りて、その幕は永遠に上がらない。

コクトーは言った。
「詩人は永遠の眠りについてから生き始める」

何という逆説。
何という真実。
生きている詩人は、詩人の仮面を被った俗人に過ぎぬ。
詩人の真の誕生を告げるのは、
墓石にその名が刻まれた時である。

喪失の刹那にこそ、美は絶頂に至る。
散る桜も、流星の煌めきも、沈みゆく夕陽も、
すべては失われる瞬間に、
その存在の極致を最も純粋な輝きとして顕現させる。

故に、私は死を恐れぬ。
死とは、美の究極の完成、否、その唯一の実在である。

私はそれを、生まれる前から知っていた。

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出演者情報:遠藤守哉

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蛭田瑞穂 2024年9月22日「渇望」

「渇望」

ストーリー 蛭田瑞穂
  出演 遠藤守哉

漱石の指が、白い原稿用紙の上で痙攣するように震えていた。
締切はとうに過ぎ、新聞社からの催促の電報が
机の上に無造作に置かれていた。
筆は一向に進まず、突如として襲い来る胃の痛みに、
ぐっと声を押し込めた。
「またか、この呪われた痛みめが」。
歯を食いしばり、力なく立ち上がると、
よろめきながら縁側へと歩を進めた。

障子を開けると、空はすでに茜色に染まり、
夕暮れの影が忍び寄っていた。
縁側に腰を下ろし、冷や汗を拭う。
深呼吸をし、痛みをやり過ごそうと試みた。
しかし庭に目をやると、紅葉した木々の鮮やかな赤色が
まるで己の胃の中を流れる血を連想させ、
再び痛みが意識を支配した。
漱石はゆっくりと瞼を閉じる。
苦痛から逃れようと、何か別の思考に没頭しようとした矢先、
不意にひとつの問いが脳裏を掠めた。
「読書をしながら食べるにふさわしい果物は何であろうか」。
なぜそのような問いが浮かんだのか、漱石自身にもわからない。
ともあれ痛みに耐えながら、その取るに足らぬ問いに心を委ねた。

まずは林檎か梨か。
小気味よい歯ごたえと口の中に広がる甘さを想像した。
しかし、ナイフで皮を剥く手間が甘美な想像を無情にも打ち消した。
そもそも読書をしながら食べるという命題にそぐわないではないか。
柿もまた然り。
その上、渋柿に当たる可能性を考えると躊躇は増すばかり。
ならば桃は如何か。
滴り落ちんばかりのみずみずしい果汁に心惹かれる。
しかし、その汁が本に飛散しはしないか。
大切な書物を汚すわけにはいかぬ。

蜜柑か。蜜柑があるではないか。
手で容易に剥け、房に包まれ、果汁が飛び散る心配もない。
その美味は言わずもがなである。
読書に最適な果物は蜜柑であると結論づけようとした刹那、
房に付く白い繊維の存在が彼の心を萎縮させた。
取り除く度に読書は中断される。
その煩わしさは、到底受け入れがたい。

思考が行き詰まりかけたその時、思い浮かんだのは葡萄だった。
そうだ、葡萄ではないか。
蜜柑の長所を兼ね備えつつ、その短所とは無縁である。
デラウェアなる小粒の新種を、
一粒ずつ口に運べば、決して読書の邪魔にはならぬ。
そう考えると、葡萄がもはや、
ながら喰いのために造形された食物とさえ思えた。
長年の探求がようやく実を結んだかのように、
漱石は満足げにうなずいた。

すると突如として、
その果物を今すぐに手に入れたいという衝動に駆られた。
足早に書斎へと戻り、机の引き出しから財布を取り出す。
財布の中身を見て、葡萄を買える額があることに安堵すると、
玄関へと向かい、草履を履き、勢いよく戸を開けた。

財布を握りしめ、晴れやかな表情で近所の八百屋へ歩いてゆく。
今や漱石の意識から、何もかもが遠い記憶のように薄れていった。
白い原稿用紙も、締切の重圧も、病の苦痛も、
全てが意識の後景へと押しやられていた。
心はただ葡萄への渇望で満ちていた。

出演者情報:遠藤守哉

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蛭田瑞穂 2023年10月8日「ミステリーブラックの雨」

「ミステリーブラックの雨」

ストーリー 蛭田瑞穂
出演 遠藤守哉

シャーロック・ホームズと友人の医師ジョン・ワトスンは
ベーカー街221Bの下宿を出て、
オックスフォードストリートに向かっていた。

目的は、新たに出版された科学論文を書店で手に入れることで、
その論文にはホームズが関心を寄せている、
毒物の識別手法についての記述が含まれていた。

ふたりの足元にはロンドン特有の石畳が広がり、
通りにはヴィクトリア朝時代の優雅な建築物が並んでいた。
平凡だが穏やかな、秋の午後だった。

しかし、平穏は長くは続かなかった。
空が不自然な速さで暗くなると、突如として黒い雨が降り出した。

「何だろう?この黒い雨は」
ワトスンが驚きと不安が入り混じった表情でつぶやいた。
ホームズは手のひらで雨粒を受けると、注意深くそれを観察した。
「ワトスン、これはインクだよ。この独特の色調と香りから察するに、
 モンブラン社の高級インク、ミステリーブラックといったところだろう」

大量のインクが街頭に打ちつけ、石畳は瞬く間に黒く染まった。
それはまるで闇夜を流れる川のようだった。

ホームズは深く考え込んでいる。
複雑な推論や仮説が頭の中で組み立てられているようだった。
「ホームズ、君は何か考えがあるようだね」
ワトスンは尋ねた。
「これが通常の理論で説明がつかない状況なのは確かだ。
 インクが降ってくるという現象は、僕らが何らかの枠組み、
 おそらく、物語の中で操られている可能性を示唆している」

「物語だって?」
ワトスンの声には明らかな疑念が滲んでいた。
「確かに、これはにわかに信じがたい事態だ。
 僕らが現実だと認識しているこの世界が、
 すべてつくりものということだからね。
 馬鹿げているようだが、それ以外にこのような
 奇怪な現象を説明する方法を僕は知らない」

先ほどまで商人や物乞いが声を上げていた通りは、
今や幽霊が出現してもおかしくないほどの不気味な静寂に包まれている。

「だったら我々はどうすればいい?」
ワトスンは上ずった声をあげた。
「なに、案ずることはないよ、ワトスン。
 僕の推察では、この現象は作者の創作上の苦悩か、
 執筆の焦りから生じたもの。
 だが、そんな状態が永遠に続くわけがない。
 コーヒーでも飲んでこの雨を遣り過ごすとしよう」

時計台の鐘が鳴った。

アーサー・コナン・ドイルは執筆の手を止め、万年筆を置いた。
手元のカップにコーヒーを注ぎ、熱い液体をゆっくりと口に運びながら考える。
物語の中でホームズとワトスンが事件に困惑する姿を思い浮かべ、
この先どう進めるべきかを模索した。

しばらく考えた後、新たなアイデアが浮かび、
ドイルの顔に小さな笑みがこぼれた。
物語が動き出そうとしている。
ドイルは再び、万年筆を手に取った。
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出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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蛭田瑞穂 2021年10月3日「また風は吹くのかな」

「また風は吹くのかな」

     ストーリー 蛭田瑞穂
        出演 ミズモトカナコ

世界に風が吹かなくなってから、もうずいぶんと長い歳月が経つ。
「そういえば最近風が吹いてないな」
人々がそう気づいた時、すでに風は消えていた。
それ以来、世界にはそよ風ひとつ吹いていない。

「ねえ、サンヌがこどもの時は風があったんでしょ?」
「そうよ」
「風はどこにあったの?」
「どこにでも吹いていたわ。窓を開ければ自然と風が入ってくる。
 そのくらい風は身近なものだったの」

「風は目に見えないでしょ?」
「そう。見えない」
「どうしてわかるの? 風って」
「体が感じるの。風が吹くとね」
「どうして風は吹かなくなったの?」
「人間が自然を壊しすぎたから、と言う人がいる。
 大きな地震で星の軸が動いたから、と言う人もいる。
 神の怒りを買ったから、と信じる人もいるわ。
 でも、ほんとうの原因は誰にもわからないの」

「風はなにかの役に立つの?」
「昔は畑の灌漑に使っていたわ。風のちからで風車を回して水路の水を汲み上げて。
 でもね、どちらかといえば、風は役に立つというより、
 人を気持ちよくさせたり、心を穏やかにしたりするものなの」

「サンヌは風が好きだった?」
「大好きだった。今でもよく思い出すの。
 畑一面に咲いたリネンの花が、風に揺れて、ほんとうにきれいだった」
「また風は吹くのかな」
「あなたはどう思う? また風は吹くと思う?」
「わたしにはわからない。でも、いつか風を感じてみたいな」

世界に風が吹かなくなってから、もうずいぶんと長い歳月が経つ。
それ以来、世界にはそよ風ひとつ吹いていない。



出演者情報:ミズモトカナコ   https://www.victormusicarts.jp/

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蛭田瑞穂 2017年9月24日

hiru1709

ピーちゃん

   ストーリー 蛭田瑞穂
      出演 遠藤守哉

 ピーちゃんの話はしたことあったっけ? 文鳥のピー
ちゃん。うん、文鳥を飼っていたんだよ。小学校の時
にね。頭が黒と白で、体が灰色の文鳥。くちばしがき
れいなピンク色でね。文鳥って、体のサイズにくらべ
てくちばしが大きいんだよ。雀なんかよりずっと大き
いよ。だからピンクがすごく目立つんだ。

 ピーちゃんはすごく懐いていたよ。鳥かごから出す
とさ、すぐに人のところに寄ってくるんだよ。バーっ
て飛んで来てね。人の体に止まるんだけど、ときどき
頭の上に糞をされちゃってね。文鳥の糞なんて、まあ、
汚いもんじゃないんだけどさ。

 ピーちゃんは庭に放しても平気だったんだ。小学校
の時の家には庭があったんだよ。いや、たいしたこと
ない庭だよ。田舎だったしさ。桃とスモモの木があっ
て、ピーちゃんはよく、その木の間を飛んで移ってい
たよ。そうなんだよ、不思議と逃げないんだよ。名前
を呼ぶとちゃんと家の中に戻ってくるんだ。そのくら
いね、ピーちゃんは懐いていたんだよ。

 ところがある日、僕が小学校から帰ってくると、母
親が僕に言った。ピーちゃんが逃げたって。その日の
ことは今でも覚えているよ。ちょうど今くらいの時期
だよ。九月のね。暑い日だった。母親の話によると、
子どもたちが学校に行ったあと、いつものようにピー
ちゃんを庭に放してた。すると、突然野良猫があらわ
れて、驚いたピーちゃんはバタバターって、山の方に
飛んでいっちゃった。僕はすぐにピーちゃんを探しに
行ったよ。山の中に入ってさ。いや、見つからなかっ
たよ。山なんて広いんだし、子どもがひとりで探した
って見つかるわけないよ。その日の夜、僕は布団の中
で泣いた。ピーちゃんに二度と会えないだろうと思う
とさ、どうしようもなく涙が出てきてね。

 この話にはまだちょっと続きがあるんだよ。次の日
の朝、母親が僕に手紙を手渡したんだ。これを担任の
先生に渡しなさいって。それは先生へのお願いの手紙
だった。いなくなった文鳥をみかけた生徒がいたら、
僕に伝えてくれるよう、学校の放送で呼びかけてもら
えませんかっていう。うん、先生に渡したよ。ちゃん
と放送してくれた。給食の時間にね。その間、僕は顔
を真っ赤にしてずっとうつむいていたよ。母親として
は藁にもすがる思いだったんだろうけど、たかだか一
羽の小鳥の話だからね。それが全校生徒が聞く校内放
送で流れるんだからさ。

 その甲斐もなく、結局、ピーちゃんは見つからなか
った。そりゃそうだよね。犬や猫と違って小さいし、
空も飛ぶんだからさ。そのあと何羽か文鳥を飼ったけ
ど、あれだけ賢くて、人に懐いた文鳥はいなかったな。

 ほんとだね。なんで急に、文鳥のことを思い出した
んだろう。こんな時にね。もう十何年も忘れていたの
になぁ。

 そろそろ式が始まるみたいだ。行こうか。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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蛭田瑞穂 2016年12月18日

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猫は空を見ていた

       ストーリー 蛭田瑞穂
         出演 大川泰樹

猫は空を見ていた。
天窓の上の空をじっと見ていた。
空には雲がぽっかりと浮かんでいた。
雲はひとところに留まっているように見えたが、
しばらく眺めていると
窓の端にむかって少しずつ移動していることがわかった。

雲は徐々に窓枠の外に隠れてゆき、
最後は完全に姿を消した。
「消えた雲はどうなるのだろう?」
猫はいつもそう思うのだった。

雲だけでない。
鳥も飛行機もみんな窓枠の外にいなくなる。
そのあと、雲や鳥や飛行機はいったいどうなるのだろう。
跡形もなく存在が消え、
二度とこの世界に戻ってこないのだろうか。
猫は窓枠を通してしか世界を見ることができない。
猫にとって窓枠こそが世界の果てだった。

猫はゆっくりと歩きながら、別の窓辺に移動した。
そして先ほどとおなじように空を見た。
猫にとってそれぞれの窓から見える空は
それぞれ別の世界だった。
窓枠の数だけ世界が存在していると猫は思っている。
にもかかわらず、それぞれの世界はとてもよく似ていた。
ほとんど同じと言ってもよかった。
同じ色の空があり、同じ色の雲があった。
同じように雨が降り、同じように夜になった。
「それぞれの世界はどのように関係しているのだろう?」
猫は窓枠を通してしか世界を見ることができない。
猫には無限の世界というものを
想像することができない。

今日もどこかの窓辺で猫が空を見ている。
その時猫が考えているのは世界とはいったい
何なのだろうということなのだ。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/


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