安藤隆 2021年10月10日「冬のお庭(風版)」

冬のお庭

  ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 千代さんはその朝、いつものように憂鬱
ではなかった。そのことを怪しみながら、魔
法瓶のヌルマ湯で、たくさんのきれいなカプ
セルの薬をのんだ。夫はもう会社へ行ったの
らしい。それともゆうべは帰ってこなかった
のかしら。千代さんは思い出そうとして、何
かに躓いてやめた。代わりに手にしているヌ
ルマ湯の花柄の茶碗が、新婚当時、夫と一緒
にデパートで買ったセットの残りであること
を思い出した。が、それも微かに心をよぎっ
た翳のようなものだ。なにかひとつことに捕
らわれるのがこわくて、いつだってあわてて
打ち消すことをしつづけてきたから、いまで
はそれが千代さんの思考の回路になってしま
った。
 冬の透きとおった午前。いいお天気。風が
つよい。お庭に出てみようかしら。ちょっ
と胸がどきどきしはじめた。冬の庭がきれい
なのは、スズメノカタビラやチドメグサら夏
の気味のわるい草たちがいなくなったせいだ。
いろんな命が風で吹きとばされていなくなっ
たせいだ。クチナシやアジサイもいまは冬の
陽をうけてじっとしている。千代さんはガラ
ス戸をあけて、スリッパのまま庭におりた。
千代さんは植物たちが嘘をついていることを
知っている。根っこは土の奥で盛んに生きて
いるのに、上は死んだふりをしている。目を
離すといまにもいっせいにワーッと土から生
えだす‥。ワーッ気持ちわるい。
 一本だけ咲いているサザンカの繁みに隠
れて子供がいた。千代さんは赤くなりながら、
襟元を手でかき合わせた。子供は小学校の一
年生ぐらいだろうか。でも中学校の一年生な
のかもしれない。千代さんには本当になにも
わからない。きっとずーっと千代さんを見て
いたのに違いない。でも心配することはなか
った。相手はほんの子供なのだ。
 千代さんは子供に笑いかけた。思いがけ
ず自然に笑えた自分にうれしくなって、すこ
し元気が出た千代さんは「こんにちは」と声
に出して、また笑おうとした。こんどは前ほ
どうまくいかなかった。子供の固い顔がまっ
たく反応しないもので、笑いが中途でこわば
ってしまったのだ。千代さんは思った。「こ
んにちは」より「君のお名前は?」と聞いた
ほうが、よかったかな、と。それだったら答
えてくれたかもしれないよ。千代さんは気を
取り直し「君の‥」と子供にしゃべりかけた。
 するととつぜん子供が「バカ、キチガイ
ババア、ベーエ」と目をむき、ベロを出して
逃げていった。千代さんは「まだ言い終わっ
てないのに‥」と笑っているような顔のまま、
子供をさがして周囲をきょろきょろ見回した。

出演者情報:大川泰樹  所属MMP 03-3478-3780

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安藤隆 2021年3月21日「引きこもり線の思い出」

引きこもり線の思い出
   
   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 ヒグマさんは、私たち同様、道の真んなか
をなかなか歩けません。自動車がこないよう
な細い路でも、真んなかを歩くには勇気がい
るタイプの中年です。
 そのヒグマさんが、道の真んなかをにやに
やして歩いています。そこは草ぼうぼうの引
き込み線跡で、線路が邪魔なので、端っこよ
り真んなかのほうが歩きやすいのです。
 ヒグマさんが考えるに、引き込み線のいい
ところは道幅が狭く、ハウスのあいだをくね
って通っているところでした。適度にカーブ
して、先が見え隠れする道ほどそそられる道
はありません。
 その線路の撤去が、ついに明日はじまると
いうのです。ヒグマさんは落ち着かない気持
ちになって、缶ビール片手に引き込み線跡を
うろつくのでした。
 線路が二手に分かれる分岐点があります。
ほかより開けた場所でセイタカアワダチソウ
が茂っています。ヒグマさんは缶ビールをあ
けました。以前の夏、その場所に椅子を出し
て、昼から酒盛りをしたことがあったからで
す。沿線のハウスはぼろ家でしたが、広い庭
を作業用に使う彫刻家など、奇妙で優しい人
たちが借りて住んでいました。
 若い彫刻家の安田くんが「四国で煙突をつ
くるさいはよろしくね」と言って、年上の彫
刻家の富田さんに、与論島の強い焼酎をすす
めました。「口のなかに火がつきますよ」「え、
ラム酒より強いの?」富田さんは直射日光を
受けた赤い顔を嬉しそうにテカらせました。
クレーン車の運転免許を持っている富田さん
は、「煙突のような大物彫刻」を作る助手と
して、四国までいくことになっているのでし
た。彫刻が完成したら連絡するから必ずみに
きてねといいおいて、けっきょく四国へ移り
住んだ安田くんから、以後連絡は途絶えてい
ます。
 しかし富田さんよりも先に焼酎を飲みほし
たのは、劇団主宰者の小野さんでした。「あ
んがい甘いでしょ?」と安田くんに聞かれて、
照れたようにうなずきました。よくいる中年
のようにいつも野球帽をかぶり、影のように
おとなしい小野さんと、彼のミュージカル団
が結びつきません。その小野さんは、あの酒
盛りの日からまもなくして家出した、と聞い
たきりです。劇団員の女子学生と恋愛した、
とも聞きます。女子学生とのつきあいにおい
ても、あの広島カープの野球帽は脱がないの
かなあと、ヒグマさんは家出よりそっちを気
にしました。
 その日いたもうひとり、写真家の金森さん
は多摩川の草花の写真を撮っています。「イ
ヌノフグリはひどいよー」と笑いました。
 考えたら安田くんも、富田さんも、小野さ
んも、金森さんのこともすきでした。考えた
らあんな良い日はもうこないだろうなと思い
ました。
 缶ビールを飲んでるあいだに、セイタカア
ワダチソウが、同じ背丈に伸びています。急
に小便をもよおし、茂みに隠れました。
 ヒグマさんは、私たち同様、うずくまるば
かりの日常ですが、そのせいか「遠く」とい
う言葉がすきです。廃線の線路が、荒れた森
のなかのトンネルに消えてゆく風景を、テレ
ビでみると、「遠くの遠く」を想像してぼん
やりしてしまいます。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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安藤隆 2020年9月6日「月とコロナ」

月のコロナ

   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 新型コロナでまっすぐ帰る口実ができてよ
かった。太る男は会社帰り、そう思った。電
車は混んでいた。みんなまっすぐ帰れてうれ
しいんだとなんとなく感じる。
 地元駅の改札を出る。商店街もない線路沿
いにコンビニがある。弁当を買おうと向かっ
たら隣の食堂の立て看板が目についた。こと
しの年明けにいっぺん入ったことがある店だ。
うすら寒くだだっ広かった。事務所みたいだ
った。その店に寄る気になったのは、そのと
きのがら空きの印象が強かったせいだ。コロ
ナの心配がなさそうだった。
 名前はパナマ食堂。そうだった。パナマ料
理? と思ったら焼き魚とかカキフライの店
だった。聞いてみると四十代くらいの店主が
ブラジルへ行ったことがあると言った。パナ
マの答えになってないと思ったけどべつによ
い。料理はどちらかといえばうまくなかった。
それも入る気になった理由だ。太る男は清潔
で料理がふつうの店を信用する。
 扉をあけると思いがけずうるさい笑い声。
左隅の四人席からだった。コロナ対策のカー
テンの衝立がしてあった。家族らしい。この
ままきびすを返すべきと思ったが太る男は入
った。二人席には中年と不美人な女のアベッ
クがいてこちらもすこぶる笑ったりしている。
家族に対抗しているのだろうか。太る男は調
理場前のちいさいカウンターへ向かった。主
人のほかに女店員がきょうはいてカウンター
へ座らせたい気配をみせたから。三つの真ん
なかの椅子にバッテンを書いた紙が置いてあ
る。奥の椅子で日本酒を飲んでいた男が嫌な
目つきをした。座って後ろを見たら、もうひ
とつあるついたての陰の四人席が空いていた。
そっちへ移ろうと思ったが太る男は動かなか
った。四人席にズルして移るなよと目つきの
嫌な男が監視している気がした。
 太る男は鯖の味噌煮定食を注文した。飲む
気はなかったが、お飲み物はと店の女に言わ
れてビールを頼んだ。カウンターに座るなら
酒飲めよと目つきの嫌な男が観察している気
がした。
「このオヤジさあ、ま〜だ飲む気だよ」「お
い、ケーキはごはん食べてからだろ」おばさ
んの声が傍若無人におおきい。太る男は一度
外したマスクをした。四人席に四人以上いる
のはまちがいない。目つきの嫌な男が「マス
クはむだだよ」と主人に喋っていた。「ほん
とは何十万人いるかわかんねえよ」「そうな
んですかね」と主人が答えていた。「だった
ら外しちゃお」太る男が唐突に会話に入った。
目つきの嫌な男はちょっとびっくりしたよう
だった。
 そこへ料理がきた。ここは鯖の味噌煮がい
ちばんうめえ、と目つきの嫌な男がぼそっと
言っていた。ビールどうします? 店の女に
きかれてビールはいいやと太る男は妙に明る
く答えた。日本酒にするかな。
「おんなじ医者が毎日おんなじこと言いに出
てきやがって」「いいアルバイトですよね」
目つきの嫌な男は主人とコロナの話をしてい
た。太る男もときどきそこへ入った。「話し
てもうつらないけど、笑うとうつるっていう
ね」そう言うと目つきの嫌な男がはじめて太
る男を見た。二人ともあわてて目線をはずし
た。家族は変わらず大声で話している。おば
さんは二人いたんだ。「先生にもう一本、常
温で」と主人が言っていた。先生? と太る
男は思ったがべつによい。
 帰り、病院まで出るとあとは一本道。右手
は広い原っぱで向こうに国営公園の森が鬱蒼
とこもっている。大きな月が浮かんでいる。
八月の満月の月曜日。みていたら月の輪郭が
ふと揺れた。うつったんだと太る男はわかっ
た。原っぱの先のラブホテルの前をゆっくり
走る車がいる。入るのかなと見張っていたら
入った。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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水下きよし「風と監督」


風と監督 (水下きよし七回忌特集 )

     ストーリー 安藤 隆
        出演 水下きよし

僕は25年前、地元の高校から甲子園に出場した。
4番打者だった。
いまは地元の役所に勤め、
毎週日曜に軟式の少年野球の監督をしている。
受け持っているのは、小学校の5年と6年の生徒だ。
チームの名前は富士見町ホエールズ。
50年前に、近くの多摩川の川原から、
鯨の全身の化石が出土したことからホエールズと名づけられた。
チームの練習場も、多摩川べりにある。
きわめて平和なチームだが、問題はある。
軟式だから引き受けたのに、勝負やレギュラーにこだわる親が多い。
子供をプロ野球選手にするという夢を見始める者さえ、出てくる。
もっとスパルタで鍛えてさあ、勝つ野球やってよ監督、と
小声で言う親が出てくると、そらきたと僕は思う。
高校野球の経験から、プロ野球のレベルは想像できる。
やり方を変えることは絶対にない、と僕は宣言する。

僕は基本的な練習を重視する。
ゆるいゴロを正面でとる。
ゆるいタマをピッチャーがえしに打つ。
変化球を投げさせない。
試合で40球以上は投げさせない。
決して子供たちを怒らない。
そんな風だから、
僕が監督を引き受けてからチームはたいてい弱い。

そして、きょうの日曜日だ。
秋晴れの美しい天気だった。
チームはいつものように練習をしていた。
するとにわかに、風が吹きはじめた。
グラウンドの土が、竜巻のように空を覆い、
富士山が見えなくなった。
僕らは練習を中断して屈みこんだ。
風が止んで、顔を上げた。
するとそこに中年の男が一人立っていた。
男はこう言った。
「君のチームは、とてもよい練習をしている」と。
そしてネクタイ姿のまま、股を割って、
子供達にゴロの取り方を見せてくれた。
それからボールの打ち方も見せてくれた。
強く打っても、タマは子供達の正面にゆるく飛ぶ。
いつもは騒ぎまくる子供達が、
このときは神妙な顔で聞き入っているのが不思議だった。
中年男は優しく教えるだけなのに。
だが、いちばん魔法にかかっていたのは、僕自身だろう。
男が「きょうはありがとう」と言って去るまで、
なにも言えない有様だった。
なにせ男は、落合監督だったのだ。
1985年、打率3割6分7厘。
得点圏打率4割9分2厘。
打点146。
僕が高校の4番だった年の落合。
僕の知っているほんとうの四番打者。
どうして落合監督が、ここにいたのかはわからない。
近所の大きなスーパーの駐車場で、
落合監督来たると書かれたのぼりが、
風に吹かれてちぎれていたのを見た。ような気がする。
それともそれは、10年前のことだったろうか。

ゆっくり歩いているのに、
落合監督の姿はまたたく間に見えなくなった。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

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安藤隆 2019年11月10日「おかずパン」

おかずパン

   ストーリー 安藤隆
      出演 遠藤守哉

 太った中年男のヒグマさんは、その日、前
夜の飲みすぎで勤めを休み、多摩川べりの
「鯨いるか球場」で軟式野球を見ていた。

 昼ちかくに起きると、二日酔いの「吐き
気からくる悪い食欲」にとり憑かれてヤキソ
バパンが頭に浮かび、自転車でパン屋へ行っ
た。店内にならぶパンをみて「吐き気からく
る悪い食欲」を加速されたヒグマさんは、吐
く予感に駆られながらヤキソバパンに加えて
コロッケパン、カツパン、缶コーヒーにコー
ラ、最後にはカレーパンまで買ってダメな日
をダメ押しするようだった。その時、パン屋
近くの野球場から秋風にのって、アナウンス
の声がパン屋までとどいたのだ。

 そんなわけでネット裏の中段あたりに、
海老色のジャージーを着た太った中年男・ヒ
グマさんが座っている姿が見える。コッペパ
ンに挟んだヤキソバをこぼさぬよう下からア
グウとかぶりつく。食べるときはいつも大い
そぎのヒグマさんはアグ、アグ、アグとだい
たい三回咀嚼しただけで飲みこみながら、脂
肪で濁った目でグラウンドを眺める。きれい
なひろい空き地。いつもヒグマさんをドキド
キさせる。昔々からだ。野球場はヒグマさん
をまるごと過去へ連れてってくれる。いまだ
って目の前の野球を見ているのに、過去ので
きごとを見ているようだし、きっとほんとに
過去を見ているのだ。ほかの誰もとおなじよ
うにヒグマさんは思い出でできている。

 そろって腹のでた丸顔の中年男たちと、
おむつの小便の臭う恐い目をした老人たち全
部で十五人ほどの観客が、沈痛な面持ちで午
前の終りの光のそそぐグラウンドを眺めてい
る。新聞社の小さい旗が野球場をまばらに一
周している。ゲームは大学の軟式野球の秋季
大会のようで穏やかに進行する。片方の投手
は杉浦投手で美しい下手投げで投げる。ヒグ
マさんはヤキソバパンとカツパンを食べたあ
と、つぎカレーパンかコロッケパンか迷う。
あきらかにやってきそうな吐き気を待ってい
るのでもある。

 さっきミニスカートの娘が入りこんで野
球場に緊張が生じている。しかも娘はヒグマ
さんのすぐ斜め後の段に坐ったのだった。ネ
ット裏の下段に群がって陣どる中年男と老人
が代わる代わる振り向いて娘の足を覗きあげ
る。光がしだいに高く強くなっている。「鯨
いるか公園」のケヤキの色づいた葉が陽を受
けて金色に輝く。ヒグマさんは苦しげに汗ば
む。スタンドのまわりの柳が屈したように垂
れている。閉じこめられた箱庭のような軟式
野球。あかるくて完全無欠な秋の正午。午後
からはきっと冬に入るのだ。

 ヒグマさんはカレーパンにするかコロッ
ケパンにするか、永遠に出ない答に吸いつけ
られたままだ。視界が狭くかつ遠くなる感じ
に襲われて、あやうく顔をあげ世界を見まわ
す。その太った顔を見たミニスカートの娘が
アッと小さな悲鳴をあげる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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安藤隆 2019年6月2日「Y字路の、行かなかったほうの道での物語」

Y字路の、行かなかったほうの道での物語

   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 午後になると太る男は長靴をはいて石畳
の通りを突きあたりまで突進する。突端には
大多摩川の船着き場があり、近ごろ絶滅が叫
ばれるタマガワクジラ見物用のちいさなボー
トが数隻繋留されている。
 船着き場の記念写真屋が「クジラがジャ
ンプするぞー、撮るならいまだぞー」と勧誘
している。太る男は記念写真屋に見つからな
いように三角の立て看板に幾枚も貼ってある
見本の記念写真を眺めようと近づく。小嶋弓
の面影を追いかける太る男はとうとう船着き
場の記念写真に辿り着いたのだ。川をバック
に屈託なく笑うジーパンの娘は、記念写真屋
の腕を疑わせるピンボケだが、たしかに貧乏
旅行の若き小嶋弓に違いない。そこで太る男
は毎日のように古びた写真を眺めにくるので
ある。だが記念写真屋は太る男が大嫌い。な
ぜなら太る男は太った体で看板を覆って自慢
の見本写真をまるごと見えなくしてしまうか
らだ。怒ると甲高い中国語で怒鳴りながら追
いかけてくるので、船着き場の突端の階段ま
で逃げるものの、体重を制止しきれずに二段
あるいは三段、水中へつづく階段に足を突っ
こんでしまうのが常だ。
 ちいさな土産物店や食堂が隙間なく並ぶ
石畳の通りは影のような人々が行き交い賑わ
っている。常にほうほうのていの太る男が通
りの脇のドブ川で長靴をジュポジュポさせて
濁った水を吐き出していると、あたりをいつ
ものように静かな霧雨が覆いはじめる。仄白
い闇となって閉ざす。それを合図のように白
いカーテンをつまんで忘不了小吃店(おもい
でしょくどう)の客引き少女月紅(ユエホン)
がみじかい睫毛でウインクする。「月」とい
う字に「紅」と書くユエホンは貧しい育ちの
少女特有の大きな目をしている。
 太る男はいそいそとボウモアと生牡蠣を
注文する。月紅(ユエホン)はボウモアを白
酎(パイチュウ)用のちいさな歪みグラスに
そそぐ。生牡蠣は水餃子用のどんぶりに放り
こむ。今日もあれを言ってもらうのだ。
 心得た月紅(ユエホン)は太る男好みの
棒読みで言った。「ボウモアって、ストレー
トのほうが甘くて飲みやすいですよね」
 すると太る男は熱心にこたえた。「あっ、
ほんとだ、ボウモアはストレートのほうが甘
くて飲みやすいや!」
 海老色のボックスシートは背もたれが高
いので、月紅(ユエホン)はすばやく太る男
の太った指をとってスカートの中へみちびく。
少女らしい三日月のほんのさわりへ。

 くしゃみがつづけて七回でたのは、どこぞ
山の上ホテルのバーで太る男の噂をしてでも
いるのか。
 「太る男さんってまだY字路にいて何してら
っしゃるんでしょう」
「太ってんじゃねえの、あはははは」

 「あんたは日本人かね」
 石畳の通りの赤と青のアメリカ柄のテン
トの下、「豚の脳のスープ専門店」の店主で
ある中国人の父親が太る男に尋ねる。
 「そうそうそうそうそう! そう!」
 太る男は愛想よく答えてスープに浮かん
だ豚の脳を噛まずに呑みこむ。店主の横に利
発そうな長男が座って、わるい日本人を睨ん
でいる

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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