中山佐知子 2018年9月9日「夜鴉(2018)」

夜鴉

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曳豪

夜鴉はゴイサギだということを僕は図鑑で知った。
祖母のいる田舎の家で蛍を追っていると
暗闇の向こうで奇妙な声が聞こえることがあった。
祖母はそれを夜鴉という鳥だと僕に教え
僕はその不吉な名前におびえた。

夜鴉はゴイサギだ。
知ってしまえば怖がる理由もないと父は言って
僕に鳥の図鑑をくれた。

僕はその年の夏休みのほとんどを祖母の家で暮らしていた。
父は仕事で忙しかったし
母はなめらかな皮膚と黒い髪を持っていたけれど
この星の人ではなく
あきらかに去年より凶暴だった。

小学校の学年が上がるに連れて母は僕を攻撃するようになっていた。
学校で国語や理科の時間を終えて
放課後に鉄棒を3回ほどまわって家に帰ると
水を一杯飲まないうちに母の手が僕をつかんだ。
頭を撫でるかわりに髪をひっぱり
抱き寄せるかわりに突き飛ばし、平手で打った。
理不尽な言葉を吐き出しては投げつけてきた。

僕は母に打たれる原因がどうしてもわからなかった。
どんな僕になったら母の攻撃が止むのかがわからなかった。
母の暴力は日課になり、僕を痛めつけた。
母は僕の敵だった。
敵だと思うことで、僕は自分を強くしていられた。

それでももしかしたら、と僕は考えたことがある。
母の生まれた星ではこうして子供をかわいがるのかもしれない。
それから、あわててそんな考えをやめた。
敵の事情を知ることは自分を弱くすることになる。
宇宙人の図鑑がどこにもなくてよかった。

僕が小学生だったその年の夏
さらさらと流れる川の音を伴奏に
朝は鳥が鳴き、昼間は虫の声が聞こえ
夜は蛍が飛ぶ単純な時間の区切りのなかで
僕は久しぶりに子供らしい日々を過ごしていた。
電話さえ滅多に鳴ることがなかった。

そこに父が来た。
父は、母が星に帰ることになったと僕に言った。
数日後、母が来た。
母は僕の知らない人たちと一緒に来て
僕を見るなり飛びかかろうとした。
それからむりやりクルマに乗せられて
おおんおおんという奇妙な鳴き声をあげながら去って行った。

その晩、僕が蛍を見に行くと田圃に夜鴉がいた。
図鑑によると夜鴉はゴイサギで、
ゴイサギは灰色の翼をたたんで田圃の杭に止まっていた。
近づいても逃げようとせず、片方の目で僕を長い間にらみ
それから、勝ち誇った声で一度だけ鳴くと
バサバサと大きな羽音を残して暗い空に飛んだ。

ゴイサギはやっぱり夜鴉だと僕は思った。
図鑑でどれだけ知識を得ても
どんな名前で呼んでも夜鴉はやっぱり夜鴉で
夜鴉の目は最後に母を見た僕の目に似ている気がした。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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一倉宏 2018年9月2日「ことばになりたい(2018)」

ことばになりたい
                  
   ストーリー 一倉宏
     出演 清水理沙

できるなら 三角定規よりも 鉛筆になりたい
筆箱よりも 教科書よりも コンパスよりも
前の席の藤原くんが 隣の白川さんに消しゴムを借りた
透き通った緑色の ブドウ畑の甘い匂いのする消しゴム
3回目に藤原くんが手を延ばしたとき 白川さんは 
消しゴムをカッターナイフで半分に切って渡した あの夏
カッターナイフよりも その消しゴムよりも
やっぱり私は 鉛筆になりたい

できるなら テニスのラケットより ボールになりたい
鉄棒より ハードルより ストップウオッチよりも
そろそろガットを張り替えたほうがいいよ と
コーチに言われた私のラケットは 姉からのおさがりだった
3年生になっても 校内大会の1回戦で負けてしまった
大原さんと私のペア ごめんね 大原さん
それでも私は テニスと仲間が好きだったから
やっぱり私は テニスのボールになりたい

できるなら 座布団よりも コタツになりたい
ふかふかのベッドより バスルームより クロゼットよりも
はじめてデートした吉岡くんは そうとうの寒がりで
映画館を出たらまだ7時なのに もう帰ろうと言った
それから吉岡くんちに上がって コタツに入ってテレビを観た
案の定 ミカンがあって 熱いお茶があって
「日曜洋画劇場」がはじまった 「はっきり言って
きょう観たロードショーより面白いじゃん」 と笑った
そんな私の人生だから 
映画館より ホテルのロビーより
やっぱり私は コタツになりたい
立派なコンサートホールより 大きなスタジアムより 
ライブハウスになってみたい
交響曲第何番より 弾き語りの歌になりたい
ズワイガニやタラバガニの 無口な美味しさよりも
やっぱり私は お好み焼になりたい
喫茶店のテーブル ローカル列車のボックス席
真夜中にかかってくる電話に 私はなりたい

ビジネス街のエグゼクティヴな英会話にはなれないから
勤め帰りの商店街で ばったり逢った同級生との
おしゃべりに 私はなりたい
できるなら 私はなりたい
だれかに届く 手紙になりたい
カワイイとか ムカツクとかの 評判よりも
成功したとか しないとか 風の噂よりも
「お元気ですか?」の 手紙になりたい
届いて2週間 3週間
返事を書きたくなる 手紙になりたい
「うれしかった!」の 手紙になりたい

そうだ 私は ことばになりたい
都会で 男たちが振り返るスタイルよりも
手帳に びっしりのスケジュールよりも
あなたに届く ことばになりたい
たとえ 上手なことばではなくたって
枯葉をサクサク踏みながら 公園でポツリポツリ
あなたと通える ことばになりたい
やっぱり私は ことばになりたい



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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中山佐知子 2018年8月26日

三国街道は中山道の

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

三国街道は中山道の高崎から分岐し
北陸街道の寺泊に至る道である。

江戸時代後期の戯作者、山東京山が
三国峠を越えて浅貝の宿場に宿を取り
そこからさらに二居嶺(ふたいとうげ)を越えて
三俣という山の宿場に泊まった。
平坦な道はひとつもなく、登り降りの激しい道で、
三俣からは芝原嶺を下って湯沢を目指していた。
いまでいう新潟県南魚沼郡の山の中である。
土用も近い夏のことで、
山を下るにつれて暑さも激しく
汗を拭き拭きふと見ると道の向こうに茶店が見えた。

地獄に仏とばかりよろめく足で駆け込むと
深さ15センチほどの箱に
雪でできた氷を入れてあった。
茶店の親父に勧められるままにそれを頼むと
包丁でさらさらと氷を削り
きな粉をかけて出してくれた。
おかわりをして、今度は手持ちの砂糖をかけた。
ひんやりと暑さを忘れた。

このあたりは、初雪から200日あまりも雪に埋もれる。
冬の雪は家より高く積もり、
春になるとその雪が石のように固まる。
夏のいちばん暑いさかりでも
日が当たらない山の陰や谷間では雪が消えることがない。

この時代
冬に蓄えた氷を真夏に手にすることができるのは
都の帝か江戸の将軍さまか
また、そのお裾分けにあずかれる家臣だろうか。
清少納言の枕草子、藤原定家の明月記にも
貴重な真夏の氷が出てくるが、
汗をかきながら峠を下って
山陰の消え残った雪の氷を食べる涼しさは
尊い人々には決して味わえない快感だったろうと思う。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2018年8月19日

涼しい話

          ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ええ、あたくし、こうみえてマゾでございやしてね。
さいきん、夏の辛さが大変ありがたい。
SMバーなんぞ行かずとも自宅で自分を虐めることができやすから。
温暖化万々歳でやすな。

朝目覚めますと8時にはもう熱が部屋にこもってやしてね。
うちの部屋は2階で、真上がトタン屋根ですんで。
部屋の内から天井むけて手をかざせば、焚火かと思う暑さ。
こりゃもう朝から、のたうちまわり日和じゃわいと思って、
わくわく、いそいそ。

で、さっそく取り出しますのがヒートテック。
ヒートテックはね、あぁた、冬に着るもんじゃございませんよ。
夏こそ、ヒートテックです。
これを、ま、2枚。上、下、それぞれ2枚重ねて着ますな。
着終わるともう、その時点でじんわりと汗がでますな。
首筋とか背中の毛穴に塩辛い汗が滲んで、ちくちく痒くなりますわな。
う~ん、不快!

大事なのは首筋でやすな。
敏感なところですからな。たっぷりと、不快な感触を用意いたしやす。
毛のマフラーを巻く。分厚いの。
毛足がちくちくと首の肌を刺します。
ああ!
そしてですな。このマフラーに、はちみつを塗る。
はい?
そう、はちみつでやす。
お、眉をしかめましたね。
これは、まあ、理由は後からわかります。
とりあえずはネトネトのはちみつでマフラーの毛が首筋に貼りついて
もう、鳥肌が立ちますな。

エアコンを32度の暖房に設定しやすな。
ごわーと、吹き出るものすごい熱風を浴びながら
ダウンジャケットとウールのニッカポッカと
スキー手袋と冬山登山用靴下を着こみまして、
ええい、ここは奮発して電気ストーブもスイッチオンにしちまいやしょう。

が、まだこれで終わりではありやせん。
これが肝心。
手錠。
これをですな、手を後ろにまわして、はめるんでやすな。
はめちゃうともう、自分でははずせやせん。
前にも手がまわせやせん。
その状態で、ごろんと寝転がるんですな。
簀巻き状態でやす。

しばらく、も、たたないうちに、頭がぼんやりしてまいりやすな。
苦しい。
うひひひひ。
汗、とまりません。
もう、ダウンジャケットの中はぐじゅぐじゅですな。
動悸が激しくなる。
うひひひ。
あや、すみませんな。思い出すとつい。

さあ、ここからがハイライトでございまして。
こそっ、と押し入れの方から音がする。
こそ。
こそっ。
…ネズミですな。
この、首筋のはちみつの匂いにつられるんですな。
見てると、2匹、3匹とこっちへちょろちょろと寄って来る。
爪が畳をひっかいてカリカリいう音が聞こえやすな。
あたしの首筋に取りついて、ふんふん匂いを嗅ぎまわる。
ちっこい爪があたしの首筋に食い込んで、むっひひひ、痛いのなんの。
そのうち、舐めだす。
で、だんだん激しくなってくる。
ときどき
むぢっ!
…とあたしの肉ごと噛みちぎったり。
むっひひひ。
あ~、もう!
思い出すだけで…もう、もう、もう!
あ~…

という具合にまあ、さんざんネズミちゃんにいたぶっていただいた頃合いで、
友人に来てもらことにしてやして。
ええ、もう長年の相棒でやして。
ドアと手錠の鍵を、預けてあるんですな。
脱水症状で意識不明になるぎりぎりのタイミング、
だいたいこれくらいかな、というのをあらかじめ伝えておくんでやすな。

死んじゃあ元も子もござんせんから。
明日も元気に自分を虐めるためには、ね。いいとこでとどまる。
それがこの道のコツというやつで。
まあ、ここまで来るにはだいぶトライアンドエラーがございやしたけどね。
救急病院に運ばれたのも一度や二度じゃござんぜんし、
あるときなんぞ頸動脈を食いちぎられかけて…
ま、その話はまた今度にいたしやしょう。

まあ、こういった具合でございますから、
あたくしぁ、まったく夏が好きでやすな。
たまらんでやす。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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三島邦彦 2018年8月12日

穴に住む 

    ストーリー 三島邦彦
       出演 遠藤守哉

あ、目が覚めましたか。

びっくりしましたよ。
川に水汲みに行ったら人が倒れてるもんだから。

ここですか。私が住んでる穴の中です。
私ね、穴の中に住んでるんですよ。この山で。

涼しいでしょう。

やっぱり空気が違いますよね。深い穴の中って。

奥に行けば行くほど冷えて来るんで、
ここまで来ると、もう冷蔵庫の中みたいですもんね。
外はあんなに暑いのに。あ、冷蔵庫は言い過ぎか。

とにかく、気温が安定してるんですよね。
夏は涼しいし、冬はあったかいし、
遠い昔の原始人たちも
こんな穴の中に住んでたんでしょうね。
よくわからないですけど。

すみませんいきなり喋り過ぎですね。
目が覚めたばかりなのに。
ちょっと、人と会話できるのが嬉しくて。

あなたが倒れてるのを見て、
最初はこりゃ大変だって思ったんですけど、
生きてることが分かってね。
必死でここまで連れて来ましたよ。
久しぶりに人と話せると思ってね。

あ、見えてますか。私のこと。
見えてませんよね。暗いですもんね。
しばらく目が慣れませんけど、
だんだんと目が慣れて来ますからね。

私ね、今とっても笑ってるんですよ。

見えないですよね。
私はあなたの表情がぼんやり見えてますよ。
そう怖がらないでください。ただのおしゃべりですから。

暗闇は慣れるんですけどね、
孤独は慣れないんですよ。
生まれつき一人で生きて来たら
慣れるのかもしれないですけどね。
人と会話した記憶があるとどうしても寂しくなってね。

ふとした時に、
暗闇の中で壁を見つめながら色々考えるんですよ。
この穴の中でもう誰とも会えないのかなって。
誰に強制されたわけでもなく、
自分で選んだ人生なんですけどね。

もちろん、人間関係のあれこれが嫌で
この穴の中にいるわけだから、
そもそもは一人でいるのが好きなんです。
穴の中で生活を始めてから心は穏やかになった気がしますし。
一人でいることと、孤独はちょっと違うんですよね。
難しいことはわかんないんですけど。

で、寂しい時はね、壁をひたすら見つめるんです。
壁をじっと見てるとね、
そのでこぼこなんかが人の顔に見えて来る瞬間があってね、
その顔の人がどういう人なのかを考えるんですよ。
そして浮かんで来た顔の人と会話をしてみるんです。

例えば、もし穴の外に出て、ふもとの川で人を見つけて、
穴に連れて来たらどういう会話をするとかね。

一人で壁を見つめながらでも、
おしゃべりする相手はいくらでもできるんですよ。

というわけで、今日は、あなたに会えました。

穴の中へようこそ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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勝浦雅彦 2018年8月5日

終の匂い

    ストーリー 勝浦雅彦
       出演 地曳豪

男と女は幼馴染だった。
同い歳で、物心ついたときから男は真っ直ぐな性分を持ち、
女は優しくいつも慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
周囲の二人に対する仲のいい理想的な男女、
という評価とは関係のないところで、
二人の間にはある種の緊張が常に存在していたが、
お互いにその感情の扱い方を誰聞くともなく心得ていたから、
とりたてて語るべきことは何一つ起きなかった。

二人は小学校の頃からいつも一緒だった。
その姿があまりに自然だったからか、
友人たちは、はやしたり、からかったりもしなかった。
やがて、年頃になれば、二人には男と女としての意識が芽生え、
自然な形で恋人同士になっていくはずだと誰もが思っていた。
そんな周囲の予想とは裏腹に、
二人は長い時をただ幼馴染であり続けた。

高校一年になったある日、二人は抱き合った。
夏の午後だった。涼しく、風が吹いていた。
いつものように、男の部屋で、二人は好きなロックバンドの話をしていた。
男はいつにも増して饒舌だった。
リードギターのスウェーデン人のアクトを再現しようと
椅子に立ち上がった瞬間、彼は姿勢を崩し、
静かに話を聞いていた女の右肩に寄りかかるように倒れ込んだ。
女は咄嗟にもう片方の手で男を抱え込んだ。
二人はそのまま無言で腕を絡めながら、絨毯の上に横ばいになった。
匂いがあった。嗅いだ記憶のない甘い香りだった。
男は女が香水をつけているのだと思ったが、そうではなかった。
二人は、いま世界の中で、
二人だけによってのみ起こる生体反応によって強い香りを放っていた。
男は体を起こすとお女の顔を覗きこんだ。
「今、こういうことをしてはいけない気がする」
男が言った。
「そうね、今は」
女は答えた。
二人は起き上がると、窓から差し込む夕日の影を中心線として向かい合った。
「今をここに閉じ込めておくんだ」
男は、小さな木箱を取り出した。
ずいぶん唐突な提案だったが、女はふうと息を吐くと、頷いた。
女が帰宅する頃には、二人はいつもの男と女に戻り、
冗談を言い合って笑い転げてさえいた。
男の家を出て歩き出す。
顔を上げると、日が落ち、夕雲がかすんでいた。

それから二人は高校を卒業するまで、一度も口をきかなかった。
周囲の誰もが二人の変節に戸惑いを覚えたが、
やがてすぐに話題にしなくなった。
きっとそれはよくあることなのだ。
高校を卒業すると、女は生まれ育った街を離れ、男は地元に残った。
やがて、それぞれが結婚をし、生活を持ったことは、
友人たちの口の端から自然に伝わってきたが、
どちらも詳細を問うことはなかった。

それから長い時が流れ、女は50歳になった。
ある日、封書が送られてきた。差出人の名はない。
中には一本のディンプルキーが入っていた。
手元に鍵が滑り落ちた瞬間、女は全てを悟った。
ほぼ同時に、傍で電話が鳴った。出たくない、と思った。
しかし、それを取らないわけにはいかなかった。
電話口で地元の友人がすまなさそうな口調で、女に訃報を伝えた。
男が死んだのだ。

葬儀には行かない、ただし、時間と場所を教えて欲しい。
そして香典を送りたいので、男の住所を教えて欲しい、
と女は友人に頼んだ。
友人は何か言いたそうだったが
「あなたたちは、ホントに羨ましいほどに、一緒だったのにね」と
ため息をつきながら了承してくれた。

二日後の夕方、女は家族に葬儀に出る、と言い残し、
喪服を着て家を出た。
喪服である必要はなかったが、
その格好がこれからやろうとしていることにふさわしいと思えたのだ。

女が向かった先は、男が死の直前まで暮らしていたマンションだった。
葬儀会場は自宅から二駅離れた大きなホールだったから、
ここに親族は誰もいないことはわかっていた。
玄関の前に立ち、ディンプルキーを取り出すと鍵は開いた。
が、もう一つ、取手に暗証番号式の電子キーがかかっている。
しまった。さすがに、これは無理かもしれない。
女は諦めかけたが、一縷の望みをかけて番号を押すと
鍵は無機質な音を響かせて開いた。
まさか、と思った。
男は、家族に一体この番号をどう説明していたのだろう。
その数字は女の誕生日の日付だった。

夕闇に沈む廊下を抜けて、リビングに入った。
棚の上には美術館のように写真が並べられている。
それは女の知らない、男の半生だった。
不思議と初めて見る気がしなかった。
それはいつか女が想像した、男ならばきっと選択し、
歩んでいったであろう生の連なりだった。
ただそこに、自分だけが欠けていた。
女は、男とずっと一緒にいなかったし、一緒にいたような気がしていた。

星のない夜だった。
かつて男と、数え切れないほど行き来した通学路の川辺に女は座りこんでいた。
女の手元には、男の部屋から持ち出した、
最後に言葉を交わした日に差し出された小さな木箱がある。
草のない地面にオイルを巻き、躊躇なく火をつけた。
木箱は湿った空気の中であざやかに崩れていく。
中身が少し見えた。二人が書いた文字が、よじれるように消えていった。

喪服の中年女が何かを燃やしている姿は、
幸いにして誰にも見られていないようだった。
灰の散り際、あの時嗅いだ甘い匂いがしたような気がした。
涼しい風が、塵も何もかも運び去っていった。
ようやく、女は女だけになったのだ。
終わったものに名前をつけようと思ったが、何も思いつかなった。
しばらくその場にぼんやりとしていた。
灰と埃をたたき、立ち上がってふと思った。
私の家族の食事をつくらねば。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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