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直川隆久 2012年8月26日

猫の恩返し

            ストーリー 直川隆久
               出演 清水理沙

「卒業制作、すすんでますか」
中央食堂前のベンチでコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、
見知らぬおやじが話しかけてきた。
いまどきベレー帽にマフラー。油絵科の教授か?にしては、服がぼろい。
いいかげんな返事をしていると、わたしの隣に腰掛けてきた。
「見覚えありませんか」
おやじが帽子をぬぐと、頭に大きなやけどのあと。
そこだけ髪の毛が生えていない。
「…ない。です。見覚え」
「若い頃、あなたに助けていただいたものです。
 ここの学生にいじめられているところを――」
そう言われて、あ、と思った。
3年ほど前、野良猫のひたいをタバコで焼いている映画学科の学生がいて、 
そいつらとものすごく喧嘩したおぼえがある。 
「現代版世界残酷物語を撮るんだ」とかわけのわからないことを言うバカ達だった。
「はい。その猫です」
ええー。なんだ、ずいぶんふけているな。
「すみませんね、猫は歳とるのがはやくて」
「いえ」
「長年このキャンパス内でうろうろさせてもらいましたが、
 残飯の味が悪くなったんで、河岸を変えようかと思いましてね。
 でもその前に一言あなたにお礼が言いたくて」
 
おどろきはしたが、感激はしなかった。
近頃、恋愛も卒業制作も行き詰っているせいで、
心の余裕がなくなってきたんだろうか。

「最後の機会ですから、何かお願いとか、ないですか」
「お願い?」
「ええ、お礼として…ひとつぐらいならなんとかなるかもしれません」
「今月の家賃とか、なんとかなりますか」
「…う~ん…」
猫おやじはかなり長いあいだ考えていたけれど
「…猫なもんで…」と言った。
「いや、まあ、そりゃそうですよね」
「すみません――ヌードモデルとかは不要ですか。デッサンの」
「特に…」
ああ、とおやじは肩を落とした。
「お役にたてること、なさそうですね」
「いいですよ。気つかわなくて」
「あ、そうだ。せめてちょっとした卒業制作のアドバイスをさしあげましょう」
「なんです」
「――あなたの指導担当の岡崎先生はね、4回生の清本さんとできていますからね。
 彼女とテーマがかぶらないほうがいいですよ。
 このあいだ、3号棟の実習室で二人が乳くりあってるのを窓から見てしまいました」
「へえ」
「かぶると、どうしても自分の女のほうをひいきしますから…なんて、
 すみませんね。こんなことしかもうしあげられなくて。さようなら」
「さよなら」
おやじは礼をして、歩き去った。
たしかに、猫背だった。

さて、わたしも恩返しをしなければならない――岡崎先生にだ。
清本と二股かけてくれてて、ありがとう。
これから、彫刻刀を研いで、岡崎の研究室に向かうことにする。
 

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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中山佐知子 2012年8月19日

麦畑

         ストーリー 中山佐知子
            出演 村木仁

あたり一面の麦畑だったな。
ところどころに背の低い柳の木があった。

その細い一本道を
馬と一緒に行軍しているときだったな。
耳元でバリバリと音がしたかと思ったら
馬とおまえが血を流して倒れていたんだよ。

麦畑なんて
隠れるところもないもんだから
何十頭の馬はみんな撃たれて死んで
兵隊もずいぶん死んで
威張ってた連隊長も死んだけど、おまえも死んだ。

それから
知らない間に戦争が終わって
知らない国に置き去りにされて
それでもなんとか船に乗って帰って来たら
村の麦畑は石ころだらけで土もボロボロになっていた。

これはきっと
知らない国の麦畑で鉄砲を撃ち合って
死んだ馬とおまえを置き去りにした報いだと思ったんだ。

それから
石をどけ、麦をつくり、麦わらを鋤きこんで土を肥やして
三年たったら、麦の穂は重く実り
麦わらはお日さまにつやつやと輝くいい色になった。

その麦わらを水につけると柔らかくなる。
やわらかくなったら帽子が編める。

かぶるとだぶだぶの麦わら帽子。
大きくて、風が吹くとすぐに飛ばされて
狭いところでは邪魔になって
帽子のなかでいちばん戦争に向いていない麦わら帽子。

どこにもいかず
ずっと麦わら帽子をかぶって働いていればよかったな。
戦争になんか行かなきゃよかったな。

麦わら帽子を編んでいると
おまえが死んだ麦畑を思い出す。
踏み荒らされた麦畑、
機関銃の弾や人や馬の死体でいっぱいだった
あの麦畑はいまも麦畑なんだろうか。
誰かが世話をして、いい麦がとれて
残った麦わらで麦わら帽子を編んでいるだろうか。

そうだといいなあ。

出演者情報:村木仁 03-5361-3031 ヴィレッヂ所属

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国井美果 2012年8月12日

「帽子のっけ」

              ストーリー 国井美果
                 出演 いせゆみこ
                      
私の父は、作った料理に、かなりの確立で目玉焼きをのっけた。
そのメニューは「帽子のっけ」という名で呼ばれた。

ハンバーグの帽子のっけ。
ナポリタンの帽子のっけ。
鶏そぼろごはんの帽子のっけ。
焼きうどんの帽子のっけ。
炊きたてごはんの帽子のっけ。

卵チャーハンに帽子をのっけたり、
あろうことかオムライスに帽子をのっけた時は、
かぶっているじゃないか・・・!と思ったけれど。

帽子ののった一品の他には、決まって豆腐と葱のお味噌汁と、
商店街で買ってきた、煮物やポテトサラダやアジフライなどのお惣菜が並んだ。
私が小学生の頃、病気がちな母に代わってキッチンに立った父の食卓は、
大雑把で、カロリー高めで、ワンパターン。

でも、そんな食卓のあれこれを弟と私と父で分け合って食べたあの光景は、
夕方の透明な光とともに、いまも私の大切な部分を照らしている。

時折テレビで、皇族の方が公の場に帽子をちょこんと被って現れる姿を観ると、
「お父さんの帽子のっけだ」と思ってしまう。

あれから時が過ぎ、私も自分の家族ができて、
今は毎日、子どもたちにごはんを作る日々だ。

とりたてて料理が上手いわけでもなく、器用でもない者が
仕事をしながら家族にごはんをつくるには、
ある程度の割り切りと、鷹揚さがなければ続かないことがわかってきた。
時間がなくて、準備もできていなくて、
みるみる機嫌が悪くなる私が作るごはんは、さぞ美味しくないに違いない。

それよりは、いつかの風景のように
恐るべきワンパターンでもいいから淡々と、
なんだか笑ったりしながら囲む食卓が、
どれだけその人をつくっていくものだろう。と、思う。

あいにく卵アレルギーの子どもなので、
今のところ帽子をのっけられないのが残念だけれど。

出演者情報:いせゆみこ 03-3460-5858 ダックスープ所属

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磯島拓矢 2012年8月5日

「帽子」

            ストーリー 磯島拓也
               出演 大川泰樹

男が身ぎれいにするのは誰のためなのか。
取引先に失礼のないように。見た目も実力のうちだから。
それとも単なるナルシシズムか。
まあ、そんなことを考えている時点で負けだろう。
35歳独身男としては、女子社員にもてるため!と
爽やかに言い放つべきであろうが、
あれこれ考えてしまうのが僕である。

米田マリに声をかけられたのも、あれこれ考えている時だった。
土曜の午後の百貨店のメンズ館。35歳独身男の似合う場所。
僕は白のパナマ帽のようなものを試着してあれこれ考えすぎていた。
これはオシャレか?やりすぎか?そもそも似合っているのか?

「お似合いですね」振り返ると米田マリだった。
会社で斜め後ろに座っている。そのせいか、
振り返って彼女がそこにいるのはとても自然な気がした。
「先輩おしゃれですね」
僕はあわてて帽子を脱ぎ、オシャレな人というより、
オシャレ好きのオジサンに見えないか?と口走る。
米田マリはけらけら笑う。…話、弾んでいるではないか。
そして僕は慎重に慎重に、1人かどうか尋ねる。
そしてさりげなくさりげなく「どうだいメシでも」と言ってみる。

「いいですか。あなたがランチに誘って女子社員がついてくるのは、
あなたに好意を持っているからではありません!
単にあなたが上司だからです!」
社のセクハラ委員の声がよみがえる。
米田マリはあっさり食事に同意する。なぜなら僕が上司だから。

しかし、イタリアンでは会話は弾んだと確信する。
「あの帽子買わないんですか?」と米田マリは繰り返す。
素敵だったのに、と繰り返す。そうかなと僕は笑う。
会話とは助け合いである。
途切れそうになると、米田マリは素敵な帽子というボールを投げ、
僕は照れながらそれを受け取る。
「じゃ、明日」気持ちよく別れる僕たち。
帽子が取り持つ何とやら。

「週末、あの帽子買うの、付き合ってくれない?」
そんなセリフを胸に秘め3日経つ。会社で偶然2人になるのは難しい。
あれこれ考えすぎながら社員食堂でかつ丼を食べていたら、
目の前に米田マリがやってくる。偶然ではない。彼女の意志だ。
「先輩、ここいいですか」もちろんだ。
「これ見てくださいよ」写真を渡される。
米田マリの隣に、同世代の男子が立っており、その頭に…あの白い帽子。
「あの帽子ホントに気にいっちゃって、彼にプレゼントしちゃいました。
素敵でしょ?」
ああ確かに素敵だ。その時、社のセクハラ委員の声が頭に響く。

「いいですか。あなたが帽子をかぶって女子社員が似合うと言うのは、
あなたに好意があるからでも、似合っているからでもありません!
単にその帽子が素敵なだけです!」
ああ、セクハラ委員。あなたは正しい。
「先輩、あの帽子買いました?買うと、彼とおそろいになっちゃいますよ」
ああ、米田くん。追い打ちをかけないでくれ。
大丈夫、帽子は当分、買わないと思う。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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直川隆久 2012年7月31日

奇 跡  

             ストーリー 直川隆久
                出演 大川泰樹

「おい。どうしてる。飲みに行かないか」
1年の時間を費やした作品が某新人賞選考に漏れ、
腐っていた俺を気遣ってか、
小林が電話をかけてきた。
「お前のおごりならな」
「誘ったんだから、そのつもりだよ」
小林とは大学の文芸サークル以来のつきあいだが、二人の人生は全く違う。
かたや、出す本がことごとく10万部を超え、才能、金、
そればかりか性格のよさまで持ち合わせた人気作家。
かたや、アルバイトと書き飛ばし仕事で糊口をしのぎながら、
小説家(という肩書き)への夢捨てきれず、
もがき書いては落選を繰り返す売文屋。
小林を前にすると嫉妬を初め様々な黒い感情が
脳内に浸み出してくるので、
断ろうとも思ったが、
作品執筆のためアルバイトをやめた反動で財布はからっぽ。
俺はひとまず小林を思いやりのある万札と考え、
黙ってついて行くことにした。

小林に連れられて来たのは銀座のバーだった。
もとより銀座は詳しくないが、この店は、
ある程度銀座に通った人間でも見逃しそうなせまい路地の奥、
そのまた地下にあった。
重い木のドアを開ける。
天井からぶらさがった骨董品めいたランプの光が、
タバコの煙でやわらかくにじんでいる。
カウンターの向こうにいたバーテンの男性は、
いらっしゃいませと言うかわりに軽く頭を下げた。
年は70くらいか。
だが、背筋はまっすぐにのび、整った白髪が美しい。
カウンターは年代もので、手ずれで渋い光沢を放っている。
メニューも、すべて手書き。紙が黄ばんでいるが、
それもまた味わい深い。
小林の野郎、さすがに、いい店で飲んでいやがる。
毎月どれぐらい印税が入るのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注文したカクテルは、どれも憎たらしいまでにうまかった。
特にブラッディメアリーは、
今まで飲んだものの中では、ダントツだ。
この際、飲めるだけ飲んでやろう。
どうせおごりだ、とメニューをひっくり返して見ていると、
妙なものを見つけた。
リストの一番後ろのメニューが、黒く塗りつぶされている。
これはなんだと尋ねると、小林は、余計なものをみつけたな、
という顔をした。
俺がもう一度尋ねると、ちょっとあたりをうかがって、声をひそめた。
「それか。それは…いわくつきのカクテルでな。販売中止なんだ。
俺も飲んだことない」
「いわく?なんだ、そりゃ」
「いやあ」と小林はさらに声を潜め「このカクテルを、頼んだ人間は、みな…
まあ、妙な話なんだけど」
「なんだよ」
「大成功するらしいんだ」
「大成功?」
「そう。成功して、すごい金が転がりこんでくる。例外なしに」
「おいおい」俺の声は独りでに大きくなった。
「霊感商法の店か、ここは。勘弁しろよ」
「馬鹿。何言って――」
と、そこで小林の携帯が鳴った。
小林はすまんと手でゼスチャーしながら、表に出ていった。
編集者か、女か。どっちにしろ羨ましいことだ。

「そのカクテルですか」
と今まで無言だったバーテンダー氏が、急に声をかけてきた。
意外にしわがれた声をしている。
「ええ。俺の連れがいわくつきなんて事言ってましたが…ほんとですか」
バーテンダー氏は、やれやれといった顔で
「そうなのです。このカクテルを頼まれた方はどうしたものか、
 時を置かずして幸運に見舞われるのです。
 経営なさっている会社が急成長したり、
 長年下積みだった音楽家の方が大ヒットをだされたり…」
バーテンダー氏は、俺も知っている作曲家の名をあげた。
「じゃあ、縁起のいいカクテルじゃありませんか。
 名物にしてもいいのに、なんでやめちまったんですか」
「いえ、やめたわけではないんですが、妙にそれだけが評判になって
 物見高いお客様が増えても…。
 静かに召し上がりたい方のご迷惑になるといけませんので」
だが、無いと言われると、飲んでみたくなるのが人情だ。
俺は、少し食い下がってみた。
「いま、やめたわけではない、とおっしゃいましたね。
 ということは、ださないこともない、と」
「ええ。いや」とバーテンダー氏は目をそらした。気になる。
「どうすれば飲めるんです?」
そのとき、バーテンダー氏の目に今までとは違う光が宿った。
彼は俺にこう訊いた。
「何か、このカクテルが気になられる理由が…おありですか?」
腹の底まで見透かすような目だった。
だが、それと同時に、この人なら俺の気持ちをわかってくれそうな、
そんな優しい目でもあった。カクテルの酔いも手伝ってか、
俺はなんだか胸のもやもやを全部はきだしたい気分になってしまった。
安いギャラへの愚痴。同世代で成功しているやつへの嫉妬。
状況を変えられない自分へのいら立ち。等等等等。
初対面の人間によくそこまでという内容だが、
話しだすと感情が堰を切ったようにあふれ、止まらない。
バーテンダー氏は最後まで聞きおわったあと、
静かにうなずき、こう続けた。
「あなたは、どんな小説をお書きになりたいのです」

改めて問われると、一瞬言葉につまったが、それでも俺は、
酔った頭でなんとか弁舌をふるった。
「ぐ、具体的には、わかりません。
 それをずっと探しているともいえますが…
 うん、そう…なにか人間が、かぶっている、
 嘘っぱちの皮をひっぱがしたいというか…
 そういう作品が書きたい。そういう作品でゆ、有名になって
 …世の中を見返してやりたい、というような…」
俺が話し終わると、バーテンダー氏は
「このカクテルは、あなたのような方に、飲んでいただくべきだと思います」
と言った。
「え」
「ご自分の作品で、世の中を見返したい。と、そう心からお思いなら――」

バーテンダー氏は、メニューの、黒く塗りつぶされた所を指差した。
俺は、うなずいた。魅入られたように。
バーテンダー氏は、にこりと微笑んだ。

彼は、冷蔵庫からいくつかの瓶をとりだし、シェーカーを振るった。
カクテルグラスに注がれたそれは、
さっき飲んだブラッディメアリーよりもさらに深く濃い赤だった。
まるで本当の血でつくったような。
「そういえば、そのカクテル。…なんていう名前なんですか」
「ベリート」とバーテンダー氏はゆっくりと口にした。
そのあと、ヘブライ語で“契約”という意味だ、と続けたような気がする。
俺は、それを飲んだ。辛いような、甘いような、不可思議な味。
グラスの中身が空になるとバーテンダー氏が、
小さく、おめでとうございますと言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

入り口のドアがばたんと開いたかと思うと小林が入ってきた。
「やあ。すまん。『新文芸』の編集者は、話が長くて…」と席についた小林は、
イスを俺のほうへ寄せて「さっきの続き。このカクテルのいわれ」と話し始めた。
今さら聞く必要もない気がしたが、
カクテルを飲んだことを説明するのも面倒なので、
小林が話すに任せる。
「これを頼んだ人はみな成功する。というところまでは話したな」
「ああ」
「ところが、これには続きがあって」
「ふん?」
「気味悪い話だけど、その人達、大体3年以内に、変死するんだ。
 工事現場のクレーンが倒れて下敷きになったり、
 体中に悪性の腫瘍ができたり…
 マスターもああいう人だから、気にしてね。
 これ以上妙な噂がたつのもアレなんで、欠番商品にしたと――」
足元の床がぐにゃりと沈みこんだような感覚をおぼえ、
俺はバーテンダー氏のほうを振り向いた。
できあがったカクテルの味見をしている、その舌の先が、
蛇のそれのように二つに分かれているのが見えた。

…悪魔?

そうか、そういうことか。
俺は、どうやら、“まずい”契約をかわしてしまったらしい。
一体どうなる?頭がパニックを起こしそうになったそのとき――

ある小説の構想が…今まで誰も読んだことがないだろう、
“究極の小説”の構想が、頭の中に稲妻のように立ち現れた。
完全にオリジナルであり、かつ、人類史レベルの普遍性をもつ、
圧倒的な物語のプロットがそこにあった。
そして次の瞬間、プロットは具体的な言葉をまとい、
ストーリーとなった。
ショッキングな冒頭から、読む人すべての心を震わせずにはおかない
ラストの結語にいたるまで、すべての言葉が、
微塵のあいまいさもなく俺の目の前に広がった。
悲しみ、怒り、快楽、苦痛、卑しさ、崇高さ。人間の本質、
そのすべてが描きつくされていた。

すばらしい。すばらしい。
俺はそう繰り返し、涙を流していた。
こんな完璧な作品に、生きてる間に出会えるなんて。
しかもそれを、俺が。この俺が書けるなんて。
こんな小説が書けるのなら、なんだってくれてやる。
そう、魂だって――

バーテンダー氏が、俺のほうを見ているのに気付いた。
その表情からあふれていたものは、まぎれもなく――「慈愛」だった。   

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2012年7月29日

ひとつめの太陽が沈むころ

              ストーリー 中山佐知子
                 出演 地曵豪

ひとつめの太陽が沈むころ
トラディショナルなマティーニを頼んだ。
バーテンダーは300種類のマティーニをつくり分ける技術を
プログラミングされているが、客はいつも僕ひとりだ。

ふたつめの太陽が沈むころ
出鱈目なマティーニの名前を言ってみた。
アップルマティーニ
りんごサワーの味がするマティーニが出てきた。
それじゃあ、アップルパイマティーニ
こんどはカルバドスの香りのするマティーニだった。
この違いの意味がわからない。
バーテンダーは会話をプログラミングされていないので
説明は一切なしだ。

みっつめの太陽が沈むころ
「ウィンストン・チャーチルのマティーニ」をオーダーした。
すると、即座にジンのストレートがカウンターに置かれ
ベルモットの瓶が右斜め横に並んだ。
150年前の政治家がベルモットを横目で睨みながらジンを飲んだという話は
歴史の時間に学んだことがある。
侵略や革命や戦争が教科書から消えて以来
歴史は過去のファッションやグルメのことになってしまっている。
チャーチルはマティーニを飲む以外に何をやったんだろう。

よっつめの太陽が沈むころ
また出鱈目に「アポロ13号マティーニ」と言ってみた。
出てきたマティーニは粉末ジュースの味がした。
宇宙開発黎明期の初期型飲料が使われているらしかった。
もう二度と頼まないぞ、と思った。

いつつめの太陽が沈むころ
僕はどれだけ飲んだのかわからなくなっていた。
実を言うと、いまいくつめの太陽が沈んでいるのかも定かではなかった。
この星は18個の小さな太陽が出たり入ったりしているので
まぶしい昼も闇に沈む夜もなく、
一日中夕暮れのようにぼんやりとしている。
体内時計はとっくに壊れ、カレンダーも思い出せないが
予約した迎えの船が来るのはまだ何ヶ月も先だということだけは
チケットのタイマーが知らせてくれている。

僕が六つめだと思っている太陽が沈むころ
バーテンダーに時間をたずねたら
黒いオリーブの入ったミッドナイトマティーニをつくってくれた。
僕は今日も何も書くことがない。
お天気さえ最初に「晴れ」と書いたきりだ。
ここでは雨も降らず、風も吹かず、災害もなく季節もない。

この星に入植した開拓者たちは
苦労の末に去ったのではなく、退屈の果てにこの星を捨てたのだ。
彼らのストーリーは三行で終わる。
「ここに来た、ここで暮らした。ここから去った」

すでにいくつめだかわからなくなった太陽が沈むころ
僕はジャーナリストマティーニを飲んでいた。
むかし東京の外国人記者クラブの遺跡から
165本のジンと5本のベルモットの空き瓶が発掘され、
その33対1の比率で混ぜ合わせたドライマティーニを
ジャーナリストマティーニと呼ぶようになったのだ。

ジャーナリストはドラマがあればそれを書けるが
退屈を描くのは不可能だ。
だから僕は一行も書けずに毎日酔っぱらっている。
誰もいなくなった星にひとりで来て
なすすべもなく酔っぱらっている。

僕はジャーナリストマティーニを飲みながら
もし自分が小説家だったら
この退屈を書くことがでるだろうかと考えた。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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