上田浩和 2022年11月6日「女の子ちゃん」

女の子ちゃん

    ストーリー 上田浩和
       出演 大川泰樹

女の子ちゃんは考える。
男の子はなんで立っておしっこするんだろう?
どんな気分なの?
気持ちいいの?
ちょっとお行儀わるくない?
じょぼじょぼうるさいし。はねるし。

男の子はお外でも平気でおしっこするよね。
はずかしくないの?
風邪ひかないの?
木に向かってするのはなぜ?
木の栄養になるってこと?
その木にみかんがなったら、味はもしかして…。

女の子ちゃんはそんなことを考える。
座っておしっこしながら考える。
座るといろいろ考える。
男の子は座らないから、おバカなんじゃないの?

女の子ちゃんには夢がある。
プリンセスになること。
だからツメをかむのも我慢する。
ほんとうはがしがしかみたい。
でも、プリンセスになりたいなら、
お行儀よくしないといけない。
あと結婚もしないとね。
相手はパパがいいんだけど、
そうなると、パパとママは離婚しないといけないらしい。
ある日、女の子ちゃんが、
ママに「パパと別れてくれる?」と聞いた時は即答だった。
いいわよ。一瞬の迷いもなかった。

さっきまで降っていた雨があがった。
保育園の教室から見上げた空には、虹の予感があった。
お昼の2時に虹が出た。
男の子たちのあいだではやっているダジャレを
女の子ちゃんも言ってみた。
言った瞬間、ダジャレのどこがおもしろいんだろうと思った。

パパもやっぱり男の子だったのかな。
きっとそうに違いない。
パパも立っておしっこするし、ダジャレも言う。
校長先生、絶好調。
それのどこがおもしろいんだろう。

もう雨雲は見当たらない。
空はそろそろ夕焼けの準備をはじめる頃だろう。
もうすぐママが迎えにくる。
ママとパパが別れたら、
ママがお迎えにくることはなくなるのかな。
女の子ちゃんは泣きそうになった。
プリンセスになるためには仕方ないのかな。
プリンセスの笑顔がどことなくさみしそうなのは、
きっといろんな理由があるんだろうな。

女の子ちゃんも、来年は小学生。
校長先生に会ったら、
パパの言ったダジャレのおもしろさにも気づくかもしれない。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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中山佐知子 2022年10月30日「青い鳥」

青い鳥

ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

1879年の4月8日は
イギリスの牛乳屋にとって特別な日だった。。
この日、初めてミルクはガラス瓶で配達されたのだ。
それまではミルク売りがくると
おかみさんたちは瓶や水差しを持って家から出てきて
馬車に積んだミルクをおたまですくって買っていた。
朝昼晩、一日3回牛乳売りが来ていた時代だ。

さて、このガラス瓶のミルクが定着した1920年代のはじめ
イギリスの南部の街サウサンプトンの郊外で
アオガラという青い羽を持つ小鳥が
玄関口に配達された瓶の蓋をこじ開けて
盗み飲みをする姿が目撃された。
蓋のすぐ下には乳脂肪たっぷりのクリームが固まっている。
それを飲んでしまうのだ。

やがて黒いネクタイのシジュウカラや
とんがり帽子のヒガラもアオガラを見習うようになり
イギリス中でミルクを盗む小鳥が目撃されるようになった。
それから赤いチョッキのコマドリがやってきて
アオガラのお余りを飲むようになった。
さらに少し離れた茂みにはキツネが座り込んで順番を待っていた。
小鳥たちはすっかり牛乳配達のファンになった。
彼らは常に配達のクルマを取り巻き、
隙を見つけては配達する前のミルクを飲んだ。
ある学校に配達された300本の牛乳のうち
50本以上が盗み飲みされていた日もあったという・

ミルク瓶の蓋はいろいろ開かない工夫が考えられたが
状況は改善されなかった。

ミルクを受け取る人が鳥を理解する必要があるという
意見が出された。
鳥は見つけたものを食べにくるのだから、
見えなくすればいい。
頑丈な牛乳箱の登場だった。

動物学者は鳥の社会的行動について研究を深め、
カメラを持っている人はプロもアマチュアも
小鳥がミルクを飲んでいる写真を撮りたがった。
ミルク瓶と小鳥の絵は人気のカードにもなった。

不思議だったのは何十年も被害に遭い続けた人々から
鳥を追い払えという意見が出なかったことである。
ある新聞にはこんな投書が届いた。
「私たちが小鳥の棲む森を奪ったのです。
 人間の愚かな行為が彼らを追い詰めたのです。」

いまアオガラはミルクを盗むのをやめている。
配達が減って、みんな店でミルクを買うようになったし
瓶の蓋も開けにくくなったのもあるが、
庭のある家ではチーズやベーコンの皮、ナッツなどのご馳走を
置いてくれるのだから
わざわざ開けにくい蓋に挑戦する必要もない。

イギリスは鳥を愛する国である。
バードウォッチング発祥の地で、日常の話題のひとつが自然科学だ。
野鳥の数は、持続可能な農業の土地利用の目印になっている。
しかし、この国でさえ2012年に発表された報告によると
野鳥は半世紀でおよそ20%、4400万羽減っている。

2017年、王立鳥類保護協会では庭で野鳥を助ける提案をした。
その中には庭で野菜を育て、
その野菜につく害虫を食べてもらうと言う提案が含まれていた。




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大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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磯島拓矢 2022年9月4日「トンボ」

「トンボ」

  ストーリー 磯島拓矢
     出演 大川泰樹

小学生になった息子が、軽快に自転車を飛ばしている。
僕は後をついていく。
その背中には、できることが増えたよろこびが満ちている。

公園の散歩道に入る。
彼は何台もの自転車を追い抜いてゆく。
こんなにゆっくり漕げるなんて逆にすごい!
と思えるおばあさんはもちろんのこと、
小さい女の子をのせた若い母親、高校生くらいの男の子も追い抜いてゆく。
男の子は大声で歌を歌っていた。
元気でいい歌声だった。

トンボが飛んできたのは、そんな時だ。
息子の前をスーッと横切る。
当然視線はそちらに流れる。
そして、転んだ。
大きな石をよけそこなったのか、原因はわからない。
ただただ見事に転び、かごに入っていたザリガニ獲りの道具をぶちまけた。
急停止して自転車のスタンドを立てようともたもたしている父親の横を、
3つの影が通り過ぎた。
歌っていた男の子が、すごい勢いで息子に駆け寄る。
「大事大事、荷物は大事だよ!」
と言いながらぶちまけた道具を集めてくれる。
若いお母さんはいつの間にか息子の脇で立ち上がるのを助けてくれている。
小さな女の子も「大丈夫?」と彼のズボンの泥を払っている。
もう無茶苦茶可愛い。
そしておばあさんは自転車にまたがったまま
「大丈夫かい?頭打ってない?大丈夫かい?」
繰り返し語りかけてくれる。
もはや僕のやることはなく、ただただその光景を見つめていた。
息子も呆然としている。それは、転んだショックというよりは、
突然、圧倒的善意に囲まれた戸惑いのように、僕には見えた。

「じゃあね気をつけてね」
ケガがないとわかると、4人は立ち去ってゆく。
僕は慌てて背中に向かって声をかける。
「ありがとうございます」
息子もようやく我に返り「ありがとうございます!」と叫ぶ。

愛とは何かという命題に対し、たくさんの人が様々な名言を残している。
僕はそこに「愛とは反射神経だ」という一言を加えようと思う。
転んだ人に手を差し伸べる。転びそうな人に手を伸ばす。
これはもう、反射神経だ。
人を助けるために、人の身体は自然と動くようにできている。
息子に駆け寄ってくれた4人から、僕はそんなことを感じた。
愛とは反射神経だ。
人の身体にあらかじめ備わっているもの。そして、
脳が指令を出す前に、突然発露されるもの。

目の前を再びトンボが横切る。
先ほどのトンボと同じかどうか、それはさすがにわからない。
「お~い、トンボだぞ」僕は息子に話しかける。
「いいよ別に」
転んだのはコイツのせいだと言わんばかりに、彼は口をとがらせている。
まあ怒るな。
トンボのおかげで、お父さんはいい風景を見ることができたんだ。

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安藤隆 2022年7月24日「 きょうは飛鳥さんと天の川」

きょうは飛鳥さんと天の川

 ストーリー 安藤隆
    出演 大川泰樹

 飛鳥さんが「天の川見たことない」と言う
から「天の川を、ミルキーウエイというのは、
どうしてですかあ?」と、僕の物知りぶりを
披露して、自慢しようとしたら「ひろしくん、
おしっこ出しなっ」と飛鳥さんが、寝ている
僕の僕を無造作につかんで、尿瓶の口に突っ
こんだ。
 ミルキーウエイの話が、どうしておしっこ
の話に変わったのと思ったけど、まあいいか
あ、と思った。僕は飛鳥さんを気に入ってい
るから。
僕は天の川を見たことがいっぺんある。あ
れはぜったい天の川だった。
 小学校4年と5年の2年つづけて、夏休み
のあいだじゅう、岐阜の山村にある父親の生
家に預けられて過ごした。
 庭で飼っている山羊の乳が搾りたてで毎朝
飲めるし、卵も生みたて、昆虫もいっぱい。
そのうえ店が忙しい親にとって、めんどくさ
い盛りの小学生を厄介払いできる一石二鳥の
アイデアというわけ。いま思い返せばね。
 僕は、でも、自然豊かな父親の村での夏を
十分楽しんだ。早朝、霧のかかった山へ入り、
みんなで蚕の桑の葉を摘んだ。夕方の矢作川
は、水面が斜めに光って、川がぐっと深くな
り、鮎がうようよいた。いとこたちが、おも
ちゃみたいな竹のモリで、たちどころに一人
5、6匹突いて、笹に刺し、意気揚々と持ち
帰った。
 天の川を見たのは、集蛾灯に集まる昆虫を
捕りに、夜の田んぼへ行ったときだ。うるさ
く飛び回るウンカや、蚊や、こがね虫や気味
のわるい蛾に混じって、目当てのかぶと虫も
いた。木の幹にいるのを見つけると、輝く宝
物だけど、集蛾灯のかぶと虫は、汚らしいた
だの虫に見えた。気分が下がって捕るのをや
めたら「お前が言うから連れてきてやったの
に」と、いとこたちは怒ったけど。
 その帰り道。異変を感じて見上げたら、空
が、集蛾灯みたいに細長く青白かった。星が、
虫みたいに集まっていた。
 「天の川だ、天の川だ」と騒いだら「きょう
は七夕でないで。8月だで。天の川でないわ」
と、いとこたちがバカにした。
 天の川は、天女の母乳が宇宙に飛び散った
んだ、だからミルキーウエイなんだ、という
話を飛鳥さんにまだできていない。飛鳥さん
なら飛び散らせるかもしれないね、と褒めた
いけど、セクハラじじいってまた言われるか、
あはは。
 僕はおしっこを尿瓶に垂れながら、子犬の
ように飛鳥さんを見あげる。
 「窓あけて天の川見たい」と甘えたら「見え
るわけないよ、夜でも明るいから」と言いな
がらあけてくれた。やっぱり飛鳥さんはやさ
しい。むーっとする湿った空気がさっそく入
ってくる。
 僕はベッドに寝たままだけど、二人で恋人
みたいにちょっと黙った。
 「汚いから、じぶんで拭いて」おしぼりを手
渡される。僕の僕にやっと届かせながら
 「来年の七夕って、飛鳥さんにまだ会えるか
なあ」と言ったら、
 「ひろしくん、おしっこけっこう出るから、
大丈夫だよ」と飛鳥さんが笑った。

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中山佐知子 2022年5月29日「たんぽぽ婆さん」

たんぽぽ婆さん

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

近所に怖そうな婆さんが引っ越してきたのは
僕が小学校のときだった。
爺さんはおらず、婆さんと婆さんの娘と
ふたりきりだった。
何をして食べているのか分からないし。
婆さんは気が強く、押しも強く、
子供たちもよく叱られたが
娘さんは婆さんに似ない優しげな人で
話しかけると明るい声で受け答えをしてくれた。

引っ越して来て1年ほどたったころ、
娘さんの縁が決まってお婿さんがきた。
婆さんの家で質素な婚礼があった。
窓からのぞいた花嫁の顔はきれいだったし、
お婿さんもがっしりしたよさそうな人だと母は喜んだ。
婆さんもこれで楽隠居だとみんな思っていた。

ところが
婚礼から三月もしないうちに娘さんが亡くなってしまった。
あまりに急なことでびっくりしたのと気の毒なのとで
子供たちもしばらくはイタズラをやめたほどだったし。
ご近所も遠巻きに心配していた。
お婿さんはしばらくいたが、
四十九日が終ると肩を落とした姿で元の家に帰っていった。

婆さんはひとりになってしまった。

さて、それからだった。
頼みの綱の娘夫婦を失った婆さんは
隠居などしていられなかった。
朝は早くから箱車を押して竹輪や蒲鉾を売り歩き、
夕方になると銭湯の前にたこ焼きの屋台を出した。
さすがの強い気も折れて、愛想がよくなり、
夜はときどきうちのお風呂をもらいに来るようになった。
みんなが婆さんのことを「たーばー」と呼ぶようになったのも
その頃だ。
「たーばー」はたんぽぽの「た」と
「ばあさん」の「ば」の組み合わせだと聞いたが
決して野の花にたとえられるような婆さんではなかったので
なんでたんぽぽなんだ?と僕は不思議だった。

朝、僕がまだ寝床にいる時間から
婆さんは車を押して竹輪を売り歩き
僕が学校から帰る頃にはたこ焼きを焼いていた。
竹輪の車にもたこ焼きの屋台にも鈴がつけてあって
チリンチリンと大きな音で鳴った。
その音を聞くと、母は財布を持って玄関を出て行った。

春の運動会が近づいたころ
生徒は運動場の芝生の雑草を抜くことになった。
メヒシバやチドメグサに混じって黄色いタンポポがあった。
タンポポは黄色い花と緑の葉っぱの下に
とんでもなく長い根っこがあり、
とても全部掘ることはできなかった。
途中で切れてしまったタンポポを
僕たちは「ちっ!」と言いながら集めて捨てた。
残った根っこがまたタンポポになる。
タンポポってすげーと思った。

運動会の日、たんぽぽ婆さんは
学校にたこ焼きの屋台を曳いてきた。
人だかりがして大繁盛の屋台の下に
僕たちが抜くのを諦めたタンポポが黄色い花を咲かせていた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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直川隆久 「川のある村からの使い 2022」

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 大川泰樹

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、
轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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