中島英太 2022年2月27日「長い冬の終わり」

長い冬の終わり

  ストーリー 中島英太
     出演 大川泰樹

日本には、冬の寒さを利用してつくられる食べ物が数多くある。
中でも味噌や醤油、日本酒といった発酵食品は、
寒い時期に仕込むとゆっくりと発酵がすすみ、おいしくなる。
これを「寒造り」あるいは「寒仕込み」と呼ぶ。

ある酒蔵では、仕込み中の酒にクラシック音楽を聴かせる。
原理はわからないが、実際味がよくなるという。
酵母も生き物だ。いい音楽を聴くことで気分良く発酵するのかもしれない。

ところが。
それと正反対の酒蔵があるのをご存知だろうか。
名前や所在地は明らかにできないが、その蔵では素敵な音楽ではなく、
酒に「駄洒落」を聞かせるのだ。

冬の間中、蔵で働く人々は酵母に向かって語りかける。
「今月もお金がない。おっかねー」
「トイレに行っといれ」
「ゴミを捨ててごみん」
寒い。
この上なく寒い。

そう、それこそが狙いであった。
駄洒落を聴かせることで、蔵をさらに寒くする。
繰り返すが酵母も生き物だ。
物理的な冬の寒さと、精神的に寒い駄洒落。
究極の寒仕込みである。

この風変わりなやり方がいつはじまったかは定かでないが、
蔵の人々はごく当たり前に受け入れている。
ただひとり、跡継ぎ息子の次郎(仮名)を除いて。

次郎は幼い頃から駄洒落の修得に明け暮れた。
本当はサッカーをやりたかったのだが、蔵の伝統が許さなかった。
この蔵に生まれたからには、
寒い駄洒落を自由自在に扱えないといけない。
スポーツなどやっている暇はないのだ。

中学に上がると、大人に混じっての特訓がはじまった。
駄洒落100本ノック。月に一度の駄洒落スピーキングテスト。
かっこつけたい年頃である。
思春期の少年にとってそれは地獄の日々だった。

うちも駄洒落じゃなくクラシック音楽とか聴かせようよ。
そう訴えたこともあったが、親は激怒。朝ごはん抜きの刑に処された。
その時次郎の口から自然に飛び出た言葉は、
「チョーショック!」だった。
自分がすっかり駄洒落人間になってしまったことに、
次郎はチョーショックを受けた。

好きな子の前で駄洒落を連発してしまい、フラれたこともある。
彼女に着信拒否された次郎はただ「電話に出んわ…」とつぶやいたという。

高校卒業後、蔵で働きはじめた次郎は、
最も冷える深夜、酵母に駄洒落を聞かせる係になった。
眠気と寒気と羞恥心と戦いながら、蔵でひとり駄洒落を繰り出す日々。
こんな馬鹿げた伝統いつかぶち壊してやる。
そして本当に美味い酒をつくるんだ。
酒造りへの情熱だけが、彼を支えていた。

そんなある日のこと。
次郎が蔵でウトウトしていると、小さな声が聞こえた。
(寒い…寒くて敵わん…)
誰だろう。声は酒を仕込んでいる桶の方からだ。
(寒い洒落はよしなしゃれ…いや、やめて…)
なんと声の主は、酵母であった。
蔵に百年以上住み着いている酵母が、次郎の頭の中に直接語りかけてきたのだ。

(わしはもう駄洒落には耐えられない…)
聞けば、長年居候している手前ずっと我慢してきたが、もう限界だということ。
これまで何度も訴えてきたが、耳を傾けたのは次郎が初めてということ。
酵母は思いの丈をぶつけてきた。
次郎もまた、理不尽な伝統への怒り、そして酒造りへの思いを酵母へぶつけた。
青年と酵母は、意気投合した。

酵母は言った。
春になったら、わしといっしょに旅立とう。
新しい場所で酒をつくろう。お前のやり方でお前の酒をつくるんだ。 
駄洒落でもクラシック音楽でもない。
新しい人間だけがつくれるものがきっとある。
お前ならきっとできる。

次郎の目にみるみる涙が浮かんだ。
世代と生物の垣根を越え、ついに仲間が現れたのだ。
若者は照れ隠しに元気よく酵母へ返事した。
「オッケー牧場!」

長く寒い冬が、もうすぐ明けようとしていた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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中山佐知子 2022年1月16日「はじまり」

はじまり

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

飼い主がいなくなったら死んでしまう、
なんていう仲間もいるけれど
俺はそういうタイプじゃない。
むしろ変化は喜んで受け入れたい。
ピーピー鳴くばかりのチビ猫だった俺を引き取ってくれたのは
ありがたいと思ってはいるが、
いまの暮らしにはいいかげんうんざりしていた。

俺の飼い主は年配の女の人で
俺がこの家に来てからこのかた
「私が死んだらこの子はどうなるの」と言い暮らしてきた。
ときには俺をギュッと抱いてポロポロ涙をこぼした。
そんな年になって子猫を飼うのが無謀なのだ。
自分が先に死ぬに決まっている。
その前に新しい里親を探してくれればいいのだが、
そういうことは考えもしないようだった。

引き取られて3年もすると
飼い主はときどき俺の飯を忘れるようになった。
そのくせ、「私が死んだらこの子は」という口癖はやめなかった。
そのことに気づいたのは
月に何度かやってくるボランティアの女性で
洗っていない猫の食器に昨日の餌が残っている様子を見て
年を取って猫を飼うたいへんさをさりげなく話題にするようになった。

なるほど、と思った。
うまくするとこの湿っぽい生活から抜け出せるかもしれない。
古い水、古い餌、汚れたままのトイレ、
干してない布団やカーテンを閉めたままの部屋と別れて
暖かい乾いた場所へ行きたかった。

俺はその女性が来るたびに玄関に出迎え、
歓迎の挨拶をするように心がけた。
彼女が座ると膝に乗り、
お前は俺の女だという顔をしてじっと目を見つめた。
俺たちは次第に心が通うようになってきた。

チャンスがやってきた。
飼い主は相も変わらず
「私が死んだらこの子はどうなるの」と
うんざりするほど言い続けていたが、
階段から足を滑らせて救急車で運ばれたとき
ついに俺を手放す決心をしたのだ。

車が止まる音がして、聞き慣れた足音が聞こえた。
俺が玄関に出迎えると
彼女は笑顔で俺を抱き上げ、「さあ、行こう」と言った。
「さあ、行こう。もうここには来ないから。」

そうか、もうここに帰らなくていいのか。
とうとう新しい暮らしがはじまるんだな。
俺は彼女の肩に前足を乗せて明るい空を見上げた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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小野田隆雄 2021年12月5日「すばるのささやき」

すばるのささやき

         ストーリー 小野田隆雄
            出演 大川泰樹

昔の日本語では、集まってひとつになることを、「すば
る」と言った。
清少納言が「枕草子」の中で、美しい星として最初にあ
げている「すばる」も、たとえば地球や月のように、ひ
とつの星ではない。それは星の集団につけられた名前で
ある。
またたくように、キラキラする「すばる」は、六個の星
にも七個の星にも、数えられる。眼の良い人は、十個も
見える。さらに天体望遠鏡で観察すると、百個以上の星
があるという。
「すばる」は若い星の集まりで、誕生してから六千年し
か経っていない。星たちが青白く輝いているのは、高温
度の光を出しているためである。
そのために「すばる」の星たちは、大きなエネルギーを
消費しているので、燃えつきるのも早い。あと一億年で
消え去ると言われている。
ところで西洋では「すばる」のことを、プレアデスと呼
んでいる。そこにはメソポタミア地方で生まれ、ギリシ
ア神話に受け継がれた、物語があった。
プレアデスは七人姉妹の名前である。彼女たちは月の女
神、アルテミスに仕えていた。ある夜、彼女たちが森の
木陰で踊っていた。
その姿を、若き狩人(かりゅうど)のオリオンが見つけ
る。彼は少女たちに近づき、たわむれようとする。
少女たちは逃げて、主人のアルテミスに頼み込み、小鳩
の姿に変えてもらい、大空に飛んでいった。けれどオリ
オンもあきらめず、追いかけて空に駆け昇った。
私たちが冬の夜空で見る、三つ星で有名なオリオン座は、
その狩人、オリオンの姿である。その星座から、少し右
上に視線を移すと、そこに小声でささやきかけるように
輝いている、プレアデスの星たちがある。

「星三百六十五夜」という本は、野尻抱影(のじりほう
えい)によって書かれた。昭和53年に出版されている。
1月1日から12月31日まで、星のことを書いた、3
65のエッセイである。
野尻抱影は学者ではないけれど、星が大好きな人で、さ
まざまな星の話を書いている。
彼の弟は大仏次郎(おさらぎじろう)というペンネーム
の、小説家だった。黒覆面(くろふくめん)の剣術使い、
鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、彼の創作である。
「星三百六十五夜」の12月29日に、生きることに絶
望し、死んでしまおうと思い、家出する青年が登場して
くる。
青年は森に向かって歩いて行く。死に場所を捜すために。
月のない星明かりの道を歩き続ける。風が吹いてきた。
ふと、彼は立ち止まる。森の上に「すばる」がまたたい
ていた。
そのやさしい輝きを見たとき、彼は死ぬことを止めようと
思う。そういう話である。
このエッセイを読んだとき、私は思った。青年はきっと、
「すばる」のまたたきを、耳で聴いたのだろうと。死ん
ではだめ、死んではだめ、死んではだめ。
少女たちは歌うように、話しかけていたのかもしれない。
この本を読んだのは、三十代の頃だったと思う。それ以
前、高校生の頃から、考えていたことがあった。何も

い場所で、人工の光もなく、月の出ていない夜に、星空
を見ることである。たとえば中央アジアのシルクロード
行きたかった。まだ実現していない夢だ。コピーライ
ターズストリートに、「すばる」の話を書かせていただ
くことになったとき、ある人と少し会話をした。そのと
き、次の話を聞いた。
世界には、星空保護区と呼ばれる場所があるという。ア
フリカの古い砂漠、ニュージーランドの湖、そしてアイ
ルランドの半島、その三か所だけである。
もしも北半球に住んでいる私が、アイルランドの海に突
き出した半島で、空いっぱいの星空を見たら、「すばる」
を見つけられるだろうか。彼女たちのささやきを、聞く
ことが出来るだろうか。
もしも聞くとこが出来たら、きっと次のような、ささや
きだろうと思う。
もうひといき、もうひといき、もうひといき。
そろそろ一年が終わろうとしている。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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中山佐知子 2021年11月21日「酒杯」

酒杯

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

村上天皇の孫にあたる姫君で
伊勢神宮の斎宮になったかたがいらっしゃった。
斎宮は神に仕える巫女、というよりは
神の意思を天皇にお伝えする媒体のようなものだった。
神は決して言葉を発することはない。
ただ姫君の肉体を使って意思を示すのみだった。
この姫は11歳で斎宮に選ばれ、13歳で伊勢へ来た。
お名前はよし子。
その事件が起きたときは26歳だった。

夏の終わりの嵐が吹き荒れたその日、姫君は突然狂気に陥り
わたしの身体に神が取り憑いたと訴えはじめた。
自分の言葉は神のお言葉である。
その言葉を天皇に伝えよ。

お言葉はおおむね次のようなものだった。
その一、斎宮の長官夫妻が自宅で勝手に神を祀り
偽りの教えで人々を惑わしているから直ちに流罪にせよ。
その二、都でも狐を伊勢の神と称してあやしい宗教を広める輩がいる。
しかるべく取り締まれ。
その三、天皇が伊勢神宮の神を蔑ろにしている。
その四、伊勢の民を殺した犯人の処罰があまりに遅いのは
行政の怠慢である。

神のお言葉としては具体的すぎるようにも思えるが、
これは伊勢神宮代表の姫君が天皇に仕掛けたケンカである。
知らせを受けた朝廷は上を下への大騒ぎになり、
事情聴取や処分の決定が今度ばかりは迅速に行われた。
天皇は陰陽師や胡散くさい祈祷師をおそばに近づけて
明らかに伊勢の神さまを粗略にしていたが、
あわてて反省の態度を示した。

さて、11歳で両親から離され
神にお仕えしてきた姫君が
このように世間を知った行政批判
や不正の告発をなさるのは
不思議なことだと誰もが思う。

斎宮の姫が神がかりを装って告発するだけの情報が
どこからやってきたのかは謎のままだが
その勇気がどこからもたらされたのかは判明している。
姫は神がかりになってお言葉を発せられている間、
何杯も何杯も杯を重ね
酒をお飲みになっていたことが記録されているからだ。

この事件がひとまずの決着をみたのは
夏が過ぎ、秋も深まった旧暦の9月だった。
思い出せば、13歳で都を出て近江から鈴鹿を越え
赤や黄色に色づく山の木々を眺めながら伊勢へ旅をしたのも
この季節だったが
天皇にケンカを仕掛けて勝利したこの年の紅葉ほど
思い出深く美しいものはなかったと想像される。

姫君は31歳で斎宮の役目を終えて都へ戻られた。
46歳のときに右大臣藤原教通の妻になっているのをみると
政治家の妻として優れた素質があり、
しっかりしたお人柄だったことが想像される。
大酒飲みだったという記録はない。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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安藤隆 2021年10月10日「冬のお庭(風版)」

冬のお庭

  ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 千代さんはその朝、いつものように憂鬱
ではなかった。そのことを怪しみながら、魔
法瓶のヌルマ湯で、たくさんのきれいなカプ
セルの薬をのんだ。夫はもう会社へ行ったの
らしい。それともゆうべは帰ってこなかった
のかしら。千代さんは思い出そうとして、何
かに躓いてやめた。代わりに手にしているヌ
ルマ湯の花柄の茶碗が、新婚当時、夫と一緒
にデパートで買ったセットの残りであること
を思い出した。が、それも微かに心をよぎっ
た翳のようなものだ。なにかひとつことに捕
らわれるのがこわくて、いつだってあわてて
打ち消すことをしつづけてきたから、いまで
はそれが千代さんの思考の回路になってしま
った。
 冬の透きとおった午前。いいお天気。風が
つよい。お庭に出てみようかしら。ちょっ
と胸がどきどきしはじめた。冬の庭がきれい
なのは、スズメノカタビラやチドメグサら夏
の気味のわるい草たちがいなくなったせいだ。
いろんな命が風で吹きとばされていなくなっ
たせいだ。クチナシやアジサイもいまは冬の
陽をうけてじっとしている。千代さんはガラ
ス戸をあけて、スリッパのまま庭におりた。
千代さんは植物たちが嘘をついていることを
知っている。根っこは土の奥で盛んに生きて
いるのに、上は死んだふりをしている。目を
離すといまにもいっせいにワーッと土から生
えだす‥。ワーッ気持ちわるい。
 一本だけ咲いているサザンカの繁みに隠
れて子供がいた。千代さんは赤くなりながら、
襟元を手でかき合わせた。子供は小学校の一
年生ぐらいだろうか。でも中学校の一年生な
のかもしれない。千代さんには本当になにも
わからない。きっとずーっと千代さんを見て
いたのに違いない。でも心配することはなか
った。相手はほんの子供なのだ。
 千代さんは子供に笑いかけた。思いがけ
ず自然に笑えた自分にうれしくなって、すこ
し元気が出た千代さんは「こんにちは」と声
に出して、また笑おうとした。こんどは前ほ
どうまくいかなかった。子供の固い顔がまっ
たく反応しないもので、笑いが中途でこわば
ってしまったのだ。千代さんは思った。「こ
んにちは」より「君のお名前は?」と聞いた
ほうが、よかったかな、と。それだったら答
えてくれたかもしれないよ。千代さんは気を
取り直し「君の‥」と子供にしゃべりかけた。
 するととつぜん子供が「バカ、キチガイ
ババア、ベーエ」と目をむき、ベロを出して
逃げていった。千代さんは「まだ言い終わっ
てないのに‥」と笑っているような顔のまま、
子供をさがして周囲をきょろきょろ見回した。

出演者情報:大川泰樹  所属MMP 03-3478-3780

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小野田隆雄 2021年8月15日「追憶(2021)」

追憶

    ストーリー 小野田隆雄
    出演 大川泰樹

ヨウシュヤマゴボウは、
いつも、ひとり。
群れたり、仲間を集めたりしない。
いつも、ひともと、高くのびて
大きな葉を茂らせて、枝を広げ、
小さな白い花をいっぱいつける。
花が散ると、黒に近い紫色の実を
山ブドウのように実らせる。
昔、子供たちは、この紫色の実を、
色水遊びの材料にした。

ヨウシュヤマゴボウの白い花が、 
サラサラと散り始めると、
夏が盛りになってくる。
そう、その頃になると
江の島電鉄の小さな車両は
潮の香りに満ちてくる。

白い麻のスーツに
コンビの靴をはき、
大きな水瓜をぶらさげて
三浦半島の油壺のおじさんが、鎌倉の
雪の下の、僕たちの家にやってくるのは
そういう季節だった。
「やあ、太郎くん、
大きくなったねえ。いくつになったの」
太郎と言うのは、僕の名前である。
両親が四十歳を過ぎて
ひょっこり、生まれた、
ひとりっこである。あの頃、
小学生になったばかりだった。

おじさんは、父のいちばん上の兄で
銀行の重役だったけれど、
定年退職すると
三浦半島に引っ込んで、
お百姓さんになってしまった。
おじさんは、ひとりだった。
いつも、おしゃれだった。

「あれは、たしか
東京オリンピックの年だったねえ。
兄さんが、定年になったのは」

いつだったか、母が言っていた。

「兄さんは、女性のお友だちが多くてね。
それで忙しくて、とうとう結婚するひまが
無かったんだって。
なぜ、お百姓さんになったんですか、
ってね、聞いたことがあるの。
そしたらね、そりゃあ、あなた、
野菜はかわいい。文句をいいませんから。
だって」

僕は、おぼろにおぼえている。
せみしぐれが降ってくる、
昼さがりの縁側の、籐椅子に腰をかけて、
おじさんと父が、
ビールを飲んでいた風景を。
「おーい、よしこさん。
 水瓜は、まだ、冷えませんか」

「でも、兄さん、三浦の水瓜って、
 どうも、あまり、甘くありませんな」

「喜三郎(きさぶろう)、おまえねえ。
 水瓜なんてえものは、青くさい位が、
 ちょうどいいのさ。そういうものさ」

よしこ、というのは母。喜三郎と
いうのは父。おじさんは、
喜太朗という名前だった。

あの頃から、何年が過ぎ去ったのだろう。
父も母も、おじさんも、もういない。
僕は、ぼーっと夢みたいに生きて、
ほそぼそと、イタリア語のほん訳を
して生活している。
雪ノ下の家は手離して、
東京の白金(しろかね)のマンションにひとり。
ついこのあいだ、五十(ごじゅう)も過ぎて……

こうして、机にほおづえをついていると、
マンションの窓から、
入道雲が見える。
ああ、今年も夏になるんだなあ。
鎌倉に行ってみようか。
大町(おおまち)のお寺にある、三人のお墓に行ってみようか。
小さな丸い御影(みかげ)石が三個、
芝生に並んでいるお墓の上に、
きっと今年も、大きなヨウシュヤマゴボウが、
涼しい影を作っているのだろう。
その草の陰に、ちょっとだけ僕も、
休ませてもらおうかな。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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