直川隆久 2015年2月8日

naokawa1502

同じ星の下で

      ストーリー 直川隆久
         出演 奥田達士

商店街を、双子のホームレスがうろうろしている。
どちらも背が180近くあって、いかつい。
隣の蕎麦屋のおやじいわく、二人はそれぞれ、たっつぁん、もとやん、と
仲間から呼ばれているそうだ。本名かどうかははっきりしない。
一卵性らしく同じ細い目をしていて、
ぼさぼさ頭に脂が回った感じも同じなんだが、
もとやんは、鼻の横に大きなホクロがあるので区別がつく。
同業者からときどき力づくで酒を巻き上げたりして、煙たがられているらしい。
いつも二人並んで町内を歩き回っていて、
おれが店番をしている古本屋の前を通りかかるのが、
だいたい毎日昼前の11時頃。

いちど、二人で何か古いエロ本を持ち込んできたことがある。
公園かどこかに捨ててあったのを、拾ったのだろう。
カウンターに大量の古雑誌を積み上げ、
無言で肩を小刻みに揺らしながらこちらの出方を伺っている。
殺気を感じて、500円渡して帰ってもらった。

話し声はきいたことがない。
歩きながら、二人だけに聞こえる声でぼそぼそと喋りながら、
ときおり同じタイミングでくつくつ笑う。

こんなことを言うと世の双子の中年男性には怒られるだろうが、
同じ顔をしたおっさんが二人ならんで歩いていると、
何か、見てはいけないものを見てしまったような、
落ち着かない気分になる。

ある日の朝。おれが店のシャッターを開けているところに、
例の兄弟のかたわれがのそりと近づいてきた。
ほくろがない…ところを見ると「たっつぁん」。
その右手が血まみれになっている。
ぎょっとして、何も言えずかたまっていると、たっつぁんが
「せいざ…」
と言った。
「え?」
「せいざの本…あるか」
「星座…ですか。蟹座とか、蠍座とかの」
 たっつぁんがうなずく。
 おれは、「占星術入門」というのを奥の棚から引っ張り出して、
「たっつぁん」に渡す。
本が血で汚れるのが気にはなったが。
彼はその本をぱらぱらとめくると
「9月13日生まれは…双子座やないんけ」
 とおれに言った。
「乙女座…じゃないですか」と答えた。
妹の誕生日がそのあたりだったからだ。
「双子座やないんけ」
おれは本を受け取り、確認してから
「乙女座ですね」
と再び答えた。
「なんや…モトが正しかったんか」
「え?」
「わしなあ…わしら二人は双子座やとばっかりおもとってな」
「はあ」
「双子やねんから、双子座やて思うやろ。ふつう。なあ?
それをモトのやつが『乙女座やがな。アホやな兄貴』て言うて笑いよるから、
せつななってな。ほんで、ついこれが出てもた」
と言って「たっつぁん」は、血まみれのこぶしをおれの目の前に突き出した。
「モトの前歯、3本折ってもうた。アホやろ、わし」
と言ってたっつぁんがニカリと笑うと、
たっつぁんの前歯も、ほとんどなかった。

仲よさそうに見えたが、意外と喧嘩の絶えない兄弟のようだ。

出演者情報:奥田達士 03-5456-9888 クリオネ

 

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直川隆久 2015年1月11日

1501naokawa

ライフ・プラン

          ストーリー 直川隆久
             出演 遠藤守哉

あ、はい。
たしかに、サイン、頂戴いたしました。
いや、 はは、なんだか私もほっといたしました。
お目にかかってから…半年ほどですか。
ついにこの日が来たんだなと。
感慨深いです。

それでは今日からきっかり10年後の1月10日に、
山田様のお魂、頂戴いたします。
え?
ええ、ええ、それは、もう。
当然、それまでは山田様は、無病息災、
体頑健で人生を謳歌いただけますので。
契約書にもそれは、はい、しっかり書かせていただいておりますから。

書類、はい。
こちらに頂戴いたします。

寝たきりになってお嬢様に迷惑をかけたくない…
という山田様のお話を伺いましたときは
私も家族があるものですから、何か身につまされるものがございました。
ですが、もう、そのご心配は無用です。
この10年を、存分にお過ごしください。

口幅ったいアドバイスですが…
思い切って、わがままに生きられたらどうかと思います。
今までがんばってこられたのですから。
私のお客様では、海外旅行に出かけられる方も多いですね。
恋愛というのも、よろしいのでは?

あ…年金はこの際、もうお支払いはやめられてはいかがかと思います。
長生きリスクがないわけですから、払う必要などは、もう、ええ。
年金のことは…
忘れましょ!ね!

バチはあたりませんよ。(ひそひそ声)
うっふふふ。

いやあ。
正直申しまして…
長生きがリスクなどという時代が来るとは私も考えておりませんでした。
しかし、こういう新しいスタイルの人生設計をご提案ができますのは、
われわれにとって「冥利につきる」とも申せます。

お客様は、寿命をあえて限定し、長生きリスクの悩みから解放され、
健康で楽しい人生が手に入る。
我々も、お魂を確実に頂戴できる。
少々軽薄な言い方ですが、いわゆる、ウィン・ウィン。
じつは、ここだけの話、楽しい人生を送られた方のお魂のほうが、
モノとしてはよいのでございます。
ええ。

わたくしもこのビジネスを始めたときは、
人脈もありませんし大変でございました。
家族にも…特に妻には、ずいぶん苦労をかけまして。
おかげさまで、ようやく軌道に乗りまして…
お客様の口コミのおかげです。

あ。
長話…失礼いたしました。そろそろ失礼いたします。
今後の…山田様のお魂を頂戴するまでの期間のアフターケアは
私がつとめさせていただきますので。
なにかございましたら、なんなりとこちらに。

で…
一点。
山田様にくれぐれもお願いしたいことが、一点、ございます。

お魂を頂戴する期日が迫りますと、ナーバスになって、
やや、なんといいますか…過激な行動に出られる方がですね…
いらっしゃるとか、いらっしゃらないとか、
そんな話をきいたことがございます。

くれぐれも、自暴自棄になって、他人をお巻き込みにならないよう…
お願い申し上げます。

もし。
もしも、ですが。

残された時間が少なくなり、
いかに生きるか、という悩みにどうしてもとらわれれてしまった際は…
その方面の専門の業者、紹介させていただきます。
お気軽にご相談ください。
ええ、弊社と取引がありますのはクリスチャン・コーポレーションと
ブッダ・エンタープライズでございます。

はい、こちらパンフレットになっております。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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直川隆久 2014年12月14日

1412naokawa

峠の女

          ストーリー 直川隆久
             出演 遠藤守哉

 峠の茶店。
おはなが二皿目の団子を平らげても、若旦那は姿を見せない。
昼にはここで落ち会い、山を降り、
汽車での駆け落ちの旅に出るはずであった。
が、陽はすでに西に傾き、樹々の影が長くのびる時刻である。
おはなが腹をさすると、もう一皿、といわんばかりに
小さな足が内から蹴った。
「おはな」
 と男の声がした。見上げると、そこには番頭の利吉(りきち)の姿。
「若旦那を待っているのだろう」
「言えねえす」おはなはかぶりを振った。
「若旦那さぁ(わかだんさぁ)との約束ですけえ」
「若旦那は急な病で床に伏せられておって、
今日はおまえと落ち会うことができん。
そのことを伝えておくれと、たってのお頼みでな」
 おはなが心配そうな顔をすると番頭はにこりと頬笑み
「心配するな。店の者は、ほかに誰も知らない」と言った。
お前のために若旦那が家を借りてくれている、
身の回りの世話をしてくれる婆さんもいる、
若旦那の体が元の通りになるまでそこで休んでおればよい、と
利吉はおはなを諭し、
峠をくだったところにある炭焼きの老夫婦の家にまでおはなを連れて行った。

 一日たち、三日たち、一月たった。利吉は毎日きまった時刻に姿を現した。
「番頭さぁ。わかだんさぁはいつになったらおいでになりますけの」
「もう少しの辛抱だよ」
 というやりとりが繰り返された。
そうこうするうち年も暮れ、雪が山を覆う時季に、
おはなは子を産んだ。男の子であった。
夜泣きがひどく、おはなは毎夜、朝まで赤子をかかえて
あやさねばならなかった。

 山桜の花が白く開く頃、利吉が若旦那、そして大旦那と共に三人で現れた。
おはなには目もくれず、縁台で昼寝する赤子にちらと目をやった大旦那は
若旦那に向かって
「おまえに似とるな」と忌々しげに言い、軒先に腰を下ろした。
「まったく、どうにもならなくなってから…」
 ただうつむくだけで言葉を発しない若旦那に代わり、利吉が口を開いた。
「おはな。大旦那からの申し出だ。
 お前のその子どもはお店(たな)で引き取りたい」
「へえ」
「充分なことはさせてもらうよ、と旦那様も仰っておいでだ」
「わしはどうなりますんで」
「お前さんには、よそのくにに移ってもらいたいのだよ」
事情がうまくのみこめないという顔をしているおはなに、利吉は続けた。
「おはな。赤ん坊はお店(たな)の跡取りとして、不自由なく育てられるんだ。
そのかわりおまえは今後うちと関わり合いにならんようにしてもらいたい」
「わかだんさぁ」
 おはなにそう呼ばれた男は、ただ地面を見つめるだけである。
「わかだんさぁ、わしとの約束はどうなりますんで」
「約束?」と、大旦那が口をはさんだ。
「この子は、うちが育てる。おまえは、今までのことを忘れる。
それがすべてだ。それ以外の約束はないのだよ」
「そんなこと、わし、合点が」
「勘違いしてはいかんよ、おはな。おまえは何かを考える立場にはないのだ」
 そう言って、大旦那は利吉に顎をしゃくって指図した。
 利吉が縁台で眠る赤子を抱き上げたとき――

 「そうけぇ」と、おはなが声をあげたかと思うと、
その顔からざわざわと毛が生え始めた。
「人の暮らしに気がひかれるままに居ついてはみたが、潮時じゃろう」
そう言ったおはなの尻のあたりがぐぐ、と盛りあがったかと思うと、
体をつつんでいた着物がはじけ飛んだ。
 呆気にとられる三人の前に、
丈が五尺はあろうかという巨大な一頭の猪(しし)が姿を現した。
人の言葉をあやつる猪。その口の中で舌が動くたび湯気が上がる。
「旦那さぁ(だんさぁ)。わかだんなさぁ。
この子は、猪(しし)と人のあいだの子じゃ。それでもひきとりなさるけの」
 ざり、と猪が前足で土をにじった。
「さあ」
二人はただ、赤子と猪をかわるがわる見るだけである。
なおも詰め寄る猪。
何も言えない二人の男を見て、利吉は赤子をそっと地面におろした。
「そこまでか。人の男は」
そう言って猪は、赤子の寝巻の首後ろをくわえると、
そのまま踵を返し、
木立の中へと進んで行った。
 猪の姿が見えなくなった後は、
ただ落ち葉を踏むばさりばさりという音が聞こえていたが、
それもやがて小さくなり、ついには何も聞こえなくなった。
「おはな。おはな」
と若旦那が声をかけた。
だが返って来たのは、風が木の葉をさらさらと揺らす音のみ。

 人の住む地とその外との境界が、未だ曖昧であった頃の話である。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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直川隆久 2014年11月23日

1411naokawa

北くんのこと

     ストーリー 直川隆久
        出演 西尾まり

北くんは、しゃべらない。
先生があてても、なにもこたえない。
にこにこも、かっかもしない。
いつもじぶんのせきで、えをかいている。

北くんは、なかない。
このあいだ、きょうしつで、
ごとうが、北くんにK1のわざをかけた。
北くんは、まっかなかおでがまんしていた。
ぜんぜん、なかなかった。
だから、ごとうは、くやしがった。

つぎの日、ごとうやたちばなが
北くんをなかせようと、
北くんのほっぺたをおもいきりつねった。
つめがほっぺたにくいこんで、ちがでた。
つねっていたところが、あおくなった。
なけよ、なけよ、と、ごとうがいった。
でも、北くんは、なかなかった。
ギブアップとも、いわなかった。

北くんがなんでしゃべらないか、しってる?
と女子がうわさしていた。
北くんて、おかあさんがびょう気で、そのびょう気がなおるまで
こえをださないっていうやくそくを、かみさまとしたらしいよ。

べつの日のひるやすみ、ごとうが、
また北くんにK1のわざをかけようとした。
すると北くんは、ごとうのかたにとびのった。
それでごとうのあたまをあしではさむと、すごく大きなおならをした。
すごく、くさかった。すごくすごく、くさかった。
くさすぎて、ごとうが、なきだした。
北くんは、わらいもせずに、じぶんのせきにすわって、
またえをかきはじめた。

2がっきのとちゅうの日、きたくんががっこうを休んだ。
おかあさんのおそうしきにでるためだった。
そのあと、1しゅうかん、北くんはこなかった。
北くんががっこうを休んだのは、はじめてだった。

北くんがつぎにがっこうにきた日のあさ、せんせいが、
北くんはてんこうすることになりました、
ふくいけんのおばあちゃんのところにいくのです、といった。
せんせいは、北くんを、きょうだんによんだ。
北くん、みんなにむかってなにかひとこと、ごあいさつしてくれない?
と、せんせいがいっても、北くんは、なんにもいわなかった。
もういちどせんせいが、北くん、おねがい、というと、
北くんはみんなにむかって
「ばあああああか」
といった。

はじめてきく北くんのこえは、すごくかすれていた。
それから北くんは、なきはじめた。

だれも、とめなかった。
ごとうも、なにもいわなかった。
しぎょうのチャイムがなって、
せんせいがこくごのじゅぎょうをはじめても、
北くんは、なきつづけた。
だれにもじゃまされず、大きなこえで、なきつづけた。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー

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直川隆久 2014年10月26日

naokawa1410

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 安藤一夫

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

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わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

出演者情報:安藤一夫 TEL:045-562-4907 アニマエージェンシー所属

 

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直川隆久 2014年9月21日

naokawa1409

ナムケン

    ストーリー 直川隆久
       出演 地曵豪

ナムケン。
「ナム」は「水」。「ケン」は「固い」。すなわち「固い水」。
「氷」を意味するタイ語である。
マイ・サイ・ナムケン――「氷を入れないでください」。
バンコクの路上の屋台で僕は何度もこの言葉を口にした。
生水を凍らせた氷は飲むと危ない、
という旅慣れた先輩からのアドバイスに忠実に従っていたのだ。
理由はくわしく述べないが、その頃僕はバンコクの安宿に長逗留していた。
が、いわゆる「外こもり」の連中とつるむ気にもならず、
基本的にいつも一人だった。

バンコクは、躁的な興奮に満ちた街だ。
ホームシックになる暇もそうそうないが、
たまに、気のおけない人間と喋りたいという衝動にかられることもある。
ある日。何度か通って顔なじみになった露店でバミーナム(汁そば)と
氷ぬきのコーラを頼んで待っていると、
向かいのプラスチック椅子に、タイ人らしき青年が座った。

日本人ですか、日本語を教えてくれませんか。と話しかけてくる。
怪しいなと思ったが、
いきなり立ち上がってテーブルを変わることもできずうなずくと、
青年は礼儀正しく「トーです」と名乗った。

青年は、日本語文法についてのやけにこまかい質問を浴びせかけてきた。
「わたしはコーラが好きだ」というが、
なぜコーラ「を」ではなくコーラ「が」なのですか、とか。
おそらくかなり本格的に日本語を学んでいるに違いない。
僕のならべる適当な理屈を
(好き、というのは日本語の中で特別な言葉だからだ、とかなんとか)
聴きながら彼が熱心にノートをとるので、
この男に悪意はないと僕は判断した。

ひとしきり話が終わったあと、
トーは、お礼に飲み物をおごらせてくれ、といい、
店員に何かタイ語で注文した。
しばらくすると、氷をいっぱいにいれたグラスを2つと、
缶のコーラが2本運ばれてきた。トーがコーラを開け、グラスに注ぐ。

しまった。氷は入れないことにしてる…と伝える暇がなかった。
トーが、グラスを持って、こちらに差し出してきた。
「チャンゲオ(乾杯)」
グラスを合わせ、トーが飲む。
ここで断っては、日本人の印象も悪くなるかもしれない。
僕は、ままよとそのコーラを口にした。
…うまい。やはり、コーラは冷えていなくては。

腹がへっているのか、トーが僕のバミーをしげしげと眺めている。
一杯おごろうかと言ってもトーは頑なに拒否した。
帰り際、コーラの金を出そうとしたらこれもはげしく拒絶した。
またここで話をしよう、と僕はトーに言い、右手を差し出した。
本当にそう思ったのだ。彼なら、友人になれるのではと。
「ありがとう」とにこやかに手を出しながらトーが「ところで」と言った。
「僕の友人で、エメラルドを安く仕入れるルートを持っている人が
いるんですが、見に行く気はありませんか?」

僕は、絶句した。
「エメラルド」云々は、じつに古典的な詐欺の口上だったからだ。
あまりに一般的すぎて、もはや誰もひっかからないようなこんな手口を、
この知的で紳士的なトーが…

僕は、「いや、興味ないんだ」と答えた。「申し訳ないけど」
トーは、やさしい頬笑みをくずさないまま手を離した。
「わかりました。じゃあ、また明日、ここで会えたらいいですね」
とだけ言って、踵を返し、去って行った。

翌日、僕は激しい腹痛と下痢に見舞われた。
おそらく昨日の氷のせいだ。
夕方、なんとなく落ち着かない腹具合のまま昨日の屋台に顔をだす。
何時間かいたが、結局トーは姿を現さなかった。
その翌日も、そのまた翌日も…二度と彼を見かけることはなかった。

今日もバンコクのどこかで、あの効率の悪い、
優しい詐欺を働いているのだろうか。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/

 

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