ストーリー

名雪祐平 2022年4月17日「クロのビーナス」

クロのビーナス

    ストーリー 名雪祐平
       出演 地曳豪
  
食パンを買った。
袋から出して、白いところを擦る。
そのやわらかさは、居眠りする女の子のほっぺ。
でも、ほら、すぐ乾きはじめる。
もう、嘘をつく男の子のほっぺ。

食パンを握る。
耳の内側だけ、女の子のうちに握る。
美術予備校のアトリエで
石膏像を木炭でデッサンする。食パンで消す。
くりかえし、くりかえす。
白かったものが、うす汚れていく。
わたしか?

またしてもミロのビーナスを描いている。
「胸は二十代、腰は三十代、尻は四十代」
といわれるプロポーション。首も太い。
もがれた両腕が残っていたら、
ラグビーボールを持たせてあげよう。

感情が動かないミロ。
シアーシャ・ローナンだったらいいのに。

わたしは、描きたいビーナスをつくることにした。
材料は、デッサンで汚れたパン。
来る日も来る日も持ち帰り、
防腐剤代わりに、墨汁に浸した。

からっぽな人は愛せない。
骨の一本一本からレプリカを造り、
まず、黒骸骨を組み上げた。
そこに五臓六腑をセットしていく。
黒い脳、黒い心臓、黒い肺、黒い性器……
最後に、黒い皮膚。

わたしだけの、クロのビーナスの誕生。

すべての制作プロセスをSNSにアップしていた。
フォロワーは少なかったが、
とうとうカビが生えだしてから、
加速度的に人数が増えていった。

カビが目から始まったせいかもしれない。
闇に生えたカビの、美しいブルー。
シアーシャ・ローナンの瞳の色だった。    



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

録音:字引康太
動画:庄司輝秋

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坂本和加 2022年4月10日「パンとわたしとパンの沼」

パンとわたしとパンの沼

    ストーリー 坂本和加
       出演 西尾まり

パン生地は 生意気だ
さっきまで粉と水だったくせに
こねて こんなにかわいくしたのは私なのに
あなたにちゃんと 扱えるのかしら
素敵なパンにできるのかしらと
今思えば パン生地がそんな風だった

思い通りにふくらまない 
焼き上がりが 格好よくない
簡単そうにみえて ハードパンには
ほんとうに手を焼いた

焼き上がりまで4時間
うまくいったかどうかは
オーブンを開けるまでわからない
ハードパンは私をいろんな意味で苦しめた

しかし3年ほど経ったある日 
美しいクープの切れ込みがパカーンとひらいた
売り物のような格好いいハードパンが焼けた
焼き上がりの瞬間だけ
聞くことができるという
天使の拍手は 喝采にきこえた

パンを焼くことは 自転車を漕ぐことと似ている
いちどできればできるようになる
コツがあるとするなら
何もしない が いちばんのコツ

それでは自転車を漕げない と思うだろう 
でも大事なのは まさにそこだった

自転車を漕ぐのは 
パンを焼く私ではなく 酵母たちだから
焼き上がりまでの4時間は 酵母の仕事
それをジャマしない ということ
むしろひとができることのほうが とても少ない

そして酵母は生きている
とてもデリケートに

水の温度 その日の気温 湿度
砂糖の量 塩のミネラル 粉の種類 
これに酵母の気分をかけ合わせて
一期一会のおいしさが焼きあがる

むずかしく考えたらうまくいかない
だって毎日食べるものだから

でもさ だからなのかもね
パンを焼く人を パン職人って言うのは



出演者情報:西尾まり 03-5423-5904 シスカンパニー

録音:字引康太

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当麻和香子 2022年4月3日「三ノ輪の鳩はよく肥えて〜鳩子姉さん語りき」

「三ノ輪の鳩はよく肥えて 鳩子姐さん語りき」

ストーリー 當麻和香子
出演 清水理沙

クルックー
人間のみなさん
鳩のお話きいてくださるかしら

名は鳩子 鳩子姐さんと呼ばれているわ

東京は台東区三ノ輪
上野浅草から少し歩いて
昔はそう、山谷と呼ばれた風変わりな一帯で
あたくしは生まれました

この街には小さなパン屋がたくさん
スーパーの中にもパン屋、
ケーキ屋の中にもパン屋、
そしてそれは大体、公園の近くにあったのです。

ちょっと見てみましょう。

ショウケースには
コロッケパン 100円
焼きそばパン  80円
クリームパン  60円

鳩でもわかる、
破格の街パン価格です。
で、見せたかったのはこれ。
“パンの耳 ご自由にどうぞ”

この0円のパン耳を
おじさまやおばさまが
公園でくれるってわけ。

ひとくちにパンの耳と言っても
投げる人で味わいが違います。
あたくしの場合はおじさまが多かったけれど、
パンの耳を投げているときに
何を考えているか
どんなふうに寂しいんだかも
なんとなくわかるようになりました。

ここ三ノ輪では街全体が巣のようなもの。
餌の豊富な繁華街の鳩よりも、
あたくしたちがふっくら大きな鳩になるのは
不思議な話ね。

同じ東京でも西の住宅街で暮らす鳩は
高い木の上で小さな頃から
一粒おいくら?っていうピーナッツを食べたりするそうで、
それを聞いた当時のあたくしは
血気盛んなひよっこの鳩でしたから、
クソくらえとそこかしこフンをかましてやりました。

あれから羽根も何度か生え変わり
今は都会でコンビニ弁当などつついたりしています。
仲間もできました。

そんな今でも思います。
ピーナッツでできたフンよりも
0円パン耳のフンのほうがずっとずっと力強い。
人生の結晶よ。

クルックー
あたくしはパンが好き
ずいぶんお世話になったわ

でももういらない

あたくしの世界はもっと広いと
気づいたのですから

この羽でどこへでも飛んで
なんだって食べられるんですから

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

録音:字引康太


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直川隆久 「川のある村からの使い 2022」

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 大川泰樹

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、
轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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直川隆久「ベンチで笑う人」

ベンチで笑うひと

    ストーリー 直川隆久
       出演 遠藤守哉

真っ白に塗られた顔。真っ赤な口紅。口紅と同じ色の、赤い髪。
彼は、国道沿いのファーストフードチェーンの店先におかれたベンチ、
その中央にゆったりと身をくつろげ、背もたれに腕をかけている。
夏も、冬も。
晴れた日も、雨の日も。
彼は、その色褪せたベンチに座って、じっと笑っている。

その人形…いや、彼は、いつからここに座っているんだろうか。
10年前。いや、20年前からか。
「おいでよ。一緒に写真を撮ろう」とさそいかけるように、
こちらに笑顔をむけ続けている。
たしかに、隣に座れば、
彼に肩を抱かれているように見える写真が撮れるのだろう。
だが、彼の両側はいつも空席のままだ。

昔は、そのチェーンのマスコットとして、
コマ―シャルにもでていて、「人気者」というキャラ設定だったそうだ。
正直、それが納得できない。
彼の、ピエロを模した風貌。
はっきり言って…怖すぎないか?
江戸川乱歩の「地獄の道化師」からスティーブン・キングの「IT」まで、
ピエロは現代においてはむしろ恐怖のアイコンのはずだ。

ベンチに座っている「彼」を見ていると…
脚を不意に組み替えるのではないか、
腕を背もたれから離すのじゃないか…
そんな妄想がうかんで、皮膚の下をなにか冷たいものが走る気がする。
そして、そういう目で見ると、その口を真っ赤に濡らしているものは、
口紅でも、ケチャップでもないもののように見えてくるのだ。

きょう、最終バスを逃した。
タクシー乗り場で待ったが、いつまでたってもクルマはこない。
家まで歩けば30分ほどだが—-ひとつ、問題がある。
家に戻るには、あのファストフードの店の前を通らなければいけない。
だがこの時間、店は閉まっており、灯りは消えているはずだ。
つまり、暗闇の中「彼」の前を…微笑む「彼」の前を、通らなくてはならない。
それは、どうにか避けたかった。
だが、クルマはこない。
さらに30分待ったところでわたしはあきらめ、家に向かって歩き出した。

駅前の閑散とした商店街をぬけ、橋をわたって区をまたぎ、国道に出る。
しばらく歩くと、右前方にあの店の看板のシルエットが見える。
近づく。
看板も、店内も、すべての電灯が落とされている。
わたしは、視界の右端にその店を感じながら、なるべく前だけを見て歩く。
店の前を通り過ぎる。
そのとき、わたしの目が反射的に…普段とちがうなにかを感じとって、
店のほうを見やった。
視線の先にはベンチがある。
いつもの、あのベンチだ。
だが…なにかがちがう。
そうだ。
「彼」がいないのだ。
誰も座っていないベンチが、そこにある。

どこへ行ったのだ。
…歩いていったのか?
まさか。
おそらく撤去されたのだ。
長年の雨ざらしで、傷んでいたのだろう。

そのとき…足音がきこえてくる。
店の前の駐車場のほうから、
とっと、とん。
とっと、とん。
…と、軽やかなステップの音。
タップダンスを踏むような。
わたしは、視線を、その足音の方向からそらすことができない。
駐車場に植えられた樹の陰からその音は聞こえてくるようだ。
そして、一本の樹の裏から、にゅ、と、赤い靴が飛び出た。

靴は、はずむような動きで、樹の裏に引っ込んだり、また出てきたりを繰り返す。
そして、不意に「彼」が現れた。
黄色と白のしましまの服。真っ赤な紙。真っ白な顔。真っ赤な唇。
笑っている。
笑っている。
アニメキャラのようなリズミカルさで、上下に体をはずませながら、歩く。
ウキウキ!
ワクワク!
という擬音語の書き文字が横に書いてあるようだ。

声をあげることができない。
彼は、ベンチまですすむと、その真ん中にすとんと腰を下ろす。
そして、ぴょこりと素早い動きで脚を組む。満足そうな笑みを浮かべ、
言葉を発しない手品師がよくやるような、思わせぶりな仕草でわたしに手招きをする。
自分の左側の場所を手でたたく。「ここへお座り」と言っているようだ。
逃げられず…わたしは、彼の隣に腰をおろす。
シャツの中を、冷たい汗が何筋か流れ落ちる。
彼は、手の中の何かを別の手の指で触るような仕草をする。
わたしがスマホを出すと、にやにやと笑いながら、
わたしと、スマホと、自分を交互に指さす。
写真を撮れ、といっているのだ。
彼の顔が、こちらに近づき、その腕が、わたしの肩に回された。
とても冷たい。
スマホをかざし、わたしと彼をフレームに収める。
なぜか、魚のような生臭いにおいが一瞬漂った。

彼は、スマホで撮られた自分とわたしの姿を見ると、声をたてず大笑いをし、
ぴょんとベンチの上に飛び乗った。
その足は陽気な仕草でステップを踏み、その口は何かの唄を唄っているように、
パクパクと音もなく動いた。
そして、ベンチを飛び降りると、踊るような足取りで、駐車場へと向かっていく。
とっと、とん。
とっと、とん。
ととっと、とん、とん。
ぴたりと足がとまる。
彼は振り向いて、こちらに手をふると…
おどけた仕草で木立の中へ消えていった。
わたしは、全身の力が抜け、気が遠くなり―――

翌朝、目をさました私は、ベンチに座っていた。
あのまま気を失って、朝までこうしていたらしい。
不自然な姿勢で長時間いたせいか、体が痛い。
のびをしようとする…が、体が動かない。
自分の体なのに、まったく自分の意志が通じない。
わたしは、自分の体の状態をスキャンした。
どうやら今わたしは…腕をベンチの背もたれにかけ、脚を組んでいる。

ドライブスルーにスピードを緩めて入ってくる一台のクルマが見えた。
そのクルマのフロントガラスに映ったのは、
ベンチに座った、ピエロの顔をした男。
白と黄色のしま模様の服。真っ赤な髪。真っ白な顔。真っ赤な唇。

なんということだ。
わたしは…「彼」になってしまった。

長きにわたってこのベンチという牢獄に捕らえれてきた「彼」は、
夕べ、私という後釜をみつけ…晴れて自由の身となったのだ。かわりに、
わたしを、このベンチに、身動きできない状態で残して。
傍らには、わたしのスマホが残されていた。
だが、それを手にとることは、もうわたしにはできない。

以来、わたしは、このベンチに座り続けている。
雨の日も。晴れた日も。
春も。夏も。秋も。そして冬も。
道行く人にこう、誘いかけ続けているのだ。

さあ、おいでよ。
一緒に写真を撮ろう。
一緒に写真を――



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 「帳尻 2022」


★2022年3月は直川隆久特集です

帳尻

ストーリー 直川隆久
 出演 清水理沙

 こと。
 という音がして、目の前に、豆の入った小皿が置かれた。
 炒った黒豆のようだ。 
 取材で初めて訪れた街のバー。
 70くらいのママが一人でやっている。
 カウンターにはわたし一人だ。
 中途半端な時間に大阪を出ることになって、
町についた頃にはほとんど店が開いてなかった。
とりあえずアルコールが入れられればいいやと開き直って、飛び込んだ店。
 タラモアデューがあることに喜んで、水割りを注文した。
 ママは、豆を置くと、氷を冷蔵庫から取り出した。
黒いセーターにつつまれた体の線はシャープで、
ショートボブの頭には白いものがまじっているが、生えるに任せる、
というその風情がさばさばした印象を与える。
 なかなかいい感じの店じゃないの?
 今回はB級グルメが取材目的だから少しずれるけど、
ここは覚えておいて損はないかもしれない。

 水割りを待ちながら、豆を噛む。
 あ。
 おいしい。
 なんというか、黒豆の香りが、いい姿勢で立ち上がってくる感じ。
 
「あの、このお豆、おいしいですね」
「あら、そうですか?よかった」
「ふつうのと違うんですか」
「わたしの知人がね、篠山の方で畑をやっていて。
農薬はむろん、肥料も使わない農法で育てた豆を、
時季になると送ってくれるんです」
「へえ」
「お口にあいましたか」
「すごく」

 うん。なかなかの「趣味のよさ」…
しかも、おしつけがましくなく、さらりと言うところが
また上級者という感じだ。
 と。
 と音がして、革製のコースターの上に水割のグラスが置かれる。
 お。
 黒の江戸切子のグラスだ。淡い水色と透明なガラスのパターンが楽しい。
 一口飲む。
 うん。少しだけ濃いめ。好みの感じだ。
 当たりだわ。
 
 と、メールの着信音が鳴った。
 見ると編集部からで、記事広告の修正案を大至急送れという。
タイアップ先のガス会社の担当者が明日から休暇なので、
今日中にOKを貰わないと、というのだ。
 わたしは、心の中で盛大な舌打ちをして、鞄からパソコンを取り出した。
「すみません」とママに一礼してから、急いでワードのファイルと格闘をする。
アルコールが頭に回りきる前でよかった。
 30分ほども使ってしまっただろうか。ようやく形が整ったので、
メールに添付する。
メール本文には「お疲れ様です」の一言を入れず、要件だけ。
あなたに気遣いしている余裕はこちとらありませんよ。
という無言のアピール。
 送信ボタンを押したとき、ママの声が聞こえた。
「氷が融けちゃいましたよ」
 あ、と気づき、すみませんと言いながらグラスに手を伸ばしたその瞬間。
 ママの手がすっとわたしの視界に入ったかと思うと、グラスを取り上げ、
そのまま流しにじゃっと中身をあけてしまった。
 え、ええっ?
 わたしが目を丸くしていると、ママはグラスを洗いながら早口に言う。
「ごめんなさいね。でも、氷で薄まった水割りって、まずいから…」
 いや、そうかもしれないんですが…あの、怒ってません?怒ってますよね。
「つくりなおしますからね」
「あ、いや、でも」
「いいの、サービス」

 そうか。たしかに、サービスなら、いいのかもしれない。
 ん?いい…のか?
 わたしは妙な気分だった。怒ったほうがいいのか、喜んだほうがいいのか。
 これは、人によって反応が違うだろうなと思った。
勝手にグラスの中身を捨てられて激怒する客もいれば、
新しい酒がただで飲めて嬉しいという人もいるだろう。
 確かなことは、わたしが水割を放置したことを、
彼女は「失礼」だと思っている。
 それは確かだ。
でも、そこまでしなくてもいいのではと思っているわたしがいる。

 と、ふと、いつも考えていたこととつながった気がした。
 (わたし含めて)小さい人間は、いつも心の中で「期待」と「見返り」の
帳尻を合わせながら生きている。と思う。
 おはよう、という。これは、相手があとで「おはよう」という返事を
返してくれることを期待している。
で、実際に相手から「おはよう」と返ってくる。
気分がいい。なぜなら、帳尻があうからだ。 
 逆に、ラインでメッセージをだしても、返事がないようなとき。
これは、期待にみあった見返りがない。帳尻があわない。だから怒る。 
 この帳尻合わせを、頻繁にしないと気がすまない人と、
わりと長いスパンの最後の最後に合っていればいいや、という人がいる。
この時間感覚はみんなバラバラで、
かつ、各々が自分の感覚をスタンダードだと思っている。
人間どうしの齟齬とか行き違いって、
ほとんどこれが原因で起こっているんじゃないかと思うくらいだ。
(ついでに言うと、この帳尻をあまり頻繁に考えない人のほうが、幸せそうだ。)

 脇道が長くなったけど…要するに、このママは帳尻合わせをものすごく
頻繁にしないと気がすまないタイプなのでは、と思ったのだった。
 ケチなわけではない。
 相手への投げかけは、ちゃんとした品質のものを差し出す。手はぬかない。
そこには「これだけの投げかけにはきちんと反応してよ」という高い期待も
込みだ。
 だから、というべきか。その期待が裏切られたかどうかという判断も、
すごく早い。
 ある、理想の店主、という役を演じたからには、客も理想の客であって当然だ。
と考えるタイプの人なのだろう。でも、わたしはそうでなかった。
だから、見切りをつけ、グラスの中身を捨てたのだ。
「恩知らず」と言わんばかりに。
 
 と。
 と音がして、目の前に次のグラスが置かれた。
 これを飲んで帰るべきか。
 それともグラスには口をつけないまま席を立ち、
ママに「貸し」をつくるべきか。
 わたしは、しばし答えを出しあぐねた。
 ママが、カウンターにこぼれた豆の粉を布巾で拭くのが見える。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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