ストーリー

中島英太 2023年5月7日「不審者情報」

「不審者情報」

   ストーリー 中島英太
      出演 遠藤守哉

先生からみなさんに大事なお話があります。
最近この学校の近くに不審者が出没しています。
気をつけてください。

中年の男性です。
決まって天気のいい日に現れ、
このあたりをのったりのったりと歩いています。
そして時折足を止めると、
空を見上げたり、道端の草花を眺めたりしているのです。
しばらくぼーっとした後、またのったりのったりと歩いていきます。
様子がおかしいので先生、声をかけました。どこかお出かけですかと。
すると、特に行き先も決めず、はっきりとした目的もなく、
ただぶらぶらしているだけだと答えるではありませんか。
きわめて無駄、無意味な行為です。
わざわざ身体を動かしているのに、生産性ゼロです。
健康のため?それならしっかりとした運動をすべきです。
効率が悪すぎます。
気分がよくなる?そんなものはまやかしです。
気分なんかよりデータで、物事は考えるべきです。

なんの生産性もなく、なんの役にも立たず、
ただ時間を浪費している不審者を見て、先生は思いました。
生徒諸君。君たちは目的地をしっかり設定し、ビジョンを持ち、
まっすぐ進んでいってほしい。
脇目もふらず、自分のゴールに向かって一直線に行こう。
無駄を排除しよう。効率を上げていこう。他人を追い抜こう。
そうすればきっと成功をつかめます。
先生、信じてます。

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出演者情報:遠藤守哉

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中山佐知子 2023年4月23日「タンホイザー」

タンホイザー

ストーリー 中山佐知子
    出演 
大川泰樹

タンホイザーというシンガーソングライターが
ビーナスの国で快楽のかぎりを尽くしまくり、
それから神の許しを得ようと巡礼の仲間に加わって
ローマ法王のもとにやって来たのは十三世紀だったと思う。

神の代理人であるはずの法皇は
タンホイザーが味わった快楽に嫉妬の炎を燃やし、
彼に嘘をついた。

「ビーナスの国へ行ったものよ。
たったいま、おまえに永遠の呪いが下った。
わたしのこの杖に緑が芽吹き花が咲くことが決してないように
おまえの罪が許されることはない。」

何を言うか、と私は思った。
私は人を呪ったりしない。
美しいビーナスにチヤホヤされたタンホイザーを羨んで
呪いの言葉を口にしたのは法皇ではないか。

申し遅れたがわたしは神である。
神とは許す存在である。
許すのは神の唯一の仕事である。
それしか仕事がないのだから、許して許して許しまくる。
法皇の政治的暗躍や隠し財産も許しているくらいだ。

それなのに法皇はさらに言い募った。
「おまえは地獄の業火から決して救われることはない」

さて、わたしは困り果てた。
法皇は嘘をついているのだが、
それをただす言葉を私は持たないのである。
人は神に語りかける言葉を持つが
神は人に語りかける言葉を持たない。
思えば不自由だ。

タンホイザーは絶望のあまりビーナスの国に戻ろうとするし
私はとっくに許しているのにそれを告げる言葉がなく、
神の代理人を称する法皇は嘘つきである。

そこで私はコミュニケーションの手段として
小さな奇跡を起こすことにした。
法皇の杖に緑の葉を茂らせ、花を咲かせたのだ。
法皇は驚愕のあまり尻餅をついた。
たったいま自分が不可能のたとえにしたことを
目の当たりにしたからだ。

枢機卿たちは口をぱくぱくさせている法皇を放っておいて
すぐさま許しの使者団を派遣した。
彼らは喜びの知らせを胸に抱き、花が咲いた杖を掲げて
タンホイザーの後を追った。

彼らは歌う。
「神の恩寵の救いの奇跡
地獄の罪びとに救いをもたらす
ハレルヤ ハレルヤ」

私はこの歌が大好きだ。
許すとは何と気持ちのいいものだろう。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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佐藤充 2023年4月16日「嘘と10円ハゲ」

嘘と10円ハゲ

ストーリー 佐藤充
出演 地曳豪

「わ、これ辛いやつだ」

ししとうを食べていると辛いのが混ざっていることがある。
同じ環境で育ったはずなのに違う。
僕ら兄妹と似ている。

1つ下に妹がいる。
最終学歴は小卒だ。
なぜ小卒が生まれたのか。

きっかけは、1つの嘘からだったと思う。
ネット上で架空の自分を作ったのだ。

前略プロフィールというネット上に
自己紹介ページを作るサイトがあった。
そこにリンクしてブログや写真なども載せられた。

妹はそこに架空の自分を作った。
本来は引っ込み思案で大人しい人間だが、
ネット上では違った。

旭川ではその年齢の代で1番の不良を
「旭一(きょくいち)」と言う。
「旭川で1番」を略して「旭一」だ。
妹は何を思ったのか勝手に名乗るようになる。

前略プロフィールのリンク先のアルバムに飛ぶと、
妹のプリクラには「旭一」と書かれていた。

田舎の小中学生は不良に憧れる。
それはDNAに組み込まれてるかのようにある日突然はじまる。
男の子ならママチャリの荷台を上げ、
ハンドルをカマキリのように改造する。

放課後や休みの日は用もなくマクドナルドに行く。
急に色気づいてお香にハマり部屋中を煙たくする。
ラスタカラーのグッズが部屋に増える。

理由はわからないが路上に唾を吐く。
ドンキホーテで買ったPLAYBOYのスウェットを着て、
冬でもキティちゃんのサンダルでラウンドワンに出かける。
児童相談所を「児相」と言う。

妹の前略プロフィールのゲストと書かれた
誰でも書き込めるリンク先に飛ぶと
そんなお友達からの「絡も〜」という書き込みが溢れていった。

妹はそこで辞めることができなかった。
ネット上の人格が現実になってきた。
実際にそんな友達と絡むようになる。

家にやんちゃな友達が出入りするようになった。
そして僕の部屋にもふざけて入ってくるようになった。

すごく嫌だった。
どうやったら自分の部屋に入ってこなくなるかを考えた。
そして実行に移した。

「お兄ちゃん元気〜?」という声とともに部屋のドアが開く。
僕は薄暗い部屋で妹の下着を身につけてベッドに腰掛け無言で見つめた。

相手は見てはいけないものを見たような、
理解できないものに対する恐怖のような、
鳩が豆鉄砲を食らったような、
どうリアクションしていいのか戸惑っていた。

実は僕も戸惑っていた。
本当はこんなことしたくないし、
これが正解なのかもわからない。
今からでも事情を説明した方がいいかもしれない。

腰掛けていたベッドから立ち上がり一歩近づくと扉は力強く閉められた。

戦わずして不良に勝った瞬間であり、
何かを失った瞬間でもあった。

次の日、生まれてはじめて10円サイズの円形脱毛症ができた。

親も困っていた。
妹はやんちゃな友達と絡み続け無断外泊や補導をされ、
兄は妹の下着を身につけて10円ハゲができる。

結果的に妹は中学を卒業する年齢になるまで
施設に預けられることになった。

きっかけは、1つの嘘だった。

.
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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川野康之 2023年4月9日「父さんの嘘」

父さんの嘘

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

父さんが病院にいて僕たちに会いたいと言っている。
その知らせは唐突にやってきた。
何年も会っていないので、病気だとは知らなかった。
とりあえずその日の仕事はぜんぶキャンセルして
いちばん早い飛行機に乗った。
東京に着いた時は夜だった。
タクシーに乗って病院に向かった。
病室に入ると、ベッドの側に姉がぽつんと座っていた。
父さんは眠っていた。
点滴やら電極やらいろんなものでつながれていた。
ベッドの横に置かれたモニターがピッピッと音を立てている。
僕は姉の隣に座った。
父さんと姉と僕は、この世に3人きりの家族である。

「わたし嘘ではないかと思った。」
「父さんは嘘つきだったもんな。」
「昔プロ野球の選手だったとか。」
「ハリウッドで映画俳優を目指したとか。」
「『ダイハード』にちょい役で出たとか。」
「僕も思ったよ。今度も嘘じゃないかって。」

父さんが目をあけた。
「二人とも来たのか。
すまないな、突然呼んで。
先生が家族に会うなら早いほうがいいと言うので
看護師さんに頼んで呼んでもらった。
最後にお前たちに言っておきたいことがある。
今まで嘘をついていてすまなかった。
俺は地球の人間ではない。
遠い宇宙の別の星で生まれた。
この星でたった一人、地球人のふりをして生きてきたのだ。
だがもう嘘をつくのは終わりにしたい。
すっきりした。
やっと自由になれる。」

それだけ言うと父さんは目を閉じた。
「何バカなこと言ってるの。」
「父さん、しっかりして。」
だがそれ以上語ろうとはしなかった。
そのまままた眠ってしまったようだった。
その夜、大変なことになった。
ピッピッの音が急に早くなったり遅くなったりし始めた。
看護師さんがドアを開けて飛び込んできた。
酸素マスクがかぶせられ、注射と点滴が打たれ、気がつくと何人もの人が父さんのベッドを取り囲んでいた。
僕と姉はなすすべもなく、ただ黙って不規則なピッピッの音を聞いていた。

父さんは死ななかった。
看護師さんの言い方を借りると「奇跡的に持ち直した」のだった。
三日後、僕と姉は先生に呼び出されて話を聞いた。
先生はパソコンの画像を見せた。
「これを見てください。
もう手術もできない状態でした。
ところが・・・信じられない話ですが、
きれいに修復されているんです。
あり得ないことです。
人間であれば。」

「父さんはほんとに宇宙人なのかな。」
「かもね。」
「姉さん、僕、あの夜思ったんだ。
もし父さんが死んだら僕たちはこの宇宙に二人だけになるのかなって。
この広い冷たい宇宙にぽつんっと取り残されるんだって。
そう思ったらなんだか急に恐ろしくなってきたのさ。」
「宇宙人であろうと、なかろうと、同じことよ。
生きるって孤独なことなのよ。」
僕たちは病院のロビーに並んで座っていた。
あの時もそうだった。
駅の待合室で、父さんはちょっと新聞を買ってくると言った。
ベンチには姉と僕が残された。
いつまで待っても父さんは戻ってこなかった。
「何がやっと自由になれる、よ。」
と姉が言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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いわたじゅんぺい 2023年4月2日「かんな 2023春」

かんな2023 春

ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

かんなは小学校一年生である。
素朴で素直で嘘が下手。
どこにでもいる小一の女子である。

最近一人称に
「ぼく」をよく使う。
友達の間で流行っているらしい。
ガールズトーク。
学校帰りはいつも
わちゃわちゃしている。
楽しそうで何よりである。

この前、
テレビを見ながら、
「ゆりかもめってなに?」
という話になった。

「モノレールみたいな乗り物だよ」
「ぶらさがってるやつ?」
「ん?ぶら下がってるモノレールもあるけど、ゆりかもめは違うな」
「たかいところをびゅーんっていく?」
「高いところは走ってるね」
「一人でのるもの?」
「一人でも乗るけど、みんなでも乗る」

という
ラチのあかないやりとりをした後、
スマホで画像を見せながら話を続けたところ、
かんなの想像していたゆりかもめは
スキー場の「リフト」だとわかった。

「ゆり」と「かもめ」の印象で
リフトを想像したようだ。

で、ゆりかもめが
電車みたいな乗り物だとはわかったのだが、
乗ってみたいというので、
二人でゆりかもめに乗るだけの旅に出かけた。

電車で新橋まで出て、
一本見送って
ゆりかもめの
先頭車両に乗る。
ゆりかもめは無人運転なので
運転手的な席がある。
一人席だったので、
膝の上にかんなを乗せた。
まだ膝の上に乗せても
嫌がらない。

目の前には汐留のビル。
そのうちの一つを指して
「あれパパの会社だよ。
あっちはじいじが最後に働いてたビル」
と教えてあげたら
「そうなんだ」
と言っていた。

かんなは素直なので
たいていのことは
「そうなんだ」
と受け入れる。

5つ上の兄に
何かを言った時に
否定されても、
反論せず
「そうなんだ」
と受け入れてくれるので
兄妹げんかが少なくてありがたい。

兄は価値観が基本
「勝ち負け」しかないので、
反論されるとなんでも
「ちがうよ」
と、とりあえず交戦する構えになる。

兄妹でも性格は
だいぶ違うようだ。

面白いもので、
そんな気性の荒い兄の方が、
情に厚くて、
涙もろい。

自由契約を言い渡されたプロ野球選手の
ドキュメンタリーなんかを見て
人知れず号泣していたりする。

朝、学校に行く時に玄関で見送ると、
兄はふり返って手を振ってくれるが、
かんなはふり返ることなく
すたすたと出ていってしまう。
意外とドライなのである。

話がそれたが
ゆりかもめの話に戻る。

ゆりかもめはビルの間を抜けて
竹芝方面へ進む。
途中カーブや
多少のアップダウンがあり、
ジェットコースター気分で
楽しめる。
かんなは
「つぎのえきが見えるよ」
などと言っている。

そこからは海沿いをまっすぐ。
フェリーの発着所なんかを見ながら
いくつかの駅を過ぎると、
ゆりかもめのクライマックスである
レインボーブリッジの
ぐるぐる回るところに差し掛かる。

「まわってるー」
だの
「クルマがとなりをはしってる!」
だの
「あの丸いのなに?」
とフジテレビを指さしたりと
忙しかったが、
いざレインボーブリッジを渡りはじめると
「レインボーブリッジはどこ?」
と聞いてきた。

レインボーブリッジは
渡りはじめると
見えなくなってしまう。

それどころか
薄暗い金網の中みたいなところを
走ることになる。
なんか想像してたんと違う、
というという顔をしている。

人生というものは
往々にして
叶うまでの過程の方が
楽しいものなのだ。

ゆりかもめが海を渡り、
お台場を走りはじめると、
唐突に
「パパ、やまのてせんゲームしよう」
と言い出した。
最近のマイブームらしい。
「じゃあぼくからね。うみでとれるもの。さかな」
パンパン
「いーか」
パンパン
「くじら」
パンパン
「えーび」
パンパン
「たーこ」
パンパン
「うーに」
パンパン
「ちんぼつせん」
パンパン
「え?沈没船?」
「はい、パパのまけー」
唐突な沈没船に
父の思考は停止し、
山手線ゲームは
かんなの圧勝に終わった。

その後も
ゆりかもめに揺られながら
実物大のガンダムや
アレグリアの青と黄色のテントなど
珍しいものを見つけるたびに
かんなは興奮し、
豊洲までの小旅行は終わった。

豊洲では
ゆりかもめの顔はめパネルで写真を撮り、
ママへのおみやげにパンと焼き鳥を買い、
バスに乗って帰宅した。

バス停からの帰り道、
「こんどリサイクルしたい」
と急に言い出した。
最近のSDGs的な教育は進んでるなあ、
と感心していたのだが、
話がどうにも噛み合わず
どうしたものかと思っていたら
自転車というヒントが出た。

「それリサイクルじゃなくてサイクリングじゃない?」
「そうだサイクリングだ。ごめんごめん」

次はサイクリングに行く約束をしながら
雨が降りそうな夕暮れを
手をつないで歩いた。
ちょっと風が出て肌寒い。
桜のつぼみはまだ固そうだった。

4月になれば、2年生になる。
将来の夢はファッションデザイナーに
なることらしい。

おみやげの焼き鳥は
レバーと砂肝以外
かんなが全部食べた。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属





かんな 2022夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/32004
かんな 2022冬:http://www.01-radio.com/tcs/archives/32004
かんな 2021春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31820
かんな 2020夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31699
かんな 2019冬:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31528
かんな 2019夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31025
かんな 2018秋 http://www.01-radio.com/tcs/archives/30559
かんな 2018春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/30242
かんな 2017夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/29355
かんな:http://www.01-radio.com/tcs/archives/28077

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佐藤充 2023年3月26日「アラブの春」

アラブの春

ストーリー 佐藤充
出演 地曳豪

帰国3時間前。
タクシーはハイウェイでいきなり止まった。
2011年3月、
アラブの春と呼ばれる革命が起きているエジプトだった。

中東を1ヶ月ほど1人で見てまわり
ヨルダンからフェリーで入国してやってきた。
日本への帰国便をカイロから取っていたのだ。
街では車が燃え、催涙ガスの煙が舞っている。
できるだけ外に出ることなく過ごし帰国日を迎えた。

帰国3時間前。
空港へ向かうタクシーがハイウェイで止まる。
ルームミラー越しにドライバーの男と目が合う。
「エンジントラブル」と男は英語で言う。
続けてジェスチャーとアラビア語で「車を後ろから押してくれ」と言うので
一緒に押すことにした。

車は2人で押すと少し動いた。
男は「そのまま押し続けてくれ」と言い、
急いで運転席に戻りエンジンを掛けに行く。
ブルルンとエンジンが掛かる音がする。
タクシーはそのまま僕をハイウェイに置き去りにして
猛スピードで走り出した。

Uターンするだろうと見ていたら、
タクシーのテールランプは遠ざかるばかりで
ついに闇に消え見えなくなった。

もしかしてまだ戻ってくる可能性も
あるかもしれないとも思ったが、
あの走り方は戻ってくる感じのスピードではなかったなと思い、
ここで待つのは危ないので
いったんハイウェイの中央分離帯に移動する。

タクシーのトランクにパスポートに財布、
着ている服以外の全ての荷物を乗せていた。
残り3時間でパスポートだけでも取り戻して帰国することはできるだろうか。
たぶん無理だ。帰国できない。
無一文でカイロのハイウェイの中央分離帯で考える。

ちょうど去年の今頃、大学へ入学するために北海道から上京してきた。
厳密には埼玉の新所沢に住み始めるので
上京と言っていいのかわからないけれど。

上京1日目に西友で12800円の自転車と9800円の自転車で迷って
9800円の方を買った。
明日はこの自転車に乗って近所を散策しようと思ったら、
次の日アパートの1階の駐輪場に止めていた自転車はパンクしていた。
目線を上げた先には都合よく「パンク直します」と手書きの張り紙があって、
その横には「張り紙禁止」という旨のアパートの管理会社の張り紙もあったが、
気にせず電話をした。

「もしもし、自転車パンクしちゃって」
「あ、そうなの」
「はい、直してもらいたくチラシ見て電話しました」
「いま、昼飯食べてるんだわ」
「はい」
「そのあと出勤の準備あるんだわ」
「はい」
「家どこなの?」
住所を伝えると「あ、近いから30分後に行くわ」と男は言った。

男は少し遅れてやってきた。
「どれ自転車」と言うと男は慣れた手つきでホイールからタイヤを外し、
水に浮かばせてどこに穴が空いているのかを確認しはじめた。

「俺さ、本職は流しなんだわ」
「ナガシ?」
「新宿のゴールデン街で夜ギター持って歌ってるんだわ」
「ああ、流し!」
流しという職業の人に初めて出会って感動した。

「俺、CDデビューもしてんだわ」と
男はもともと黒色だったのだろうけど、
日焼けして紫色になった使い古したアディダスのカバンから
CDを出した。

「1500円」
「え?」
「CD込みでパンク代1500円」
「あ、CDも、、、」
「ほんとはCDだけで1500円だから」
CDはいらないから安くしてくれとは言えずに1500円を払った。

「新宿にも聞きにきてよ!」と言われ
いつか行こう行こうと思って、
まさか1年後に革命中のエジプトカイロのハイウェイの中央分離帯で
帰国できずに途方に暮れているなんて思ってなかったので
まだ新宿にも聞きに行かず、CDも聞かずに引き出しに入れっぱなしだ。

帰国できたら聞きに行くだろうか。
いや、行かない気がする。

東京はきっともう桜が咲いている。

花見でこれを笑い話にできるように
ひとまずなんとかなるだろうと歩きだす。
 
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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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