ストーリー

古川裕也 2014年4月20日

少女は泣く。少年は微笑む。

      ストーリー 古川裕也
         出演 増田未亜

「愛してる」
言われれば言われるほど不安になる。
やさしくされればされるほど、不安になる。
120%信じているけれど、
信じれば信じるほど不安になる。

そのことは、私をとても愚かな女にする。
「ほんとに愛してる?信じていいのね?」

彼のアウディの中で初めてキスしたとき。
歌舞伎座の幕間で、「僕と結婚してくれないだろうか。」と言われた時。
初めて「ロオジェ」に行って、エンゲージ・リングをもらった時。

私は愚かにも、「ほんとに愛してる?信じていいのね?」を繰り返した。
幸いなことに彼は、うざがることもなく、
「もちろんだよ。どんなことがあっても君を愛し続けるよ。」
とその都度答えた。

私はひたすら、怖かったのだ。
彼と一緒にいる幸福よりも、彼を突然失うことの恐怖のほうが、
はるかにおおきかったのだ。

母は、父が亡くなってから、
護身用の銃をキッチンの上から3番目の引き出しに置くようになっていた。
木のプレートやランチョン・マットがしまってあるところだ。
音が出ないように、木のプレート側ではなく、
一番下と下から2番目のランチョン・マットの間に隠してある。
シシリア島のタオルミナで買った下から2番目のそれには、
5つの大きなひまわりが所狭しと描かれており、
ブエノスアイレスで買った、ブルーの地に深紅の水玉が、
まるで草間彌生のように、どんどんどんと描かれているもうひとつのそれとの間に、
とても地味に退屈そうに、リボルヴァーがひとつ潜んでいる。

それを使ってみようと思ったのは、
それを使うにふさわしい事態になったからでも、
逆に、訳もなく衝動的に使いたくなったからでもない。

その夜は、西麻布の熟成を売り物にしている寿司を食べたあと、
グランド・ハイアットに泊まる予定だった。
婚約と結婚との間の時期だったとはいえ、
娘の女親というのは、寛大というより、むしろ積極的だ。

セックスをした後だったと、のちに報道されるのは嫌だった。
食事のあと、「少し歩きたい」と言った。
西麻布は、一本裏に入ると、とても上品な静けさを持っている。
大使館、大きな家。ぽつんぽつんと現れる店も、
ひっそりとまるで誰からも気づかれないことを
目的にしてるみたいだ。
素敵な街だ。

とある坂に差し掛かった。降りていく彼を少し先に行かせ、
彼が振り返ったところで、
私は言った。
「ほんとに愛してる?信じていいのね?」
「もちろんだよ。どんなことがあっても、君を愛し続けるよ。」
彼が答える。 

おそらく1000回以上繰り返してきたやり取りだ。
もはや合言葉のようになっている。
私は彼を信じている。99.9999%。
けれど、100%ではない。
何か構造的に。

彼が答えてから、およそ5秒後。
私は、母のリボルヴァーに初めての仕事を与えた。
続けて6回。
恋人たちが、愛をささやきあった距離だ。さすがに当たる。

「愛してる?信じていいのね?」
私は言う。涙が止まらない。
「もちろんだよ。どんなことがあっても、君を愛し続けるよ。」
彼は答える。私が愛した素敵な微笑みを浮かべて。
その微笑みは、仰向けに倒れて、動かなくなるまで続くのだ。

出演者情報:増田未亜


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直川隆久 2014年4月13日

「微笑みという武器」

      ストーリー 直川隆久
         出演 川俣しのぶ

あなたがもし怒りに身をまかせれば、
その怒りが真っ先に焼き尽すものは
あなた自身の心です。

本当の武器。
それは、微笑みです。

子供の頃から私は、一風変わった子供だったと思います。
両親とともに様々な国を転々とし様々な文化にふれるうち、
世界の原理を知りたい、という哲学的な欲求をもつようになりました。

大学を卒業するころ、
とあるメゾンのクリエイティブディレクターの誘いで、
ファッションモデルの仕事を始めました。

パリ、ミラノ、ニューヨーク、上海。
富と美とが流れ込む都市を転々としました。
狂騒の日々の中でいつ醒めるともしれない酔いを感じながら、
常に、ここにわたしの居場所はないと感じていました。

そんなときに、ダミアンに出会ったのです。
彼はモデルでしたが、魂はアーティストのそれでした。
過分に美しい肉体という檻に、捕われた魂。
彼は、私の鏡像でした。
私たちは、出会うべくして出会ったのだと思います。

私たちは、都会の喧噪と虚飾を捨て、
プロヴァンスへと移り住みました。
幸い、父が残してくれたワイナリーと
3,000ヘクタールほどの農地がありました。
そこを、完全な放牧と無農薬栽培を営む農園へと
転換することにしたのです。

道のりは平坦ではありませんでした。
農薬を使わなければ虫が殖える。
隣接した農地から苦情は絶え間なくやってきます。
ストレスで眠れなかった日は一日や二日ではありません。

わたしは、この世界から愛されていないのではないか?
子供の頃から抱えて来た思いが、
またもや私の心を侵そうとしていました。

でも、わたしはある日、気づいたのです。
わたしがまず世界を愛そう。
世界を変えるのではない。自分が変わるのだ。
批判ではなく、理解。
対立ではなく、受容。

わたしは、微笑むことにしました。いつも、どんなときでも。
すべてのパーティで、ビジネスの場で、自分に課しました。

すると、私のもとに、友人たちからの助けの手が集まってきました。

友人のグレゴリーが、私の手記をまとめた本を出版してくれました。
後にそれは映画化され、私の農園を世界にしらしめてくれました。

そして、友人のステファンが
無償でワインラベルのデザインをしてくれました。
新作をつくればクリスティーズで
100万ドル以下の価格は付かないステファンがです。

私たちの農園はプロヴァンスの陽光と、
あたたかな友情によって育てられています。

皆さんに言いたいのは、
この世界に、微笑みを投げかけてください、ということです。
貧困、飢餓、虐殺…この世界の不条理に、
怒りではなく微笑みを。

さあ、笑ってみて。
ほら、あなた。
最前列の…そう、あなた。
笑ってみて。

…素敵。
本当に素敵です。

ありがとう。
フランスに戻っても、この難民キャンプの皆さんの微笑み、
忘れる事はないでしょう。
わたしの言葉が、皆さんの人生を少しでも変えられたら、
これにまさる喜びは…

痛い。

誰ですか。
石を投げるのは。

いた。

やめ、やめて、おやめなさい。
どうして。
どうしてこんなことを、
す….するの。

痛い。
やめて。
痛い。

いたた。
いたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた。(微笑みながら)

出演者情報:川俣しのぶ 03-3359-2561 オフィスPSC所属

  

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玉山貴康 2014年4月6日

「スピーチ」

      ストーリー 玉山貴康
         出演 遠藤守哉

タクヤくん、ユキさん、ご結婚おめでとうございます。
本日は、佐藤家、林家、ご両家のたいへんおめでたい席に
お招きいただきありがとうございます。心からお祝い申し上げます。
ただいまご紹介にあずかりました、
新郎新婦と同じ職場でともに仕事をしております、田中でございます。
たいへん僭越ではございますが、
ご指名ですのでひとことお祝いの言葉を申し述べさせていただきます。
どうぞご着席ください。

いやはや、まだ信じられないというか、まさかこの二人が!という心境でございます。
はじめて話を聞かされたときは本当にビックリしました。
彼は営業部で、彼女はマーケティング部。
それぞれの部署でバリバリのエースです。
タクヤくんは、営業成績なんと2年連続でNo.1ですし、
ユキさんも大きなプロジェクトをリーダーとして何本も抱えています。
二人とも後輩の面倒見もよく、その仕事ぶり、人柄、将来性、
どれをとっても完璧、パーフェクトでございます。
今年、彼らの働きもあって、わが社は上場いたしました。
この数年間というものは、非常に忙しかった。
お得意さまも増え、プレゼンの連続で、休日勤務も少なくなかったはずです。
それなのに、どこにそんなつきあう時間が…あ、いや、よけいなお世話ですね(笑)

そういう私もじつは社内結婚でして、
私の結婚式のときも、このように当時の上司にスピーチをお願いしました。
そのときに贈っていただいた言葉が、いまでも私たち夫婦のモットーとなっております。
その同じ言葉を、今日、お二人に贈り、祝辞に変えさせていただきたいと思います。
それは、「祝婚歌」という吉野弘さんの詩です。
えー、ゴホン(咳払い)、それでは心をこめて。

祝婚歌

吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい

えー、以上です。
仕事上ではとても優秀すぎるお二人です。
家庭においても、同じように「完璧」を目指してしまわないか。
もしもそうなりそうだったら、ふとこの詩を思い出してほしい。
気持ちがフッと楽になるかもしれません。
どうぞ温かく明るいご家庭を築いてください。末長くお幸せに。
本日はたいへんおめでとうございます!

え?なんだよ!いいよもう!俺が主賓なんだから!あ、そう?
う、うん、わかった、わかったよ!
(誰かと小声で打合せしている様子。少し面倒くさそう)

えー、ゴホン(咳払い)、では、続きましてぇー、
わが社の会長である、妻、トシコからも、ひとことご祝辞をと申しておりますデス、はい…。
(きまりが悪そう)

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

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中山佐知子 2014年3月39日

その山里は風の谷にあって

        ストーリー 中山佐知子
           出演 大川泰樹

その山里は風の谷にあって一年中風が吹いていた。
南と北に山が迫っていたので
風は季節によって東西に流れる川の上流あるいは下流から吹きつけ、
日によっては家の土台を揺るがせるほどになる。

どうしてこんな住みにくい土地にわざわざ住まうのか
村のはじまりは今となっては知る人もいないが、
ただひとつわかっていることは
風の谷から北の山を抜けて伊勢の神宮に通じる山道があり、
途切れ途切れのその道を案内できるものは
風の谷の村人に限られるということだった。

南朝北朝と天皇がおふたりもおわすいまの世に
伊勢の殿さま北畠は南朝の指揮官だったので
村長(むらおさ)の家にはたびたび見知らぬ顔の滞在客があった。

ある日、しゃらんしゃらんと控えめなと杖の音を立てて
ひとりの山伏がやってきた。
尊い御方であるとの噂もあったが
気軽に山を歩いて薬草を集めたり
病人のいる家を見舞って祈祷をしてくれるので
大人は勿体ないありがたいと手を合わせ
山伏の姿を見て天狗だ天狗だと怖がっていた子供たちも
次第に慣れ親しんで一緒に山へ行くようになった。

ある日、山伏は子供たちに相撲を取って遊ばないかと誘った。
着物を破くと怒られるから嫌だと子供のひとりが答えると
山伏はその相撲ではないと笑いながら
そこにたくさん生えていたスミレを摘んだ。

スミレやエンゴサクの花をからませて引っ張り合う
みやびな花相撲というものを
子供たちははじめて知ったのだが
食べたり薬にしたりする以外の植物に関心を持つことや
スミレの花をつくづく眺めて美しいと思うこと、
そして、その花を自分の手で散らす哀れさも
花相撲と一緒に教わったのだった。

春が過ぎようとする風の夜
じゃらん、じゃらんとまた杖の音を聞いた。
こんどはたくさんの杖だった。
じゃらん、じゃらん。
音は山に吸い込まれるように遠ざかっていった。
大人たちは目を伏せて口を閉ざしていたが
あの山伏の御方にお迎えが来たのだと誰もが思っていた。
そして次の日、本当に山伏の姿は消えていた。

次の春には
都の御所に斬り込んで三種の神器のふたつまでを奪い返した南朝の皇子の噂が
風の谷にも伝わってきた。
皇子は討死にしたとも吉野へ逃れたともいわれ、真偽のほどは定かでなかった。

風の谷の子供たちは
ときおりあの杖の音を思い出すことがある。
御所を襲うほどのことをするのはやはり天狗ではないか。
天狗なら空を飛んで、もう一度ここへお戻りにならないか。
そんな夢のようなことを考える。

伊勢のスミレはいまでも太郎坊と呼ばれている。
太郎坊は天狗の名前でもある。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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渡辺潤平 2014年3月23日

「控え室」

       ストーリー 渡辺潤平
          出演 中原くれあ

あら、どうもぉ。初めましてぇ。
今日から入った人?あら、よろしくね。
お名前は?「さくら」…ふーん、素敵な名前。
いいわよね、さくらって。
こう、パーっと華やかで。日本中から愛されてる感じ?
だけどさ、なんで日本人ってこうも桜が好きなのかしらね。
お花見、なんて言うのもどうかしら?
他のお花だって、そこらへんにもう、うじゃうじゃ咲いてるじゃない?
なんで桜だけお花見?なんなのかしらね、あの、私だけ特別!みたいな振る舞い。

…やだ。ごめんなさいね。
別にあなたのこと言ってる訳じゃないのよ。

あ、私?ごめんなさい!
私、スミレって言います。

…ほら、ね、そういう反応でしょ?
さくらっていうと「かわいい!」ってなるけど、
スミレっていうと「あー、やっぱそうですよね」的なね。
「なんか、影しょっちゃってますよね」的なね。
「辛い恋とかしてきたんでしょうか?」的なね。
いえいえいえって…いいのよ、実際しょってますしね、影。
こんな仕事始めたのも、前の旦那が若い女とシンガポールへパーッと消えちゃって…
そうそう、消えると言えばさ、なんで桜の花って
あんなに一瞬でパーッと散っちゃうのかしらね。
あのわざとらしい感じもキライ。
たかだか一、二週間しか咲かないくせに、散り際まで何だか芝居がかってて。

あとほら、あれよ、桜餅。卑怯よね。いかにも名前がおいしそうじゃない?
どう?「スミレ餅」。ぜんぜん食べたくないでしょ?
食べたら喉につかえてテンション下がりそうでしょ?
それに…ほら、桜新町。素敵な街よね。
どう?「スミレ新町」。ワケありの女ばっかり住んでそうじゃない?
あとは…桜上水。ね、お散歩したら気持ち良さそうだけど、
「スミレ上水」だとしたらどう?身投げとかしたくなりそうでしょ?
そもそもさ、あなた「スミレ」って漢字で書ける?スミレ。
イケてないわよ〜、漢字。
草と蛙を足して割ったみたいな、ビミョーな字なのよ。

…あら、ほら呼ばれてるわよ、さくらさん。5番テーブルですって。
いいわね、さっそく。やっぱ人気者ね、さくらは。いってらっしゃーい。

ハァ…いいなぁ、あのかわいい感じ。
アタシも「さくら」だったら、変わってたのかなぁ…人生。

…ねえ…ねえってば。
あなたよ、ラジオの前の人!
あなた、スミレっていう漢字、書ける?

出演者情報:中原くれあ 03-3352-1842 リベルタ所属

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直川隆久 2014年3月16日

すみれ、散る

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ときどき行く商店街のうどん屋の主人が、
新しいメニューを試食に来てくれ、とメールをよこしてきた。
ちょうど昼時でもあったので、散歩がてら行ってみることにする。

店に入ると、「ああ、ようお越し」と朗らかな顔で主人が出迎えた。
年齢は50そこそこ。婿養子で、
先代からつづくこのうどん屋を夫婦で切り盛りしている。
先代は80を超えた爺さんで、店にはでず競馬中継を見て過ごす毎日だ。

席に通され、しばし待つ。
昼時だが、ほかに客はない。
「どうぞ」とだされた丼に、予想もしなかった色彩がのっているので、
一瞬ぎくりとする。紫色の花弁が山盛り。
「すみれうどん、て言いまして」と主人が胸を張る。
ほう、なぜまたこんな、その…斬新なメニューを、と水を向けると、
堰を切ったように喋り出す。

「わたしらうどん屋も、新しいことにチャレンジせなあかん思いましてね。
チャレンジせな、生き残れませんがな。
もっとね、若い女性に食べてもらわなならん。
ほんでね、わたし、考えたんです。うどん屋に欠けてるもんは何か。
それはね、はなやぎですわ。はなやぎ」と主人がぐっと顔をこちらへ近づけた。
右のおでこのホクロの毛が見える。

主人は“宝塚”好きということもあり、
女性に間違いなくアピールするマテリアルとして
「すみれ」の発想を得たのだと言う。
すみれの花は実際に吸い物の具にしたりもするらしいので、
あながちでたらめということでもないらしい。

食べてみると、見た目を重視したせいか花を湯通ししていないので、
少々えぐみがある。が、しかし、これはだめだ、というほどでもない。
むしろ野趣があるとも言える。
こういう変わりメニューは、味よりも話の種になるかどうかが大事だ。
存外、いけるかもしれない。

いや、これはなかなかだ、
もしテレビに取り上げられたら若い女性が行列をつくるかもしれませんな、
と述べると主人はほくほくと笑い
「まあまあ、やっとくなはれ」とビールとコップをだしてきた。
ありがたくいただく。
「もしテレビに」以下はあくまで一般論であるので、
でまかせの世辞を言ったつもりはない。

正直に言うと、私は少しく驚いていた。
この国を覆う焦燥感に、である。
巷の讃岐うどん屋のように手打ちにこだわるでもなく、
どちらかといえばふにゃふにゃで主張のないうどんを、
殊更に問題意識なく何十年来売り続けて来た男にまでそういう気を起こさせる、
この国の「なんとなくこのままではいけない感じ」に。
コップのビールがいつもより苦く感じたのは…
舌に残ったすみれのアクのせいだろうか。

一週間ほど仕事でばたばたしたあと、外出時にうどん屋の前を通りがかった。
中をのぞくと、客は誰もいない。
店内の椅子にこしかけ、ぼんやりとテレビを見ていた主人がこちらに気づき、
さえない表情で会釈をした。
店に入り、どうです、新しいうどんの評判は、と訊くと、
主人はかぶりを振って「やめですわ」と答えた。
やめた?なぜ?
「おやっさんがやめえ、言うんです。ええ年してはしゃぐな、て」
店の奥から競馬放送の音が聞こえて来る。
もったいないですな。客には出したのですか。
「ええ、だしました。二人ほど」
どうでした、評判は。
「ええ、まあ…悪なかった、思いますで」と主人が目をそらした。
「けど、おやっさんは…気にいらんかったみたいですな」
話はそれきりになった。わたしは、きつねうどんを注文した。
あいかわらず、腰のないうどんだった。

ひょっとして、先代の爺さんが止めたのは、
婿養子のアイディアが評判を呼ぶのを苦々しく思ったためなのか。
いや、本当に評判が悪かったからなのか。それは今では分からない。
なぜなら、それからほどなくうどん屋は店を閉め、
主人とその家族もこの町から姿を消したからである。
うどん屋は取り壊され、後にはチェーンのセルフうどんの店が建った。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

  

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