中山佐知子 2007年4月27日



塩は牛の背に

                   
ストーリー 中山佐知子                      
出演 大川泰樹

塩は牛の背に乗せて運んだ。

三陸の海岸から北上山地を越えて盛岡へ、雫石へ。
畑のできない三陸の村では、かわりに塩を焼き
これを何日もかかって内陸へ運んで米に替える。

だから牛は行きも帰りも荷物を背負って歩いた。
荷物は重いけれど背骨をひしぐほどではない。
ことにいまはいい季節で
道端にはいくらでも青草が生えている。
牛はたびたび歩みを止めて草を食べては
蝶が飛ぶ遠い緑の原っぱを思い出していた。

その原っぱでは、朝も暗いうちから草を刈る若者がいる。
毎年、春の彼岸になると
幼顔の15歳からハタチそこそこの若者が大勢で
奥羽山脈を駆け下りて来て
まるで牛や馬を売るように自分を売る。
正しくは自分の精一杯のはたらきを売る。
草は半分馬が背負い
馬が背負った同じ重さを若者が背負う。
仕事は休みもなく、1日1足の草蛙がすり切れ
その草蛙をこしらえるのもまた彼らの夜なべ仕事だったけれど
秋の取り入れまで働くと5俵の米を持って帰れた。

ふるさとの山の畑は貧しく
その米がないと越せない冬もあった。
でも、もし、できるものならこの米をちっと持たせて
弱い小さな妹を母親と一緒に湯治に行かせたい
若者のひとりは、そんなことを思いながら
蝶が止まった草をそっとよけた。

その湯治場は山の向こう側にあって
熱いお湯は湧いていたが宿というほどのものはなく
ただそのへんの木を伐って建てた小屋があるだけだった。
それでも十里も二十里も遠い村から
米と塩を持って人が集まり
お湯につかって手足を伸ばして寝るだけで
ああ極楽だと語り合った。

その温泉を北に下ると、そこはもう日本海で
砂浜から青い水平線に向かって蝶がしきりに飛んでいた。
あの蝶が本当に海を渡るのか誰も知るものはなかったが
はるか沖で漁をする漁船では、
マストに羽根を休める蝶を見かけることがあった。

あの蝶はどこへ行くんだろうな。
若い漁師は船を降りて近所の娘に問いかけた。
ほんにな。
娘は短い返事をした。

ただそれだけのことだったけれど
漁師は娘の心のうるおいを知り
娘は漁師のやさしさに触れた心地がして
濡れた目で漁師を見上げた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2007年3月30日



桜をさがして

                  
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

桜をさがして山を分け入ったら、桜のない里があった。

その里では山から流れ落ちる水が水路となって家々を取りまき
冷たい水にときおり桜の花びらが浮かんだ。

桜もないのに花びらの流れる不思議を尋ねると
この山の奥の奥、人の行かない滝の上に
1本だけ桜の木があるのだと年寄りが言う。
花を流して居所を訴える桜ならば
誰かを待つに違いない。
そう考えるといても立ってもいられず
ろくに足ごしらえもしないまま登りにかかった。

険しい山の中ほどまで来ると
木を切り倒して焼いている人がある。
ここらの里では春になると山に入り
焼き広げた土地を畑にして粟や稗を撒いている。
畑の場所は毎年変わるので山道の景色も違ってきて
ときに迷うこともあるが
水の流れを辿ると必ず滝に出るのだという。

その滝の、原生林を切り裂いてまっさかさまに水が落ちる滝壺には
むかし龍が棲んでいた。
里の人間は龍を恐れて滝に近づくことはなかったが
ある日照りの夏
雨と引き換えに女がひとり、送りこまれた。

龍は女を気に入り、目が離せなくなった。
たまたま霧にまかれて滝に迷いでた里人を見ると
女を連れに来たかと怯え
女が小声で歌うのを聞いても
誰に合図をするのだろうかと胸が騒いだ。
そんな息苦しい日々の中で
龍は次第に気が弱り、龍の心が曇っていった。

この滝壺から出るべきだった。
でも、それならば....
龍は女を滝のてっぺんに連れていき桜の木に変えてしまった。
これでもう、誰も女に近づくことはない。
龍はやっと心を鎮め、地に潜んで行方をくらました。

日が暮れても水の流れは白々と明るく
行くべき方角を示していた。
ざんざんざんとたぎる水音が迫ってくると
髪にも肩にも花びらが降りかかってきた。

桜が龍を呼んでいた。
そして、あの滝壺に出た。

滝壺の上はぽっかり天井が抜けたように空が広がり
中空の月が満開の桜の臈たけた姿を照らしていた。
そうだ、この桜こそむかし自分が置き去りにした女に違いない。
そう気づいたとき
女は、桜は、滝壺に身を乗り出すと
北国の雪のように惜しげもなく花を散らして泣いた。

私は女を抱き取るために一度滝壺に沈み
それから龍の姿になって駆け上がった。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2007年2月23日



しょくらあと/心と言葉 

                   
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

               
いまごろ女は石段を数えながら上っているだろう。
注意深く足音を忍んではいるが
こんなに乾いた冬の日はどうしても下駄の音が高くひびいて
ああ、今日も大和路さんが出島に呼ばれていくのだと
あたりの家では噂をするだろう。

丸山の筑後屋が抱える遊女大和路。それが女の名前だった。
もちろん仮の名で本名は知らない。
女は生まれた土地の話もせず、両親の家も語らず
無理に尋ねようとすると
口だけでなく耳も目も閉ざしたようになってしまう。
馴染みをどれほど重ねても
女の心の入り口を探り当てることができなかったので
もう、心も言葉もこの女にはないのだと思うことにした。

心がない女の躰は従順だった。
その冷えた指をあたためようと私の躰のあちこちに置いてみたり
雪原のように凍った胸に手を差し入れてみても何の抵抗も示さず
そのかわり温もりもなかった。
その冷たさはひとり寝の夜にたびたび夢に出ることがあって
目が覚めると使いを出してまた女を呼び
ゆうべ夢の中であれほど踏み荒らした雪原が
再び冷たい静寂にもどっているのを確かめずにはいられなかった。

こうして冬が過ぎようとしていたある日
出航の予定が突然決まった。
私は思いがけず狼狽した。
女は私との日々の痕跡を留めず、他の客に寄り添うだろう。
私がさがせなかった女の心を他の男がさぐり当てることもあるだろう。
凍りついた女の肌を溶かすのはもう私ではなく見知らぬ男だろう。
別れた後の女を想像すると胸が焦げる思いがした。

私は女の従順さに満足していたので
躰がそばにあるときは心を望もうとせず
躰が離れるときになってはじめて女の心が欲しいと思ったのだ。

私は女を呼んでチョコレートを与えた。
 これは「しょくらあと」です。
 「しょくらあと」は誰かの心が欲しいときの贈り物です。
女は長い間じっとうつむいていたけれど
受け取らなかった。
無理に渡そうとすると、全身を固くして拒否の姿勢を示した。
私は言葉を変えた。
 「しょくらあと」は
 私の心をあげたいときの贈り物です。
 
すると女は同じ姿勢のままぽたんと涙を床に落とした。
私は女の心が少しだけ動いたと思い
そのわずかな心のしずくに自分が溶けていく感覚を覚えた。

そうして、日本には
1797年に長崎の丸山の遊女が
チョコレートをもらった記録が残っている。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

 *動画が出来ておらず、すみません。

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中山佐知子 2007年1月26日



一軒宿の日記            

                   
ストーリー 中山佐知子                     
出演 大川泰樹

目が覚めたら、障子は明るいのにポタポタと雨音が聞こえていました。
雨音というより雫の音です。
2階から見ると、狭い道を隔てた共同浴場の屋根が白く光っていました。

雪、と僕は日記に書いたけれど本当は霜でした。
今朝は大霜です、と宿の女将さんの高い声が
階段を降りる僕の肩に刺さって、
僕は日記のウソを知られたかとうろたえました。

川沿いの一軒宿から見る景色は、その霜の朝を境に一変しました。

葉を落とした落葉樹は小骨のような枝がくっきりと見えてきました。
川も涸れて細い流れの両側には
あばらが浮き出るように大きな石が顔を出しました。

山も川もすべての罪をさらけ出して眠っているようでした。
僕もよく眠っています。
もう何日も眠りつづけています。

あなたがいなくなってから
あなたがこの世界から消えてから
僕ははじめてやすらかな日々を過しています。
あなたのカラダはもう僕を置き去りにすることはなく
あなたの心はどこにも飛んでいかない。

あなたの眼はもう誰も見ることがなく
あなたの手は誰にも触れることはない。
僕はすっかり安心して白いお湯の中で手足を伸ばし、
あなたを忘れる時間さえ持てるほどです。

お湯の湧く川の向こう岸には
石垣を組んで何軒かの家がうずくまり
そばの畑からここ何日か籾殻を焼く煙が登っています。
籾殻はじわじわと蒸し焼きにすると黒い炭になり
燃え過ぎると白い灰になると教わりました。

僕はきっと、いっぺん灰になってしまったんだ。
そして、灰ではないものに再生するために
この一軒宿にやってきて
心のアリバイを日記に書き続けているのだと思います。

籾殻の煙が消えると
西の空だけが不思議と明るく
ものの輪郭が不確かになる夕暮れがやってきます。

僕があなたの首に手をかけたとき大きく開いたあなたの眼
あのときの眼が日記を覗きこむ気配を感じるのも
そんな夕暮れです。

あなたはその眼を、もう一度眠らせてもらいたいですか。

日記の中の僕は
いなくなったあなたを悲しんでいるけれど
日記を書いている僕は、
何度でもあなたの眼を閉ざすことができます。
それほど僕は、あなたの眼を愛しています。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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安藤隆 2007年1月12日



70歳の男は    
                   

ストーリー 安藤隆                      
出演 大川泰樹            

新宿3丁目の居酒屋で
コピーライターの福岡くんが70歳の男に喋っていた。
女性は失恋しても平均3週間で回復するんですって。
だけど男は平均3ヶ月かかるらしいですよ、と。
70歳の男は「そんなもんでしょ」と口で合わせてひそかなショックを隠した。
なぜなら70歳の男は失恋から立ち直るのに最低でも3年はかかる。
そして70歳の男にとって最後かもしれない、新しい失恋が始まったばかりだった。

70歳の男は55歳くらいに見える。
だけど代償は払っている。
つまり下半身は80歳くらい。
言うことを聞いてくれない。
恋はだから不完全なものだ。
ひどく高い寿司屋に連れてゆきカウンターの下で手を握る。
ひからびた手で湿った柔らかい手を撫で回す。

きょうの朝、70歳の男は、以前女と来た丸の内の大きな本屋の喫茶店へ
ひとりでやってきた。
女が食べたシナモントーストを注文した。
生クリームをたっぷりつけ、はみ出て指についたのを女がしたようにそっと舐めた。
目をつむると女の微笑んだ顔が見えた。
「おいしい」と呟いた女の生暖かい声が確かに聞きとれた。
70歳の男はさっき買ったばかりの黄色の小さな手帳を開き、
1ページめに、ああ、と書いた。

そうやって字を書きはじめたのは70歳の男が18歳だった冬で
生まれて初めての手ひどい失恋の中にいた。
失恋とは結局自分を全否定されるという経験だ。
自分は強く、明るく、人生に祝福された人間だと思いたがっていた甘い18歳が
こわれるのはたやすかった。

あの日の夕暮れ、自転車に乗って走っていた。
胸が急にどきどきした。
何かが起きた。
「僕は自殺する」という未来が不意に見えた。
18歳は必死で家へ戻り部屋に閉じこもってノートに字を書いた。
「何かこわいことが起きた。どうしよう。」と。
こうして本当の自分を受け入れることができるようになるまで
毎日ノートに字を書きつづけることが始まった。

悲しいときに悲しいと書くだけで人は少し息を継げる。
書くことは何をもたらすというよりも、苦しい胸の内をやりすごす作業。
70歳の男は結局失恋したときだけ日記を書く男になった。
そして、きょう、丸の内の大きな本屋の喫茶店で、
買ったばかりの黄色い手帳に、ああ、と書いた。
ああ、の続きを考えて、ああ、だけにした。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP

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中山佐知子 2006年12月23日



マフラーの雪           

                      
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹

塀に沿って植えてある雪割草の常緑の葉の上に
ふわりと積もった雪を
小さかった君は「マフラー」といった。

そのときは
君がクリスマスにもらったばかりのマフラーを見せに来ていたときだったので
白い雪も吹き溜まった茶色の落ち葉も
みんなマフラーに見えるんだと僕は思った。

マフラーの雪はすぐ溶けたけれど
その冬はいつもより寒い冬で
水道がぶるぶる震えて氷を吐き出したり
鉢植えがひと晩で凍りついたこともあったね。
いっそ雪が積もってくれた方が植物は助かるのに、と
僕の母も庭を眺めてはつぶやいていた。

日曜日、目が覚めたとき妙に静かだと思ったら
こんどは本格的な雪が積もり
ツリバナやクロモジのやわらかな木の枝が重そうに撓(たわ)んだ。
その雪を払いのけている母から
この雪の布団は冬から芽を出す節分草や
緑の葉が凍えている雪割草を守ると教わったんだ。
雪のマフラーと言う人と雪の布団と言う人の
その言葉の違いと認識の違いに気づいたのは
もっともっと後になってからだった。

君はもう、小さな女の子ではなくなったのに
ときどきその明るすぎる眼で僕をたじろがせることがある。
土の下には種が眠り、この世の暗がりには悲しみが沈んでいるのに
君の眼は日の光を浴びて生きるものだけを映し
君のマフラーは明るい地上で動くものしか守ろうとしない。
君がいまだに無造作に踏み込むその靴の下から
春にはスミレが顔を出すことを知ることもない。

そして、僕は未だに
すべての命は暗い場所から生まれ
この星もまた闇の宇宙に浮かぶ一粒の種である真実を
君に教えられないでいる。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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