公庄仁 2020年12月13日「娘の手帳」

娘の手帳

ストーリー 公庄仁
     出演 地曳豪

12月になると、つい手帳を見返してしまう。
どの月も、打ち合わせやプレゼンの予定ばかり並ぶ、
特におもしろくもない手帳だが、
数年前から、僕の知らぬ間に、
娘が書いた落書きが残っており、
それを発見するのが楽しい。

ある年の手帳は、ちょうど娘が
文字を覚え出した頃のようで、
まさに釘が折れ曲がったような文字で、
「パパ」
と書いてあるのが読めて、
なんとも愛らしかった。

「パパだいすき」
とでも書いてくれたのだろうかと思い、
じーんとしながら、一文字一文字ゆっくり解読すると、
「パ パ お な ら く さ い」
と書いてあることが判明し、
声を出して笑ってしまった。

いま僕は、家庭の事情で
子どもと離れて暮らしている。
僕は東京、娘は北近畿の小さな山間(やまあい)の町。
新幹線をつかっても、片道5時間。
距離にして500キロ以上はあるだろうか。
子どもにとっては途方もなく遠い距離だ。

あるとき、僕は有給を取り、
娘の小学校へのお迎えに、
サプライズで登場した。
さぞ喜ぶだろうと思ったら、
「なんでパパが来たん?」と、
もう一丁前に覚えた関西弁で、
さらりと答えた。
ずいぶん大人になったものだ。
そういえば、少し背が伸びたように感じた。
友達や先生にバイバイをして、
二人で歩き出すと、
娘は「なんでパパが来たん?」と
もう一度言い、
今度は顔をくしゃくしゃにして、
喜ぶどころか泣き出してしまった。

季節が何度か変わり、
久しぶりに奥さんと娘が東京にやってきた。
楽しく過ごしたが、やはり時間はあっという間に過ぎ、
またすぐに離れる時間がやってくる。

東京駅までタクシーで向かう間、
後部座席では娘が、「ひひひ」と笑いながら、
手帳に何かを書いていた。
見ようとすると、
「ぜったい見たらあかんで!」と
また関西弁で言った。
どうせまた「おなら」だのなんだのと
書いてあるに決まっている。

駅のホームから、西へ向かう新幹線を見送った。
窓越しに、娘は見えなくなるまで、
ずーっと手を振っていた。
とっくに新幹線がいなくなった線路を、
僕はぼんやり見ていた。
また一人になってしまった、と思った。
アラフォーおじさんとはいえ、
久しぶりの一人はやっぱり寂しい。

湿っぽくなるのが嫌で、
さて仕事でもするか、と手帳を開く。
ページをめくると、
「おなら」ではなく、
「パパだいすき」でもなく、
「パパがんばれ」と書いてあった。

寂しさにくしゃくしゃ泣いていた子が、
相手の寂しさを心配できるように
なったのだなあと、感心した。

いつの間にか、文字はすっかり
上手になっていた。



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直川隆久 2020年11月22日「ベンチで笑う人」

ベンチで笑うひと

         ストーリー 直川隆久
          出演 地曳豪

真っ白に塗られた顔。真っ赤な口紅。口紅と同じ色の、赤い髪。
彼は、国道沿いのファーストフードチェーンの店先におかれたベンチ、
その中央にゆったりと身をくつろげ、背もたれに腕をかけている。
夏も、冬も。
晴れた日も、雨の日も。
彼は、その色褪せたベンチに座って、じっと笑っている。

その人形…いや、彼は、いつからここに座っているんだろうか。
10年前。いや、20年前からか。
「おいでよ。一緒に写真を撮ろう」とさそいかけるように、
こちらに笑顔をむけ続けている。
たしかに、隣に座れば、
彼に肩を抱かれているように見える写真が撮れるのだろう。
だが、彼の両側はいつも空席のままだ。

昔は、そのチェーンのマスコットとして、
コマ―シャルにもでていて、「人気者」というキャラ設定だったそうだ。
正直、それが納得できない。
彼の、ピエロを模した風貌。
はっきり言って…怖すぎないか?
江戸川乱歩の「地獄の道化師」からスティーブン・キングの「IT」まで、
ピエロは現代においてはむしろ恐怖のアイコンのはずだ。

ベンチに座っている「彼」を見ていると…
脚を不意に組み替えるのではないか、
腕を背もたれから離すのじゃないか…
そんな妄想がうかんで、皮膚の下をなにか冷たいものが走る気がする。
そして、そういう目で見ると、その口を真っ赤に濡らしているものは、
口紅でも、ケチャップでもないもののように見えてくるのだ。

きょう、最終バスを逃した。
タクシー乗り場で待ったが、いつまでたってもクルマはこない。
家まで歩けば30分ほどだが—-ひとつ、問題がある。
家に戻るには、あのファーストフードの店の前を通らなければいけない。
だがこの時間、店は閉まっており、灯りは消えているはずだ。
つまり、暗闇の中「彼」の前を…微笑む「彼」の前を、通らなくてはならない。
それは、どうにか避けたかった。
だが、クルマはこない。
さらに30分待ったところでわたしはあきらめ、家に向かって歩き出した。

駅前の閑散とした商店街をぬけ、橋をわたって区をまたぎ、国道に出る。
しばらく歩くと、右前方にあの店の看板のシルエットが見える。
近づく。
看板も、店内も、すべての電灯が落とされている。
わたしは、視界の右端にその店を感じながら、なるべく前だけを見て歩く。
店の前を通り過ぎる。
そのとき、わたしの目が反射的に…普段とちがうなにかを感じとって、
店のほうを見やった。
視線の先にはベンチがある。
いつもの、あのベンチだ。
だが…なにかがちがう。
そうだ。
「彼」がいないのだ。
誰も座っていないベンチが、そこにある。

どこへ行ったのだ。
…歩いていったのか?
まさか。
おそらく撤去されたのだ。
長年の雨ざらしで、傷んでいたのだろう。

そのとき…足音がきこえてくる。
店の前の駐車場のほうから、
とっと、とん。
とっと、とん。
…と、軽やかなステップの音。
タップダンスを踏むような。
わたしは、視線を、その足音の方向からそらすことができない。
駐車場に植えられた樹の陰からその音は聞こえてくるようだ。
そして、一本の樹の裏から、にゅ、と、赤い靴が飛び出た。

靴は、はずむような動きで、樹の裏に引っ込んだり、また出てきたりを繰り返す。
そして、不意に「彼」が現れた。
黄色と白のしましまの服。真っ赤な紙。真っ白な顔。真っ赤な唇。
笑っている。
笑っている。
アニメキャラのようなリズミカルさで、上下に体をはずませながら、歩く。
ウキウキ!
ワクワク!
という擬音語の書き文字が横に書いてあるようだ。

声をあげることができない。
彼は、ベンチまですすむと、その真ん中にすとんと腰を下ろす。
そして、ぴょこりと素早い動きで脚を組む。満足そうな笑みを浮かべ、
言葉を発しない手品師がよくやるような、思わせぶりな仕草でわたしに手招きをする。
自分の左側の場所を手でたたく。「ここへお座り」と言っているようだ。
逃げられず…わたしは、彼の隣に腰をおろす。
シャツの中を、冷たい汗が何筋か流れ落ちる。
彼は、手の中の何かを別の手の指で触るような仕草をする。
わたしがスマホを出すと、にやにやと笑いながら、
わたしと、スマホと、自分を交互に指さす。
写真を撮れ、といっているのだ。
彼の顔が、こちらに近づき、その腕が、わたしの肩に回された。
とても冷たい。
スマホをかざし、わたしと彼をフレームに収める。
なぜか、魚のような生臭いにおいが一瞬漂った。

彼は、スマホで撮られた自分とわたしの姿を見ると、声をたてず大笑いをし、
ぴょんとベンチの上に飛び乗った。
その足は陽気な仕草でステップを踏み、その口は何かの唄を唄っているように、
パクパクと音もなく動いた。
そして、ベンチを飛び降りると、踊るような足取りで、駐車場へと向かっていく。
とっと、とん。
とっと、とん。
ととっと、とん、とん。
ぴたりと足がとまる。
彼は振り向いて、こちらに手をふると…
おどけた仕草で木立の中へ消えていった。
わたしは、全身の力が抜け、気が遠くなり―――

翌朝、目をさました私は、ベンチに座っていた。
あのまま気を失って、朝までこうしていたらしい。
不自然な姿勢で長時間いたせいか、体が痛い。
のびをしようとする…が、体が動かない。
自分の体なのに、まったく自分の意志が通じない。
わたしは、自分の体の状態をスキャンした。
どうやら今わたしは…腕をベンチの背もたれにかけ、脚を組んでいる。

ドライブスルーにスピードを緩めて入ってくる一台のクルマが見えた。
そのクルマのフロントガラスに映ったのは、
ベンチに座った、ピエロの顔をした男。
白と黄色のしま模様の服。真っ赤な髪。真っ白な顔。真っ赤な唇。

なんということだ。
わたしは…「彼」になってしまった。

長きにわたってこのベンチという牢獄に捕らえれてきた「彼」は、
夕べ、私という後釜をみつけ…晴れて自由の身となったのだ。かわりに、
わたしを、このベンチに、身動きできない状態で残して。
傍らには、わたしのスマホが残されていた。
だが、それを手にとることは、もうわたしにはできない。

以来、わたしは、このベンチに座り続けている。
雨の日も。晴れた日も。
春も。夏も。秋も。そして冬も。
道行く人にこう、誘いかけ続けているのだ。

さあ、おいでよ。
一緒に写真を撮ろう。
一緒に写真を――



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中山佐知子 2020年10月25日「石蕗」

石蕗(ツワブキ)

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曵豪

「とくさ」という駅から歩いて
山をひとつ越えたところが津和野だった。
どれだけ歩いたのかはわからない。
いま鉄道の路線で見ても十二、三キロほどあるから
山道を歩くとなると、さあな…と言って祖父は首を傾げる。

これは祖父が若かったころの話だ。

津和野を見下ろす山から坂道を下っていくと
町の入り口あたりに茶店があった。
開け放ってある入り口から中に入ると
まだあどけないくらい若い娘がひとりで店番をしながら
長い野菜のようなものを刻んでいた。
お昼はとうに過ぎて腹を減らしていた祖父は迷わず中に入り
飯を頼んだら、名物の蕗飯と切り干し大根の汁と蕗の佃煮がでた。
津和野とは石蕗の野と言う意味で、
山や野原の日当たりのいい場所には石蕗が群生している。
アクが強く手間はかかるが
蕗飯と佃煮はあたりの名物だった。

その蕗飯をあっという間に一膳平らげ。
おかわりを運んできた娘にひとりかと尋ねたところ、
娘は多少の身の上話をし、
三月前に亡くなった父親の百か日が過ぎたら
奉公先を探すつもりだと答えたそうだ。

祖父はその晩、友人が紹介してくれた家に泊まり
いろいろおもてなしにあずかったが、
昼間食べた蕗飯が頭から離れず
翌朝、益田まで歩いて列車に乗る前に
娘の茶店へ行き、また蕗飯を食べながら少し話をした。

東京に帰ってしばらくすると娘が本当に訪ねてきた。
祖父の母は娘を見るなり
おばあさまにお願いしましょうと言って
娘を祖父の祖母に預けた。
祖父の祖母はむかしお旗本に行儀見習いに上がっていたという
しっかりもので、
女ひととおりの教養を身につけているかわりに
たいへん厳しい人だったが、条件付きで娘を引き取った。
条件というのは、祖父と娘が会うのを禁じるというものだった。

会うのを禁じられても、行けば娘がお茶を出すし、
たまには蕗の佃煮が届くようになる。
一年も過ぎる頃には
娘は簡単な手紙の代筆ができるようになり、
その字を見て祖父の母が感心するような具合になってきた。

三、四年も経ったころ、祖父は結婚を命じられた。
相手はあの茶店の娘だった。
すでにあどけなさは消えて、
ふっくらと優しげな面立ちのきれいな娘になっていた。
姿勢の正しさと歩きかたが
なんだかばあさまそっくりだ、と、祖父はひそかに思ったそうだ。

この結婚はうまく行った。
僕が知っている祖母は優しいがしっかりした人で
どこかのんびりした祖父は
この人のおかげで大過なく生きてこられたと思う。
祖父の家の庭の、日当たりのいい場所には
艶々した緑の葉を広げた石蕗があり、
10月には黄色い花を咲かせていた。

石蕗は丈夫でいつも青々としているせいか
日陰の暗い場所に植える人が多いが、
日向に移してやると毎年花が咲く。
祖父はたぶん、庭の石蕗を植え替えるように
娘を日が当たる場所に移してやりたかったのだ。
それは祖父のいっときの気まぐれだったかもしれないが、
娘は辛抱を重ねて花を咲かせたのだろう。
いま僕はそんな風に思っている。



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正樂地 咲 2020年10月4日「10月のOJJM」

10月のOJJM

   ストーリー 正樂地 咲
      出演 地曵豪

松山さんが 大きめジージャンを 羽織ったから
ようやく ぼくにも 秋が来た
大きめジージャンを 羽織った松山さんは  ぼくに
くりごはんより さんまより さつまいもより
今が秋なんだと 知らせてくれる

“大きめジージャンの松山さん”
略して「OJJM (オー ジェイ ジェイ エム)」
「OJJM」は 綿菓子とチョコレートパフェの
かわいさを足して倍にして そこに
子猫も トッピングしたような …
  
まぁ しかし 今年の長引く暑さには 
ヒヤヒヤした 暑いのに ヒヤヒヤ
9月に入っても 涼しくならず
今年は「OJJM」なしのまま
「FFCM(エフ エフ シー エム)」
”ふわふわコートの松山さん”に 突入かと 
春の花見も 夏の海水浴も なかった今年…
って 毎年どっちも 関係ないけども
「OJJM」まで失ったら
季節の移ろいなんて あってもなくても同じだろ
それが この10月に入った途端
不意打ちの「OJJM」解禁
鮎釣りの解禁 潮干狩りの解禁と並んで
世界3大解禁のひとつ
ニュースキャスターは 伝えます
待望の「OJJM」 いよいよ 解禁です
そして さらに 臨時ニュースです 
臨時ニュース? なんだそれ?
下品な関西人であり 友人でもある 広瀬氏の 
LINEによれば
例の松山さんの大きめジージャン
あれ彼氏のらしいで(笑)

ぼくの秋は今 終わった 冬だ 永遠の冬が始まった



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中山佐知子 2020年9月27日「水月」

水月

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曵豪

その夏借りた下宿は川の土手に面した二階の部屋で
東の窓から月が昇るのが見えた。
土手の向こうを流れる川はゆらゆらと月を映していた。
僕は夜になると明かりを消して窓を開け、
川風に涼みながら空の月と川の月を眺めた。

あんまり月を見ると、と下宿のおばさんが心配をする。
狐に化かされますよ。

この土地には狐の伝説が多い。
子供がとんでもない山奥に連れて行かれたとか、
同じ道をぐるぐるまわって帰れなくなったとか。
昔は山がもっと間近にあって、ここは村というより小さな山里だった。
そんなころに狐を殺した人がいて、
村はずれから自分の家まで、その狐をひきずって持ち帰った。
するとその晩、火事が起きて
狐をひきずって通った道筋の家がぜんぶ燃えてしまった。
それ以来、狐を殺す人がいなくなったという。

「いまはもう狐もたまに人を化かすくらいで
 たいして悪さはしませんから」
おばさんは狐の友だちのようなことを言う。
おばさんの爺ちゃんが若かったころ、
月がふたつ見えたと言って騒いだ人がいた。
いまなら火球とか、科学的な説明ができそうだが
そのときは狐のいたずらということで
みんなで大笑いしてお稲荷さんに酒をお供えしたそうだ。

そんな話を聞いてから、
僕の月を見る目には一抹の疑いが宿るようになった。
まさかとは思うけど、これは本物の月なのだろうか?
空に浮かぶ月は本物だとしても、川の月はどうなのだろう。
いや、もともと水に映る月は本物ではない。
本物ではないが、偽物ともいえない。
田圃の一枚一枚に映る月、池に映る月、海の月。
ひと粒の水滴だって月を宿すことがある。
月を宿した水は月でもあり水でもあり、
そして月でもなく水でもない…

水に映る月には水月という名前がついている。
そして水月は禅の教えであり、剣道の極意でもある。
悟りや高度な技の習得は
たぶん日常から離脱する精神のジャンプ力を必要とする。
それにはもしかしたら、狐…
いや、狐に象徴される超自然のパワーを借りるのかもしれない。

そんなことを思いながら、あの夏は月を見た。



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中山佐知子 2019年12月29日「カレンダー」

カレンダー 

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曵豪

1980年、天文学者カール・セーガンは
宇宙の始まりから現在までを
1年に置き換えたカレンダーを発表した。
それによると1日が4000万年、1秒が500年にあたり、
人間の文明の歴史は大晦日の最後の10秒でしかない。

1月1日にビッグバンが起こり、宇宙が誕生する。
9月9日にはガスやチリの渦から太陽系が生まれ、
9月14日に地球と月ができた。

9月25日、地球に最初の生命が生まれ、
12月15日にはカンブリア爆発が起きた。
12月18日には三葉虫が栄え、
12月19日に最初の魚が生まれた。

12月22日、羽根を持つ昆虫が登場し、
最初の両生類が生まれた。

12月23日、最初の木と最初の爬虫類が生まれた。
12月24日、最初の恐竜が生まれた。
           
12月26日、最初の哺乳類が生まれた。
12月27日、最初の鳥が生まれた。
12月28日、最初の花が生まれた。
12月29日、最初の霊長類が生まれた。
12月31日22時30分、最初の人間が誕生した。
12月31日23時46分。人間は火を使うことを覚えた。
12月31日23時56分、最初の氷河期がはじまった。
23時59分20秒、人間は植物を育て、家畜を飼育していた。
12月31日23時59分56秒、ナザレのイエスが生まれた。

ところでお気づきだろうか。
爆発的な生命の進化が起こっている12月の24日に
最初の恐竜が生まれ
26日に最初の哺乳類が生まれるまでに
まる一日の空白があったことを。

その日は12月25日、
我々のカレンダアーではクリスマスだが
宇宙カレンダーでは
地球の歴史最大規模の絶滅があった日だ。
その日、古生代に生きた生物のおよそ90%が絶滅し
生き残ったものたちが新しい時代をつくった。
我々はいま、そのカレンダーの最後の10秒の
そのまた最後を生きている。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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