福里真一 2019年1月13日「夢も見ずに」

夢も見ずに

   ストーリー 福里真一
      出演 地曳豪

平成元年の頃、
私は学校の寮に住んでいた。

その寮では、
夜遅めの時間に食堂に行くと、
夕食の時間に食べられなかった学生用に、
ごはんと味噌汁が、
食べ放題状態で残されていた。

私はそこで、
味の薄ーい味噌汁で、
大量のごはんをかきこみながら、
平成という年号に決まったことやら、
消費税が導入されたことやら、
リクルート事件やらを報じる、
ニュース番組を見た。

自分の部屋にはテレビがなかった。

その寮は4人部屋で、
私の寝る場所は、2段ベッドの上段だった。

あおむけに寝ると、手を完全には伸ばしきれないぐらいの近さに、
天井があった。

そのせまさは、
なんだか妙に寝心地がよく、
私は毎晩、夢も見ずに眠った。(おわり)



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川野康之 2018年12月16日「雑木林」

雑木林      
                    
       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

どこにも行き場所がないなと感じたとき、
あい子はこの公園に来る。
あてもなく雑木林の中を歩きまわる。
落ち葉を強く踏みつけて歩くのは、
別にむしゃくしゃしているわけではない。
何か用があって急いでいる風を装っているのだ。
そういう歩き方が身に付いてしまった。
そのうちここではそんな風に装う必要はないのだと気がついて、
ようやく歩度を緩めた。
透明になっていたあい子が、
クヌギの木とナラの木の間で姿をあらわしはじめた。
背中の赤ん坊が「葉っぱ、葉っぱ」と声を上げた。
もっと葉っぱを踏めと言うのだ。
あい子はあわてて再びどしどしと歩き出す。
枯れ葉色の景色が後ろに流れていく。
世界中にこの子とただ2人っきりだと、あい子は感じる。

葉っぱの中からトシさんがあらわれて、伸びをした。
ビニールシートでできたトシさんの家に落ち葉が積もっていた。
トシさんには帰る場所も行く場所もない。
たとえ居場所がなくても人はどこかには居なければならないわけだが、
どこに居ても追い出されてしまったのだ。
乾いた落ち葉がホウキでひっかかれて風に飛ばされていくように、
あちこちに飛ばされ飛ばされして、トシさんはこの公園にやってきた。
さっきトシさんの耳もとを誰かが落ち葉を踏む音を立てて通り過ぎていった。
トシさんはきょろきょろと辺りを見回すが、人の姿は見えない。
ただ落ち葉の地面についた小さな足跡だけが雑木林の向こうへと続いている。
(自分も昔はあんな風に歩いて行く所があったものだ)
トシさんは大きなあくびをしてから、またビニールシートの家に潜り込んだ。
その上に枯れた木の葉が降り注ぎ、やがてトシさんの家は見えなくなった。

雑木林に囲まれて池がある。
水面を覆っていた落ち葉が揺れた。
ぽちゃりと音がして、何か青く光るものがはねた。
ブルーギルである。
ブルーギルはアメリカ原産でフナぐらいの大きさの淡水魚だが、
日本の川や湖に放流されて棲みついた。
水の中にいる昆虫、貝類、ミミズ、小魚まで何でも食べる。
繁殖力が強いためどんどん増えて、あちこちの淡水に広がり、
もともと住んでいた日本のメダカやフナやおたまじゃくしたちは
すっかり肩身が狭くなってしまった。
この池も例外ではない。
しかしブルーギルたちはそんなことは知らない。
与えられた場所で生きているだけである。

二週間後、池の中からブルーギルの姿が消えていた。
市役所の職員や大勢の人が来て、「掻い掘り」というのが行われたのである。
かい掘りとは、池の水をくみ出して泥をさらい、魚などの生物を捕り、
天日に干すことである。
その後きれいな水を入れて、フナやメダカはのびのびと放たれ、
ブルーギルたち外来生物は一匹残らず駆除された。
公園はきれいになった。
雑木林の公園からいなくなったものはブルーギルの他にもあった。
落ち葉の中に住んでいたトシさんと、
ときたま赤ん坊を背負って歩いていたあい子の姿である。



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田中真輝 2018年11月4日「葉を落とす」

『葉を落とす』

   ストーリー 田中真輝
      出演 地曳豪

現在。とある中学校。
生物の時間。黒板には「葉を落とす植物」と書かれている。
「というわけで、一部の植物は、秋に葉っぱを落とします。
栄養を葉っぱから引きあげて、冬を乗り切る力を蓄えるんですね。
落ちた葉っぱは微生物に分解されて、
再びその植物が生きていくための栄養になる。
葉っぱは勝手に色づいて、勝手に落ちてくるように見えますが、
植物が厳しい冬を越えるために、
葉っぱを自分で落としている、と言うこともできるわけです。
これは生命が環境の変化にあわせて生きていくための知恵なのです」

はるかはるか大昔。とある宇宙船。
暗いコックピットの中で、疲れ果てたパイロットが
航海日誌を口述記録している。
霜がびっしりと下りた窓の外には、
青い惑星が見える。吐く息が白い。
「というわけで、我々の宇宙船が減速も、
着陸も不可能だとわかってから我々はあらゆる手段を講じてきたが、
成果は乏しい。皆で相談した結論として、
このまま目的地である惑星に不時着を試みることにした。
不時着と言うより墜落といった方が近いような無謀な策ではあるが、
もはやそれしか打つ手はない。
氷玉になり果てた星を捨てて、新しい星に向けて旅立った我々だったが、
このような結果となってしまったことが、とても残念だ。
しかし、わたしは絶望しているわけではない。
わたしという個が失われたとしても、生命そのものは自ら、
生き延びる道を見つけるはずだと信じている」

再び現在。とある中学校。科学の時間。
黒板には「小惑星」と書かれている。
「というわけで、この“りゅうぐう”と名付けられた小惑星に、
私たちの国の探査機“はやぶさ2”から分離したロボットが無事着陸しました。
この小惑星がいつ、どのようにできたのか。
また、どんな物質でできているのかを調べることは、
宇宙や地球がいつ、どうやってできたのかを知るために、
たいへん大切なことです。
一説には地球の生命の“もと”が、
このような小惑星に乗って、宇宙の果てから飛んできて、
地球にたどり着いたとも言われています。
大昔、地球に降り注いだ小惑星のひとつに乗って
飛んできた“いのちのもと”が進化して、
わたしたち人間になったのかもしれません。
わたしたちのいのちは、どこからきて、どこへいくのか。
たまには秋の夜空を見上げて考えてみるのも、いいかもしれませんね。
では今日の授業はここまで」



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古居利康 2018年10月21日「花に身を」

  花に身を           

     ストーリー 古居 利康
       出演 地曳豪

 そのひとがいるとにおいでわかる。
 あるときこどもらが亀をつかまえて酒を飲ませて
みようということになった。力ずくで口を開かせ酒
を注ぐが、亀は死にものぐるいで首を歪め逃げよう
ともがく。そこまで酒を嫌うかと残酷な子らが思っ
たそのとき、においが近づいてきた。
 姿を見ないでもわかった。意外な速度で歩いてき
てそのひとは「そういう無慈悲なことをするもので
ない」と諭したが、こどもらは口々に「うぁぁ」と
声にならない声で呻き、鼻をつまんで亀を放り投げ、
すでにいちもくさんに逃げている。道端で裏返って
甲羅に手足を引っ込めている亀を、そのひとは池に
放してやる。
 またあるとき川べりに腰をおろしたそのひとが、
何をしているのかと思えば着物にたかった虱を潰し、
石の上に一匹ずつ並べている。遠巻きにしたこども
らが石を投げつける。そのうちのひとつが後頭部に
命中したのだろう。そのひとは頭から血をだらだら
と流すが倒れるでもなく立ち上がる風もなくただ動
かない。こどもらは逃げ出すが、気になって戻って
きて物陰から様子を窺う。そのひとはずっと動かな
い。坐ったまま死んだのか。こどもらはそう思って
こわくなる。
 けれどもそのひとは翌日いつものようにふらふら
と歩いている。腰にぶらさげた瓢箪を的にして、ま
たもやこどもらが石の礫を投げつける。今日はなか
なか当たらない。昨日のことがあるので、こども心
に手かげんしているのか。
 もともとはおさむらいだったせいか、いつも袴を
履いている。真っ黒でぼろぼろで穴だらけの袴。羽
織は着ておらず、薄手の小袖一枚、垢まみれで薄黒
くなった上半身は妙に瘦せ細り、全体が烏みたいな
シルエットになっている。ひどくにおう痩せガラス。
御一新前から刀を捨て放浪を繰り返し、俳句をつく
ってきた。そんなことはこどもにはわからない。家
をもたず、襤褸をまとってひどいにおいを撒き散ら
す、文字通りの鼻つまみ者でしかない。けれど親た
ちは握り飯やお酒などをめぐんでいるようで、腰に
ぶら下げた瓢箪の中身はいつも酒でたぷたぷしてい
る。酒をもらったそのひとは、「千両、千両」と歌う
ようにつぶやく。礼のつもりか、ときおり紙に文字
を書いて渡すことがある。手紙ではない。一行、二
行のごく短い文字の連なり。それが俳句というもの
だろうとひとびとは思ったが、字が読める者などだ
れもいないので、それはただの紙切れだった。
 ある秋の日。事件はあっけなくやってきた。あぜ
みちを転げ落ちたのだろうか。そのひとは、いちめ
んコスモスの花が咲く休耕田へ頭から突っ込んでい
た。薄紫の花のあいだに、細い白い足が逆さに生え
ているようだった。第一発見者のこどもは、鼻をつ
まむのも忘れて村の駐在に駆けこむ。コスモス田か 
ら助け出されたそのひとは、まだ息をしていた。医
者のいない村では薬草を煎じて飲ませるほかは、た
だ一心に念仏を唱えるしか能がない。
 かつてこんなこともあった。鼠花火で遊んでいた
こどもがまちがって前髪と眉毛を灼いて痛がったと
き、「それそこに渋柿という妙薬があるではないか」
と柿を頬張り噛み砕いてこどもの頭に塗りつけた。
医者の心得があるわけではなかったが、放浪の日々
に覚えた応急処置だったかもしれない。
 そのひとは息はしているが目を覚まさない。ここ
ちよい眠りを眠っているようだった。大人たちは気
がつかなかったが、こどもらは気がついていた。そ
のひとからにおいが消えていることに。
 しばらくしてそのひとは死んだ。葬る際に懐をあ
らためると、ぼろぼろの紙が出てきてこう書いてあ
った。

 花に身を汚して育つ虱哉  

 字の読める駐在さんに読んでもらったが、意味が
わからない。みずからを虱に喩えているのはなんと
なくわかったが、葬いをお願いしにいくついでに寺
の住職に聞いてみようということになった。



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中山佐知子 2018年9月9日「夜鴉(2018)」

夜鴉

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曳豪

夜鴉はゴイサギだということを僕は図鑑で知った。
祖母のいる田舎の家で蛍を追っていると
暗闇の向こうで奇妙な声が聞こえることがあった。
祖母はそれを夜鴉という鳥だと僕に教え
僕はその不吉な名前におびえた。

夜鴉はゴイサギだ。
知ってしまえば怖がる理由もないと父は言って
僕に鳥の図鑑をくれた。

僕はその年の夏休みのほとんどを祖母の家で暮らしていた。
父は仕事で忙しかったし
母はなめらかな皮膚と黒い髪を持っていたけれど
この星の人ではなく
あきらかに去年より凶暴だった。

小学校の学年が上がるに連れて母は僕を攻撃するようになっていた。
学校で国語や理科の時間を終えて
放課後に鉄棒を3回ほどまわって家に帰ると
水を一杯飲まないうちに母の手が僕をつかんだ。
頭を撫でるかわりに髪をひっぱり
抱き寄せるかわりに突き飛ばし、平手で打った。
理不尽な言葉を吐き出しては投げつけてきた。

僕は母に打たれる原因がどうしてもわからなかった。
どんな僕になったら母の攻撃が止むのかがわからなかった。
母の暴力は日課になり、僕を痛めつけた。
母は僕の敵だった。
敵だと思うことで、僕は自分を強くしていられた。

それでももしかしたら、と僕は考えたことがある。
母の生まれた星ではこうして子供をかわいがるのかもしれない。
それから、あわててそんな考えをやめた。
敵の事情を知ることは自分を弱くすることになる。
宇宙人の図鑑がどこにもなくてよかった。

僕が小学生だったその年の夏
さらさらと流れる川の音を伴奏に
朝は鳥が鳴き、昼間は虫の声が聞こえ
夜は蛍が飛ぶ単純な時間の区切りのなかで
僕は久しぶりに子供らしい日々を過ごしていた。
電話さえ滅多に鳴ることがなかった。

そこに父が来た。
父は、母が星に帰ることになったと僕に言った。
数日後、母が来た。
母は僕の知らない人たちと一緒に来て
僕を見るなり飛びかかろうとした。
それからむりやりクルマに乗せられて
おおんおおんという奇妙な鳴き声をあげながら去って行った。

その晩、僕が蛍を見に行くと田圃に夜鴉がいた。
図鑑によると夜鴉はゴイサギで、
ゴイサギは灰色の翼をたたんで田圃の杭に止まっていた。
近づいても逃げようとせず、片方の目で僕を長い間にらみ
それから、勝ち誇った声で一度だけ鳴くと
バサバサと大きな羽音を残して暗い空に飛んだ。

ゴイサギはやっぱり夜鴉だと僕は思った。
図鑑でどれだけ知識を得ても
どんな名前で呼んでも夜鴉はやっぱり夜鴉で
夜鴉の目は最後に母を見た僕の目に似ている気がした。



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勝浦雅彦 2018年8月5日

終の匂い

    ストーリー 勝浦雅彦
       出演 地曳豪

男と女は幼馴染だった。
同い歳で、物心ついたときから男は真っ直ぐな性分を持ち、
女は優しくいつも慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
周囲の二人に対する仲のいい理想的な男女、
という評価とは関係のないところで、
二人の間にはある種の緊張が常に存在していたが、
お互いにその感情の扱い方を誰聞くともなく心得ていたから、
とりたてて語るべきことは何一つ起きなかった。

二人は小学校の頃からいつも一緒だった。
その姿があまりに自然だったからか、
友人たちは、はやしたり、からかったりもしなかった。
やがて、年頃になれば、二人には男と女としての意識が芽生え、
自然な形で恋人同士になっていくはずだと誰もが思っていた。
そんな周囲の予想とは裏腹に、
二人は長い時をただ幼馴染であり続けた。

高校一年になったある日、二人は抱き合った。
夏の午後だった。涼しく、風が吹いていた。
いつものように、男の部屋で、二人は好きなロックバンドの話をしていた。
男はいつにも増して饒舌だった。
リードギターのスウェーデン人のアクトを再現しようと
椅子に立ち上がった瞬間、彼は姿勢を崩し、
静かに話を聞いていた女の右肩に寄りかかるように倒れ込んだ。
女は咄嗟にもう片方の手で男を抱え込んだ。
二人はそのまま無言で腕を絡めながら、絨毯の上に横ばいになった。
匂いがあった。嗅いだ記憶のない甘い香りだった。
男は女が香水をつけているのだと思ったが、そうではなかった。
二人は、いま世界の中で、
二人だけによってのみ起こる生体反応によって強い香りを放っていた。
男は体を起こすとお女の顔を覗きこんだ。
「今、こういうことをしてはいけない気がする」
男が言った。
「そうね、今は」
女は答えた。
二人は起き上がると、窓から差し込む夕日の影を中心線として向かい合った。
「今をここに閉じ込めておくんだ」
男は、小さな木箱を取り出した。
ずいぶん唐突な提案だったが、女はふうと息を吐くと、頷いた。
女が帰宅する頃には、二人はいつもの男と女に戻り、
冗談を言い合って笑い転げてさえいた。
男の家を出て歩き出す。
顔を上げると、日が落ち、夕雲がかすんでいた。

それから二人は高校を卒業するまで、一度も口をきかなかった。
周囲の誰もが二人の変節に戸惑いを覚えたが、
やがてすぐに話題にしなくなった。
きっとそれはよくあることなのだ。
高校を卒業すると、女は生まれ育った街を離れ、男は地元に残った。
やがて、それぞれが結婚をし、生活を持ったことは、
友人たちの口の端から自然に伝わってきたが、
どちらも詳細を問うことはなかった。

それから長い時が流れ、女は50歳になった。
ある日、封書が送られてきた。差出人の名はない。
中には一本のディンプルキーが入っていた。
手元に鍵が滑り落ちた瞬間、女は全てを悟った。
ほぼ同時に、傍で電話が鳴った。出たくない、と思った。
しかし、それを取らないわけにはいかなかった。
電話口で地元の友人がすまなさそうな口調で、女に訃報を伝えた。
男が死んだのだ。

葬儀には行かない、ただし、時間と場所を教えて欲しい。
そして香典を送りたいので、男の住所を教えて欲しい、
と女は友人に頼んだ。
友人は何か言いたそうだったが
「あなたたちは、ホントに羨ましいほどに、一緒だったのにね」と
ため息をつきながら了承してくれた。

二日後の夕方、女は家族に葬儀に出る、と言い残し、
喪服を着て家を出た。
喪服である必要はなかったが、
その格好がこれからやろうとしていることにふさわしいと思えたのだ。

女が向かった先は、男が死の直前まで暮らしていたマンションだった。
葬儀会場は自宅から二駅離れた大きなホールだったから、
ここに親族は誰もいないことはわかっていた。
玄関の前に立ち、ディンプルキーを取り出すと鍵は開いた。
が、もう一つ、取手に暗証番号式の電子キーがかかっている。
しまった。さすがに、これは無理かもしれない。
女は諦めかけたが、一縷の望みをかけて番号を押すと
鍵は無機質な音を響かせて開いた。
まさか、と思った。
男は、家族に一体この番号をどう説明していたのだろう。
その数字は女の誕生日の日付だった。

夕闇に沈む廊下を抜けて、リビングに入った。
棚の上には美術館のように写真が並べられている。
それは女の知らない、男の半生だった。
不思議と初めて見る気がしなかった。
それはいつか女が想像した、男ならばきっと選択し、
歩んでいったであろう生の連なりだった。
ただそこに、自分だけが欠けていた。
女は、男とずっと一緒にいなかったし、一緒にいたような気がしていた。

星のない夜だった。
かつて男と、数え切れないほど行き来した通学路の川辺に女は座りこんでいた。
女の手元には、男の部屋から持ち出した、
最後に言葉を交わした日に差し出された小さな木箱がある。
草のない地面にオイルを巻き、躊躇なく火をつけた。
木箱は湿った空気の中であざやかに崩れていく。
中身が少し見えた。二人が書いた文字が、よじれるように消えていった。

喪服の中年女が何かを燃やしている姿は、
幸いにして誰にも見られていないようだった。
灰の散り際、あの時嗅いだ甘い匂いがしたような気がした。
涼しい風が、塵も何もかも運び去っていった。
ようやく、女は女だけになったのだ。
終わったものに名前をつけようと思ったが、何も思いつかなった。
しばらくその場にぼんやりとしていた。
灰と埃をたたき、立ち上がってふと思った。
私の家族の食事をつくらねば。



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