![210722-01](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/07/210722-01.jpg)
草野マサムネとザ・ブルーハーツ
スピッツのボーカリスト、草野マサムネは、
大学入学当初、「チーターズ」というバンドを組んでいた。
もともと、そんなに
上昇志向があるわけではなかったが、
たくさんのバンドを見るうちに、
当時のバンドマンたちのあこがれだった「新宿ロフト」の
ステージに立ちたい、と思うようになっていった。
そんな矢先、草野は、ある曲と出会う。
ザ・ブルーハーツの、「人にやさしく」
「こんなバンドがやりたい」という、
草野の理想が、そこにあった。
このままでは、ブルーハーツの後追いになってしまう。
そう思うと、やる気がどんどんしぼんでいき、
結果、チーターズは自然消滅。
でも、その約1年後、草野の出した答えは、
「もう一回、バンドをやろう。
しかも、今度は新宿ロフトをめざせるようなバンドを。」
バンド名は、「スピッツ」。
草野が、高校時代から、バンドをやるならこれがいい、
と思っていた名前だった。
![210722-02](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/07/210722-022.jpg)
rockheim
草野マサムネとアコースティックギター
「ブルーハーツみたいな音楽をやっていても、
この先、未来はないんじゃない?」
スピッツのインディーズ時代、
渋谷のライブハウス、「ラ・ママ」でライブを行った後、
草野が店長から言われた言葉。
真似をしているつもりはなかった。
でも、確かにブルーハーツの影響は受けていた。
このときから、草野はエレキギターを手放し、
アコースティックギターを持ってライブに出るようになった。
楽曲も、ビート系から、メロディアスな方向に変わった。
「スピッツらしさ」の原型が、できあがった。
そのきっかけは、ライブハウスの店長の、
ふとした一言。
![210722-03](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/07/210722-03.jpg)
草野マサムネと新宿ロフト
スピッツの、当初の目標。
それは、当時のバンドマンの憧れ、
「新宿ロフト」のステージに立つこと。
その機会は、意外と早くまわってきた。
バンド結成から2年後、
スピッツのデモテープを聴いたあるイベント会社の人が、
新宿ロフトで行うイベントに参加しないか、
と声をかけてくれたのだ。
そしてその5カ月後、スピッツは新宿ロフトで
ワンマンライブを果たす。
でも、草野は満足しなかった。
新宿ロフトは、日本のロックの歴史を作ってきた老舗のライブハウス。
その、ロフトの名前にふさわしいライブをやらないと。
目標にたどり着くと、また次の目標が生まれる。
そうやってスピッツは成長を続け、
結成から4年というスピードで
メジャーデビューを果たすのだが、
その後の苦労は、また別のお話。
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NguyenDai
草野マサムネと売れないジレンマ
メジャーデビューし、3枚のアルバムを出したが、
まったく売れる兆しのなかったスピッツ。
アルバムの売り上げも、
出すごとに少しずつ落ちていた。
スピッツを、たくさんの人に聴いてほしい。
そうやって、真剣に努力してくれている周りのスタッフに、
草野は申し訳ない気持ちだった。
オリコンにチャートインして、
みんなに恩返ししたい。
そのためには、もっとポップな曲を…
4枚目の「Crispy!」は、そんな想いを
形にしたアルバム。
しかし、結果的に「Crispy!」は、チャートインしなかった。
売れようと努力したのに売れなかった。
草野の落ち込みは、相当なものだった。
でも、その影では、新しいファンが生まれ、
ラジオ局やレコード屋がプッシュするようになっていた。
そして次のアルバム、「空の飛び方」は、
オリコン・アルバムチャートで14位に入る。
「Crispy!」での努力は、次のアルバムにあらわれた。
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草野マサムネと自分の声
「マサムネの歌は、高いキーで、
もっと張って歌った方が聴き手に届くよ。」
音楽プロデューサー、笹路正徳の言葉に、
草野は驚かされた。
今でこそ、草野のハイトーンの声の美しさが
スピッツの魅力のひとつであることは
誰もが認めるところだが、
当時、草野は、ハイトーンの自分の声が嫌いだった。
「ロックはクールに」という思い込みがあり、
わざとキーを低く設定して唄っていたのだ。
自分では気づかない魅力を
気づかせてくれる人がそばにいたことが、
草野にとって、幸運だった。
ハイトーンの声でそのまま歌う。
これをきっかけに、スピッツの音楽は、
より明るく、美しいものになっていく。
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草野マサムネとスピッツバブル
「地味な曲だなぁ。」
そう、メンバーで話しながら作った曲が、
162万枚のミリオンセラーとなった、
「ロビンソン」。
その後のスピッツは、本人たちが
「スピッツバブル」と称するほど、
売れに売れ続けた。
ただ、当の草野は、頂点に立ちたいとか、
いい車に乗りたいとか、
スターの考えるようなことには興味がなかった。
これで、しばらく音楽を続けられる。
それだけで十分だった。
そんな当時の、草野のささやかな幸せとは。
「CDを買うとき、前は5枚の中から1枚を選んで買っていた。
でも今は、まとめて5枚、大人買いできることが幸せだ。」
![210722-07](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/07/210722-07.jpg)
uzaigaijin
草野マサムネと新しい壁
「いまだに、聴きたくないアルバムがある。」
スピッツのボーカル、
草野マサムネがそう言いきるアルバムの名前は、
「フェイクファー」。
音楽プロデューサー、笹路正徳から離れて
最初に作ったアルバムだった。
けれども、自立しようとしたはずなのに
どうやって曲を作ったらいいか、
どんな詞を乗せればいいか、わからなくなった。
ギリギリまで歌詞ができず、ブースの中にまで
ノートと鉛筆を持って入った。
しかし、そんな「フェイクファー」を、
いちばん好きだと言うファンも多い。
それを証明するかのように、『フェイクファー』ツアーは、
大きな成功を収める。
「ライブバンド」としてのスピッツが、確立しつつあった。
壁につきあたっていると感じているとき、
スピッツは、実は前に進んでいた。
![210722-08](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/07/210722-08.jpg)
草野マサムネと3人の男
「20年以上、同じメンバーで
続けてこられたのはなぜですか?」
そんな問いに、スピッツのボーカリスト、
草野マサムネは、
「4人が、同じ方向を向いていたから。」
と答えている。
しかし
チーターズの頃からずっと草野とともに歩んできたベーシスト
田村明浩は言う。
スピッツの4人は、誰ひとりとして先のことを
考えてやってきたわけじゃない。
ただ、少なくとも草野以外の3人は、
草野の曲がある限りスピッツは続くと思っている。
20年間、続いた理由は、
「大好きな曲がそこにあるから」