坂本和加

坂本和加 10年03月20日放送

01-mm

ジーンズをはいた① ノーマ・ジーン

ジーンズとマリリン・モンローは、
じつは深い関係がある。

デビューのきっかけになった
軍事工場でのポートレイトは、
作業着のオーバーオール。
デビュー後は、ジーンズが
体型を維持するための
トレーニングウェアになったし、
遺作となった映画「荒馬と女」では
ジーンズは衣装だった。

けれど彼女は、私生活でも、
率先してジーンズをはいた。
まだふくらんだスカートが主流のころに。

彼女にはジーンズが必要だったのだと思う。
だれかのセックスシンボルであるよりも、
まず、ノーマ・ジーンであるために。

02-rosie

ジーンズをはいた② ノーマン・ロックウェル

ブルー・ジーンズは、第二次世界大戦時、
軍需工場の仕事着にもなった。
兵士は戦地に赴き、女性たちは、
オーバーオール姿で軍用機にリベットを打った。

ロウジー・ザ・リベッターは、
リベット打ちの名手。工場の華。
イラストレーター、
ノーマン・ロックウェルは、
戦意高揚が作り上げた、この架空の女性を
雑誌ポストの表紙画に描いた。

だぼついたオーバーオールに、男勝りな出で立ち。
オシャレや美しさなどとは無縁なこの画に、
サザビーオークションは、6億の値をつけた。

03-shirasu

ジーンズをはく③ 白州次郎

白州次郎といえば、
ジーンズ姿のポートレイトが、あまりにも有名。
そして彼は、ブルー・ジーンズをはじめて
はいた日本人として知られる。
はっきりと公に記憶されているのは、
講和条約締結のために乗った機内でのことのようだが、
白州がジーンズを手に入れたのは、
どうやら戦前のことらしい。

戦時中は、鬼畜米英とやっていた時代に、
だれも見たことのなかった
米国製ジーンズをはいて、
白州は、野畑を耕していた。

日本は、敗戦するだろう、
食糧難がくるだろうと予測して。

04-Jimmy

ジーンズをはいた④ ジミー・カーター

アメリカ合衆国大統領が
オフにジーンズ姿で現れるのは
かなり好意的に捉えられているが、
ジミー・カーターの時代は、
まだそうでもなかった。

当時のジーンズは、
肉体労働者と不良の制服。
しかし、カーターのジーンズ姿は、
ボブ・ディランと懇意になったあたりから、多くなる。

カーターもまた、他の若者たちのように
ディランの歌や、生き方、
履き古したブルー・ジーンズ姿に
大きな影響を受けたうちのひとりだった。

ディランをタブー視するおとなたちも多くいた。
けれど演説では、彼のことをこんなふうに伝えた。

 社会の正義や不公平を理解するのに
 役立ったもうひとつのものは詩人、
 ボブ・ディランの歌です。

05-dean

ジーンズをはく① ジョン・スタインベック

ノーベル賞受賞作家として知られる
ジョン・スタインベックの小説には、
ジーンズが幾度となく登場する。
これほどまでにブルー・ジーンズを
小説上に書いた人物は、
ほかにいないのではないか、というくらいに。

当時のジーンズは、
仕事着でもあったけれど、
生活をするための服でもあった。
まさに、アメリカ人の生活そのもの。
スタインベックの世界には、不可欠なものだった。

長編小説「エデンの東」は、映画にもなった。
主役は、彗星のごとく現れた新人俳優。
ジェームス・ディーンは、いまもなお、
ジーンズとともに人々の記憶にある。

06-brooke

ジーンズをはいた⑥ カルバン・クライン

街を歩けば、だれもがジーンズをはいている。
しかし、ワーク・ウェアとして生まれたジーンズが
かっこいい普段着になれたのは、
カルバン・クラインの功績が大きい。

 ブルー・ジーンズとはエロティシズムである。

カルバン・クラインは、そう断言して
デザイナーズ・ジーンズを世に売り出した。
ジーンズの本質は、変わらない。けれど、
セレブたちが飛びついたのは、ご存じの通り。

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坂本和加 10年02月21日放送

当麻庄司

蕎麦と当麻庄司①

重ねたセイロを「手持ち・肩持ち」で
自転車にまたがり、蕎麦を運ぶ。
昔ながらのスタイルで出前中の蕎麦屋を、
つい最近、青山で見かけたのだから、驚く。

カブの後ろに装着する
あの「出前機」が普及してからは、
こういった光景も、事故も、ずいぶん減った。
発明者は、当麻庄司。
目黒にあった蕎麦屋の主人だ。

この発明で、当麻は紫綬褒章を受章した。

ライ・クーダー

蕎麦とライ・クーダー②

江戸蕎麦の老舗といえば、のれん御三家。
更科なら白、砂場なら黄色、
藪なら緑がかった蕎麦を出す。
もちろん、汁の濃さや味も変わる。

中でも藪は、出前に適さない蕎麦だから
忙しい職人や通行人が相手だった。
もし東京で、その味や風情を楽しむなら、
「神田 やぶそば」がいい。

むかしライ・クーダーがここへきて、
「シンギング・ソバ!」と感激した蕎麦。
なぜ、シンギングなのか。
野暮は言わずに。どうぞ、お店へ。

林家彦六

蕎麦と落語家、林家彦六③

お蕎麦の「にっぱち」は、
つなぎの割合のことだと思われているが、
じつは「かけそば一杯」が、16文だったことから
「ニハチ、ジュウロク」で
「にっぱち」になったという説が、
どうやら近ごろでは有力らしい。

落語に「時そば」という
有名な演目があるが、
どうせお金を払うなら、
やっぱり、うまい蕎麦だろう。

「蕎麦は、
当たりはずれが多いから気をつけろ」と
言ったのは、今は亡き林家彦六師匠。
たしかに、扇子で蕎麦をたぐるのも芸のうちなら、
うまい蕎麦を知っていなければ。

さすがは彦六師匠…と思いきや、
本人はコーヒーやカレーなどの洋食を
好んでよく食べていたそうだ。

もとより、有名な落語家になるほど、
蕎麦を人前で食べるのを嫌がるのだそうだ。
それはじろじろ見られることよりも、
まずい蕎麦でも、うまそうに食べなきゃならないことのほうが、
ほんとうは、つらいからかもしれない。

松平治郷

蕎麦と松平治郷④

東京から遠くはなれた島根県もまた、
うまい蕎麦のみつかる土地だ。
出雲蕎麦の文化を運んできたのは、
松江7代目藩主、松平治郷。
江戸で覚えた蕎麦が、忘れられなかったのだ。
茶の世界では不昧公の名で知られるこの殿様は、
とっても風流で、オシャレに生きた。


 茶を立て、道具求めて、蕎麦を食い、
 庭を作りて、月花見ん、このほか大望なし、大笑、大笑。


夏目漱石

蕎麦と夏目漱石⑤

東京で生まれ育った文豪、
夏目漱石も、蕎麦はよく食べていたようで
多くの作品に蕎麦の描写を書き残している。

熊本から上京してきた『三四郎』は、
蕎麦屋で日本酒を飲むことを覚えたし、
かの『坊っちゃん』も、
道すがら見かけた蕎麦屋が
どうしても素通りできなくて
つい暖簾をくぐってしまうほどの蕎麦好き。

けれど、『我が輩は猫である』の登場人物、
迷亭先生はちょっと違う。
通人ぶった蕎麦講釈をのたまう、鼻つまみ役だ。
あげくに、つけすぎたワサビにむせてしまい、
迷亭先生は、作者・漱石にやり込められてしまう。

それは、蕎麦をたぐることに粋を見いだし、
知識をひけらかすスノッブたちに閉口する、
漱石なりのアンチテーゼのようにも思える。

甘党で知られる漱石にとっては、
されど蕎麦より、たかが蕎麦。
うまければそれで結構、と思っていただろうから。

宮沢賢治

蕎麦と宮沢賢治⑥

宮沢賢治もまた、蕎麦好きの文人。
「原稿料が入ったら、BUSHへいきましょう」と
うれしそうに、友人を誘った。

賢治が蕎麦屋をBUSHと呼ぶのは、
店名が「やぶ屋」だから。
そこの天ぷら蕎麦が、
賢治の大のお気に入りだったようで、
サイドメニューは酒でなく、サイダーを頼んだ。
天ぷら蕎麦、15銭。サイダー、23銭の時代に。

「やぶ屋」は、現在も
賢治の故郷、花巻市にある。
名物は、わんこそば。
天ぷら蕎麦はサイダーより、今は高い。

片倉康雄

蕎麦と片倉康雄⑦

蕎麦職人の世界で、
きっと片倉康雄を知らないひとはいない。
片倉は、蕎麦職人も通う
手打ちの名店、一茶庵の創業者。
師を持たず、まったくの
独学で蕎麦料理を完成させた。

片倉が目指したのは、
毛のように細い、蕎麦の味。
それは、片倉の幼い頃、
大好きだった母の打ってくれた、蕎麦だった。

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坂本和加 10年01月30日放送

01-hachi

ハチ公と上野博士①

秋田で生まれたハチが
上野博士の住む東京へ
もらわれてきたのは、子犬の頃。
博士は、上野英三郎さんといって、
東大の先生だった。
いまや近代農業土木の祖と言われるくらい、
エライ先生だったそうで。

その博士とハチが
過ごしたのは、たったの1年3ヶ月。
けれど、犬たちにとっては、
それは10年近くの歳月。

忠犬ハチ公の話は、
帰らぬ主人を待ち続けた
かわいそうな話ではない。
それは、我が子のように
深く愛された、犬の話。

02-hachi

ハチ公と上野八重子②

ハチは、子犬の頃から
丈夫な犬ではなかったそうだ。
「ハチはよくおなかを壊すから」といって
上野博士の奥様、八重子夫人は、
付きっきりの看病をよくした。

いつものように見送りにいき、
そのまま博士が帰らぬひとになってからは、
奥様が内縁だったため、
これまでの暮らしができなくなった。

ハチをよそへやったのは、
奥様は犬が嫌いだったから
と言うひとがいるけれど。

そうではなくて、
博士を恋しがるハチを見るのが
誰よりもつらかったから。

03-hachi

ハチ公と小林菊三郎③

植木屋の菊さんは、
2番目のハチのご主人だ。
菊さんは、亡くなった最初の
ご主人のお屋敷の庭師で、
秋田からやってきたハチを
東京駅まで引き取りに行ったのも、菊さんだった。

「ハチはご主人の形見だ」といって、
繋がずに、放し飼いにしたのも、菊さん。

だから、ハチは、
10年近くも渋谷に通いつづけられた。

04-hachi

ハチ公と斉藤弘吉④

もし、斉藤弘吉さんという方が
新聞へ寄稿しなかったら
ハチがこれほど有名になることも、
渋谷に銅像として飾られることも、
なかっただろう。

ハチをずいぶん前から知っていた
斉藤さんは、日本犬保存会の会長だった。
だから、渋谷駅で野良犬のように扱われる
秋田犬をふびんに思ったのだろう。

「いとしや老犬物語」という記事が
新聞に載り、ハチはいつのまにか
「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

05-hachi

ハチ公と安藤照⑤

ハチが新聞に載ってから
日本中がハチ公ブームだった。
銅像は、ニセモノが出回る前にと、
彫像家の安藤照が、大急ぎで作った。

けれど、現在の銅像は
そのときのものではない。

戦時下の金属回収で、ハチ公は
いちど渋谷から姿を消し、
戦後、GHQの後押しと
子どもたちの募金活動により
ハチはふたたび渋谷に帰ってこれた。

06-hachi

忠犬ハチ公⑥

忠犬ハチ公と呼ばれ
一躍有名になった後も、
迎えの時間になれば渋谷駅へ向かい
帰らぬ主人を待っていた、ハチ。
年老いて、足がふらついて
目や耳が悪くなっても。

帰らぬ主人を「わかっていた」と言うひとがいる。
けれど、ハチにとっては、
主人を待つことが、この上ない、しあわせ。

ハチのお墓は、青山霊園にある。
大好きな大好きな、上野博士の隣に。

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坂本和加 09年12月26日放送

01-top

開高健と山の上ホテル①

山の上ホテルは、
神田駿河台の高台にございます。
小さな、文化人のホテルです。

開高健先生も、よくいらっしゃいました。
散歩のついでに、ふらっと。
あのかた、釣り師としても有名ですが
書いておられるほど
釣りはお上手ではないようでした。

 釣りの話をするときは、両手を縛っておけ。

これは、開高先生が
お好きだった、ロシアのことわざです。

02-top

石本恭子と山の上ホテル②

山の上ホテルは、
昭和29年にオープンした、
客室100前後の小さなホテルです。

当時、一機しかなかったエレベーターは
まだ手動で、石本恭子という
オペレーターが操作しておりました。
言葉遣いは美しく聡明、長身で上品な顔立ち。
淑女と呼ぶにふさわしく、
忘れがたい印象を残す女性でした。

ただ、それだけの話なのですが、
「旅館や料亭は、文化そのものであり、
そこで働く人たちもまた文化だ」と
言ってくださったのは、山口瞳先生でした。

03-top

丸谷才一と山の上ホテル③

丸谷才一先生が
山の上ホテルにお泊まりになるときは、
たいてい別館の623号室です。
山の上ホテルの、この部屋だけ、
カーテンが完全な暗幕になっているんです。
丸谷先生は夜型ですから、
明け方に眠るにはちょうどよかったのでしょう。

山の上ホテルは、作家の先生方が
何日間もカンヅメになる場所です。
そして、たくさんの丸谷文学もまた、
ここで生まれました。

けれど丸谷先生は、こんな風に言っています。

 作品が完成するのは、
 読者が読んで感心したときです。

04-top

池波正太郎と山の上ホテル④

池波正太郎先生は、
執筆と言うより休息のために、
よく山の上ホテルにお見えになりました。

池波先生は、お部屋で
よく画を描かれていました。
座卓が汚れないようにと、
ビニールカバーを持参されて。

几帳面で、洒落た粋人というのは、池波先生のことです。
ホテルに何枚か飾っております、
先生の水彩画は、お人柄そのものです。

05-top

山の上ホテルのレストラン⑤

山の上ホテルには、
作家の先生方をはじめ、
多くのお客様が例外なく好んだ
天ぷらの名店があることでも知られています。

創業者、吉田俊夫が仕入れまでみるほどの
食通だったせいもあるでしょう。けれどなにより、
吉田は、大通りにある鰻屋や鮨屋より
裏通りで見つかるような「天ぷら屋」が好きでした。
天ぷら職人に共通する、外連のない、
律儀で地味なところが。

今年の、全米のレストランガイド
サガット・サーベイにも載ったそうです。
「天ぷら 山の上」は、いまや
日本食の看板レストランです。

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吉田俊夫と山の上ホテル⑥

山の上ホテルは
今でも文藝春秋や中央公論に
小さな広告を載せています。
山の上ホテルの広告は、
文案もデザインも、みんな自前です。

会社勤めから
ホテルの創業者となった吉田俊夫は、
広告もしかり、初々しいサービスや、
素人っぽさにこだわっておりました。

願わくは、ここが有名になりすぎたり、
流行りすぎたりしませんように。

三島由紀夫の寄せた言葉を矜恃として
当時のパンフレットに載せたのも、吉田です。
今もまだ、知る人ぞ知るホテルであることが
それを証明してくれています。

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坂本和加 09年11月28日放送



長く生きる① きんさん ぎんさん

赤ちゃんがかわいいのは、
ひとりでは生きていけないから。
そして、年を取れば取るほど、
ひとはまた、かわいくなる。

100歳でスターになった、
双子のおばあちゃん「きんさん ぎんさん」は、
それを証明してくれた。

けれど、2人は声をそろえて。
「若い頃は、もっと、かわいかった」。

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長く生きる② 鈴木大拙

年々増え続ける自殺者のニュースを聞いたら、
禅学者、鈴木大拙は何を思うだろう。

長く生きること。
それは、80や90になってはじめて、
わかることがあるということ。
だからあなたも、できるだけ長生きなさい。

著書を英語で書いて、
世界に日本の禅文化を伝えた、
鈴木大拙は、96まで生きた。


「大巧は拙なるに似たり」

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長く生きる③ 白川静

白川静は、漢字を愛し、
生涯をその研究に捧げたひとだった。

その偉業は「字」を知るための「書」と書く、
「字書」3部作を完成させたことで名高いが、
ユニークな学説を唱えたことでも知られる。

たとえば、「ラク・楽しいという字は、
神様を楽しませるために振った鈴から生まれた」。

漢字の成り立ちには、
いつも民族信仰があると考えた
白川静がいちばん好きだった漢字は、
「ユウ・遊ぶ」という字。

96歳で亡くなった漢字の神様は、
きっといまごろ、天国で遊んでおられる。

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長く生きる④ 親鸞聖人

他力本願という言葉は、
れっきとした、仏教の言葉。

極楽浄土に行けるのは、自分の力ではなく、
他力、つまり仏さまのお力であるという意味だ。

ほんとうはありがたいはずなのに、
違った意味で受け取られることが多い。

他力本願は、親鸞聖人のお言葉。
90歳で入滅し、その30年後に
弟子たちによりまとめられた「歎異抄」は、
「異なるを、嘆く」と書く。

歎異抄は、親鸞聖人のため息
そのものなのかもしれない。

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長く生きる⑤  まど・みちお

まだ読み書きを習い始める前の、
小学校にも上がっていない子どもたちに
いちばんなじみのある100歳の有名人。

それはきっと、詩人・まど・みちお、だと思う。

つくった詩は、数え切れない。
「ぞうさん」に、「やぎさんゆうびん」も。
日本人みんなが歌える童謡は、まどみちお、作。

最新刊は4年前に、出版された。
「おじいさん詩集だ」というけれど、
そこにあるのは、少年のようにチャーミングで、
おおらかな表現に満ちた、変わらぬ世界。

つい先日(11/16)、まどさんは100歳になった。

まどさん。どうぞお元気で。
このメッセージを「やぎさんゆうびん」で
お届けできたらと思います。

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長く生きる⑥ 杉田玄白

はかないもののたとえ、
カゲロウは、たった数時間で命を終える。
一方で、ひとはいつの時代も
不老長寿を願ってやまない。

江戸時代の医師、杉田玄白は、
長寿について、こう記している。


 長生きしても、たいして
 驚くようなことはないわけで、
 無理に長生きを願うのは、無益である。

当時から長寿で知られた杉田先生は、
よっぽど「長生きの秘訣」を聞かれるのが、
お嫌いだったらしい。

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長く生きる⑦ 宇野千代

イギリスで、400歳の貝が
みつかったというニュースが流れた。

女文士、宇野千代が生きていたら、
うらやましいわ、と言うかもしれない。
彼女自身、98まで生きたのに。


 なんだか私、死なないような
 気がするんですよ。(はははは は)

晩年の宇野千代、お気に入りの言葉。

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長く生きる⑧ 小倉遊亀

枯れることは、老いること。

けれど、枯れなくては
うまみを増さないものがある。
それは、梅干し、かつお節。

小倉遊亀(ゆき)は100歳をすぎてなお
絵筆をとり続けた日本画家だった。


 一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入る。

まだ日本画家になる前、小倉は
同じ日本画家の大家、安田靫彦(ゆきひこ)に
もらった言葉を矜恃に生きた。

作品の味わいは、枯れてこそ。

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坂本和加 09年10月17日放送

1

タンデムストーリーズ①「ガストン・ライエ」 

身長は、たった163センチ。
そのハンデをもろともせずに、
パリダカの二輪部門で2度の優勝歴を持つ、
小さな巨人、ガストン・ライエ。
誰もが、そんな足の着かないバイクで
いったいどうやって? と、不思議がる。

ガストン・ライエの答えは、至ってシンプル。


 だったら、どうやったら足を着かないで、走りきれるかを考えたのさ。

現役引退後も、みんなと同じようにバイクを楽しみ、
世界中のバイク乗りに愛されたライダーだった。

2

タンデムストーリーズ②「マックス・フリッツ」

BMWという名車を語るなら、
そのエンブレムがプロペラに由来していることよりも、
そのオートバイの生みの親、
マックス・フリッツという男を知っている方がかっこいい。

エンジニアであった彼の最大の功績は、
水平対向2気筒、通称ボクサーツインと呼ばれる
エンジンを完成させたこと。
そのスタイルは、
1923年の初号機から今に続くビーエムだけのもの。

ドイツ、ミュンヘンにはBMW本社併設の博物館があるが
展示のほとんどをバイクが占める。
ビーエムのカーオーナーたちが、
ちょっとがっかりするくらいに。


3

タンデムストーリーズ③「ビバンダム」

ことしで111才になる。
世界的に有名な彼の名前は、ビバンダム。
そのからだは、うずたかく積み重なった
白いタイヤでできている。

創業者である、
ミシュラン兄弟のユーモアから生まれた
彼の名前は、「ヌンク・エスト・ビバンダム」という
ラテン語で書かれた最初のポスターから。
「今こそ飲み干すとき」という意味がある。

白いタイヤ男は、
生まれたときからからマーケットを飲み干す勢いで、
現在も世界トップシェアに君臨する。


4

タンデムストーリーズ④「チェ・ゲバラ」

23才の医学部生、エルネスト・ゲバラは
友人とふたりで一台のバイクにまたがり旅に出た。

アルゼンチンからチリ、ペルー、
そしてベネズエラへ。

相棒になったバイクは、英国製のノートン500。
タフなヤツというあだ名だったけれど
実際はひどいポンコツで、旅の間に壊れて鉄くずになった。

本当の旅がはじまったのは、それからだった。

バイクは、彼らが経済的に恵まれていることの象徴だった。
その垣根がなくなったとき
はじめて人々はゲバラに心を開いた。

百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだと言うゲバラが
旅行中に記した日記は、こう締めくくられている。

 この流浪は、僕を想像以上に変えた。
 僕は人民のために生きるだろう。


5

タンデムストーリーズ⑤ 山村レイコ

80年代は、バイクに乗る女の子、
ただそれだけで珍しがられる時代だった。
山村レイコが、そうだった。

バイクで旅する楽しさを伝えたいと、
彼女はエッセイストになった。
パリダカを走る国際ラリーストにもなった。
その魅力は、やっぱり書くことで伝えた。

そしてロハスが流行るずっと前に、
酪農や農業をして生きようと決めた。
大好きなバイクが自然との距離を近くしたから。

生きること、楽しむこと、働くこと
山村レイコのなかで
この三つは、いつも同じこと。


5

タンデムストーリーズ⑥浮谷東次郎

浮谷東次郎は14才のとき、バイクで1500キロを旅した。
とにかくよく飛ばす男は、カーレーサーになった。

けれど、最初は群を抜いて遅かったという。
のちの、最後尾からのゴボウ抜き逆転優勝は、
彼が理詰めで勝ち取ったもの。

そんな浮谷東次郎を語る言葉がある。

 カッコよく革ジャンを着ていました

そうか、こういう人がカッコいいんだ。


7

タンデムストーリーズ⑦ 藤沢武夫

昭和24年、真夏の阿佐谷で
本田宗一郎と藤澤武夫が出会い、
「技術の本田、経営の藤澤」の伝説が生まれた。

ホンダが、世界のホンダと称される由縁は、
原動機付き自転車「カブ号」の爆発的ヒットにある。
そのカブ号に目をつけ、
抜群のセンスで売り込んだのが藤澤だ。
「自分に似た人間なら、2人いらない」
そう断言する本田が、選んだ相棒だった。

神話のような本田の決断の数々も、
必ず藤沢の意見があった上でのこと。

「ホンダの社長は技術畑でなくては」、
という藤澤哲学にもとづいて
つねに経営がシナリオを書き
技術が主役をつとめるホンダのサクセスストーリーは、
いまや、MBAの教科書になった。

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坂本和加

sakamoto_waka

大好きなモーターサイクルで
行ってみたいところがある、っていうのと
書いてみたいことがある、っていうのは
同じなんですね。最近気づきました。

書くことで行けるところへは、
たどり着くのが難儀です。

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