‘熊埜御堂由香’ タグのついている投稿

熊埜御堂由香 12年10月7日放送


KYR
色のはなし  生命の色

 どんな色も生命の色だと思う。
作家富岡多恵子は言う。
 だから移ろいゆく
 夕方の空の色を
 いまだにうまく言いあらわせない

と言う。

夕焼けを真っ赤だと、簡単に言わない
77歳の作家は、真摯な言葉を紡ぎ続ける。

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熊埜御堂由香 12年9月2日放送


windyboy
果物のはなし 木村秋則のりんご

葉っぱが真っ白になるほどの農薬を散布してこそ、
真っ赤な美味しいりんごが収穫できる。
それがりんご農家の常識だった。

その常識を変えた男、木村秋則(きむらあきのり)。
青森のりんご農家の婿に入り、
農薬散布に疑問を抱いた。
そして試行錯誤をはじめる。
数年収穫はゼロ。
水道代も払えずメモを取るノートも買えない。
死のうと、ひとり入った山で、ふと気づいた。
一滴の農薬も使わない木々が、葉をつけ生きている。
畑の土を山の土と同じようにしよう。

それから木村は畑の雑草を刈ることをやめ
害虫をむやみに殺すことをやめた。
だんだんと畑は元気を取り戻し無農薬栽培を
はじめて9年後に畑いっぱいにりんごの花が咲いた。
畑には野山のような連鎖がおこっていた。
その実は奇跡のりんごとよばれ、評判になった。
木村は愉快そうに言う。

りんごの花は上を向いて咲くのな。
桜の花は下を向いて花見を
するひとのほうを見て咲くでしょ。
リンゴは人間を気にもしてないの。
ちょっと威張っているのな。

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熊埜御堂由香 12年8月19日放送


donvanone
部活の話 流山児祥の楽塾

演出家、流山児 祥。(りゅうざんじ しょう)
アングラの帝王とよばれ、
国際的な評価も得てきた。

そんなとんがった男が、50歳を前に、
認知症の母親を介護することになる。
演劇から少し離れていて、こう思った。
同世代のふつうのひとたちと
劇場で、遊んでみたい。
そうして1998年に
シニア劇団、楽塾を設立した。
オーディションで
まっさらなおじさん、おばさんがあつまった。

稽古中に『今夜のおかず何にしようかな』なんて考えたり、
曇りの日は洗濯物が気になって。 
発足当初のことを劇団員たちは朗らかに笑う。
まるで部活に打ち込む高校生のように。
激しい檄を飛ばす流山児のもと、活動を続けた。

そして、楽塾はいつしか観客動員1200人を越える
プロの劇団に成長した。

平均年齢59歳、
今年で15周年をむかえる
楽塾のモットーは、
 ひとは元気で楽しいものを見ると
 元気で楽しくなる。



部活の話 長友佑都の太鼓

サッカー日本代表として活躍する長友佑都(ながともゆうと)。

高校時代は、無名選手だった長友。
明治大学サッカー部でも
ケガで試合にでれない日々が続いた。

くさりそうになる気持ちを
長友はサッカーの「応援」にぶつけた。
当時を振り返り彼はこう言った。
 試合の時は太鼓をたたくのが、僕の使命でした。

長友がたたく応援の和太鼓は、
プロチームのサポータ集団から
スカウトされるほどだった。

やがて世界で活躍する長友の、
無名時代のあるひととき。
それはサッカーが、大好きだ、という
プロになっても通用する
強いモチベーションを育ててくれた。

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熊埜御堂由香 12年7月8日放送


llee_wu
4. 冒険の話 高橋源一郎

小説というものは、
広大な平原にぽつんと浮かぶ小さな集落から
抜け出す少年、のようなもの。

前衛的な作風で知られる
小説家・高橋源一郎は言った。

学生運動で大学を除籍になり10年ほど、
土木作業員として各地を転々とした。
長く患っていた失語症のリハビリで書き始めた小説が
高橋を広い世界へ連れ出した。

今日も彼は、ひとり机にすわって
どこまでも遠くへいく。

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熊埜御堂由香 12年6月17日放送


greenkozi
夫婦のはなし 高山なおみとスイセイ

 みいなんかより
 料理がうまいひとは
 ごろごろおるじゃろう?

料理研究家高山なおみの夫スイセイは
雑誌で人気絶頂期の妻のみいにひょうひょうと言った。
その言葉は、妻の人柄も仕事もまるごと理解した
夫にしか言えない最高のエールだ。

高山の力が抜けてリラックスした
優しい味のレシピは
今日も夫婦の食卓から生まれる。

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熊埜御堂由香 12年5月20日放送


さんたす
植物の話 大江健三郎の生まれた森

なぜ学校に行かなければならないのだろう。
そう思い、10歳の少年は学校の裏門を抜け森へ入って
毎日を過ごしていた。

ノーベル賞作家大江健三郎は愛媛県の森林の村で生まれた。
大江が不登校になった年。日本は戦争に負けた。
世の矛盾を敏感な少年は感じていた。
森の中で樹木の性質を学べばひとりで生きていける。
林業を営む父の姿をみてそう考えた。

しかしある日、
森で強い雨に打たれ生死の境をさ迷う。
僕はもう死ぬの?うなされ尋ねると
母親がこう答えた。
私がもういちど産んであげるから、大丈夫。

わけがわからないと思いながらも
静かな心になった少年はこんこんと眠り
回復したら自然と学校に通いはじめた。

それ以来こう思うようになった。
今生きている自分は母にもういちど産んでもらった
新しい子供なのではないか?

少年は森で、もういちど生まれた。
そして森をでて社会の中で生きはじめたのだ。

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熊埜御堂 由香 12年4月22日放送


八犬伝
師のはなし 司馬遼太郎の言葉

歴史小説を通して
人間を描き続けた作家、
司馬遼太郎はこう言った。

食欲と性欲と睡眠欲が三大本能として、
四番目は教育する本能、
そして教育を受けたくなる本能かもしれません。

春、わけもなくわくわくするのは
知的な新しい出会いを
本能が察知しているからだろうか。

お気に入りの本を、親しくなったあのひとに
思わず、すすめるように。
教え、教わり人は生きていく。

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熊埜御堂由香 12年3月18日放送


soupboy
動物と人 ロッキーとトットちゃん

黒柳徹子のエッセイ『窓際のトットちゃん』
には、小さい頃の愛犬、
シェパードのロッキーが親友として登場する。

ある日のこと、ふざけたロッキーが
トットちゃんの右耳を噛み千切った。
耳はぶらぶら、血が噴出した。
けれどロッキーをかばい泣かなかった。

病院から帰ると、ロッキーがいない。
はじめてトットちゃんは大声で泣いた。
するとソファーの陰からロッキーがのぞき、
大丈夫なほうの耳をそーっとなめた。

包帯だらけのトットちゃんは言った。
これで、ロッキーと
もっと仲良くなったわ。

トーク番組の聞き手として
誰の心にも優しく入っていく徹子さんは、
動物にも
心の垣根をつくらないひとだった。

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熊埜御堂由香 12年2月12日放送



大おやこの話 お父さんになるまで

結婚して10年。
気の合う妻と、気楽な生活を送っていた。
そんな時、子どもができて、こう思った。
もうすぐ父親になる。
すごく、怖い。

「クドカン」の愛称で人気の演出家、宮藤官九郎。
2005年に35歳で女の子の父親になった。
いまいち気持ちがついていかない中、
はじめたことがある。
自分から企画を持ち込み、
週刊誌で育児日記をはじめたのだ。

気がついたら毎日娘のおむつを替え、
お風呂に入れている自分がいた。
そして毎週コラムを書き続けた。

娘が3歳になる最終回で誓った。
これからも、怠けず、気張らず、普通の
お父さんであり続けようと思います。

その連載のタイトルは、
俺だって子供だ!
最初は、そう思っていたはずなのに。
連載の終わりには、
立派なお父さんがそこにいた。

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熊埜御堂由香 11年8月7日放送



「夏」のはなし 風鈴職人 篠原儀治

風鈴職人、篠原儀治(よしはる)。

大正13年、東京の下町、向島の風鈴職人の家の
長男としてうまれる。
職人たちが2交替で24時間風鈴を作る大きな工房で
儀治も12歳のころから風鈴作りを学び始めた。

戦時中は資材が手に入らず儀治の親が、
ふかし芋を売って生計を立てたりしていたが、
戦争から復員した儀治は、ガラス工房の復興に乗り出した。

職人が型を使わず空中でふくらます、宙吹き(ちゅうぶき)でガラスを成形し
汚れを防ぐため絵付けは中からする。
東京の下町の風鈴を「江戸風鈴」と名づけブランドにしたのも儀治の才覚だった。
デパートに営業し、販路を広げ、風鈴の売れない冬は、
アメリカに渡りクリスマスツリーの飾りとして売った。
儀治は頑固な職人であると同時に、
柔軟なビジネスマンでもあったのだ。

彼は言う。
 作った物を売る技術を知らないとダメだよ。
 家計が苦しいのに俺の跡をやろうって誰が思います?

12歳から風鈴を作り始めた少年は、
87歳になった今も息子たちと日本の夏の伝統を
守り続けている。



「夏」のはなし 上山英一郎と妻ゆき

 あなた!倉の中で
 ヘビがとぐろまいているの!

妻は夫のもとへ飛んで来た。
そして思いついた。

 あなた、
 蚊取り線香の形状、うずまき型はどうかしら?
 燃焼時間もかせげるし、お線香みたいに倒れないし。

KINCHOの創業者である上山英一郎とその妻ゆき。
夫婦のくらしのひとこまから蚊取り線香の
あの渦巻きの形は生まれた。

渦巻きはのばせば75センチ、6時間から7時間は燃えている。
それまでの棒のような、40分しか持たない製品とは
格段の違いがあった。

渦巻きの蚊取り線香は、
MOSQUITO COILと呼ばれ、世界中で
夏の日の必需品となっている。

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