手のはなし 漫画家の手
漫画、それは手から生まれる芸術のひとつと
いってもいいだろう。
日本を代表する漫画家、浦沢直樹。
彼は、腱鞘炎と闘いながら漫画を書き続けてきた。
「グーでペンを握ると腱鞘炎になりにくいんだ」
と
インタビューでちょっと得意げに語っていたことがある。
そこまでしても、書きたい。
浦沢さん自身が少年のような心を持ち続けて、今日もペンを握る。
手のはなし 漫画家の手
漫画、それは手から生まれる芸術のひとつと
いってもいいだろう。
日本を代表する漫画家、浦沢直樹。
彼は、腱鞘炎と闘いながら漫画を書き続けてきた。
「グーでペンを握ると腱鞘炎になりにくいんだ」
と
インタビューでちょっと得意げに語っていたことがある。
そこまでしても、書きたい。
浦沢さん自身が少年のような心を持ち続けて、今日もペンを握る。
手のはなし 赤ちゃんの握りこぶし
赤ちゃんは、いつもぎゅっと手を握りしめている。
それは原始反射という生理的な現象だ。
けれど、その握られた手の中に指を差し込むと
握り返してくるから、大人はうれしくなってしまう。
赤ちゃんの握りこぶしの中には幸福がつまっている。
そんなよく聞く言い伝えは手と手が繋いできた
やりとりから生まれたのかもしれない。
手には、人間の原始的な幸福が宿っているのだ。
宇宙のはなし 宇宙との距離
アメリカの政治学者、ダニエル・デュードニーは言った。
宇宙は世界中の人から、たった80マイルだ。
多くの人にとって、首都より近い。
イギリスの天文学者、フレッド・ホイル も言った。
もし、あなたの車が真上に走れるなら、
1時間のドライブで宇宙へ行けるよ
そういわれると、夜空の星に手をさしのべて
捕まえてみたくなりませんか?
宇宙のはなし ジム・ラヴェル
実はアメリカでは宇宙飛行士は
離婚率が高いという説がある。
宇宙という過酷で特殊な場所が、
恋人たちを離ればなれにするのだ。
そんな中、アポロ13号の船長、ジム・ラヴェルは
幼馴染みのマリリンと一生を添い遂げた、
おしどり夫婦としても知られている。
月面着陸の夢は叶わなかったが、地球上での幸せは叶えたのだ。
そんな彼が残した言葉がある。
月で親指を立てると、親指の裏に地球が隠れる。
我々はなんと小さな存在だろう。だがなんと幸せだろう。
ことばの贈りもの メリークリスマス!
メリークリスマス!
その言葉は、正確に言うと、
「I wish you a merry Christmas.」
キリスト教徒たちが、イエス生誕の日を楽しく過ごせますようにと
声をかけあって生まれた挨拶だった。
メリークリスマス!
それは、ひとがひとを思う、
そんな気持ちがシンプルにこめられた愛の言葉。
kylehase
ことばの贈りもの 人類という家族
すっかり日本人にとっても大事な年中行事になったクリスマス。
けれど、心の片隅で、
キリスト教徒じゃないけれど浮かれていいのかな?
なんて思いがよぎったら、
クリスマスにまつわるこんな名言を贈ります。
人類はあらゆる人種や宗教が集まった巨大な家族。
クリスマスが来て神の愛を思うたびに、
私たちは皆兄弟であることを
思い出すのです。
今日は地球がまるごと家族になって
幸せがあふれる日。
さぁ、メリークリスマス!
Caden Crawford
のりものの話 働くきかんしゃトーマス
イギリスで生まれ、今ではアニメとして
日本の子どもたちにも親しまれている
「きかんしゃトーマス」。
機関車たちが一生懸命、仕事をしながら
繰り返し口にする言葉がある。
僕らは、役に立つ機関車になりたいんだ!
そののりものたちの素直な言葉は、
小さな子どもたちに
人間が働くことの根本的な喜びを伝え続けている。
お風呂のはなし 夢二と彦乃の湯桶温泉
詩人・画家の竹久夢二とその恋人、笠井彦乃。
1917年に2ヶ月以上の北陸の長旅で
金沢の湯桶温泉へ逗留した。
夢二のファンだった19歳の彦乃が、
画廊へ通ううちに心が通じた。
12歳の歳の差と、夢二の女性遍歴で
親から反対を受け、それを押切り同棲するようになった。
そんなふたりが、もっとも幸せな時間を
すごしたといわれるのが
湯桶温泉だ。
3週間、ゆっくりと湯につかりすごした。
その直後、彦乃は結核にかかり入院してしまう。
父親の反対で夢二と面会もできないうちに
息をひきとった。まだ25歳だった。
夢二はその年の誕生日にこう言った。
私は三十七歳で死んだことになっているんです。
彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです。
その後も夢二は多くの女性と恋に落ちる。
けれど、彦乃と過ごした湯桶温泉での時間は、
夢二の心の中に、大事に、大事に、しまわれていたに違いない。
三二四版畫工作房
服のはなし 皆川明の仕事論
東京スカイツリーのユニフォームデザインを手がけた
デザイナー皆川明。
minä perhonen(ミナ ペルホネン)というブランドを
たちあげ大事に育てきた。
生地という素材から服作りをするスタイルで
自分で図案を書いたテキスタイルにこだわる。
皆川は自分の仕事をこう思ってきた。
僕らの仕事はパン屋さんやお豆腐屋さんと同じ。
食べておいしかったら、またきてくれる。
誰かにおいしいと伝えてくれる。
宣伝もせずに、利益がでれば「素材」に使う。
その繰り返しで、気がつけばひとからひとへ
皆川の服作りは伝わっていき、ブランドはメジャーになった。
そんな、彼がこの仕事を通してなしとげたいことはシンプルだ。
一枚の服が、着られて着られてすっかり体のクセがしみこんで。
記憶をたどるクタクタの一着を、つくることができたらいいな。
服のはなし 大内順子のまなざし
日本のファッションジャーナリストの先駆けといえば、
このひとしかいない。
大内順子。
大きなサングラスとボブヘアーをトレードマークに
2014年に80歳で亡くなるまで活躍を続けた。
じつは20代のころはモデルをしていたが、
交通事故で顔面に大けがを負う。自然と書く仕事へシフトしていった。
まだパスポートを取るひともめずらしい70年代に
単身でメゾンの扉をたたいた。
エルメスも、シャネルも、セリーヌも
初めて日本に紹介したのは大内だった。
1985年には、世界的なモードを日本に広めた「ファッション通信」
という番組をスタートさせる。
ひとりで道を切り開いてきた大内は、
いつもまわりにこう言っていた。
ファッションって、楽しくて、素晴らしいから、
誰かに知らせたい、ただそれだけよ。
軽やかに、前向きに、サングラスの奥の瞳は
きっといつも好奇心で輝いていたはずだ。
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