‘熊埜御堂由香’ タグのついている投稿

熊埜御堂由香 17年2月26日放送

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手のはなし 漫画家の手 

漫画、それは手から生まれる芸術のひとつと
いってもいいだろう。
日本を代表する漫画家、浦沢直樹。
彼は、腱鞘炎と闘いながら漫画を書き続けてきた。

「グーでペンを握ると腱鞘炎になりにくいんだ」

インタビューでちょっと得意げに語っていたことがある。
そこまでしても、書きたい。
浦沢さん自身が少年のような心を持ち続けて、今日もペンを握る。

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熊埜御堂由香 17年2月26日放送

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手のはなし 赤ちゃんの握りこぶし

赤ちゃんは、いつもぎゅっと手を握りしめている。
それは原始反射という生理的な現象だ。
けれど、その握られた手の中に指を差し込むと
握り返してくるから、大人はうれしくなってしまう。

 赤ちゃんの握りこぶしの中には幸福がつまっている。

そんなよく聞く言い伝えは手と手が繋いできた
やりとりから生まれたのかもしれない。
手には、人間の原始的な幸福が宿っているのだ。

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熊埜御堂由香 17年1月29日放送

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宇宙のはなし 宇宙との距離

アメリカの政治学者、ダニエル・デュードニーは言った。
宇宙は世界中の人から、たった80マイルだ。
多くの人にとって、首都より近い。

イギリスの天文学者、フレッド・ホイル
も言った。

もし、あなたの車が真上に走れるなら、
1時間のドライブで宇宙へ行けるよ

そういわれると、夜空の星に手をさしのべて
捕まえてみたくなりませんか?

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熊埜御堂由香 17年1月29日放送

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宇宙のはなし ジム・ラヴェル

実はアメリカでは宇宙飛行士は
離婚率が高いという説がある。
宇宙という過酷で特殊な場所が、
恋人たちを離ればなれにするのだ。

そんな中、アポロ13号の船長、ジム・ラヴェルは
幼馴染みのマリリンと一生を添い遂げた、
おしどり夫婦としても知られている。
月面着陸の夢は叶わなかったが、地球上での幸せは叶えたのだ。

そんな彼が残した言葉がある。

 月で親指を立てると、親指の裏に地球が隠れる。
 我々はなんと小さな存在だろう。だがなんと幸せだろう。

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熊埜御堂由香 16年12月25日放送

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ことばの贈りもの メリークリスマス!

メリークリスマス!
その言葉は、正確に言うと、

「I wish you a merry Christmas.」

キリスト教徒たちが、イエス生誕の日を楽しく過ごせますようにと
声をかけあって生まれた挨拶だった。
メリークリスマス!
それは、ひとがひとを思う、
そんな気持ちがシンプルにこめられた愛の言葉。

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熊埜御堂由香 16年12月25日放送

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kylehase
ことばの贈りもの 人類という家族

すっかり日本人にとっても大事な年中行事になったクリスマス。
けれど、心の片隅で、
キリスト教徒じゃないけれど浮かれていいのかな?
なんて思いがよぎったら、
クリスマスにまつわるこんな名言を贈ります。

 人類はあらゆる人種や宗教が集まった巨大な家族。
 クリスマスが来て神の愛を思うたびに、
 私たちは皆兄弟であることを
 思い出すのです。

今日は地球がまるごと家族になって
幸せがあふれる日。
さぁ、メリークリスマス!

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熊埜御堂由香 16年11月27日放送

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Caden Crawford
のりものの話 働くきかんしゃトーマス

イギリスで生まれ、今ではアニメとして
日本の子どもたちにも親しまれている
「きかんしゃトーマス」。

機関車たちが一生懸命、仕事をしながら
繰り返し口にする言葉がある。

僕らは、役に立つ機関車になりたいんだ!

そののりものたちの素直な言葉は、
小さな子どもたちに
人間が働くことの根本的な喜びを伝え続けている。

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熊埜御堂由香 16年10月30日放送

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お風呂のはなし 夢二と彦乃の湯桶温泉

詩人・画家の竹久夢二とその恋人、笠井彦乃。
1917年に2ヶ月以上の北陸の長旅で
金沢の湯桶温泉へ逗留した。

夢二のファンだった19歳の彦乃が、
画廊へ通ううちに心が通じた。
12歳の歳の差と、夢二の女性遍歴で
親から反対を受け、それを押切り同棲するようになった。

そんなふたりが、もっとも幸せな時間を
すごしたといわれるのが
湯桶温泉だ。
3週間、ゆっくりと湯につかりすごした。

その直後、彦乃は結核にかかり入院してしまう。
父親の反対で夢二と面会もできないうちに
息をひきとった。まだ25歳だった。

夢二はその年の誕生日にこう言った。

 私は三十七歳で死んだことになっているんです。
 彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです。

その後も夢二は多くの女性と恋に落ちる。
けれど、彦乃と過ごした湯桶温泉での時間は、
夢二の心の中に、大事に、大事に、しまわれていたに違いない。

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熊埜御堂由香 16年9月25日放送

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三二四版畫工作房
服のはなし 皆川明の仕事論

東京スカイツリーのユニフォームデザインを手がけた
デザイナー皆川明。
minä perhonen(ミナ ペルホネン)というブランドを
たちあげ大事に育てきた。
生地という素材から服作りをするスタイルで
自分で図案を書いたテキスタイルにこだわる。

皆川は自分の仕事をこう思ってきた。

僕らの仕事はパン屋さんやお豆腐屋さんと同じ。
食べておいしかったら、またきてくれる。
誰かにおいしいと伝えてくれる。

宣伝もせずに、利益がでれば「素材」に使う。
その繰り返しで、気がつけばひとからひとへ
皆川の服作りは伝わっていき、ブランドはメジャーになった。
そんな、彼がこの仕事を通してなしとげたいことはシンプルだ。

 一枚の服が、着られて着られてすっかり体のクセがしみこんで。
 記憶をたどるクタクタの一着を、つくることができたらいいな。

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熊埜御堂由香 16年9月25日放送

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服のはなし 大内順子のまなざし

日本のファッションジャーナリストの先駆けといえば、
このひとしかいない。
大内順子。

大きなサングラスとボブヘアーをトレードマークに
2014年に80歳で亡くなるまで活躍を続けた。

じつは20代のころはモデルをしていたが、
交通事故で顔面に大けがを負う。自然と書く仕事へシフトしていった。

まだパスポートを取るひともめずらしい70年代に
単身でメゾンの扉をたたいた。
エルメスも、シャネルも、セリーヌも
初めて日本に紹介したのは大内だった。
1985年には、世界的なモードを日本に広めた「ファッション通信」
という番組をスタートさせる。

ひとりで道を切り開いてきた大内は、
いつもまわりにこう言っていた。

 ファッションって、楽しくて、素晴らしいから、
 誰かに知らせたい、ただそれだけよ。

軽やかに、前向きに、サングラスの奥の瞳は
きっといつも好奇心で輝いていたはずだ。

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