川野康之 2022年11月13日「夕焼け病院」

夕焼け病院

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

30年ぐらい前のことである。
僕は急性盲腸炎になった。
入院したのは工場街の中にある古い病院だった。
大人の手術台があいてなくて、子供用の手術台に乗って、麻酔を注射された。
麻酔はなかなか効かなかった。
このままメスが入ったらいやだなと思った。
もう1本注射された。
覚えていたのはそこまでだ。
気がついた時、見知らぬじいさんたちが僕をのぞき込んでいた。
目が合うと「あ、起きた」と言った。
そこは病室だった。
麻酔が効きすぎたらしい。
視界に妻と看護婦さんが現れた。
手術は無事に終わったこと、切った盲腸を見せてもらったこと、
臭かったこと、麻酔が切れたら痛むということなどを僕は聞いた。
それはつまり生きているということだ。
「よかった、よかった」
じいさんたちが笑った。
彼らは僕の相部屋の人たちだった。

言われた通り、麻酔が切れた時は痛かった。
生まれて初めて座薬を入れられた。
尿瓶がうまく使えなくて夜中に泣きながらナースコールした時は、
尿道に管を入れられた。
それでも僕は生きていた。
一日ごとに僕は回復して行った。
待望のガスも出た。
まだお腹に力を入れると痛いが、その痛みは日に日に軽くなって行く。
病の根源を切り取った以上、後は良くなる一方である。
妻に持ってきてもらった宮本武蔵を読む余裕も出てきた。
隣のベッドの重田さんが病室の外に運ばれていった。
数時間後に重田さんは戻ってきた。
ぐったりとして顔色が青ざめていた。
まるで血が通っていないみたいだった。
こんな時はそっとしておくのが無言のルールだった。
この病室はガンの患者のための部屋だった。
なぜ盲腸の僕がここにいるのか。他に部屋があいてなかったからである。
手術台と同じだ。
窓際のベッドの島袋さんは、いつも僕らに背を向けて窓の外を見ていた。
島袋さんは誰ともあまり話をしない。誰かがお見舞いに来ることもなかった。
小針さんは最年長で、頭に髪の毛が一本もない。
冗談が好きでいつも人を笑わせていた。
奥さんが来た時だけなぜか無口になった。
重田さんのあの治療は一日おきに行われた。
戻ってくるたび顔色はさらに青くなり、衰弱していくようだった。
それぞれが自分の病気と静かにたたかっていた。
自分一人だけが毎日良くなっていく。それが申しわけないような気がした。
ある日の夕方、窓から見える工場の屋根に赤い日が反射していた。
「屋上行こうぜ」
小針さんが言った。
僕は喜んでついていくことにした。
珍しく島袋さんが一緒に来た。
エレベーターに乗って屋上に上がった。
並んだ洗濯物の白いシーツが夕日を受けてピンクに染まっていた。
西の空の雲の中に日が落ちようとしていた。
「やあ、夕日だ、夕日だ」
と小針さんがうれしそうに言った。
「夕日だ、夕日だ」
と僕もうれしそうに言った。
「久米島の夕日はもっときれいなんだがな」
と島袋さんがつぶやいた。
島袋さんの故郷は久米島であることを知った。
川崎に来て工場で働き始めてからもう何年も帰ってないそうだ。
故郷を遠く離れて病気になった島袋さんの気持ちを思った。
久米島の夕日、見たいだろうなあ。
「見ればいいよ」
と小針さんが言った。
「見ればいいよ。元気になって久米島に帰ってさ」
西の空の雲が次第に赤く染まりだした。
一秒ごとに色が深くなり、空が赤く燃え始めた。
僕らは黙って見とれていた。
世界の片隅の工場街のこんな古いきたない病院の屋上で
パジャマ姿の3人が夕焼けを見ていた。
生きているんだ。
そう叫びたい気分だった。
その時、後ろでドアが開く音がした。
重田さんが出てきた。看護婦さんに支えられて。
よろよろとした足取りでゆっくりと歩く。
たちどまって、空を眺めた。
重田さんの青い顔が夕焼けで赤く染まった。
血が駆け巡っているみたいだった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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上田浩和 2022年11月6日「女の子ちゃん」

女の子ちゃん

    ストーリー 上田浩和
       出演 大川泰樹

女の子ちゃんは考える。
男の子はなんで立っておしっこするんだろう?
どんな気分なの?
気持ちいいの?
ちょっとお行儀わるくない?
じょぼじょぼうるさいし。はねるし。

男の子はお外でも平気でおしっこするよね。
はずかしくないの?
風邪ひかないの?
木に向かってするのはなぜ?
木の栄養になるってこと?
その木にみかんがなったら、味はもしかして…。

女の子ちゃんはそんなことを考える。
座っておしっこしながら考える。
座るといろいろ考える。
男の子は座らないから、おバカなんじゃないの?

女の子ちゃんには夢がある。
プリンセスになること。
だからツメをかむのも我慢する。
ほんとうはがしがしかみたい。
でも、プリンセスになりたいなら、
お行儀よくしないといけない。
あと結婚もしないとね。
相手はパパがいいんだけど、
そうなると、パパとママは離婚しないといけないらしい。
ある日、女の子ちゃんが、
ママに「パパと別れてくれる?」と聞いた時は即答だった。
いいわよ。一瞬の迷いもなかった。

さっきまで降っていた雨があがった。
保育園の教室から見上げた空には、虹の予感があった。
お昼の2時に虹が出た。
男の子たちのあいだではやっているダジャレを
女の子ちゃんも言ってみた。
言った瞬間、ダジャレのどこがおもしろいんだろうと思った。

パパもやっぱり男の子だったのかな。
きっとそうに違いない。
パパも立っておしっこするし、ダジャレも言う。
校長先生、絶好調。
それのどこがおもしろいんだろう。

もう雨雲は見当たらない。
空はそろそろ夕焼けの準備をはじめる頃だろう。
もうすぐママが迎えにくる。
ママとパパが別れたら、
ママがお迎えにくることはなくなるのかな。
女の子ちゃんは泣きそうになった。
プリンセスになるためには仕方ないのかな。
プリンセスの笑顔がどことなくさみしそうなのは、
きっといろんな理由があるんだろうな。

女の子ちゃんも、来年は小学生。
校長先生に会ったら、
パパの言ったダジャレのおもしろさにも気づくかもしれない。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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中山佐知子 2022年10月30日「青い鳥」

青い鳥

ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

1879年の4月8日は
イギリスの牛乳屋にとって特別な日だった。。
この日、初めてミルクはガラス瓶で配達されたのだ。
それまではミルク売りがくると
おかみさんたちは瓶や水差しを持って家から出てきて
馬車に積んだミルクをおたまですくって買っていた。
朝昼晩、一日3回牛乳売りが来ていた時代だ。

さて、このガラス瓶のミルクが定着した1920年代のはじめ
イギリスの南部の街サウサンプトンの郊外で
アオガラという青い羽を持つ小鳥が
玄関口に配達された瓶の蓋をこじ開けて
盗み飲みをする姿が目撃された。
蓋のすぐ下には乳脂肪たっぷりのクリームが固まっている。
それを飲んでしまうのだ。

やがて黒いネクタイのシジュウカラや
とんがり帽子のヒガラもアオガラを見習うようになり
イギリス中でミルクを盗む小鳥が目撃されるようになった。
それから赤いチョッキのコマドリがやってきて
アオガラのお余りを飲むようになった。
さらに少し離れた茂みにはキツネが座り込んで順番を待っていた。
小鳥たちはすっかり牛乳配達のファンになった。
彼らは常に配達のクルマを取り巻き、
隙を見つけては配達する前のミルクを飲んだ。
ある学校に配達された300本の牛乳のうち
50本以上が盗み飲みされていた日もあったという・

ミルク瓶の蓋はいろいろ開かない工夫が考えられたが
状況は改善されなかった。

ミルクを受け取る人が鳥を理解する必要があるという
意見が出された。
鳥は見つけたものを食べにくるのだから、
見えなくすればいい。
頑丈な牛乳箱の登場だった。

動物学者は鳥の社会的行動について研究を深め、
カメラを持っている人はプロもアマチュアも
小鳥がミルクを飲んでいる写真を撮りたがった。
ミルク瓶と小鳥の絵は人気のカードにもなった。

不思議だったのは何十年も被害に遭い続けた人々から
鳥を追い払えという意見が出なかったことである。
ある新聞にはこんな投書が届いた。
「私たちが小鳥の棲む森を奪ったのです。
 人間の愚かな行為が彼らを追い詰めたのです。」

いまアオガラはミルクを盗むのをやめている。
配達が減って、みんな店でミルクを買うようになったし
瓶の蓋も開けにくくなったのもあるが、
庭のある家ではチーズやベーコンの皮、ナッツなどのご馳走を
置いてくれるのだから
わざわざ開けにくい蓋に挑戦する必要もない。

イギリスは鳥を愛する国である。
バードウォッチング発祥の地で、日常の話題のひとつが自然科学だ。
野鳥の数は、持続可能な農業の土地利用の目印になっている。
しかし、この国でさえ2012年に発表された報告によると
野鳥は半世紀でおよそ20%、4400万羽減っている。

2017年、王立鳥類保護協会では庭で野鳥を助ける提案をした。
その中には庭で野菜を育て、
その野菜につく害虫を食べてもらうと言う提案が含まれていた。




出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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佐藤充 2022年10月23日「ミルク色の霧のなか」

ミルク色の霧のなか。

  ストーリー 佐藤充
     出演 地曳豪

どこにいても仕事ができるようになった。

1ヶ月、帰省した。

実家のベッドで大の字になる。
天井にシミがある。
高校時代も同じシミを見ていた。
あの頃はずっと見ていると人の顔に見えて少し怖かった。
喋り出しそうで、本当のこと言いそうで、聞きたくないこと言いそうで。

高校時代。

北海道の旭川にいる。
大人になったら実家のデリヘルを継ぐと思っている。
土方と美容師と自衛隊とデリヘルしか仕事がないと思っている。
自転車があればどこへでもいけると思っている。

今いる友達とずっと大人になっても遊んでいると思っている。
世界で1番おいしいのはスープカレーだと思っている。
そのとき付き合っている女の子と結婚すると思っている。
湯上がりに行く犬の散歩のときの肌に触れる風が好きでいる。

担任のクラヤ先生と分かり合えなさすぎて悩んでいる。
オナニーしすぎると頭が悪くなるとネットに書かれた言葉を信じている。
車に轢かれてもなぜか自分だけは無傷で死なないと思っている。
隕石が落ちてきても自分と好きな人の2人は生きていると思っている。

授業中にテロリストが襲撃してきたときのシミュレーションをしている。
サッカーを辞めたことを少し後悔している。
バイトを休みたいと思っている。
980円で焼肉食べ放題の焼肉カルイチに毎日のように放課後行っている。

千代の山公園で夏にある盆踊り大会を楽しみにしている。
PS2のみんなのテニスで増井が負けを認めないのでイラッとしている。
安田美沙子の京都弁にハマっている。

娯楽もない。事件もない。
その割に変質者と性犯罪が多い。
EXILEと西野カナの影響が異常で、
何か変なことをしたらすぐに噂になり、
イオンに行けば知り合いに会うこの街に、
息苦しさや閉塞感を覚えている。
ここではないどこかへ行きたいと思っている。

いま。

東京にいる。
デリヘルは継いでいない。
あの頃は知らなかった職業についている。
自転車はもう10年くらい乗っていない。

あの頃の友達とは、よくて正月に会うほどになっている。
あの頃いつも集まっていられてどれだけ幸せなことだったのかを知った。
いまの方が宿題はある。毎日が夏休み最終日みたいだ。
いまでもスープカレーが世界で1番美味しい。
が、他にもいろんな美味しいものがあることも知っている。
実家のごはんのありがたさにも気づいた。

あの頃付き合っていた女の子とはお別れをした。
湯上がりの犬の散歩をしているときの肌に触れる風も気持ちいいけど、
サウナ後の下北沢の風も気持ちいい。
担任のクラヤ先生がかわいく思えるほどいろんな人がいることを知った。

ネットに書かれた言葉は信用しすぎないようにしている。
車に轢かれたら、ぜんぜん死ぬ気がする。
隕石が落ちてもやっぱり好きな女の子と2人生きている気がする。
業務中にめんどうな頼み事をされたときのシミュレーションをしている。

仕事を休みたい日もある。
毎日のようにコンビニのお弁当を食べている。
増井にはLINEをブロックされたのでちょっとイラッとしている。
今は安田美沙子の京都弁にはハマってない。
息苦しさや閉塞感を感じる街からはでた。

また天井のシミを見る。
シミは喋り出さない。
本当のことを言わない。
聞きたくないことも言わない。
もう怖くない。すこしさみしい。
窓から入ってきた夜明けの風がカーテンを揺らす。
朝露に濡れた青い草のにおいがする。
ミルク色の霧のなか、久しぶりに犬の散歩へ行く。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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2022年10月16日 遠藤守哉 朗読「悟浄歎異」より抜粋

「悟浄歎異 」  より抜粋
      
          作:中島敦
          朗読:遠藤守哉

三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。
変化(へんげ)の術ももとより知らぬ。途(みち)で妖怪(ようかい)に襲われれば、
すぐに掴(つか)まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。
この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉(ひと)しく惹(ひ)かれているというのは、
いったいどういうわけだろう? 
 (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空(ごくう)も八戒(はっかい)も
  ただなんとなく師父(しふ)を敬愛しているだけなのだから。)

私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに
惹(ひ)かれるのではないか。
これこそ、我々,妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。
三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)
位置を―その哀れさと貴(とうと)さとをハッキリ悟っておられる。
しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。
確かにこれだ、我々になくて師に在(あ)るものは。
なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。
しかし、いったん己(おのれ)の位置の悲劇性を悟ったが最後、
金輪際(こんりんざい)、正しく美しい生活を真面目(まじめ)に続けていくことが
できないに違いない。
あの弱い師父(しふ)の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。
内なる貴さが外(そと)の弱さに包まれているところに、
師父の魅力があるのだと、俺(おれ)は考える。
もっとも、あの不埒(ふらち)な八戒(はっかい)の解釈によれば、
俺たちの――少なくとも悟空(ごくう)の師父に対する敬愛の中には、
多分に男色的要素が含まれているというのだが。

 まったく、悟空(ごくう)のあの実行的な天才に比べて、
三蔵法師は、なんと実務的には鈍物(どんぶつ)であることか! 
だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。
外面的な困難にぶつかったとき、師父は、
それを切抜ける途(みち)を外に求めずして、内に求める。
つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。
いや、そのとき慌(あわ)てて構えずとも、
外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、
平生(へいぜい)から構えができてしまっている。
いつどこで窮死(きゅうし)してもなお幸福でありうる心を、
師はすでに作り上げておられる。
だから、外に途を求める必要がないのだ。
我々から見ると危(あぶ)なくてしかたのない肉体上の無防禦(むぼうぎょ)も、
つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。
悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、
しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が
世には存在するかもしれぬ。
しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、
何も打開する必要がないのだから。

 悟空には、嚇怒(かくど)はあっても苦悩はない。
歓喜はあっても憂愁(ゆうしゅう)はない。
彼が単純にこの生を肯定(こうてい)できるのになんの不思議もない。
三蔵法師の場合はどうか? 
あの病身と、禦(ふせ)ぐことを知らない弱さと、
常に妖怪(ようかい)どもの迫害を受けている日々とをもってして、
なお師父(しふ)は怡(たの)しげに生を肯(うべな)われる。
これはたいしたことではないか!

 おかしいことに、
悟空は、師の自分より優(まさ)っているこの点を理解していない。
ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。
機嫌(きげん)の悪いときには、
自分が三蔵法師に随(したが)っているのは、
ただ緊箍咒(きんそうじゅ)(悟空の頭に箝(は)められている金の輪で、
 悟空が三蔵法師の命に従わぬときには
この輪が肉に喰(く)い入って彼の頭を緊(し)め付け、
 堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。
そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、
妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。
「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」
と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍(れんびん)だと
自惚(うぬぼ)れているらしいが、
実は、悟空の師に対する気持の中に、
生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬(いけい)、
美と貴さへの憧憬(どうけい)がたぶんに加わっていることを、
彼はみずから知らぬのである。

 もっとおかしいのは、
師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。
妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。
「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。
だが、実際は、どんな妖怪に喰(く)われようと、師の生命は死にはせぬのだ。

 二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、
ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。
およそ対蹠(たいせき)的なこの二人の間に、
しかし、たった一つ共通点があることに、俺(おれ)は気がついた。
それは、二人がその生き方において、ともに、所与(しょよ)を必然と考え、
必然を完全と感じていることだ。
さらには、その必然を自由と看做(みな)していることだ。
金剛石(こんごうせき)と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、
その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、
ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。
そして、この「必然と自由の等置(とうち)」こそ、
彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?

 悟空(ごくう)、八戒(はっかい)、俺(おれ)と我々三人は、
まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。
日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、
三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。
悟空はかかる廃寺こそ究竟(くっきょう)の妖怪(ようかい)退治の場所だとして、
進んで選ぶのだ。
八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫(おっくう)だし、
早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、
俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精(ようせい)に満ちているのだろう。
どこへ行ったって災難に遭(あ)うのだとすれば、
ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。
生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 
生きものの生き方ほどおもしろいものはない。

 孫行者(そんぎょうじゃ)の華(はな)やかさに圧倒されて、
すっかり影の薄らいだ感じだが、
猪悟能八戒(ちょごのうはっかい)もまた特色のある男には違いない。
とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。
嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執(しゅう)しておる。
あるとき八戒(はっかい)が俺(おれ)に言ったことがある。
「我々が天竺(てんじく)へ行くのはなんのためだ? 
善業を修(ず)して来世に極楽に生まれんがためだろうか? 
ところで、その極楽(ごくらく)とはどんなところだろう。
蓮(はす)の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけでは
しようがないじゃないか。
極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、
こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張(ほおば)る楽しみがあるのだろうか? 
そうでなくて、話に聞く仙人のように
ただ霞(かすみ)を吸って生きていくだけだったら、
ああ、厭(いや)だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! 
たとえ、辛(つら)いことがあっても、
またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世が
いちばんいいよ。少なくとも俺(おれ)にはね。」
そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。
夏の木蔭(こかげ)の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛(すいてき)。
春暁の朝寐(あさね)。
冬夜の炉辺歓談。……なんと愉(たの)しげに、
また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! 
ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、
彼の言葉はいつまで経(た)っても尽きぬもののように思われた。
俺はたまげてしまった。
この世にかくも多くの怡(たの)しきことがあり、
それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、
考えもしなかったからである。
なるほど、楽しむにも才能の要(い)るものだなと俺(おれ)は気がつき、
爾来(じらい)、この豚を軽蔑(けいべつ)することを止(や)めた。
だが、八戒(はっかい)と語ることが繁(しげ)くなるにつれ、
最近妙なことに気がついてきた。
それは、八戒の享楽主義の底に、
ときどき、妙に不気味なものの影がちらりと覗くことだ。
「師父(しふ)に対する尊敬と、
孫行者(そんぎょうじゃ)への畏怖(いふ)とがなかったら、
俺はとっくにこんな辛(つら)い旅なんか止めてしまっていたろう。」
などと口では言っている癖に、
実際はその享楽家的な外貌(がいぼう)の下に戦々兢々(せんせんきょうきょう)として
薄氷を履(ふ)むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。
いわば、天竺(てんじく)へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、
幻滅と絶望との果てに、最後に縋(すが)り付いたただ一筋の糸に違いないと
思われる節(ふし)が確かにあるのだ。
だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽(ふけ)っているわけにはいかぬ。
とにかく、今のところ、俺は孫行者(そんぎょうじゃ)からあらゆるものを
学び取らねばならぬのだ。
他のことを顧みている暇はない。
三蔵法師の智慧(ちえ)や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。
まだまだ、俺は悟空(ごくう)からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。
流沙河(りゅうさが)の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 
依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(きゅうあもう)ではないのか。
この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。
平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、
毎日の八戒の怠惰(たいだ)を戒(いまし)めること。
それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。
俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、
調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。
けっして行動者にはなれないのだろうか?
 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。
「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。
 自分は燃えているな、などと考えているうちは、
 まだほんとうに燃えていないのだ。」と。
悟空(ごくう)の闊達無碍(かったつむげ)の働きを見ながら俺はいつも思う。
「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、
おのずと外に現われる行為の謂(いい)だ。」と。
ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。
学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気の持つ桁違(けたちが)いの大きさに、
また、悟空的なるものの肌合(はだあ)いの粗(あら)さに、
恐れをなして近づけないのだ。
実際、正直なところを言えば、悟空は、
どう考えてもあまり有難(ありがた)い朋輩(ほうばい)とは言えない。
人の気持に思い遣(や)りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。
自己の能力を標準にして他人(ひと)にもそれを要求し、
それができないからとて怒(おこ)りつけるのだから堪(たま)らない。
彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。
彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解(わか)る。
ただ彼には弱者の能力の程度がうまく呑(の)み込めず、
したがって、弱者の狐疑(こぎ)・躊躇(ちゅうちょ)・
不安などにいっこう同情がないので、
つい、あまりのじれったさに疳癪(かんしゃく)を起こすのだ。
俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、
彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。
八戒はいつも寐(ね)すごしたり怠(なま)けたり化け損(そこな)ったりして、
怒られどおしである。
俺が比較的彼を怒らせないのは、
今まで彼と一定の距離を保っていて
彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。
こんなことではいつまで経(た)っても学べるわけがない。
もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、
どんどん叱られ殴られ罵られ、こちらからも罵り返して、
身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。
遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

 夜。俺(おれ)は独(ひと)り目覚めている。
 今夜は宿が見つからず、山蔭(やまかげ)の渓谷の大樹の下に草を藉いて、
四人がごろ寐(ね)をしている。
一人おいて向こうに寐ているはずの悟空(ごくう)の鼾(いびき)が
山谷(さんこく)に谺(こだま)するばかりで、
そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。
夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。
俺は先刻から仰向(あおむ)けに寐ころんだまま、
木の葉の隙(あいだ)から覗(のぞ)く星どもを見上げている。
寂しい。何かひどく寂しい。
自分があの淋(さび)しい星の上にたった独りで立って、
まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。
星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、
どうも苦手(にがて)だ。
それでも、仰向(あおむ)いているものだから、
いやでも星を見ないわけにいかない。
青白い大きな星のそばに、紅(あか)い小さな星がある。
そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、
それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。
流れ星が尾を曳(ひ)いて、消える。
なぜか知らないが、そのときふと俺は、
三蔵法師(さんぞうほうし)の澄んだ寂しげな眼を思い出した。
常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫(あわ)れみを
いつも湛(たた)えているような眼である。
それが何に対する憫れみなのか、
平生(へいぜい)はいっこう見当が付かないでいたが、
今、ひょいと、判(わか)ったような気がした。
師父(しふ)はいつも永遠を見ていられる。
それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をも
はっきりと見ておられる。
いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、
それでも可憐(かれん)に花開こうとする叡智(ちえ)や
愛情(なさけ)や、そうした数々の善(よ)きものの上に、
師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差(まなざし)を
注(そそ)いでおられるのではなかろうか。
星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。
俺は起上がって、隣に寐(ね)ておられる師父の顔を覗(のぞ)き込む。
しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、
俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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三島邦彦 2022年9月25日「眼の多さについて」

「眼の多さについて」 

ストーリー 三島邦彦
   出演 遠藤守哉

それがとんぼだと気づいた時にはもう遅かった。
日本海に浮かぶ小さな島の港のそばにある宿で早めの夕食をとった後、
腹ごなしに船小屋が並ぶ海沿いの道を歩いていると
薄暗いかたまりに出くわした、
と思った時にはもうそのかたまりに飲み込まれていた。

それはとんぼだった。
数百匹のとんぼが静かに羽音を立てている。
全身をとんぼの群れに包囲されたまま、
さてどうしたものかと考えていると、
一匹のとんぼが話しかけてきた。

「いくつもの目を持つということがどういうことかわかるかい。」
こちらの回答を待たずにとんぼは話を続けた。
「人間には二つしか目玉がないだろう。
とんぼには一匹あたり一万を超える目玉がある。
一万を超える目玉が同時にものを見ているわけだ。
ここには今、数百匹のとんぼがいる。
その全部のとんぼが一万の目で見ているんだ。」

とんぼは続けてこう言った。
 「とんぼがどういう世界を見ているかを想像してみるといい。
  二つの目玉で見えている世界から、目玉を一つずつ増やしていくんだ。
そしてそれをずっと繰り返すんだ。」
そこでとんぼは沈黙した。

静けさの中で、二つの眼で見えている視界から、
眼を一つずつ増やすことをイメージしてみた。

見えている世界を万華鏡のように
いくつもの面に切り取っていく。
しかしそれはどうにも一つの像を結ばなかった。
そして、一万というのはいくらなんでも多すぎる。
そう思ってあきらめた。
「頭がくらくらするよな。」

またとんぼが話しかけてきた。
「一万の眼というのは多すぎる、と思っただろう。
その通りなんだ。多すぎるんだよ、一万の眼は。」
そう言うと、とんぼたちはどこかに行ってしまった。

日が暮れた海のそばで静かな波音を聴きながら、
一匹のとんぼはこの夜を一万の眼で見ているのだと思った。



出演者情報:遠藤守哉

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