小野田隆雄 2010年3月18日


Photo by (c)Tomo.Yun


お千代さんの思い出
            

ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

お千代さんというママが銀座にいました。

バブルがふくらみ始めた、

一九八〇年代半ばのお話です。

「私は十九歳の時、このお仕事を

 始めました。最初のお店は

 五丁目の裏通りにある

 ホームズというカウンターバーでした。

 このお店は、いまもございます。

 近頃では、とても高級なお店に

 なりましたけれど。
 
亡くなる前の太宰(だざい)さんが

 よくお見えになりました。
 
いつもウイスキーを

 ストレートグラスでお飲みでした」
太宰さんとは、太宰(だざい)治(おさむ)のことです。


ところで、あのバブルの頃には、

お千代さんは、ほんとうはもう、

五十代に入っていたと思います。

いつも和服姿でした。

面長(おもなが)の、竹久夢二の描く女性のように、

美しい横顔をしていました。
お店の名前は「まあま」。

並木通りの八丁目にありました。

「まあま」とは中国語で、

お母さんという意味です。
私が「まあま」を知ったのは三十歳の頃。

テレビドラマの脚本を書いていましたが

まだまだ駆け出しでした。

あるテレビ局のディレクターの男性に

食事に誘われ、その帰り道に

「まあま」に寄ったのでした。
正直にお話ししすると、当時の私は

そのディレクターとの、

恋というよりも、ただの不倫な関係を

終りにしようと考えていたのですが、

初めて会ったのにお千代さんは、

すぐに私の悩みを

感じとってくれたのです。

彼女のまなざしが、

「だいじょうぶよ。ご自分を大切にね」

そう、ささやいてくれたと、

思えたのです。


それから私は、「まあま」にひとりで

訪れるようになりました。

そして、気づきました。

いつもカウンターのいちばん奥に、

赤いスイートピーが、十四、五本、

細いガラスの花びんに

活(い)けられていることに。

それは、ある風の冷たい

冬の夕暮れのことでした。

開店したばかりのお店に

お客は私ひとりでした。

そのとき、ドアを静かにおして

上品な黒いスーツを着た、

若き日の石坂浩次のような青年が

赤いスイートピーの花束をもって

入ってきたのです。

彼はニッコリしながら、

花束をお千代さんに渡す。

お千代さんは、その花束を、

ガラスの花びんのスイートピーと

ていねいに入れ替える。

そして、つぶやくように、
青年にたずねる。

「お父さまは、お元気?」

青年がやさしい声で、答える。

「いま、カナダです。来月にもどります」

ハイボールを二杯飲むと、

彼が立ち上がる。

お千代さんが、ドアの外まで送っていく。

「雪になるかしらねぇ」

ドアの外から彼女の声が聞こえてきました。


結局、青年が何者かを知らないままで、

私は、大阪のテレビ局の仕事が
中心になって、
東京を離れました。

五、六年が過ぎて、バブルもはじけた頃、

まだ肌寒い早春に、私は東京に戻りました。

そして、白とピンクの花だけで作った
スイートピーの花束をもって、

お千代さんを尋ねたのです。

二階への階段を昇り、ドアの前に立つ。

けれど、そこには、もう

「まあま」の文字はありませんでした。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

shoji.jpg  
動画制作:庄司輝秋・浜野隆幸

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小野田隆雄 2010年1月14日



夢を、いつまでも
            
ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

古今和歌集の、恋の歌には

夢と恋について歌った作品が

数多くあるようです。

小野小町は、次のように歌いました。
いとせめて 恋しきときは

むばたまの 夜(よる)の衣(ころも)を

反(かえ)してぞ着(き)る
「あのひとのことが、恋しくて、

恋しくてならない夜は
せめて夢でもいいから
 
会いたいと思って、
 
夜の着物を裏返(うらがえ)しに着て
 
寝るのです。」
平安時代の頃、京の都の女たちは

寝(ね)間着(まき)を裏表(うらおもて)にして着て寝ると

夢の中で、恋人に会えると、

信じていたのだそうです。

なんだか、いじらしいような……

自分の望む夢を見たい。

そういう願いは誰にでもあって、

それが初夢、という習慣を

作ったのでしょうか。

新しい年の仕事始めは、

昔は一月二日でした。

それで、二日の夜に見る夢を、

今年の運を占う、という気持ちから

初夢と呼んだのでしょう。

けれど、どうせ見るのなら、

縁起の良(よ)い夢を見たい。

誰でも、そう思います。

それで、寝るまえに枕の下に

縁起の良い絵を敷いて

寝るようになったそうです。例えば、

一(いち) 富士(ふじ)、二(に) 鷹(たか)、三(さん) 茄子(なすび)。この三つを

初夢に見ると、縁起が良いそうです。

それで、この絵を枕の下に敷く。

でも、なぜ、この三つが縁起が良いのか、

いまでは、もう、わかりません。

それから、宝船の絵。金銀サンゴなど、

お宝をいっぱい積んだ船の絵です。

これは、いかにも縁起が良い。

もっとおめでたくて、もっと景気よく、

この宝船に七福神が、にぎやかに

乗り込んでいる絵もありました。

これは、日本のお話ではなくて、

アラビア半島の昔話だった

と思います。すこし記憶が、

あいまいなのですが。

さみしくて、恋がしたくて

たまらない男は、夜寝るときに

ベッドの下に、自分の好きな

花束を置いて寝ろ、というのです。

貧しくて正直なパン屋の青年は

匂いスミレの花束を、

ベッドの下に置いて寝ました。

すると、夢に、それはそれは

美しい少女が現われたのです。

青年は、なんだか、本当はいない妹に

めぐりあえたような気持になりました。

アラビアタバコを作る家の、

五人兄弟の長男は、ケシの花束を

ベッドの下に置いて寝ました。

とても、大人びて、セクシーな

美しい女性が夢に現われました。

でも、タバコ作りの長男は、

とても純情なので困ってしまいました。

シルクロードを旅する商人の男は、

ダマスクバラの花束を置いて寝ました。

やさしくて、あでやかな、

すばらしい女性が夢に現われました。

ああ、私は、あなたのような女性を

シルクロードで、きっと捜し出します。

男は、夢の中で、それこそ夢中で

彼女を抱きしめ、キスしようとしました。

あっ、痛い、と男は叫んで眼がさめました。

そう、ご想像のとおり、

ダマスクバラは美しいけれど、

それは、それは、たくさんのトゲを

持っているのでした。

美しい花を無事に咲かせるために、

そのトゲはあるのですね。

それでは、みなさま、
良い夢のある年を。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

shoji.jpg  
動画制作:庄司輝秋・浜野隆幸


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小野田隆雄 2009年12月10日



カノープス
            
ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

星の写真と文章で構成された、

「カラーアルバム星座の四季」という本を、

私が初めて手にしたのは

一九九六年、高校三年生の夏休みだった。

当時、私は大学受験のために

お茶の水にある予備校の、

夏期集中講座に通(かよ)っていた。

ある日の帰り道、突然の夕立に会い、

雨やどりに入った古本屋さんで

この本を見つけた。

私の家は静岡市にあり、

そのとき、姉の下宿に泊っていた。

姉は東大の理学部の三年である。

そして、私も来年、東大を

受験することになっていた。

私の母も、東大医学部卒業で、
静岡県の国立病院で働いていた。

「我が家は、女三人、東大。
 
別に意味ないけど、

 わるくないでしょ」
それが、母のくちぐせだった。

私たちの父は、いまは、いない。

芸大を出て、油絵を描いていたが、

なぜか家(いえ)を出て、いまは、

タヒチにいるらしい。
「ゴーギャンでもないのにねぇ」

そういって、母は、ときおり笑った。

古本屋さんで「星空の四季」を、

パラパラとめくって見るうち、

「春の夜明け、北西の空に沈む北斗七星」

という題名の写真に、なぜか、

気の遠くなるような、

なつかしさを憶えた。

その夜、私は、
サイン・コサイン・タンジェントを

片隅に追いやって、夜の更けるまで、

「星空の四季」を、眺め、文章を読んだ。

そして、冬の星座のページで、

カノープスという星の存在を知った。

この星は、大犬座(おおいぬざ)のシリウスについで、

全天で二番目に明るい星だけれど、

南半球の星なので、日本では、

南の地平線にかすかに見えるだけ。

オレンジ色に、あたたかく

ひかる星だという。

本のページには、まるで遠い灯(ともしび)のように、

地平線すれすれに光る、

カノープスが写(うつ)っていた。

私は、ふと、思った。

南半球の星だったら、

タヒチなら、よく見えるだろうか。

私は、行ったこともない、

見たこともない、タヒチの海岸に、

ひとり立って星を見上げている

男性の後姿を、思い浮べてみた。

まだ、私が幼稚園の頃に、

いなくなった父。

「星空の四季」という本は、一九七三年

誠文堂新光社から発刊された。
写真と文章と、両方とも
、
藤井(ふじい)旭(あきら)さんという方(かた)が作者である。

一九四一年生れ、山口県出身

多摩美術大学卒。そして彼は
、
星の世界に魅せられて、

とうとう、星空がよく見える福島県の

郡山市(こおりやまし)に移住してしまったと、

巻末の筆者紹介に書いてあった。

私は、そのとき、父に会いたいと思った。

藤井さんにもお目にかかりたいと思った。

カノープスも、この目で見たいと思った。

なんとなく、涙が出てきた。

けれども、なにか、すがすがしかった。

私は東大に入り、国文学を専攻した。

中世の説話文学を研究して、

いまは、仙台の大学の研究室にいる。

去年の冬、グァム島に行って、

ヤシの木陰に、初めてカノープスを見た。

じっと見つめていると

オレンジ色に、ゆっくりひかる

カノープスに向かって

大きな流れ星がふたつ、流れて消えた。


母は、すでに亡く、
父にも、結局、会っていない。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

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小野田隆雄 2009年11月12日



コスモスのタイムトンネル
            
ストーリー 小野田隆雄              
出演  久世星佳

奈良の大仏さまの近くに

東大寺戒壇院(かいだんいん)という建物が

ひっそりと建っている。

これから僧になろうとする者に

守らなければならない戒律(かいりつ)を

授(さず)けるために、八世紀に建立(こんりゅう)された。

いまは記念館になっているが、

そのあたりには、なんとなく、

厳しい雰囲気がただよっていて

訪れるひとも、あまりいない。

私立大学の美術史の助手をしていた私は、

二十世紀の終る頃、十一月の初めに

東大寺戒壇院を訪れた。

それは、何回めかの訪問だった。

当時の私は、三十二歳。

ふたりの男性と交際していた。

美術史の主任教授は、四十歳で独身。

かなり結婚願望があるようだった。

二十五歳の大学院の学生は、

おそろしいほどに情熱的だった。

私は、というと、結婚など、

考えてもみなかった。けれど、

男たちの、子供じみた独占欲に、

いささか、げんなりし始めていた。

あの日、戒壇院に入ったのは、午後三時。

建物の内部はうす暗く、

かたすみの、受付にあたるような場所に、

ひとりの年老いたお坊さんがいて、

私に言った。

「ともしび、お貸ししまひょか?」

みると、机の上に
懐中電灯がいくつか置いてある。

「ありがとう。でも、いいわ」

私はお礼を言いつつ、お断りした。

うす暗いなかに、ほのかに見える、

石造りの戒壇と、その周辺の板(いた)の間(ま)の、

ひんやりした陰影を、味わいたかった。

しばらく見つめたあと、私は暗い空間を

すこし歩き、扉をひらいて

戒壇院の外(そと)廊下(ろうか)に出た。

眼前に、白い砂を敷きつめた中庭(なかにわ)があり、

秋の光を、照り返している。

その明るさが眼にしみた。

そのとき、白い砂が、ゆらゆら揺れたと、

私は思った。けれど、その白い影は、

中庭に、ひともとだけ咲いている、

白いコスモスの花であることに気づいた。

白い砂と白い花、まぶしすぎる青い空、

そして瓦(かわら)屋根(やね)の黒い波。

白いコスモスは二メートル近くに伸び

枝をいっぱいに広げ、かすかに風にゆれ、

ささやくように咲いている。

一瞬、私は、軽いめまいを感じ、

その場にうずくまり、眼を閉じた。

石で造られた戒壇に若い僧が座っている。

板(いた)の間(ま)に立って中年の僧が、低い声で、

守るべき戒律を、若い僧に告げている。

そして、低い声で問いかける。
「
汝(なんじ)、この戒を、保(たも)つや否(いな)や」

若い僧が、眉をあげ、決然と答える。

「よく保(たも)つ」

その声が天井にこだまする。

すると中庭では、無数の白い花が散り、

その花びらは、ハラハラと舞いあがり、

青い空に、小鳥のように飛んでいく。

私は、眼をあけた。

コスモスが眼のなかで揺れている。

ひととき、私の魂は、

白いタイムトンネルを駆け抜けて、

八世紀の東大寺に遊んだのだろうか。

コスモス。

明治時代に日本にやってきた、

メキシコの高原に咲く花。

私の心を、

乾いた高原の風が、

吹きすぎていくのを感じた。

私は、そのときに決めた。

ふたりの男と、別れよう。

大学も辞めてしまおう。

あれから十年近くが過ぎて、
いま、
私はコスモスという花について、

ひとりで勉強している。

昼間は、保母さんをやりながら。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

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小野田隆雄 2009年10月8日



バイカル湖に伝わる物語
 
           
ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

ロシア連邦の南、

モンゴルとの国境に近く

バイカル湖という湖があります。

このあたり、いまは、にぎやかで、

イルクーツクという大きな都会もあり、

飛行場もあります。

けれど、百年ほどまえ、

シベリア鉄道が通るまでは、

森に囲まれた小さな村がいくつか、

のんびりと、あちらこちらに、
あるだけでした。

このお話は、その頃から

伝わっているお話です。

バイカル湖のほとりに近く、

深く美しい森がありました。

細い道を森に入っていくと、

最初のうちは、シラカバやカエデが

明るい影をつくり、草花も咲きみだれ、

木イチゴや野イチゴ、そしてクルミも

みのります。その道を、奥へ、奥へ、

たどっていくと、ブナやカシワや

モミの木が、空いっぱいに枝をひろげて、

昼でも暗いほどに、立ちふさがっています。

そして、ここから奥へつながる道は、

もうありません。かすかに遠く、

木間隠(このまがくれ)にバイカル湖の青い水面(みなも)が、

ひかっています。大きな岩も立っています。

けれど、それは本当の岩ではなくて、

この森に住む、森の精のお家(うち)だったのです。

森の精は、すこし背なかが曲がっています。

銀色の、風のマントをはおり、

ブナの樹皮(じゅひ)でつくった上着とズボン、

カシワの木で作った、太く長く、

曲がりくねった杖をつき、

深緑の髪、トルコ石のような瞳。

もう、百年を二十回以上くり返すほど、

生きてきました。けれど、やさしくて、
少年のような心を持っています。

人間の少女たちが大好きで、

近所の村から少女たちが、

草の実や木の実を摘みにやってくると、

森の精は、そっと、カシワの杖で

地面をたたき、いちばん甘い

木イチゴのある場所を

教えてあげるのでした。

けれど、遠くの村から、

乱暴な猟師たちが、犬をいっぱい連れて、

ずかずかと入ってくると、

森全体がゆれるほどに、カシワの杖で

地面をたたき、ウサギやシカやキツネ、

オオカミやトラまでも、

森の奥深くへ、逃がしてしまうのでした。


まい年まい年、秋が終る頃、

森の精が、風のマントをひるがえすと、

最初の吹雪が襲来し、バイカル湖の水が、

カチカチに氷り始めるのでした。

いつもいつも、冬が終る頃、

森の精が、口笛を高く吹くと、

雪割り草の花が、咲き始めるのでした。

まい年まい年、いつもいつも……

けれど、百年ほどまえ、

森の精は岩のお家で、夢を見ました。

森のなかに、たくさんの人間が入ってきて、

オノをふりまわして、

木を倒しているのです。

動物たちが、バイカル湖へ、

群(むれ)になって逃げていきます。

そして、もっと西のシベリア平原から、

黒い巨大な龍が、火と煙を吐きながら、

長い長い二本の鉄の棒の上を

叫びながら、走ってくるのです。

シベリア鉄道が、モスクワから

バイカル湖に到着する日の、まえの晩。

ひとりの少女は、屋根裏部屋の、

小さな窓から、見たのでした。

オリオン座の三つ星の近くを、

森の精が、マントを広げ、杖にまたがり、

もっと北の、深い森に向かって、

静かに飛び去っていく姿を、

見たのでした。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

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小野田隆雄 2009年9月17日



月見草の記憶

            
ストーリー 小野田隆雄
出演  久世星佳

十二の星座と十二の花言葉を組み合わせて、
私が、人生占いを始めたのは、
三十年ほど、昔のことでした。
最近は、歌舞伎座(かぶきざ)に近い木挽町で
お客さまの運命を見ています。
私は群馬県の赤城山に近い
桐生という街の
ふつうの公務員の家庭で育ち、
東京の私立大学を出て
ある出版社につとめました。
でも、そこを二年で退社して
占(うらな)い師の勉強を始めました。
私は、私の心のなかに、
ほかのひとには、わからないことが、
見えたり、聞えたりする力のあることを、
気づいていたからです。
そのきっかけになったことを、
お話したいと思います。

桐生の街の西側を、北から南へ、
渡良瀬川が流れています。
私の家は、その川の土手の、
すぐ近くにありました。
四歳か五歳の頃、ある秋の夕暮れに、
私は、土手の上から河原を見て
突然そこにお花畑が出来たかのように、
黄色い花がいっぱい咲いているのを、
みつけました。私は土手を駆けおり、
河原を走り、咲いている花のなかに
飛び込みました。花には四まいの
黄色い花びらがあり、その背丈は
高く、花が、私の胸もとに触れました。
花の中を歩いていると、
うっとりしてきました。
かすかに、甘い香りもするようです。
そのとき、せせらぎの音に気づきました。
ひと筋の流れが、乱れ咲く花のあいだに
くねくねと続き、川のまんなかあたりの
深くて速い、大きな流れに向かって、
走っているのでした。
ふと、見あげると、黄色い丸い月も
出ています。きれいだなと思いました。
そのとたん、石ころにつまづいて、
はいていた赤いサンダルが
片一方(かたいっぽう)だけ脱げて、
水の流れに落ちました。私はあわてて
サンダルに手をのばそうとして、
流れのなかに、ころびました。
私の右足のサンダルは、ゆらゆら流れて、
深くて速い川の中央部に、
飲み込まれていくのです。
私は、悲しくなって、
しゃがんで泣きだしました。
しばらく泣いていると、
私の肩に、温かい手が触れました。
私の家の隣の、かよこさんでした。
かよこさんは、高校生でした。
美しいひとで私は大好きでした。
きっと、泣いている私を、
土手の上から見つけてくれたのでしょう。

かよこさんは、私をおんぶしてくれました。
白いブラウスの背中から、水に濡れた私の
空色のTシャツの胸に、かよこさんの
肌のぬくもりが伝わってきます。
私は、ほっとした気持で、眼を閉じました。
そのとき、突然、半鐘の音が、私の耳に、
聞えてきました。あの時代の町や村で、
火事を知らせて打ち鳴らす鐘です。
「かよこねえちゃん。
 半鐘が鳴っているよ。
 境野(さかいの)が火事になるよ」
でも、かよこさんには、半鐘は
聞えないらしく、私に別のことを
聞きました。
「よしこちゃんは、あの黄色い花が
 なんの花だか、知っていたの?」
「月見草」。私はすぐに答えました。
でも、なぜ、そう言ったのか、私にも
不思議でした。誰にも教わった記憶など
なかったからです。

次の日の朝、私は両親が
話しているのを聞きました。昨夜、遅く、
桐生市のすぐ東隣の境野の町で、
大きな火災があり、
十数軒が燃えてしまっていたのです。

*出演者情報久世星佳 03-5423-5904シスカンパニー 所属

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