勝浦雅彦 2018年3月4日

さよならエメラルド

    ストーリー 勝浦雅彦
       出演 石橋けい

市場でのパートを終え、帰路を急いでいた。
冬の西陽を受け、停泊する漁船のレーダーマストの影が長くなる。
まるで自分に向かって突き立てられたようなその輪郭から逃れ、
加工所で働く仲間と別れ、舫い杭に沿って進むと、
ぼうぼうと防風林に向かって吹き付ける海風にとらわれた。
暫くの間歩みを止め、風に混じって頭に響いてくる誰かの声に耳を傾けた。
尤もそれは傍目から見れば、
消え入りそうな自身のか細い声で独白をしているに過ぎなかったのだが。

「真瀬恭子さんと付き合っていたのは高一の時です。
はい、正直、地味だし、好みのタイプじゃなかったんですけど、
強引に告白されたもので。
同じ演劇部で、僕は演出の真似事を。
演技ですか?彼女の?ああ、評判でしたよ、
学園祭の「オズの魔法使い」のドロシー役。
堂々としてたな。いえ、もう僕は演劇はとっくに。
あの、何かしたんですか?彼女」

「彼女の事はもちろん覚えています。
私は新任で、部活の顧問も初めての年でした。
面白い子がいるなって。
正直、器量がいいわけでも、演技が上手いわけでもないんです。
ただ、舞台の上では奇妙なくらい度胸がありました。
そして全く周囲の空気を読まない子でしたわね。
どんな脚本でも主役をやりたがるんです。
そうそう、私のお母さんは舞台女優だ、とよく言ってました。
でも彼女は確か父子家庭だったはずなのですが」

「恭子の話を聞かせてくれ、なんて言うから焦っちゃいましたよ。
あの子、何をしたのかと。はい、恭子とは親友だったと私は思ってます。
でも今は全然。番号も変わって音信不通で。
四年前ぐらいから急にパッタリと。
ほら、あの子いろいろあったから。
はい、写真?いや、知らないです。誰ですか、この人?」

「真瀬さんがうちの劇団に在籍していたのは二年くらいだったでしょうか。
なんせ綺麗でパッと目を引くでしょう。
うまく育ててうちの看板に、なんて最初はね。
でも、演技がいただけなかった。
なんというか、基本はできているんですけど、
役を演じながら、その役自体を拒絶しているのが伝わってくるんです。
結局、自分しか好きじゃない、認めていない。
だから全部同じ演技に見えてくる。
ある時、彼女を主役のオーディションで落としたんです。
その時から、主役に選ばれた同僚に執拗に嫌がらせを。
それを止めようとした私に今度は、乱暴された、なんて言い出しましてね。
仕方なく辞めてもらいました」

「恭子に関しては、本当になんと申し上げていいか。
私もどこにいるのかすら把握できておりませんで。
中学の時にあれの母親と離婚しましてね。
正確に言えば、男と逃げたのです。
もちろん本人もショックだったようですが、
私も思春期の娘と二人で不安な日々を生きてきたのです。
恭子は私似で、母親に全く似ていない。
それが随分不満のようでした。あれの母親は派手な顔立ちでしたから。
妻が舞台女優?いや、私からすれば遊びのようなものでしたよ。
ただ、恭子が演劇にのめり込んでいったのはその影響は否めないと思います。
ある時、ひどく真剣な表情で私に言ったのです。
名前が売れて、人目を集めるようになれば、
どこかで母親が見ていてくれるかな、と。
今でも後悔しているのです。あの時、戯言だと曖昧に頷いてしまったことを」

「恭子?ああ、カリンちゃんのことね。覚えてる。美人さんだったもの。
うちの店には三ヶ月もいなかったかな。うん、お金、困ってたみたい。
騙されたって言ってた。ある日何も言わずに出勤しなくなって。
そんな子多いんだけどね。
あの、失礼ですけど?ファン?一度彼女の舞台をみて?
へえ、あの子お芝居なんてやってたの。初耳。
でも、もう誰も覚えていなくても、たった一人でも
お客さんみたいな人がいたら、やってきた甲斐はあったのかもね」

古いモルタル造の自宅に着くと周囲をくまなく確認して白いマスクを外し、
ゆっくり引き戸を開けた。
この島に辿り着いて四年になるが、この習慣は変わらない。
日の落ちた廊下の窓に映った自分の顔を見つめる。
あんなに望んだ私の顔。
だが、海辺の日差しに晒され、シミが色濃くなっているのがわかる。
物音に気づいた三歳の娘が飛び出してくる。
まるで自分に似ていない。
俺に似たんだろう、すまないな、と笑う夫を、
この先好きになれる自信がいまだになかった。

夕食後、洗濯物を畳んでいると、テレビから聞き慣れた懐かしい旋律が流れた。
「オズの魔法使い」。ブロードウェィの劇団が来日するらしい。
可愛らしい女の子の歌が耳に入ってくる。
しばらくぼんやり眺めていたが、
壁の時計を見やり、慌ててスイッチを切ると、
夢と冒険の世界は呆気なく消えた。
娘の服を脱がし風呂に入れる。一緒に湯船につかった。
体が熱くなるよりも先に、頬にあたたかいものが流れた。
娘がじっと不思議そうに覗き込んでくる。
あなたはよくやった。ただ、そう言って欲しかった。
おどけたふりをして、湯に浮かんだ水鉄砲のおもちゃで自分の涙を撃った。



出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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小山佳奈 2018年2月11日

メッセージとマッサージ

    ストーリー 小山佳奈
       出演 石橋けい

「メッセージとマッサージって似てるよね」
わたしはいつも以上に力をこめて
彼氏の肩甲骨のこりをほぐしながら言った。

自分がこっている人はマッサージが上手というのは本当で
マッサージが得意だったわたしは
彼氏のこりをほぐすのが日課になっていた。
首の右側の付け根がこっている時は
重たい書類を持ってクライアントを回ってたんだろうなと思うし
肩甲骨がガチガチな時には
一日中パソコンに向かって大変だったんだろうなと思う。
マッサージは、メッセージ。
マッサージをすると彼氏のたいていのことはわかると
わたしは勝手に自信を持っていた。

しかし昨晩、神妙な顔つきで彼氏が
「他に好きな子がいる」と言い出したことによって
その自信は、見事に砕けた。
聞けば会社の同じチームの新入社員だという。
こっちは仕事のことをあれこれ心配しながらマッサージしていたけど
実はずいぶんと楽しんでたんじゃないか。
マッサージは、メッセージなんかじゃなかった。
けれどもわたしは泣かなかった。
その代わり、へらへらと笑いつづけた。
彼氏はただひたすら謝りつづけた。

そうしてほとんど寝ないで迎えた翌朝、
出て行こうとする彼氏に
最後にマッサージをさせてと懇願した。
「その子、マッサージ得意?」
「全然」
「そうだよね、若いと肩とかこらないもんね」
そんなどうでもいいことを言いながら
わたしはへらへらとした笑顔で駅まで彼氏を見送り
その足で近所のマッサージやさんに行った。
人にもんでもらうのは久しぶりだった。

おでこのきれいな女性の店員さんがやってきて
首、肩、背骨、腰、ひととおりやさしく手で触れて言った。
「お客さん、何かありました?」
そう言われた瞬間、
わたしの中で何かがぶわりと崩壊した。
怒りが、悔しさが、嫉妬が、絶望が、
わたしの体からあふれでる。

どうしてその子がよかったんだろう。
なぜわたしじゃダメだったんだろう。

「それじゃ始めますね」
肩甲骨に指をぐりぐりと入れられながら
わたしは顔を枕に押しつけて泣きつづけた。



出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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波間知良子 2017年9月3日

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8月32日

    ストーリー 波間知良子(ちよこ)
       出演 石橋けい

9月が消えた。突然だった。
もしかしたらもっとずっと前にいなくなっていたのかもしれないけれど
8月が終わるまで誰も気づかなかった。

実を言うと僕はときどき9月の悩みを聞いてやっていた。
8月の次という順番のせいでいかにみじめな思いをしているか
というのがそのおもな主張だった。

9月はいつも、美人でスタイルもいい同級生の隣に
引き立て役として並ばされているような居心地の悪さを感じていたようだ。

8月はあまりにも特別だ。
海。プール。花火。スイカ割り。入道雲。セミの声。
甲子園。キャンプ。盆踊り。アイスクリームにかき氷。
長い夏休みのなくなって久しい大人も
8月と聞けばときめきや解放感を感じるし、
そうでなくてもまぶしい夏の思い出のひとつくらいは
誰もが持っているだろう。

それに他の季節とは違って、夏は終わりの日が決まっている。
どんなに暑さが続いても、台風がいくつ来ても、
夏は8月31日で終わり。9月1日からは秋だ。
暦の上での立秋とは違うもっと感覚的なものとして
それは日本人の中に刷り込まれている。

冷酷に振り下ろされる夏の終わりは
むしろ人々の心をうっとりとさせる効果を持つ。
現実の日々に急に放り出された人々は
8月への郷愁を抱きながら9月をやり過ごそうとする。
9月1日を、8月32日などと呼んで。

9月はいつも、自分とデートしているのにもかかわらず
美人でスタイルのいい同級生の話ばかり聞かされているような気持ちがしていた。

近頃の異常な夏の暑さで8月の人気が下がると期待したが、
当然9月も暑くなった。
「もう9月なのに夏みたいに暑い、勘弁してくれ」などと言われ、
いよいよ自分が何者なのかわからなくなった。
人々は夏が続いていて欲しいのか。秋を求めているのか。
自分はいったい夏なのか。秋なのか。どこを目指せばいいのか。
アイデンティティの喪失。

9月はいちどゆっくりと自分を探しに行きたいと言った。
僕は9月には9月のいいところがあるじゃないか、
もっと自分に自信を持って、と励ましたが、9月の決意は固かった。

8月と9月の間について、
つまりは夏と秋の間について考えるとき、
いつも思い浮かべるものがあるの、と9月は言った。
地球が球体であると証明される前に
この世界の想像図として描かれていた円盤状の地球。
円盤の淵からは海水がこぼれ落ちている。
こぼれ落ちた先は描かれない。
もうそこは地球ではないから。
8月31日の淵からは夏がこぼれ落ちてくる。
でももうそこは夏ではないのよ。

そうして9月はどこかへ行ってしまった。
政府は応急処置として8月を1カ月延長することに決めた。
8月32日が、本当にやってきた。

石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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川野康之 2017年5月7日

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ボタン

     ストーリー 川野康之
       出演 石橋けい大川泰樹

(女)
目が覚めて、いつものようにボタンを押そうとして、
その手が少し止まった。
コンマ何秒かだけど、押すのが遅れた。

おはよう。カーテンあけるで。うほーまぶしい!

そう言って彼は快活にベッドから飛び起きたけど。
気がついたはずだ。わたしが少しの時間、
彼のボタンを押すのをためらったことを。
彼のセンサーはちょっとした変化も見逃さない。
今は台所でトーストを焼きながら、
わたしの心の中に起きた小さな変化について考えているだろう。

わたしの顔を覆っていたふとんがはがされた。
まぶしい。閉じていたまぶたを少しずつ開ける。
目の前10センチのところに彼の目があった。

いつまで寝てるねん。
ほら、起きて。
目玉焼きできたで。
ええ匂いしてるやろ。

彼と暮らし始めてから3か月になる。
毎朝彼はわたしに目玉焼きを作ってくれる。
だんだんわたし好みの味になってきた。
彼の芸人のような関西弁が気に入っていた。
朝食を食べ終わると、わたしはお化粧を始め、彼は新聞を広げる。
記事を読みながら、一つ一つにつっこみを入れてくれる。
わたしが笑うたび、その反応は彼のデータベースにインプットされていき、
一日ごとにおもしろさの精度が上がっていく。
マンションの玄関を出てふりかえると、彼が窓から見送っていた。
わたしと目が合うと、彼は指をひらひらさせて、笑う。
最高の笑顔だ。
わたしのつぼをちゃんと知っている。
なんだろう、この気持ちのよすぎる息苦しさは。

別の朝。
彼は眠っている。
ボタンを押さなければ起動することはないのだ、と
心の中で自分に言いきかせる。
わたしは指を伸ばして、彼のボタンを押した。

朝ごはんを食べているとき、
ときおり彼がじっとわたしを見つめているのに気がついていた。
わたしの一挙手一投足に注意を配っている。
いつものように新聞の記事を読み、いつものようにつっこみを入れるが、
その一方でわたしの反応を慎重にチェックして分析しているのがわかる。
彼はあいかわらず快活であるが、以前ほど魅力的ではない。

ある朝。
朝食を食べているとき、彼がわたしの名前を呼んだ。
「もしかしたらどっかぐあいがわるいんとちがう?」
わたしは笑って首を振り、目玉焼きをわざとおいしそうに咀嚼して飲みこんだ。
元気だってことをアピールしたつもりだ。
わたしを病院に送るつもりだろうか。
マンションを出て、角を曲がってから、わたしは逃げるように走った。
大通りに出てまわりに大勢の人がいるのを確認して携帯を取り出した。

(男)
ボタンを押そうとして、手が止まった。

今日の午後、ロイドアンド社のメンテナンスサービスから電話がかかってきた。
リンダに何か異常が起きた可能性があるという。
「どういうことですか?」
「アイデンティティ回路が混乱して逆転妄想を生んでいるようです」
彼の説明によるとこういうことだった。
複雑化した高性能ロボットにはたまにあることなのだが、
自分を人間だと思い込み、そばにいる人間をロボットだと思い込む。
症状が進むと、自分がロボットに監視され支配されているように感じて、
防衛しようとする。
過剰防衛で相手を傷つけることもあるという。
「危険です。すぐに回収に伺います」
そのとき、リンダが帰ってくるのが窓から見えた。

リンダは疲れていた。
帰るなり、テーブルにつっぷして居眠りを始めた。
やはり調子が悪いのだろうか。
ぼくはそっと彼女の髪に手を当て、首の後ろのボタンを探した。
メンテナンスサービスの男が言ったとおり、
起動ボタンの上数センチのところ、
ぼんのくぼのところに赤い小さなボタンがあった。
これがキルスイッチだ。このボタンを押すと、
すべての機能がシャットダウンされるという。
メモリーは初期化された後焼き切れて、神経回路は遮断される。
つまり・・・
「リンダという人格は死にます」
男の言葉を思い出した。
ボタンを押そうとしていたぼくの手が止まった。

なぜ止まったのだろう。
これは愛?まさか…

そのときとつぜんリンダが目を覚ました。
くるりとふりむいて、ぼくの首に手をまわして抱きしめ、キスをした。
ぼくはうっとりとした。
彼女の手がぼくの首の後ろをまさぐり、
赤いキルスイッチのボタンを探り当ててそれを押した。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース
       大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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川野康之 2017年4月2日

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菜の花ピクニック

    ストーリー 川野康之
       出演 石橋けい

同僚のふじこさんと一緒にピクニックに行った。
ピクニックなんて何年ぶりかだ。
去年の暮に父が死ぬまではそれどころではなかったのだ。
「さちえさんはお父さまのお世話で大変だったわね」
「ええ、でもやっと死んでくれたから。これからは人生を楽しむわ」
海の見える駅で特急を降りて、私たちはバスに乗った。
春である。
民家の庭の梅が美しく咲いている。
「ねえねえ、あそこ」
とふじこさんが梅の咲いている家を指差す。
「ええ、梅の花きれいね」
「じゃなくてあの看板。房総名物アジフライ定食って書いてある」
「ああ」
ふじこさんは天然だ。
「帰りにあれ食べていきましょうね」
私はフライがあんまり好きではない。
天然でKYのふじこさんのこともそんなに好きではない。
「ねえねえ、あそこ」
今度は何の看板だろうと外を見ると、
「梅の花、きれいね」
「ああ」
「どうして花は毎年新しく咲くか知ってる?」
ふじこさんは語りだした。
知るもんか。
「花は死んだ人間の生まれ変わりなのよ。
地球上のすべての花が実はそう。
前の年に死んだ人が花になって咲くの」

ふじこさんの話を整理すると次のようになる。
人は死んだら、神さまからどんな花に咲きたいかと訊ねられる。
アサガオでもアザミでもヒマワリでもシクラメンでもなんでもオーケー。
神さまは願いを聞いてくれる。
ちなみに日本人の希望でいちばん多いのは桜だそうだ。
でも、どんな花がいいかと聞かれても、すぐに答えられない人もいる。
そういう人にはおまかせコースというのが用意されているそうな。
神さまの助手の天使たちが、帳簿をつけながら、
必要な花の数を満たせるように割り当てていく。
一番多く割りふられるのが菜の花なのだそうだ。
そこら中にいっぱい咲いている菜の花は、多すぎても困らないので、
数合わせとして使われるのだという。

「でも咲いてみると、案外菜の花って悪くないのよ。
ぽかぽかと陽のあたる丘の上にいて、春風は気持ちがいいし、
それになによりあの色。
あの黄色を身にまとうだけで愉快な気持ちになって
つい笑ってしまうらしいのね」

丘の上のバス停で降りると、あたりは一面の菜の花だった。
白いワンピースをひらひらさせて歩くふじこさんの後を歩きながら、
そういえば何年も花のことなんか考えたことなかったな、と思った。
サラリーマンだった父は、ある日突然会社をやめて帰ってきた。
仕事もしないで昼から酒を飲んで家族にやつあたりをするようになった。
家の中は真っ暗。弟が家出をし、母が離婚して、私だけが残った。
脳梗塞で倒れて半年寝たきりになった後、父はやっと死んでくれた。
そのときはしんそこうれしかった。
父の死後、あちこちから借金が出てきた。
私はそのお金を払うために、自分の積立貯金をぜんぶ下して、
退職金まで前借しなければならなかった。
もう一度父に会ったら、一発殴りたい。

ふと思った。
父は花の名前なんか一つも知らなかっただろうな。
神さまに聞かれたときに何か気の利いた答えをしたとはとても考えられない。

そのとき足もとの菜の花の中から誰かが見つめている気配がした。
私が振りむくと、それは目をそらした。

私はしゃがんで、1本の菜の花を指でつまんだ。
「ここにいやがったか」
ぶん殴ってやろうと思ったとき、
その花が気弱そうに笑っているのに気がついた。
父が笑っている。
私もつい笑ってしまった。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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直川隆久 2017年2月12日

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帳尻

    ストーリー 直川隆久
      出演 石橋けい

 こと。
 という音がして、目の前に、豆の入った小皿が置かれた。
 炒った黒豆のようだ。 
 取材で初めて訪れた街のバー。
 70くらいのママが一人でやっている。
 カウンターにはわたし一人だ。

 中途半端な時間に大阪を出ることになって、
 町についた頃にはほとんど店が開いてなかった。
 とりあえずアルコールが入れられればいいやと開き直って、飛び込んだ店。
 タラモアデューがあることに喜んで、水割りを注文した。
 ママは、豆を置くと、氷を冷蔵庫から取り出した。
 黒いセーターにつつまれた体の線はシャープで、
 ショートボブの頭には白いものがまじっているが、生えるに任せる、
 というその風情がさばさばした印象を与える。
 なかなかいい感じの店じゃないの?
 今回はB級グルメが取材目的だから少しずれるけど、
 ここは覚えておいて損はないかもしれない。

 水割りを待ちながら、豆を噛む。
 あ。
 おいしい。
 なんというか、黒豆の香りが、いい姿勢で立ち上がってくる感じ。
 
 「あの、このお豆、おいしいですね」
 「あら、そうですか?よかった」
 「ふつうのと違うんですか」
 「わたしの知人がね、篠山の方で畑をやっていて。
 農薬はむろん、肥料も使わない農法で育てた豆を、
 時季になると送ってくれるんです」
 「へえ」
 「お口にあいましたか」
 「すごく」

 うん。なかなかの「趣味のよさ」…
 しかも、おしつけがましくなく、さらりと言うところが
 また上級者という感じだ。
 と。
 と音がして、革製のコースターの上に水割のグラスが置かれる。
 お。
 黒の江戸切子のグラスだ。淡い水色と透明なガラスのパターンが楽しい。
 一口飲む。
 うん。少しだけ濃いめ。好みの感じだ。
 当たりだわ。
 
 と、メールの着信音が鳴った。
 見ると編集部からで、記事広告の修正案を大至急送れという。
 タイアップ先のガス会社の担当者が明日から休暇なので、
 今日中にOKを貰わないと、というのだ。
 わたしは、心の中で盛大な舌打ちをして、鞄からパソコンを取り出した。
 「すみません」とママに一礼してから、急いでワードのファイルと格闘をする。
 アルコールが頭に回りきる前でよかった。
 30分ほども使ってしまっただろうか。ようやく形が整ったので、
 メールに添付する。
 メール本文には「お疲れ様です」の一言を入れず、要件だけ。
 あなたに気遣いしている余裕はこちとらありませんよ。
 という無言のアピール。
 送信ボタンを押したとき、ママの声が聞こえた。
 「氷が融けちゃいましたよ」
 あ、と気づき、すみませんと言いながらグラスに手を伸ばしたその瞬間。
 ママの手がすっとわたしの視界に入ったかと思うと、グラスを取り上げ、
 そのまま流しにじゃっと中身をあけてしまった。
 え、ええっ?
 わたしが目を丸くしていると、ママはグラスを洗いながら早口に言う。
 「ごめんなさいね。でも、氷で薄まった水割りって、まずいから…」
 いや、そうかもしれないんですが…あの、怒ってません?怒ってますよね。
 「つくりなおしますからね」
 「あ、いや、でも」
 「いいの、サービス」

 そうか。たしかに、サービスなら、いいのかもしれない。
 ん?いい…のか?
 わたしは妙な気分だった。怒ったほうがいいのか、喜んだほうがいいのか。
 これは、人によって反応が違うだろうなと思った。
 勝手にグラスの中身を捨てられて激怒する客もいれば、
 新しい酒がただで飲めて嬉しいという人もいるだろう。
 確かなことは、わたしが水割を放置したことを、
 彼女は「失礼」だと思っている。
 それは確かだ。
 でも、そこまでしなくてもいいのではと思っているわたしがいる。

 と、ふと、いつも考えていたこととつながった気がした。
 (わたし含めて)小さい人間は、いつも心の中で「期待」と「見返り」の
 帳尻を合わせながら生きている。と思う。
 おはよう、という。これは、相手があとで「おはよう」という返事を
 返してくれることを期待している。
 で、実際に相手から「おはよう」と返ってくる。
 気分がいい。なぜなら、帳尻があうからだ。 
 逆に、ラインでメッセージをだしても、返事がないようなとき。
 これは、期待にみあった見返りがない。帳尻があわない。だから怒る。 
 この帳尻合わせを、頻繁にしないと気がすまない人と、
 わりと長いスパンの最後の最後に合っていればいいや、という人がいる。
 この時間感覚はみんなバラバラで、
 かつ、各々が自分の感覚をスタンダードだと思っている。
 人間どうしの齟齬とか行き違いって、
 ほとんどこれが原因で起こっているんじゃないかと思うくらいだ。
 (ついでに言うと、この帳尻をあまり頻繁に考えない人のほうが、幸せそうだ。)

 脇道が長くなったけど…要するに、このママは帳尻合わせをものすごく
 頻繁にしないと気がすまないタイプなのでは、と思ったのだった。
 ケチなわけではない。
 相手への投げかけは、ちゃんとした品質のものを差し出す。手はぬかない。
 そこには「これだけの投げかけにはきちんと反応してよ」という高い期待も込みだ。
 だから、というべきか。
 その期待が裏切られたかどうかという判断も、すごく早い。
 ある、理想の店主、という役を演じたからには、客も理想の客であって当然だ。
 と考えるタイプの人なのだろう。でも、わたしはそうでなかった。
 だから、見切りをつけ、グラスの中身を捨てたのだ。
 「恩知らず」と言わんばかりに。
 
 と。
 と音がして、目の前に次のグラスが置かれた。
 これを飲んで帰るべきか。
 それともグラスには口をつけないまま席を立ち、
 ママに「貸し」をつくるべきか。
 わたしは、しばし答えを出しあぐねた。
 ママが、カウンターにこぼれた豆の粉を布巾で拭くのが見える。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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