宗形英作 2012年10月21日

あなたは、グラウンドに向かいますか。

           ストーリー 宗形英作
              出演 大川泰樹

だれもいない観客席。グラウンドの半分を覆う影。
校名も得点も表示されていないスコアボード。
その時計が、7時半を指している。
いまはまだシャッターの開かない、始発電車を待つ駅のような静かな面持ち。

グラウンドの影が小さくなる頃に、
秋の高校野球県大会の決勝戦が始まる。
管理人は通路の扉を開き、
毎朝そうしているように鍵の束を揺らしながら、
ゆっくりとマウンドに歩み寄っていく。

そのマウンドに今日上るエースは、
歯を磨きながら肩の重さを感じ、
そのエースのボールを受けるキャッチャーは、
風呂場でしこを踏んでいた。

そのふたりを率いるチームの監督は、
いつもの願掛けで梅干を二つ食べ、
その梅干を売ったスーパーマーケットの会長は、
応援団を募る電話をかけていた。

その応援団の団長は、擦り切れた団旗を広げて風に当て、
その風に髪をなびかせた遊撃手の彼女は、
神社に参って柏手を打っていた。

その神社の裏手にあるラブホテルで理科の先生と歴史の先生は、
選手の将来性を語り、
その先生が担任の3年2組の生徒たちは、
グラウンド行きのバスが待つ駅に向かっていた。

その駅の売店で決勝戦の取材に行く若い記者は、
アンパンと牛乳を買い、
その記者の書いた記事に傷ついた県知事は、
高校野球の見所をテレビで見ていた。

そのテレビに出ていたキャスターは、
チームの大先輩として激励の言葉を述べ、
その激励の言葉にマネージャーの女子生徒は、
控えのピッチャーの背中を思い出していた。

その控えの背中は、寝たきりおばばのために
野球中継するラジオ局にチャンネルを合わせ、
そのラジオ局の番組を聴いている手は、
決勝戦の主審を務める夫のために大きなおにぎりを握っていた。

そのおにぎりよりもっと大きなおにぎりは、
四番バッターの手の中にすっぽりと収まり、
その手の大きさに魅かれたプロ球団のスカウトは、
新幹線で大きなあくびをしていた。

その新幹線の高架下で壁投げをしている小学生は、
その高校で野球をやることを目指し、
その高校を卒業した女優は、
ちょっとエッチなポーズで人気を博していた。

そのちょっとエッチなポーズは、
応援のポーズの手本としてチアガールが取り入れ、
そのチアガールたちは、
グラウンドのそばの公園で最後の練習をしていた。

その練習は、朝の散歩やジョギングをする人たちの足を止め、
足を止めた人たちは、
そのグラウンドで決勝大会があることを知らなかった。

陽はゆっくりと動き、
グラウンドの影から鮮やかな芝の緑が浮かび上がり、
大きなグラウンドが深呼吸を始めたかのように色を帯びていく。
グラウンドは、いつも人を待っている。
その日のために披露されるものを祝福するかのように
最良の状態で待っている。

管理人は、鍵の束から一つずつ丁寧にグランドに通じる扉を開けていく。
あちらこちらから、若きも老いも、男も女も、見る者も見られる者も、
泣いたり笑ったりするために、
大きな声で叫んだり静かに祈ったりするために、
褒めたり貶したりするために、戦うために讃えるために、
グラウンドに集まってくる。
グラウンドは、ばらばらのまま、ひとつのこころになる。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 


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中村直史 2012年10月8日

     ストーリー 中村直史
        出演 大川泰樹

私が生まれたのはいつのことだったかその記憶はもちろんない。
覚えている最初の記憶は、
雨がふると息苦しくなって地面から顔を出したくなるけれど、
鳥の餌食になるから絶対にダメだと言われたことだ。
それを伝えたのは親だったのか仲間だったのかそういうことは覚えてない。
私たちはほかの私たちに似た生き物のように、
土を口から取り入れ栄養を吸収し大きくなるのではなく、
体全体から塩分を吸収して大きくなるという、変わった成長の仕組みを持っていた。
土の中にいてもはるか遠くに塩の気配を感じることができ、
より塩分の多い場所を求めて地中をさまよった。

多くの仲間は海辺の近くの土の中に住み着くことになった。
海辺の近くは塩分を手に入れやすいが
ひとたび高潮になるとすぐ溺れてしまうリスクの高い場所だった。
私は私の仲間たちよりも体が大きくなった。
私が住みついたのは学校のグラウンドだった。
その場所はとりわけよい環境をしていた。
人間の中でも若い個体はよく体液を出すものだが、
このグラウンドの上で活動をする若い人間たちはとくに多くの体液を分泌した。
ただグラウンドをぐるぐるまわりつづけたり、
小さなボールを追いまわすことでとめどなく汗をながしつづけた。
先生と呼ばれる大人の個体に大きな声で罵倒され涙を流す者もあった。
そのようにしてこぼれ落ちた塩分の多い液体すべてが私の体にしみこみつづけた。
もちろん私の仲間が遠くからこの塩の香りをかぎつけないわけもなく、
つぎつぎと集まってきたが、
すでに私の体はグラウンドの半分を超える大きさになっていたため、
新参者の体に塩分がたどりつくまえに、すべて私の体がすいとってしまった。
しかも巨大化した私の体はどん欲であり、さらなる塩分を求め、
集まった仲間たちの体にたまった塩分を体液とともに吸いつくした。
集まってくる仲間たちは、このグラウンドから逃げ出すすべもなく、
すべてひからびていくのだった。

なにも私の望んだことではなく、巨大化する体も私の意思ではなく、
とはいえ、その状況を変えたいという意思もなかった。
年に1度はそのグラウンドに町中の人間があつまり、
大声をだしあって、走り、綱を引き合ったりした。
このときもまた私の体の巨大化は進んだ。

季節は巡り、私は若い人間からこぼれ落ちる塩分を吸収し続け、
とうとう私の体はグラウンドからその姿をのぞかせることになった。
どんなことがあっても地面から頭を出してはいけない、鳥の餌食になるから、
という言葉が遠い記憶の中から思い起こされたが、
巨大化し、土まみれの私の体をもはや好物の生き物だと気づく鳥はいなかった。
人間たちもグラウンドに小高い山ができているといって、
私の上で遊ぶだけだった。

土の中にしみこんだ塩分を取り込むのと違い、
垂れ落ちてくる体液を直接自分自身の体で受け止めるのには、
これまで一度も体験したことのない快感があった。
さらなる快楽を求め、いつしか私の体はグラウンドの表面全体に露出した。
グラウンドに突如増えた奇妙な凹凸に学校関係者たちは首をかしげたが、
それが巨大なひとつの生き物と気づくものはなく、
私は日々ひたすら若い人間の個体からしたたり落ちる塩分の
濃い体液をむさぼり続けた。
人間が何の疑いもなくより多くの体液を流せるよう、
地面に露出した自分の体を真っ平らにすることも、
グラウンドの土と全く同じように見せかけることも、
いつしかできるようになっていた。
初めてこの学校のグラウンドにやってきてからどれほど月日が流れたのか、
気がつけば、私の体はこの広いグラウンドそのものと化していた。
 

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 


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にゃんごろ

「にゃんごろ」

             ストーリー 荒木唯(東北芸術工科大学)
                出演 大川泰樹

宮城県には、生きた神さまの住む島がある。
神さまは「にゃんごろ」と鳴く。

島へは一日3本の船便がある。
島の名は、田代島という。

神様の存在で、世界中に知られることとなったこの島は、
通称ìねこの島îと呼ばれ、島の外から多くの参拝客が集まっている。
島民の数およそ100人、猫の数はその数倍。
つまり、人よりも神さまが多いありがたい島なのだ。

古来より漁業を生活の糧としてきたこの島の漁師たちは、
猫の仕草でお天気を見極め、漁不漁を予測してきたが
そんなある日、
崩れた岩の下敷きになって死んだ猫を手厚く葬ったところ
その日から大漁が続き、海難事故もなくなったという。

以来、島では猫が神さまだ。
にゃんごろにゃんごろ、昼寝をしているように見えても
神さまはちゃんと島を守っておいでになる。

その証拠に、震災で港も船も流されたけれど
被害総額と同じだけの寄付が全国から集まった。
神さまたちの安否をたずねる声もたくさん届いた。

にゃんごろ、にゃんごろ。
津波のとき、神さまたちはこぞって山へ逃げていた。
海の近くにいた神さまは帰って来ないけど
きっと津波に乗って空にのぼり、島を見守っている。

にゃんごろの神さまは今日も元気です。

東北へ行こう

田代島にゃんこ・ザ・プロジェクトhttp://nyanpro.com/

ひょっこりひょうたん田代島http://www.npo-tashirojima.jp/

石巻市田代島Twitterhttp://twitter.com/nekogamisama311


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名雪祐平 2012年9月16日

天子のキスマーク

      ストーリー  名雪祐平
          出演 大川泰樹

俺は、ダムで暮らしている。
正しくは、ダムに泊まりこみで働いている。独りで。

4WDのジープで狭い林道を
小枝をかき分けるように走り、どんづまりで駐め、
そこから歩きで急な傾斜を注意して下ると、ダムに着く。
水をせき止めているコンクリートの堤の幅は215m。
そのちょうど中央にある管理棟で俺は働き、
三畳の小部屋に寝泊まりしている。

よく電力会社の人間と間違えられるが、金属メーカーの社員だ。
下流にあるでかい工場で使う電気をまかなうために、
戦後すぐ、会社がこの水力発電用のダムを自前で造った。

会社はダムに社員1名を配属する。
ダムの水位を1時間おきに測る地味な仕事を
愚直に続けられるやつ。
出世競争に興味がないやつ。
家族がいないやつ。
山奥で、終わりがわからない孤独にも、たぶん発狂しないやつ。
つまり、俺。

目の前は、ダムでできた湖の絶景だ。
水面は、春に微笑み、夏を反射し、秋に化粧し、冬に緊張する。
湖の名前は、天子湖。
天の子どもと書いて、天子。王様という意味だ。

湖をたたえるコンクリートのダムの城。
そこに君臨する天子。
つまり、俺。

そうなのだ。ここにいるとやっぱり、
すこしずつ、すこしずつ、印刷の版がずれるように狂っていく。

昼、あやしい女がダムに来た。
ガーゼのような、麻のような、あいまいなノースリーブ。
ダムで休憩をとる登山者のような格好ではなかった。

ゆるんだ胸元から何かを取り出して、殻を割って食べている。
ピスタチオだった。
ポリポリ食べては殻をコンクリートに、俺の城に、ばらまいた。
ずいぶん酒に酔っているようだった。
「ねぇ、赤ワイン、ない?」
ない。と俺が返すと、女が続けた。

「ねぇ、わたし、死んでるの?」

死んでない、と思う。そうこたえるしかなかった。

「どうしたら、生きてるって、わかるの?」

その問いかけに答えられる哲学も詩も
もちあわせていない手ぶらの俺は、女の二の腕をとり、くちびるで強く吸った。
もし肌が白いままだったら、女は化け物。
内出血すれば、生きている証拠。

白い肌に、ぽーっと、赤紫色のマークが浮かび上がった。ほら。
でも、女が言うのだ。

「どこ? 見えないよ」

わからない。わかろうとすることさえ無意味なのか。

天子である俺は、タトゥーを彫るように何度も強く吸った。
女の肌にいくつも、いくつものマークが
信濃撫子の花のように咲いた。

「見えないよ。見えないよ」

なぜか女は明るく笑いながら、おもりするように
俺の頭を撫でていた。

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山形散歩

「山形散歩」
  
       ストーリー 小野山梢
           出演 大川泰樹

山形市の山奥に住んで四年、
元々インドア派だった私は、すっかり散歩が趣味になっている。
はじめは目眩がするような坂道・坂道・坂道の連続に
気力も体力も削られっぱなしだったが、
今では鼻歌を歌いながら、周りの風景を楽しむ余裕がある。

山形の風景は面白い。
人はあまり歩いていないが、
畑や水田がそこかしらに広がっている。
そこの住人はちょうちょやトンボ、カエルや蝉。
そして、その何ともメルヘンな自然風景のなかに、
蜃気楼のような人影を見ることがある。

木漏れ日の下でベンチと一体化したおじいさん。
向日葵畑のまん中にぬっと立ち上がるおばあさん。
畑の向こうでむくむくと動く麦わら帽子。

「もしや、妖精ってやつか?」と友人は言う。
けれどこの妖精は、
挨拶をすると野菜をわけてくれたりもするのだ。

ゆるやかに穏やかに時がすぎていく、
山形の散歩は日常で非日常的で、なんだか楽しい。

東北へ行こう

やまがたへの旅http://yamagatakanko.com/

山形・庄内旬青果http://www.shun-seika.jp/

山形伝統野菜
http://www.pref.yamagata.jp/ou/sogoshicho/okitama

ウォーキングでいこうhttp://lets-walking.com/


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直川隆久 2012年7月31日

奇 跡  

             ストーリー 直川隆久
                出演 大川泰樹

「おい。どうしてる。飲みに行かないか」
1年の時間を費やした作品が某新人賞選考に漏れ、
腐っていた俺を気遣ってか、
小林が電話をかけてきた。
「お前のおごりならな」
「誘ったんだから、そのつもりだよ」
小林とは大学の文芸サークル以来のつきあいだが、二人の人生は全く違う。
かたや、出す本がことごとく10万部を超え、才能、金、
そればかりか性格のよさまで持ち合わせた人気作家。
かたや、アルバイトと書き飛ばし仕事で糊口をしのぎながら、
小説家(という肩書き)への夢捨てきれず、
もがき書いては落選を繰り返す売文屋。
小林を前にすると嫉妬を初め様々な黒い感情が
脳内に浸み出してくるので、
断ろうとも思ったが、
作品執筆のためアルバイトをやめた反動で財布はからっぽ。
俺はひとまず小林を思いやりのある万札と考え、
黙ってついて行くことにした。

小林に連れられて来たのは銀座のバーだった。
もとより銀座は詳しくないが、この店は、
ある程度銀座に通った人間でも見逃しそうなせまい路地の奥、
そのまた地下にあった。
重い木のドアを開ける。
天井からぶらさがった骨董品めいたランプの光が、
タバコの煙でやわらかくにじんでいる。
カウンターの向こうにいたバーテンの男性は、
いらっしゃいませと言うかわりに軽く頭を下げた。
年は70くらいか。
だが、背筋はまっすぐにのび、整った白髪が美しい。
カウンターは年代もので、手ずれで渋い光沢を放っている。
メニューも、すべて手書き。紙が黄ばんでいるが、
それもまた味わい深い。
小林の野郎、さすがに、いい店で飲んでいやがる。
毎月どれぐらい印税が入るのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注文したカクテルは、どれも憎たらしいまでにうまかった。
特にブラッディメアリーは、
今まで飲んだものの中では、ダントツだ。
この際、飲めるだけ飲んでやろう。
どうせおごりだ、とメニューをひっくり返して見ていると、
妙なものを見つけた。
リストの一番後ろのメニューが、黒く塗りつぶされている。
これはなんだと尋ねると、小林は、余計なものをみつけたな、
という顔をした。
俺がもう一度尋ねると、ちょっとあたりをうかがって、声をひそめた。
「それか。それは…いわくつきのカクテルでな。販売中止なんだ。
俺も飲んだことない」
「いわく?なんだ、そりゃ」
「いやあ」と小林はさらに声を潜め「このカクテルを、頼んだ人間は、みな…
まあ、妙な話なんだけど」
「なんだよ」
「大成功するらしいんだ」
「大成功?」
「そう。成功して、すごい金が転がりこんでくる。例外なしに」
「おいおい」俺の声は独りでに大きくなった。
「霊感商法の店か、ここは。勘弁しろよ」
「馬鹿。何言って――」
と、そこで小林の携帯が鳴った。
小林はすまんと手でゼスチャーしながら、表に出ていった。
編集者か、女か。どっちにしろ羨ましいことだ。

「そのカクテルですか」
と今まで無言だったバーテンダー氏が、急に声をかけてきた。
意外にしわがれた声をしている。
「ええ。俺の連れがいわくつきなんて事言ってましたが…ほんとですか」
バーテンダー氏は、やれやれといった顔で
「そうなのです。このカクテルを頼まれた方はどうしたものか、
 時を置かずして幸運に見舞われるのです。
 経営なさっている会社が急成長したり、
 長年下積みだった音楽家の方が大ヒットをだされたり…」
バーテンダー氏は、俺も知っている作曲家の名をあげた。
「じゃあ、縁起のいいカクテルじゃありませんか。
 名物にしてもいいのに、なんでやめちまったんですか」
「いえ、やめたわけではないんですが、妙にそれだけが評判になって
 物見高いお客様が増えても…。
 静かに召し上がりたい方のご迷惑になるといけませんので」
だが、無いと言われると、飲んでみたくなるのが人情だ。
俺は、少し食い下がってみた。
「いま、やめたわけではない、とおっしゃいましたね。
 ということは、ださないこともない、と」
「ええ。いや」とバーテンダー氏は目をそらした。気になる。
「どうすれば飲めるんです?」
そのとき、バーテンダー氏の目に今までとは違う光が宿った。
彼は俺にこう訊いた。
「何か、このカクテルが気になられる理由が…おありですか?」
腹の底まで見透かすような目だった。
だが、それと同時に、この人なら俺の気持ちをわかってくれそうな、
そんな優しい目でもあった。カクテルの酔いも手伝ってか、
俺はなんだか胸のもやもやを全部はきだしたい気分になってしまった。
安いギャラへの愚痴。同世代で成功しているやつへの嫉妬。
状況を変えられない自分へのいら立ち。等等等等。
初対面の人間によくそこまでという内容だが、
話しだすと感情が堰を切ったようにあふれ、止まらない。
バーテンダー氏は最後まで聞きおわったあと、
静かにうなずき、こう続けた。
「あなたは、どんな小説をお書きになりたいのです」

改めて問われると、一瞬言葉につまったが、それでも俺は、
酔った頭でなんとか弁舌をふるった。
「ぐ、具体的には、わかりません。
 それをずっと探しているともいえますが…
 うん、そう…なにか人間が、かぶっている、
 嘘っぱちの皮をひっぱがしたいというか…
 そういう作品が書きたい。そういう作品でゆ、有名になって
 …世の中を見返してやりたい、というような…」
俺が話し終わると、バーテンダー氏は
「このカクテルは、あなたのような方に、飲んでいただくべきだと思います」
と言った。
「え」
「ご自分の作品で、世の中を見返したい。と、そう心からお思いなら――」

バーテンダー氏は、メニューの、黒く塗りつぶされた所を指差した。
俺は、うなずいた。魅入られたように。
バーテンダー氏は、にこりと微笑んだ。

彼は、冷蔵庫からいくつかの瓶をとりだし、シェーカーを振るった。
カクテルグラスに注がれたそれは、
さっき飲んだブラッディメアリーよりもさらに深く濃い赤だった。
まるで本当の血でつくったような。
「そういえば、そのカクテル。…なんていう名前なんですか」
「ベリート」とバーテンダー氏はゆっくりと口にした。
そのあと、ヘブライ語で“契約”という意味だ、と続けたような気がする。
俺は、それを飲んだ。辛いような、甘いような、不可思議な味。
グラスの中身が空になるとバーテンダー氏が、
小さく、おめでとうございますと言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

入り口のドアがばたんと開いたかと思うと小林が入ってきた。
「やあ。すまん。『新文芸』の編集者は、話が長くて…」と席についた小林は、
イスを俺のほうへ寄せて「さっきの続き。このカクテルのいわれ」と話し始めた。
今さら聞く必要もない気がしたが、
カクテルを飲んだことを説明するのも面倒なので、
小林が話すに任せる。
「これを頼んだ人はみな成功する。というところまでは話したな」
「ああ」
「ところが、これには続きがあって」
「ふん?」
「気味悪い話だけど、その人達、大体3年以内に、変死するんだ。
 工事現場のクレーンが倒れて下敷きになったり、
 体中に悪性の腫瘍ができたり…
 マスターもああいう人だから、気にしてね。
 これ以上妙な噂がたつのもアレなんで、欠番商品にしたと――」
足元の床がぐにゃりと沈みこんだような感覚をおぼえ、
俺はバーテンダー氏のほうを振り向いた。
できあがったカクテルの味見をしている、その舌の先が、
蛇のそれのように二つに分かれているのが見えた。

…悪魔?

そうか、そういうことか。
俺は、どうやら、“まずい”契約をかわしてしまったらしい。
一体どうなる?頭がパニックを起こしそうになったそのとき――

ある小説の構想が…今まで誰も読んだことがないだろう、
“究極の小説”の構想が、頭の中に稲妻のように立ち現れた。
完全にオリジナルであり、かつ、人類史レベルの普遍性をもつ、
圧倒的な物語のプロットがそこにあった。
そして次の瞬間、プロットは具体的な言葉をまとい、
ストーリーとなった。
ショッキングな冒頭から、読む人すべての心を震わせずにはおかない
ラストの結語にいたるまで、すべての言葉が、
微塵のあいまいさもなく俺の目の前に広がった。
悲しみ、怒り、快楽、苦痛、卑しさ、崇高さ。人間の本質、
そのすべてが描きつくされていた。

すばらしい。すばらしい。
俺はそう繰り返し、涙を流していた。
こんな完璧な作品に、生きてる間に出会えるなんて。
しかもそれを、俺が。この俺が書けるなんて。
こんな小説が書けるのなら、なんだってくれてやる。
そう、魂だって――

バーテンダー氏が、俺のほうを見ているのに気付いた。
その表情からあふれていたものは、まぎれもなく――「慈愛」だった。   

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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