2012 年 8 月 19 日 のアーカイブ

小野麻利江 12年8月19日放送


銀猫 夏生
部活の話 青木秀憲の哲学

毎年多くの東大合格者を出す、開成高校。
その野球部は、週一回、2時間しか
全体練習ができない。

しかし夏の甲子園・東東京大会で
「ベスト16」という成果を残しているのは、
負けず嫌いの監督・青木秀憲の指導が大きい。

 野球は大いなるムダ。
 ムダだからこそ思いっきり、
 勝ち負けにこだわってやろう。


quack.a.duck
部活の話 丸谷昭夫の指導法

大阪府立淀川工科高校には、音楽の授業がない。
しかし、そんな高校の吹奏楽部が、
吹奏楽の甲子園の常連・「淀工」として、
全国に名をはせている。

その立役者が、顧問の丸谷昭夫。
音大への進学をあきらめ、
高校の先生になると同時に部の顧問につき、以来48年。
彼の熱血指導を受けた教え子は、およそ1600人。
「淀工吹奏楽部」の活躍は、
関西の吹奏楽の水準を押し上げた。

「どんな指導法をお持ちなんですか?」
人にそう尋ねられるとき、丸谷はこう言う。

 子どもたちの主体性、自主性を引き出すだけ。

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茂木彩海 12年8月19日放送



部活の話 川越高校の水泳部

埼玉県、川越高校。

明治32年に創立され、105年の歴史を誇る、
埼玉県有数の進学校にして、硬派な男子校。

ここに、映画「ウォーターボーイズ」のモデルとなった
水泳部男子シンクロチームがある。

チーム誕生の理由は、ただ、女の子にモテたかったから。

とはいえ本業は、あくまでも『競泳』の彼ら。
1、2年生は、夏休みの午前中は競泳に、
午後は夜8時までシンクロの猛練習。
3年生は、進学校だけに、「受験勉強」との両立に悩まされる。

シンクロだって遊びでやってるわけではなかったが
本人たちはそろって「シンクロ部じゃなくて水泳部」と口をとがらせた。

そんな彼らについて、映画監督の矢口史靖はこう語る。

 たった一度変わるだけで、その先に大きな広がりがあったりする。

水泳部がシンクロをやる。その変化こそが、
彼らの青春を、とんでもなくキラキラと輝かせたのだろう。



部活の話 阿木 燿子の合唱団

作詞家、阿木 燿子。

8年前、思い立ってアマチュア合唱団をつくった。
今では下は16歳から、上は84歳まで
約80人のメンバーが活動している。

作詞家の自分が書いた歌を歌う。

今までと違うことをやるのは面倒でも、
心にしたがって、やってみる。
そんな彼女の決意の言葉。

 ひらめきを、信じる。

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熊埜御堂由香 12年8月19日放送


donvanone
部活の話 流山児祥の楽塾

演出家、流山児 祥。(りゅうざんじ しょう)
アングラの帝王とよばれ、
国際的な評価も得てきた。

そんなとんがった男が、50歳を前に、
認知症の母親を介護することになる。
演劇から少し離れていて、こう思った。
同世代のふつうのひとたちと
劇場で、遊んでみたい。
そうして1998年に
シニア劇団、楽塾を設立した。
オーディションで
まっさらなおじさん、おばさんがあつまった。

稽古中に『今夜のおかず何にしようかな』なんて考えたり、
曇りの日は洗濯物が気になって。 
発足当初のことを劇団員たちは朗らかに笑う。
まるで部活に打ち込む高校生のように。
激しい檄を飛ばす流山児のもと、活動を続けた。

そして、楽塾はいつしか観客動員1200人を越える
プロの劇団に成長した。

平均年齢59歳、
今年で15周年をむかえる
楽塾のモットーは、
 ひとは元気で楽しいものを見ると
 元気で楽しくなる。



部活の話 長友佑都の太鼓

サッカー日本代表として活躍する長友佑都(ながともゆうと)。

高校時代は、無名選手だった長友。
明治大学サッカー部でも
ケガで試合にでれない日々が続いた。

くさりそうになる気持ちを
長友はサッカーの「応援」にぶつけた。
当時を振り返り彼はこう言った。
 試合の時は太鼓をたたくのが、僕の使命でした。

長友がたたく応援の和太鼓は、
プロチームのサポータ集団から
スカウトされるほどだった。

やがて世界で活躍する長友の、
無名時代のあるひととき。
それはサッカーが、大好きだ、という
プロになっても通用する
強いモチベーションを育ててくれた。

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石橋涼子 12年8月19日放送



部活の話 山口良治の涙

無名の工業高校ラグビー部を
全国屈指の強豪校へと育て上げた
ラグビー部顧問、山口良治(よしはる)。
ドラマ「スクールウォーズ」のモデルと言ったほうがわかりやすい。

彼のモットーは
 99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。
 100%信じきる事が大切。

信じることが力になる。そんな熱血先生の
もうひとつのあだなは、泣き虫先生だった。



部活の話 千田(ちだ)健一の五輪

千田(ちだ)健一は、
1980年モスクワオリンピックで
フェンシング代表に内定していたが、
日本が五輪をボイコットしたため、
幻の代表となってしまった。
その後、高校でフェンシング部顧問となり
何度も全国制覇を成し遂げたが、
五輪には複雑な感情を抱き続けた。

そんな千田(ちだ)の前にひとりの選手が現れた。
長男の健太だった。
部活の顧問と選手として、徹底的に鍛えた。
そして2008年、健太が北京五輪に出場したとき、
ようやくこう思えたという。

 来られて良かった。

千田の自宅には、今でも幻となった
五輪代表認定証が飾られている。

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