2014 年 4 月 13 日 のアーカイブ

藤本宗将 14年4月13日放送

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noodlepie
ジョン・フルスティックとエドワード・グリーン

エドワード・グリーン。
今でこそイギリス靴の最高峰ブランドだが、
30年ほど前は
多額の負債を抱えて廃業寸前にあった。

その負債を肩代わりして
会社をわずか1ポンドで買い上げたのが
ジョン・フルスティックというシューデザイナー。
彼の改革は、1ポンドからの劇的な再生を実現した。

変化をおそれない一歩が、
廃れかけた伝統を伝説に変えたのだ。

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藤本宗将 14年4月13日放送

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マイケル・ジャクソンのローファー

1983年、『ビリー・ジーン』で
華麗なムーンウォークを披露したマイケル・ジャクソン。

世界が驚き注目したその足元には、
黒いローファーがあった。

紐もなく、着脱しやすいことから、
「怠け者」という意味で
名付けられたローファー。

その靴底を、
マイケルはダンスのために
なめらかに削って愛用していた。

もちろん靴の工夫だけで
すぐれたパフォーマンスはできない。
マイケルは公演の滞在先でも
ホテルの床にマットを敷き、
ダンスの練習を欠かさなかったという。

ローファーを履いたキング・オブ・ポップは、
決して「怠け者」ではなかった。

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藤本宗将 14年4月13日放送

140413-03

ヘンリー五世と靴の聖人

キリスト教にはさまざまな聖人がいるが、
そのなかに「靴を司る」聖人がいる。
聖クリスピンと聖クリスピニアンという双子の兄弟で、
靴づくりをしながらキリストの教えを広めていた。

だから靴づくりの街イギリス・ノーザンプトンでは
聖クリスピンの祝日は、特別な日だ。

だが聖クリスピンの名をいちばん有名にしたのは、
シェークスピアの『ヘンリー五世』だろう。

フランスとの戦いを前に
イギリス国王ヘンリー五世が行った
「聖クリスピンの祝日の演説」は、
さまざまな小説や映画でも引用されている。

長い遠征に疲れ切った兵士たち。
対するフランス軍の兵力は3倍。
それでも王はこう呼びかける。

 今日はクリスピンの祝日だ。
 きょうを生き延びて無事に祖国へ帰れた者は、
 この日が話題になるたびに自分を誇らしく思うだろう。
 そして安らかな老後を迎えられた者は、
 前夜祭のたび人々に言うだろう。
 「明日は聖クリスピンだ!」
 そして袖をまくって古傷を見せながら言うのだ。
 「この傷は、聖クリスピンの日に受けたものだ」と。

この演説を聞いた兵士たちは奮い立ち、
イギリス軍は劣勢を跳ね返して勝利を収めた。

あなたがもし困難に立ち向かうときは、
靴を見て思い出すといい。
あなたの拠って立つ場所は、
自分自身の足なのだということを。

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村山覚 14年4月13日放送

140413-04

坂本龍馬の道

坂本龍馬と言えば
紋付袴の着物に革靴を履いた写真が有名だ。
この一風変わった姿に龍馬ファンは

反骨精神の表れだ
とっさの時に動きやすいからだ
西洋に強い憧れを抱いていたのだ

などと想像を巡らす。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、こんなセリフがある。

 英雄とは自分だけの道を歩く奴のことだ

龍馬は自分だけの靴で、自分だけの道を駆け抜けた。

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村山覚 14年4月13日放送

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アディ・ダスラーの逆転ゴール

1954年、サッカーワールドカップの決勝戦。
西ドイツチームのベンチに、ひとりの靴職人が座っていた。

対戦相手はハンガリー。
4年間無敗、1試合の平均得点は4点以上と
名実ともに世界最強チームだったハンガリーは
予選から準決勝まで順当に勝ち進んだ。
決勝戦も試合開始後わずか8分で2得点リード。

やはりハンガリーか。
そんなムードが流れるスタジアムで、
ボールや選手ではなく「選手の靴」を見つめていたのは
靴職人ただ一人だったかもしれない。

決勝戦のピッチは大雨の影響でぬかるみ、滑りやすくなっていた。
試合前、靴職人は靴底の金具を長くて固いものに付け替えていた。

その後、西ドイツが2点を入れて同点。
歓喜の瞬間、ハンガリーにとっては最悪の瞬間は、
後半の試合終了間際にやってきた。
雨のピッチでも踏ん張りがきく西ドイツチームの靴が
蹴り込んだ逆転ゴール。
この決勝戦の番狂わせは「ベルンの奇跡」と呼ばれている。

靴職人の名は、アディ・ダスラー。
そう、アディダスの創業者である。

ワールドカップ授与の瞬間、西ドイツの監督は
ベンチに座っていたアディを表彰台にひっぱり上げた。
その優勝写真により、アディとアディの靴はますます有名になり、
ヨーロッパ中から注文が殺到したそうだ。

その試合は、ひとりの靴職人の晴れ舞台であると同時に、
サッカーシューズ新時代のキックオフでもあった。

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村山覚 14年4月13日放送

140413-06
Schnobby
フィレンツェの子猫・深谷秀隆

1998年。
深谷秀隆は靴職人になるためにイタリアに渡った。
靴の木型と「靴づくりを学びたい」と書いた紙を持って
靴屋を何十軒とまわり、やっと修業先を見つけた。

深谷の作る靴は、今やイタリア最高級。
全て手作りなので週に1足しか作れないが、
40万円以上の値段がつく。

靴工房の名前は「イルミーチョ」。子猫という意味だ。
自由気ままで誰にも媚びない子猫のようでありたいと願う
深谷はこう語る。

 急いでも良いものは作れない。
 徹底的に良い靴を作らないと意味がない。

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阿部広太郎 14年4月13日放送

140413-07

ジョセフ・ケネディと靴磨きの少年

ケネディ大統領の父、
ジョセフ・ケネディは投資家だった。

ある日、靴磨きの少年から
株の話をされたジョセフ。
こんな少年まで相場を語るのが
異常だと感じた彼は、
株から手を引き大恐慌を切り抜けたという。

最高の投資とは、
自分の感覚を磨くことだ。

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阿部広太郎 14年4月13日放送

140413-08

大塚岩次郎と明治天皇の革靴

明治維新後、14歳にして上京。
日本人に合う西洋靴をつくりたい。
その一心で大塚商会を興した大塚岩次郎。

ある日、紳士が岩次郎に靴の修繕を依頼。
イギリス製の靴を見るなり岩次郎は紳士に懇願する。

 同じ靴を新たに作って納めるからその靴を分解させて欲しい。

西洋の靴を知るなら今しかない。
常識外れの申し出を拒否する紳士。
それでも諦めずに懇願した結果、
紳士は渋々承諾せざるを得なかった。

靴を分解し、調べ上げ、新品を届けた所、
紳士はイギリス製にも優ると絶賛する。

実はこの人、宮内省の長崎省吾氏であった。
これが縁となり岩次郎は日本人として初めて
明治天皇の革靴製作を拝命する。

若き青年の靴作りへの情熱を、
日本中が知ることになったのだ。

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