2018 年 4 月 21 日 のアーカイブ

厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-01

春の死 久松俊勝

久松佐渡守俊勝は徳川家康の母、於大(おだい)の
再婚相手だった。
結婚したとき、於大は19歳、俊勝は17歳だった。

30歳半ばで桶狭間の戦いがあり
それ以降は義理の息子である家康に与して戦国を生きた。

50歳のとき、義理の兄水野信元が信長に疑いをかけられ
家康によって殺害されてしまう事件があった。
このとき俊勝は大いに怒って引退してしまったというから
骨のある人物だったのだろう。
妻の於大は俊勝の死後、俊勝の菩提寺で髪をおろし
2年間その菩提を弔った。

久松佐渡守俊勝が亡くなったのは天正15年3月14日。
西暦になおすと1587年4月21日のことだった。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-02
ちいた
春の死 千利休

千利休の命日、利休忌は
表千家では3月27日、裏千家が3月28日に営まれるが、
実際に死んだ日の天正19年2月28日は
西暦になおすと1591年4月21日になる。

利休の死は謎に包まれている。
秀吉が利休に死を命じた原因は何か。
武士でない利休に、
なぜ武士の死にかたである切腹が命じられたのか。

利休が死んだ日、1591年の今日は
大雨が降り、風も強く、春の嵐が荒れていたそうだが、
利休の心は静かだったと思われる。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-03

春の死 浅野内匠頭

江戸の文化華やかなりし元禄14年の春、
江戸城松の廊下で刃傷事件が起こった。

被害者は吉良上野介吉央(よしひさ)
加害者は浅野内匠頭長矩(ながのり)
その日の午前11時40分、
加害者は被害者の後(うしろ)から切りつけ
額と背中に傷を負わせた。
これは江戸城で起こった4番めの刃傷事件だった。

午後6時10分ころ、内匠頭に切腹を告げる使者が来た。

この事件が起こったのは元禄14年3月14日。
西暦になおすと1701年4月21日である。

前日の雨と風で、桜は散っていただろうか。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-04

春の死 柳生十兵衛

柳生十兵衛三巌(みつよし)は
天才といわれた剣の使い手だった。
13歳で徳川家光の小姓として江戸城に勤めたが
一説によると、20歳のとき
剣術の稽古で家光を容赦なく打ち据えたために怒りを買い
謹慎を命じられた。

それから12年後、
32歳の十兵衛は書院番として再び江戸城に勤務するが
それまで何をしていたのか、
本人の言い分と記録に矛盾もあり、謎が多い。

慶安3年3月21日。
すでにお城勤めを退職して柳生に引退していた43歳の十兵衛は
鷹狩りに出かけた先で原因不明の死を遂げる。
検死をしても村人を尋問しても死因は明らかにならず、
死んだ場所も記録によって違う。

柳生藩二代目藩主 柳生十兵衛三巌は
そのとき本当に死んだのだろうか。

十兵衛の命日は慶安3年3月21日、
西暦になおすと1650年4月21日ということになっている。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-05

春の死 藤原保則

出羽国の蝦夷が反乱を起こしたのは元慶2年3月15日、
西暦878年の4月21日のことだった。
干ばつ、飢饉、厳しい取り立てが重なったのが原因と思われる。

この地方を治めていた官僚はすでに逃げ
朝廷が派遣した軍隊も大敗を喫した。

このとき、討伐の命を受けたのが藤原保則だった。
保則は軍を指揮したことはなかったが
どこへ行っても領民に慕われるという評判があった。

出和国へ到着した保則は
軍事的措置を講じる一方で反乱軍にも食料を与え、
降伏したものについてはこれを許した。
討伐ではなく、良い政治をすることで融和をはかったのだ。

藤原保則は寛平(かんぴょう)7年4月21日、
死に臨んで比叡山に入り、
念仏を唱えながら往生したといわれる。

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