藤本組・阿部広太郎

阿部広太郎 13年1月13日放送



野口英世の20歳

医師開業試験に合格するために、
野口英世が医学書と格闘していた時のこと。

仕事で東京から福島に来ていた
医師の血脇守之助(ちわきもりのすけ)に、
激励の言葉をかけられる。

感激してますます勉強に力を入れた野口は、
20歳になって突然上京。
連絡も無しに血脇の家を訪れてこう言った。

「学院の玄関番、車引き、
 なんでもするから使ってほしいのです」

プライドをかなぐり捨てた20歳の決意が、
のちに世界が誇る名医を生んだ。

明日は成人の日。

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阿部広太郎 13年1月13日放送



マリリン・モンローの20歳

セクシーの中に垣間見せるチャーミングさで、
世界中の男性を虜にしたマリリン・モンロー。

彼女の芸能人生のはじまりはモデルだった。
16歳からはじめるも、鳴かず飛ばず。
20歳になって心機一転。
20世紀フォックスのオーディションに参加。
「女優」マリリン・モンローが
生まれたのはこの時のことだった。

契約を前に、モンローはこう言ったという。

「お金が欲しいんじゃない。
 ただ、素晴らしい女になりたいの」

当時無名だったひとりの女優。
でも20歳の志は、すでに一流だった。

明日は成人の日。

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阿部広太郎 13年1月13日放送



アン・サリバンの20歳

アン・サリバンの人生は困難の連続だった。

3歳の時に目の病気にかかり、
5歳の時にはほとんど見えなくなっていた。
その上、9歳の時に母を亡くし、
その悲しみから父はアルコール依存症になってしまう。

盲学校に入学したサリバンは、
学校での訓練と手術の結果、ある程度の視力の回復を果たす。
悲しい過去を乗りこえてきた自信、
道を切り開こうとする意志が、彼女を勉強に駆り立てる。

最優秀の成績で盲学校を卒業したサリバン。
そこに声がかかったのが、
「目と耳が不自由な子どもの家庭教師」だった。
その子どもこそ、ヘレン・ケラー。
サリバン、20歳。新たな困難への挑戦だった。

「失敗したら初めからやり直しなさい
 その度にあなたは強くなっていきます」

ヘレン・ケラーに言ったこの言葉は、
困難に挑み続けてきた20年の実感に違いない。

明日は成人の日。

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阿部広太郎 12年10月27日放送


Maantjuh&Mosselmaniac
起業家という生き方 劉金標(キング・リュウ)

台湾でウナギの養殖業を営んでいたキング・リュウ。

あるとき台風の被害で破産寸前となった彼は、
1972年、自転車製造業に転身。
欧米有名ブランドの製造を請負いはじめた。

しかし初年度の受注は、たった1821台。
「Made in Taiwan」といえば
品質が悪いと思われていた時代。

キングは欠陥がひとつでも見つかると、
同じ生産ラインの自転車をすべて回収し
ローラーで押しつぶした。

それから40年。

彼のオリジナルブランド「ジャイアント」は、
世界最大のスポーツバイクブランドへと成長する。

「Made in Taiwan」は、信頼のしるしになったのだ。

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阿部広太郎 12年10月27日放送



起業家という生き方 フレデリック・ジョン・ペリー

テニスプレーヤー、フレデリック・ジョン・ペリー。
その経歴は、輝かしい偉業に満ちている。
1934年からウィンブルドン3連覇。
1935年には、男子テニス選手初のグランドスラムを達成。
テニスの神様とまで呼ばれるようになった。

プレーヤーを退くと彼は会社を起こし、
ファッションビジネスに挑戦する。
ブランド名は、自らの愛称「フレッドペリー」。

だぶだぶのシャツが当たり前の時代に、
身体にフィットするシャツを開発。
革新的でカッコ良いと、イギリスで瞬く間に浸透していく。

胸に輝く月桂樹のロゴ。
それは王者のつくった、挑戦する服のしるしだった。

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阿部広太郎 12年8月12日放送



日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 1

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは、
日本にスポーツマンシップを広めた男でもある。

明治時代のボートの試合。
日本人選手は一位がゴールをすると、
その瞬間に漕ぐのをやめてしまう。

勝負を放棄するその「手抜き」を、
ストレンジは見過ごせなかった。

「スポーツで最も大切なことは、
 互いにベストを尽くして戦うこと」

彼は生涯をかけて、
日本人にスポーツマンシップを語り続けた。

その結果は、
オリンピックを見た方ならおわかりだろう。
いまや手を抜く選手など、ひとりもいない。

たくさんの感動を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


L’s Mommy
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 2

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ。
彼は明治6年、英語教師としてロンドンからやってきた。

「スポーツの魅力を日本の学生にも知ってほしい」
スポーツマンでもあったストレンジは、
放課後に学生たちをグラウンドへ誘いはじめる。

しかし、彼の思いは届かない。

「勉強を一日休むと、日本が一日遅れる」

近代国家を支えるべく一心不乱に勉強する学生たちには、
スポーツに目を向ける余裕などなかったのだ。

ストレンジは諦めず、
彼らを参加させるための一計を案じた。
それまで日本になかった「運動会」を開催したのだ。

もちろん当時の日本に、専用の器具などない。
ハイジャンプ用のポールには竹竿を。
ハードルには学校のベンチを。
スタートの合図に使われたのは、
折り畳んだ黒いこうもり傘だった。

お祭りの要素もある運動会は、学校中を巻き込んで大賑わい。
ここから運動会は、日本中に広まっていく。

いま、ストレンジの故郷ロンドンで
「世界の運動会」が行われている。
日本人の活躍を彼が見たら、なにを思うのだろう。

たくさんの興奮を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。



日本サッカーの父 デットマール・クラマー

日本サッカーの父、デットマール・クラマー。

1960年にドイツから来日し
代表コーチに就任したクラマーは、
リフティングも満足にできない選手たちに愕然とし、
発破をかけた。

「ドイツにはゲルマン魂がある。
 日本人にも素晴らしい大和魂がある。
 私に大和魂を見せてくれ」

その8年後のメキシコオリンピック。
日本代表は銅メダルを獲得する。

死力を尽くし、試合後に倒れこむ選手たち。
クラマーも泣いていた。
メダルが嬉しかったのではない。
約束を守りぬいた教え子たちの姿に、
涙をこらえきれなかったのである。

たくさんの大和魂を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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藤本組誕生

藤本宗将くんが自分の組を持つことになりました。
組員は阿部広太郎くんと村山覚くんです。
よろしくおねがいします。

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