小林慎一

河田紗弥 17年10月22日放送

171022-01
Pedro
文房具のあれこれ 〜鉛筆〜

エリザベス王朝時代の1564年。
イギリスのボローデル山で、黒いかたまりのようなものが発見された。
その黒いかたまりが、現在の鉛筆の芯の原料となる黒鉛だ。

はじめ、人々は黒鉛そのものを手に持って、文字や絵を書いていたが、
手が汚れて使いづらかったため、
木に挟んだり、布で巻いたりして、使うようになった。

こうして、多くの人々が黒鉛を使うようになった結果、
約200年後には、ボローデル山から黒鉛が姿を消してしまった。

そこで、ニコラス・コンテとカスパー・ファーバーは
他の山からとれる黒鉛を細かい粉にし、粘土と混ぜ、焼き固め、
見事に鉛筆の芯をつくりあげたのだ。
また、黒鉛と粘土の割合を変えることで、
芯の濃さを変えることができることも発見した。

黒鉛の使う量を減らすために、生まれたこの方法。
使い勝手も、書き心地も、以前の方法よりよかったため、
今でも、鉛筆の芯は、この方法を基本に作られている。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-02

文房具のあれこれ 〜シャープペンシル〜

1838年、
アメリカ人のキーランが「エバーシャープ」という名で
シャープペンシルを発表した。
当時は、ネジのついた棒を回して、中の芯を押し出すタイプのものであった。

日本に、はじめて輸入されたのは1877年。
1915年には、日本製のシャープペンシルが発売されたが、
芯の太さが1mmもあり、高価であったため、一般には広がらなかった。

1960年に、国内メーカーが
現在最も多い形であるノック式のシャープペンシルを発売し、
その2年後には、芯の太さが0.5mmのタイプを発売すると、
瞬く間に、多くの人々に使われるようになった。

0.5mmの芯は、
画数の多い漢字を使う日本語にぴったりの細さだったのだ。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-03

文房具のあれこれ 〜ボールペン〜

ボールペンは、
1884年にアメリカのジョンラウドが発明したと言われている。
しかし、彼が発明したものは、インク漏れがひどく、
とても文字を書けるようなものではなかった。

その後、新聞の校正に携わっていたハンガリー人のラディスラオ・ピロが
新聞印刷に使われるインクが素早く乾き、
紙が乾いたまま保たれ、滲みもないことに気がついた。

最初はそのインクを万年筆に入れて試したが、
粘性が強すぎたため、ペン先までインクが伝わらなかった。

そこで、彼は化学者であった弟ジョージとともに、
回転するボールを使ってインクを誘導するという
現在のボールペンの原型を1943年に完成させた。

日本にボールペンが入ってきたのは、
第二次世界大戦後、
進駐してきた米軍が持ち込んだことがきっかけだ。
これを手にいれた製造者らが、生産を開始し、
1947年には国産のボールペンが出回るようになっていたという。

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河田紗弥 17年10月22日放送

171022-04
Pedro
文房具のあれこれ 〜付箋〜

1969年、アメリカの科学メーカー3Mに、
ある一つの失敗作が生まれた。

研究員スペンサー・シルバーは、
強力な接着剤を開発しようとしている最中に、
非常に弱い接着剤を作り出してしまった。

当初、この弱い接着剤は用途が見つからなかったが、
1974年に、3Mの研究員アーサー・フライが
本のしおりに応用できないかと思いついた。

1977年には試作品が完成し、
大企業の秘書課に配られた試供品が好評を博し、
1980年の全米販売につながった。

そう、これが
ポストイット誕生の瞬間だ。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-01
wonderwonderword
沖縄 × 岡本太郎

「太陽の塔」を作った芸術家、岡本太郎。
彼が沖縄の文化に強く惹かれていたことをご存知だろうか。

太郎は米軍占領下の沖縄を訪れた。
歩いて、見て、食べて、その結果たどり着いた結論は、
「何もない」ことの美しさ、だった。

過度に装飾された美しさ、意識された美しさではなくて、
生活の必要から生まれ、必然の中から浮かび上がる美しさ。
沖縄には、日本が失ってしまった「何もない」美しさが残っている。
太郎はそう考えた。

太郎らしい、沖縄へのまなざし。
その理由を、太郎はこう記している。

 それは私にとって、一つの恋のようなものだった

と。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-02

タヒチ × ポール・ゴーギャン

フランス後期印象派の巨匠、ポール・ゴーギャン。

パリの文明社会に疲れた彼は、南太平洋のタヒチに渡り、
原始の自然とそこで暮らす人間を描いた。

タヒチを「美と自由の国」と称賛したゴーギャンだったが、
現地での生活はそのイメージ通りにはいかず、苦しいものだった。
最愛の娘を亡くし、徐々に健康状態も悪化していったが、
それでも彼は、島から離れることはしなかった。
「最後の楽園」を求めて島を転々とし、
タヒチから1500キロ離れた小さな島で、誰にも看取られることなく、
54歳でその生涯を終えた。

最後に手掛けた大作のタイトルが、あの有名な一説である。

 われわれはどこからきたのか
 われわれはなにものか
 われわれはどこへいくのか

ゴーギャンの魂は、いまだ楽園を探しているのかもしれない。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-03

ハワイ × ウラジミール・オシポフ

ハワイで最も重要な現代建築家といわれる
ウラジミール・オシポフ。

彼の有名な作品のひとつが、
1952年に建てられた邸宅「リジェストランドハウス」。
ホノルル市街を見下ろす小高い丘のうえ、
緑の木立の中にひっそりと佇むこの家を訪れるのは、
まさに極上の体験だ。

優しい日陰を作る大きなひさし。
外に向かって大きく開かれた窓からは、
ハワイの温かい風が心地よく入ってくる。
目の前には青い海とワイキキの街並み。
ダイヤモンドヘッドまでも遠く見渡せる。

ハワイの光と風を全身で感じられる家を作ったオシポフだが、
その名前からも察せられるように、ロシア・ウラジオストク生まれ。
極寒の国の才能は、南国で鮮やかに花開いたのだった。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-04
Anjali Kiggal
アイスランド × ビョーク

アイスランドの歌姫、ビョーク。
グラミー賞に14度もノミネートされた世界的なシンガーで、
世界一有名なアイスランド人と言っても過言ではない。

ビョークの魅力のひとつが、その圧倒的な歌声だ。
パワフルで、妖艶で、楽器のような声。
その人間離れしたスケール感は、アイスランドの大自然を彷彿とさせる。

この歌声は、どうやって生まれたのか?
ビョーク自身は、こう振り返っている。

 子供の頃、歩きながら歌っていたから、
 自然と声量が鍛えられたのかもしれないわね

まさに、アイスランドの大地が育んだ声なのだった。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-05

キーウェスト島 × ヘミングウェイ

作家、アーネスト・ヘミングウェイが「老人と海」を書いたのは、
アメリカ最南端の島、キーウェスト島だった。

彼は港町のひとびとののおおらかさと、
大物狙いの荒々しい釣りにのめりこみ、
1931年から9年間、この地で暮らしていた。

ヘミングウェイが住んでいた家が、いまも残っている。
家を守っているのは、たくさんの猫たち。
それもなんと、「6本指」の猫たちである。

ひとつ多い指を使って船のロープを軽々と掴む6本指の猫は、
キーウェストの船乗りから幸運のシンボルとして愛されていた。
ヘミングウェイも大の猫好きで、執筆の友として2匹の猫を譲り受け、
一緒に暮らしていた。

その子孫が、いまや大事な観光の人気者として大切に保護されている
6本指の「ヘミングウェイ・キャット」。
幸運のシンボルはいまも幸せそうに暮らしている。

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四宮拓真 17年8月20日放送

170820-06

バリ島 × アントニオ・ブランコ

フィリピン・マニラ生まれの画家、アントニオ・ブランコ。
彼は、日本人にも人気の高いインドネシア・バリ島のウブドに移住し、
そこで生涯にわたって創作活動を続けた。

もともとは、ポール・ゴーギャンの影響でタヒチに心が惹かれていたが、
さまざまな事情でハワイ、日本、カンボジアと移り、
最終的にバリ舞踊のダンサーだったニ・ロンジ夫人との結婚を機に、
バリ島に移住した。
その後多くの賞を受賞する人気画家となったから、
島への移住が人生の転機となったことは間違いない。

ブランコは、その風貌や、
額縁までこだわって自作する独特の作風から、
「バリのダリ」と呼ばれた。
実は、この額縁へのこだわりは、日本で育まれたらしい。
バリに渡る前に、1年ほど横浜に住んでいて、
その頃に額縁職人と知り合い、技術を学んだそうだ。

バリのダリは、日本との縁で生まれていた。

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