道山智之

道山智之 15年9月20日放送

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furanda
松本隆 3 ~ 仲間 

作詞家、松本隆。
今年、活動45周年を迎えた彼のために、
トリビュートライブ「風街レジェンド」が8月にひらかれた。

彼はこのために、40年ぶりにドラムを本格的に練習。
日本のロックの原点と言われるバンド、
「はっぴいえんど」の復活に人々はどよめいた。
 

 上がってくる音が、はっぴいえんどの音。
 自分でもけっこうショック受けちゃって。

 それだけでちょっとウルッときたりしてね。

今までに詩を書いた楽曲数、2100曲以上。
1972年の「はっぴいえんど」解散後も、
数々のヒットで時代をつくってきた作詞家を、
錚々たるミュージシャンたちが祝った。
松本は舞台袖で、そっと演奏を見守った。

 ほんとに仲間なんです。

タイムトラベルのようにきらめく演奏と、
家族のようにあたたかな客席。
4時間にもわたるコンサートを終えたとき、
松本はあらためて実感した。

 ぼくは、はっぴいえんどのドラム。

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道山智之 15年9月20日放送

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松本隆 4 ~ エゴのちから 

作詞家、松本隆。
今年、活動45周年を迎えた彼は語る。

 今、エゴってすごく悪者になってるけど・・・ちがうの。
 エゴこそ原動力。自分がやらなくって誰がやるっていう。

 ぼくが聞きたいものをつくってあげよう、って。

そのエゴは、
何十年後かに誰かが理解してくれればいい、と
自分のよさを信じる強さでもある。

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道山智之 15年9月20日放送

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松本隆 5 ~ A LONG VACATION

作詞家、松本隆。
30才のとき、心臓の弱かった妹が他界した。
大切な妹を失った彼は、もうひとつの大切なもの、
「言葉」まで失った。

 書けなくなっちゃったのね。妹が死んだショックでね。

ちょうどその頃、
大瀧詠一から頼まれていた歌詞の〆切が迫っていた。
断りの電話を入れた松本に、大瀧は答えた。

 「今回は、松本以外は考えてないから。それなら待つ」って。 ・・・待たれても。(笑)

少しずつ、松本は言葉をとりもどしていった。
発売を8カ月延長してリリースされた、
アルバム「A LONG VACATION」。
CD史上、初のミリオンセールスを記録した。

1曲目を飾るのは、「君は天然色」。
はじけるように明るいこの名曲には、
松本の、妹への想いと、大瀧との友情があふれている。

 大瀧さんのメロディはねえ、青春なんだよね。
 青春の痛みがあるの。だからすごい好きだったよ。

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道山智之 15年9月20日放送

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松本隆 6 ~ 光と影のバランス

作詞家、松本隆。
彼の詩はよくこう言われる。
明るさの中に、せつなさや哀しみがひそんでいる、と。

彼はこう語る。

 真っ白い画面があって、そこに影を描き込むと顔が浮き出るわけ。
 花を描きたかったら、花の影を描くわけ。花の光を描いても白いだけ。
 ・・・影の歌をつくることによって、人の心って明るくできる。

 みんな泣きながら明るくなってるの。純粋に戻るわけ。  

大切なのは、光と影のバランスなのだ。

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道山智之 15年9月20日放送

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松本隆 7 ~ 原点から

作詞家、松本隆。
彼は、閉塞感漂う世の中についてこう語る。

 ぼくは迷うとつねに原点に戻るから。
 原点は、はっぴいえんどだから。
 こういう方法論ない時代は、自分にもどっちゃっていいと思う。

そんな彼は今年、
自分のルーツであるバンド「はっぴいえんど」を再始動させた。

 人間とは、とか。
 愛とは、とか。

そのメッセージは、時をこえるほどに強い。

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道山智之 15年9月20日放送

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松本隆 8 ~ 言葉と声

作詞家、松本隆。
活動45周年を記念して、ゆかりのアーティストたちが歌詞を朗読した。

 あなたを・もっと・知りたくて

 離れても心は君の
 そばにある そう言ったでしょ

 星空に逢いに来てって
 頼んでも風の音だけ

 「もしもし うん まだ切らないで」   ・・・

明るくさわやかなポップスであるこの曲の、
別の側面を提示してみせたのは薬師丸ひろ子。
歌の詩を、声に出して朗読することで、
まったくちがった意味を帯びることに、松本本人も驚いた。
別世界と交信するようなせつなさに、録音スタッフはみんな涙した。

 もう、全然知らなかったよ。ぼくは、明るくてさわやかな歌書いたつもりだった。
 ・・・あの人が発掘した魅力。

言葉は音楽といっしょになるたびに、
そして声といっしょになるごとに、思わぬ光をはなつ。
万葉の頃からそうなのだ、と松本はほほえむ。

 もっともっと あなたを
 もっともっと 知りたい
 いま何してるの? いま何処にいるの?
 そして愛してる人は誰ですか?

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道山智之 14年11月8日放送

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チャイコフスキー 1

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。

彼の「ピアノ協奏曲第1番」は、
それをささげたモスクワ音楽院院長のルビンシテインに
酷評された。

「ほとんどを書き直さなければ、演奏することはできない」

チャイコフスキーは答えた。

「私は1音も変える気はありません。このまま出版します」

翌年、この曲はボストンでの初演で大成功。
まず彼はアメリカで認められた。
それにつづくサンクト・ペテルブルグでの演奏では、
なんとルビンシテインが指揮をつとめることになった。

その3年後に完成した「ヴァイオリン協奏曲」は、
評論家に「悪臭を放つ音楽」とまでも言われる。
しかしその後、ヨーロッパ中で人気を獲得していく。

チャイコフスキーが生まれ育ったロシアの田舎の体温と、
ヨーロッパの感性が絶妙に融合した、
新しい時代の音楽。
認められるには、少しばかり時間が必要だった。

バレエ振付家、ジョージ・バランシンは語る。

「曲がはじまるや否や、チャイコフスキーだとわかる。
 “まぎれもなく彼だ!”と。 
 そうまでさせる人は、多くはありません」

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道山智之 14年11月8日放送

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チャイコフスキー 2

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。

結婚に失敗し、
精神的に追い詰められていた彼をささえたのは、
大富豪の女性、フォン・メックだった。

9歳年上のフォン・メック夫人は、
決して会わないことを約束に、
チャイコフスキーを経済的に援助。
14年にもわたって文通をつづけた。

チャイコフスキーは支援のおかげで
ヨーロッパ中をさすらいながら、
「弦楽セレナーデ」や「眠れる森の美女」など
珠玉の作品を書き上げた。

決して会わないと誓った純潔と、おさえきれない友情。
言葉にできないその想いが、
名曲として結晶したのかもしれない。

チャイコフスキーは、婦人あての手紙に書いている。

「ハイネの指摘どおり、
 言葉の終わるところから、
 音楽ははじまるのです。」

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道山智之 14年11月8日放送

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チャイコフスキー 3

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。

大好きな妹サーシャの訃報を知ったのは、
指揮者として、カーネギーホールのこけらおとし公演へ向かう
途中のことだった。

アメリカで、故郷よりもずっと熱狂的に
受け入れられたチャイコフスキー。
彼は帰国後、あるバレエ曲を書き上げる。

「くるみ割り人形」。

幼いころ母をなくしたあと、つらいときも
ずっと自分の心のささえになってくれた妹。
彼はその面影を、この兄妹のストーリーの中に
夢のような美しいメロディの糸で織り上げていった。

この曲は、
のちにマイケルジャクソンをしてこう言わしめた。

「いちばん好きなのは、「くるみ割り人形」。
 ポップスのアルバムでは当たり曲は普通1曲だけなのに、
 あの組曲は1曲1曲すべてがすばらしい。
 あんな、1000年たっても聞きたいようなアルバムをつくりたかった。」

ポップで、ダンサブル。
チャイコフスキーの音楽は、国境なんてかるがる超えて、
人の心に入ってくる。

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道山智之 14年11月8日放送

141108-04

チャイコフスキー 4 

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。

幻の交響曲「人生」。
未完成のまま終わったが、
そのテーマが引きつがれてできたといわれる曲がある。
交響曲第6番「悲愴」。

このタイトルはフランス語では“Simphonie Pathétique”、
たしかに「悲愴」と訳されるが、
元々チャイコフスキーが自筆の楽譜に書きこんだのは
ロシア語“патетическая(パテティチェスカヤ)”。
「情熱的」「心を動かす」という意味だった。

「この曲は、私の作品の中で、もっとも心のこもった曲だ」

初演されたわずか9日後に、彼はこの世から旅立ったために、
「悲愴」というタイトルは謎めいた響きを持つことになった。
しかし彼は、けして遺言がわりにこの曲を書いたのではなく、
これからもいい仕事をする気満々だったのではないだろうか。
ちょうどこの頃、とある劇場からの指揮の仕事も引き受けたばかりだったという。

“チャイコフスキー 交響曲第6番「情熱」”

タイトルを心の中で置きかえて、
そっと目をとじ聴いてみる。
彼の想う「人生」を感じてみる。

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