藤本宗将 20年8月8日放送



ヒゲと将軍

戦国の世において、
ヒゲは武士の強さの象徴だった。
ところが江戸幕府ができると
官僚化した武士にヒゲを剃る習慣が広がる。

荒っぽいヒゲは「傾奇者」と呼ばれる
アウトローたちのものとなり、取り締まりの対象に。
そして4代将軍・徳川家綱の代に
とうとう「大髭禁止令」が発令され、
ヒゲが一掃されるに至った。

確かにそれ以降の浮世絵を見ても
ヒゲを生やした者は見当たらない。
泰平の世ともに、ヒゲは居場所をなくしたのだ。

ただし、禁止令にも例外が。
長谷寺に残る家綱自身の肖像画には、
堂々たるヒゲが生えている。
武士のトップに許された特権だったのだろうか。

topへ

村山覚 20年8月8日放送



ヒゲと時代

明治や大正の頃、立派な髭は男の勲章だった。
政治家も、経営者も、街の人々も、皆が当たり前のように髭をたくわえた。

昭和の後半、いわゆる高度経済成長の頃からバブルが弾けるまで
髭を生やす人はどんどん少数派になっていった。
髭なしスタイルは「安定・秩序・平和」の象徴とも言われた。

平成になり、男たちは再び髭を生やし始めた。
特に急成長を遂げたインターネット業界では髭率が高い印象。
安定や秩序よりも、変化を望んでいるという意思表示にも見える。

そして令和。
家で過ごす時間が増えて「コロナ髭」なんて言葉も生まれた。
この先、髭の経営者や政治家が増えるのだろうか?
それとも、さっぱりとした髭なしスタイルが好まれるのだろうか?

topへ

仲澤南 20年8月8日放送



ヒゲとお札

2024年。
20年ぶりにデザインが変わる、日本のお札。
新しい一万円札に描かれる“顔”は、渋沢栄一だ。

しかし彼がお札の顔の候補に挙がるのは、
これが初めてではない。
1963年、千円札のデザインが変わる時にも、
伊藤博文と並んで最後の候補に残っていたという。

しかし、残念ながら落選。
その理由のひとつが、ヒゲだった。
立派なヒゲをたくわえた伊藤に対し、
渋沢の顔にはヒゲがなかった。
当時は再現の難しい細かなヒゲを描くことで、
お札の偽造を防いでいたのだ。

それから数十年。
偽造防止の技術がすすんだおかげで、ヒゲのない男性だけでなく、
女性もお札の顔に選ばれるようになった。
新しい千円札の顔・北里柴三郎は
ヒゲのおかげで選ばれたわけではない。

topへ

村山覚 20年8月8日放送



ヒゲと選挙

リンカーン大統領。トレードマークは、立派なヒゲ。
しかし大統領選に出馬した当初は、生やしていなかったそうだ。

ニューヨークに住む一人の少女が、こんな手紙を書いた。
“あなたは頬がこけているから、髭を生やしたらきっとかっこよくなるわ!”
“女性はみんなヒゲが好き”

リンカーンはすぐに返事を書いた。
“今まで生やしたことがないんだ。おかしいと思われないかな?”

ヒゲの有り無しが選挙戦にどこまで影響したかは分からないが…
よくお似合いですよ、大統領。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 アムステルダム大会

今日は金銀の日。
昭和3年8月2日、
アムステルダムオリンピックで、
日本人が金メダルと銀メダルを獲得したことを記念しています。
金メダルを獲得したのは、陸上三段跳びの織田幹雄の選手。
日本人初の快挙でした。
銀メダルを獲得したのは、人見絹枝選手。
陸上競技800メートルのレースです。
人見絹枝は日本人初の女性オリンピアンでした。

東京オリンピックが延期となったこの夏、
実現していたらどんな快挙に出会えたのでしょう。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 織田幹雄

今日は金銀の日。
その由来となったアスリートの一人は、織田幹雄選手。
昭和3年、アムステルダムオリンピックの
三段跳びで金メダルを獲得しました。
実は「三段跳び」と名付けたのも織田幹雄選手でした。
英語では「ホップ・ステップ・ジャンプ」という競技。
日本でも「ホ・ス・ジャンプ」と呼ばれていました。
ただ、これでは長すぎる。
そこで織田選手は「三段跳び」を提案したのです。
これが採用され、今日まで使われています。

織田選手は、現役引退後も指導者として、
陸上競技に情熱を注ぎました。
指導を受けたい、と要望されれば海外にも行き、
生涯で40カ国以上の国でコーチをしたそうです。

世界を飛び回る、
ジャンプの多い人生でした。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 人見絹枝

今日は金銀の日。
その由来となった一人、陸上選手・人見絹枝。
1928年、昭和3年の第9回オリンピック、アムステルダム大会。
陸上競技への女子選手の参加が初めて認められた大会で、
銀メダルを獲得しました。
本命の100メートル走では準決勝敗退。
走る予定はなかった800メートル走にも
エントリーしていたことから、
出場を決意しました。そして結果が銀メダル。

その雄姿は、オリンピックを題材にした大河ドラマで描かれ、
21世紀のこの時代においても多くの女性に勇気を与えました。

帰国してからは、日本の女子陸上競技の振興のために
精力的に活動し全国を飛びまわりました。
そして、銀メダル獲得後わずか3年で、
その生涯を終えてしまいます。
けれども
人見の命をかけた活動があったからこそ、
今の女子アスリートの活躍があるのでしょう。
その系譜を継ぐ女子選手の姿を、早く見たいですね。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 内藤克俊

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得したことを記念しています。

その4年前のパリ大会で
銅メダルを獲得した日本人がいたことは、
あまり知られていません。
内藤克俊、レスリングの選手です。
アメリカ、ペンシルバニア州立大学に留学し、
レスリング部の主将を務めていた内藤は、
駐米大使の推薦で日本選手団に加えられました。

知られざるオリンピアンの活躍、
もっと知りたくなります。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 バロン・ニシ

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得した、その記念です。

かつて、オリンピックの最終種目は、
馬術の障害飛翔と決まっていました。
1932年のロサンゼルス大会、
コースは難易度が高く、失格が続きました。
そんななか金メダルを獲得したのは、
30歳の陸軍中尉、西竹一とウラヌス号。
日本馬術、唯一の金メダル。
バロン・ニシの愛称を持つ彼は、
勝利後の記者会見で「We won.」と
簡潔に答えました。

Weとは、自分と馬、なのか
私たち日本人、なのか。
真意は時の彼方です。

topへ

大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 友情のメダル

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得したことを記念しています。

銀と銅のメダルを半分に割り、一つに組み合わせた、
友情のメダルと呼ばれるものがあります。

1936年のベルリン大会の棒高跳び。
1位のアメリカ人選手は4メートル35、
日本人の2選手、西田修平と大江季雄(すえお)が、
ともに4メートル25の記録で試合終了。
2人とも銀メダルだと思っていたけれども、
翌日の表彰式では、西田が2位で大江が3位。
ルールでは同記録は同順位のはずでした。
納得がいかない2人は、ルールを正すために、
銀銅のメダルを分け合ったのです。

topへ


login