直川隆久 2016年8月21日

1608naokawa

おかえり

          ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

死んでみると、「三途の川」が本当にあった。
イメージしていたような、暗くて不吉な風景ではない。山奥のせせらぎだ。
木々の葉を揺らす風もなく、さらさらと水の音だけが心地よく耳に届く。
脱衣婆とか鬼とかいった恐ろしげなものもいない。
晴れ渡った空からあたたかな陽光がふりそそいでいる。
水は透明で、手をひたしてみると心地よくぬるんでいる。

この川に流されていったらどうなるのかとふと思った。

じゃぼんと川の水に身をまかせる。おれの体は、ゆるゆると動き始めた。
仰向けに浮かぶ。
真上を見あげるおれの前で、青空がスクロールしていく。

気持ちいいなあ。
いやあ、気持ちいい。
これは、たぶん、おれでなくても流されたくなる。

しばらく下って、川の合流地点にさしかかる。すると、
向こうの流れの水面に、
黒い大きな丸いものがぽかりと突き出ているのが見えた。
熊。熊の頭だ。
だが熊はこちら側には関心をしめさず、
平和な顔つきで水の流れに身を委ねているように見える。

川の幅がだんだんと広くなっていく。
小さな流れが集まっていくにしたがい、
そこからいろいろな生き物が流れ込んでいるのが見えた。
見渡す限り川の水になる。
流れはとてもゆるやかで、なめらかな水面は、空の青色を貼り付けたようだ。
豚。馬。鹿もいる。人もいた。
テレビで見たガンジス河を思い出す。

平泳ぎで流されている女がいて、仰向けに流れているおれと目があった。
あ、それがラクか、と思ったのだろう。女も同じ姿勢になった。

さらにさらに下っていく。
ふと自分の足を見ると、見慣れない爬虫類のような足にかわっている。
まわりで流されている動物たちも、
トカゲなのかなんなのかわからない生き物になっている
。図鑑で見たことのある、古代生物だと気づく。

そういうことか。
おれは時間をさかのぼっているのか。

水はあたたかく、
おれは自分の輪郭が溶けていくような気持ちよさに包まれている。
これは死ぬのもわるくないなと、あらためて思う。

さらにさらに下る。
何億年分戻ったのだろう。
おれの輪郭はほどけ、バラバラになって、
バクテリアみたいなものになっている。
心地よくぬるんだ水の中は、バクテリアでいっぱいの、
スープのようになっている。ラーメンを思い出す。

流れは、ついに終結点にたどりつく。
この世界で死んだ生命たち、そのすべてをとかしこんだスープが、
深い深い淵へと注ぐ。

40億ぶりに戻る生命の始原の時間。
その淵に、おれたちは流れ落ちていった。

ああ、ただいま。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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田中真輝 2016年8月14日

1608tanaka

「流れにまつわる追想」

      ストーリー 田中真輝
        出演 石橋けい
  
夏。昼下がり。蝉の声がやんでいる。先ほどまであれだけやかましかったのに。
曽祖父の代からうちにある大きな振り子時計。その振り子が揺れるたびにカチ
カチという音だけが聞こえている。縁側から差し込む日差しを避けるようにし
て畳の部屋にできた日陰の中に体を横たえていると、冷たい畳の肌触りが心地
よくてついまた眠ってしまいそうになるけど、さあっと吹き込んできた風に、
雨の匂いを嗅ぎ取ってもう眠れない。あのときも今と同じように、夏の日差し
を避けて薄暗い畳の上で気だるく横たわっている私の目を覚まさせたのは、ど
こか少し生臭いような雨の匂いだったのだけれど、それは外からの風に乗って
運ばれてきた夕立の気配などではなく、いつの間にか目の前に立っている女の
濡れそぼった体から水滴がしたたり落ちて畳の目地に沿って流れていくしずく
のその流れによって運ばれてくる水の匂いが、わたしの鼻先をかすめて、水そ
のものの流れよりも先に部屋の外へ、庭土の上を小さな流れとなって、降り始
めた雨といっしょくたになって、やがて冷たく暗い穴の中へ滑り落ちていくと、
そこはもう海の匂いがする、と思うわたしは、いつの間にかまた少し眠ってい
たようで、目を上げると、もうそこには先ほどの濡れそぼった女はおらず、水
を吸い込んで足の形に黒く沈み込んだ畳が見え、そこから立ち上る水の気配の
ようなものだけがゆらゆらと、カチカチと聞こえてくる振り子の音をくぐり抜
けるように、ゆらゆらと揺らぎながら暗い部屋の天井の方へとのぼっていくと
そこには、同じようにのぼって行った水の気配が逆さまに溜まってゆらゆらと
揺れる水面があり、畳の上にだらしなく横たわるわたしのシルエットが逆さま
に映ってゆらゆらとゆれている。そのとき。ざっと。庭の木々を打つ。雨の音。
かきけされる。振り子時計の。カチカチ。いう音。一瞬の、闇。
闇の中に戻ってくる。濡れそぼった女から打ち寄せる、波のように打ち寄せる
息遣いがわたしの前髪をさらさらと揺らし、さらさら揺れる前髪をすり抜けて
届くその湿った息遣いがわたしのまつげに触れ、わたしのまぶたを覆うように
して閉じていくと思う間に、天井にとどこおっていた水面のさざめきがひとと
き収まって、鏡のようにわたしの姿を映すとその姿を抱えたまま、縁側に向か
って開かれた空間へと一気に溢れ出し、流れ出す先にあるのは先ほどまでの激
しい雨の気配だけを残して垂れ込め渦巻く質量をともなった雲の塊へとあまあ
いをついて空へと落ちていく落ちていくわたしはどこまでも空へと流れ落ち運
び去られていってもう取り返しがつかない。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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岡部将彦 2016年8月7日

1608okabe

「アキレスと亀」

      ストーリー 岡部将彦
        出演 地曵豪

男は、今、まさに死の淵にいた。
観光地の崖からの転落。
その落下の途中であった。

まさか、こんなカタチで自分が死ぬなんて。

景色がゆっくりとスローモーションになっていくって、
本当なんだな。

あまりの事態に、現実感がなく、男はどこか冷静だった。
人生で1度しかない死の瞬間を観察しはじめていた。

人が死に直面したとき。
脳は極限まで集中力を高め、
少しでも生き残る可能性がないかを探しはじめる。

その際、
不必要と判断された五感はひとつずつシャットダウンされていくという。

まず味覚がシャットダウンされた。
続いて触覚と嗅覚が、そしてほどなくして聴覚がシャットダウンされた。

男に静寂が訪れた。

いまや脳は五感に割いていた力を、視覚だけに注いでいた。
単純計算で5倍。
その極限の動体視力で景色がスローモーションで見えてくるのだ。

昔、映画で見たことがあるぞ。
「ここぞ」という大事な場面を迎えたスポーツ選手。
歓声が消え、すべてがスローモーションになり…
あれか。

状況は極めて悪い。
そう判断した脳が、
視覚からさらに色彩を消した。

男にモノクロの世界が訪れた。
まわりの景色は、より一層スローになった。

それでもゆっくりと地面は近づいて来る。
そのタイミングで脳はさらなる稼働をはじめた。

この瞬間にすべてをかけた、
なりふり構わないフル稼働。

この死を逃れる方法がないか、
日常生活を送るうえで、普段は使っていない部分も含めて
すべての脳細胞が一斉に情報処理をはじめた。

0.1秒が、何倍にも膨れ上がった。
さらに次の瞬間、何万倍にも膨れ上がった。

あくまで男から見た世界ではあるが、
すべての時間が止まったようであった。

男が数mm落下するその刹那を、
脳は持てる力の限りを使って、
何万倍、何百万倍もの時間にひき延ばしはじめた。

男は、すべてを理解した。
俺はこのまま死ねないかもしれない。
死の瞬間を、こうして脳は永遠に延ばし続けていくのだな。

外から見ると、たった一瞬の出来事だった。
だが、男は、永遠に地面に激突する刹那の中にいる。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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中山佐知子 2016年7月31日

1607nakayama

映画館のある島で

     ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

映画館のある南の島で夏休みを暮らしたことがある。
島は母の島だった。正しくは母の故郷だった。
母は僕が小さいときに死んだと聞かされていたが、
母の親戚が島のそこここにいた。

僕がお世話になった家には女の子がふたり。
姉は僕よりひとつ年上で、妹はひとつ下だった。
姉は癇性な上に年上だからと威張り
命令に従わないとすぐに癇癪を起こしたし、
怯えた妹が僕の手のなかに自分の手をそっと滑り込ませたときも
荒れ狂ってあたりのものを投げ散らかした。

飛んできたお盆や座布団を投げ返しながら
僕は不思議でたまらなかった。
女の子を相手に野生動物のようなケンカをする自分が
どうしてこんなに心地よいのだろう。
裸足で走るのも人前で泣くのもいい気持ちだった。
ケンカは最高に楽しかった。
あの夏、僕は子供時代をもう一度やりなおしていたのだと思う。

昼間、僕たちは近くの浜辺で泳ぎ
日暮れになると映画館へ行った。
同じ映画を何度も見て、同じシーンで笑い
同じシーンで泣いて怒った。
泣くときはどういうわけか三人しっかり手をつないで泣いた。

映画館を出ると、空のてっぺんには天の川が流れ
西の空には木星が光った。
町の灯りより星明かりがにぎやかな島だった。
僕は姉と妹に星の知識を教え、姉は島のことを僕に語った。
島は精霊に守られ、
精霊の声を聞く特別な人がいることを知ったのも
映画の帰り道だった。
精霊ってなんだろう。
問いかけた僕に、妹が小さな声で「おかあさん」と答えた。

島の最後の日は、昼間から映画館へ行った。
明日はもうここにいないのだと思うと
胸がつまるようだった。
出て行くのは僕なのに
仲間はずれにされたような痛みがあった。

開演のベルが鳴って灯りが消えると
じわっと涙が出てきた。
妹がそっと僕の手に触れた。
姉が僕の手をぎゅっと握った。
ああ、これだと僕は思った。これが精霊だ。
精霊は共感するチカラなのだ。
誰かの心に寄り添い、共に悩み共に悲しむ心が精霊であり
妹にとってはおかあさんだったのだ。

手をつないでいると
川が合流するように僕たちの気持ちはひとつになって
あふれはじめた。
香港のアクション映画の音楽に埋もれて
その日、僕たちはずっと泣いていた。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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横澤宏一郎 2016年7月24日

1607yokosawa

「映画禁止法」

      ストーリー 横澤宏一郎
        出演 地曵豪

突如、映画禁止法なるものが出た。
正確には、「映画等私的映像作品の上映及び鑑賞を禁ずる法律」
と言うらしいが長ったらしいので、
みんな映画禁止法と呼んでいる。

じつは、いまの総理大臣が大の映画嫌いらしい。
「キューブリックはね」とか
「テレンス・マリックってさ」とかの知識の話から、
「あのシーンどう解釈する?」みたいな、
映画に詳しくない人の人権を1ミリも考慮しない排他的な会話に
ほとほと嫌気がさしたらしい。
某外国の大統領に大の映画好きがいて、
黒澤映画すら見たことのなかったいまの総理はたいそう恥をかいたそうだ。
それが最後の引き金になった。
自分の国の有名監督くらい押さえておけよ!と言いたくもなるのだけど。

まあいい。
とにかく映画館で観ることも、上映することも、
家でDVDや配信で観ることも禁止になった。
ドラマばっかりで全然映画なんて観なかったくせに、
いざ禁止ってなると観たくてしょうがない。
友人にそう話したらまったく同じことを言ってて、
それなら観に行こう!ってことになった。
こっそり上映している映画館があるらしい。
闇上映ってヤツだ。人間は禁止されるほど抜け道をつくる。
禁酒法なんかもそうだったよな。

その闇上映は横浜のある倉庫の中で行われた。
体育館までは大きくないものの、まあまあ大きい倉庫で、
パイプ椅子がところ狭しと並べられていた。
どこから聞いたのか結構観客もいて、
僕と友人は並んで座ることができなかった。
ポップコーンやコーラまで売っていて、
とても禁止令下の上映とは思えない雰囲気だった。

上映作品は「華氏451」という1966年のイギリス映画だった。
それは本の所持や読書を禁じる架空の社会を描いたもので、
まさにいまの映画禁止令の世の中と同じだった。
ああ、そうそう俺たちも禁じられたものを見てるんだな、
なんて思っていたら、エンドロールのときに後方がざわざわしてきた。
警察が踏み込んできたのだ。この闇上映の情報が漏れていたわけだ。

だけど、なぜか僕らは全員逮捕されずに帰してもらえた。なぜか?
その闇上映に総理大臣がこっそり来ていたらしい。
それも例の映画好きの大統領に連れられて。
それを見つけた警察がみんなを捕まえないことで
総理と大統領を守ったというわけ。
命拾いして助かったんだけど、
同時に法律ってなんなんだろうなって思ってしまった。

という映画のシナリオを僕はいま執筆中だけど、この番組をお聞きの皆さん、
観たいと思いますかね。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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直川隆久 2016年7月17日

1607naokawa

ある助監督 

          ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

 冬の日。
 大岩和道は、通い慣れた本屋の映画関連書コーナーで、真新しい「シネマ芸
術」増刊号を手にとる。表紙にはタバコをくわえた精悍な男の顔と、「野口征太
郎・没後10年記念特集」の文字。
 校了前にゲラを送ると編集者は言っていたが、そういえば連絡がなかったこ
とを大岩は思い出す。
 口絵部分に、大岩が提供した写真が使用されている。大岩が初めて野口の現
場に助監督としてついた作品、そのクランクアップ時の記念写真だった。画面中央、
髭面の野口がディレクターズチェアに身を沈めている。端っこに、ぎこちなくたたず
む若い大岩の姿があった。髪は、まだ豊かで黒い。
 ページを手繰り、自分のインタビュー記事を探す。だが、数日かけておこなわれ
たその内容は随分と簡略化され、1ページにまとめられていた。そのかわり、野口
の遺作の主演女優のインタビューが8ページにわたり掲載されている。大岩が編集
者に語った「いまだ評論家が指摘しない野口作品に通底するテーマ」が、寸分たが
わずその女優の言葉として収録されていた。
 大岩は、並んでいるだけの「シネマ芸術」を買い込み、本屋を後にした。冷たい風
にさらされた手は、紙袋の重みで、なお痺れた。

 大岩は助監督として、野口征太郎のキャリア後期の代表作をささえ続けた。撮影
の段取り、気難しい俳優のケア、撮影部・照明部・美術部との折衝…そのすべて。野
口が好んだ無許可のゲリラ撮影のあと、警察にしょっぴかれるのはいつも大岩の役
目だった。ブタ箱を喰らいこんだ翌日撮影現場に戻っても、野口からは一度も労い
の言葉はなかった。「そういうものだ」と大岩も思っていた。
 仕事は、映画の現場に止まらなかった。ある時期は、野口の愛人を車で迎えにい
くのが、大岩の役目だった。撮影用の車両を一台借り出し、渋谷のマンション前で女
を拾い、野口が投宿している新宿のホテルまで運ぶ。「なんでもするのねえ、助監督
さんって」窓の外を見ながら女がつぶやいたことを、大岩は今でも思い出す。

 大岩が野口のもとでの5度目の現場を終えた年、野口が肺ガンの診断を受けた。
ソメイヨシノの花びらが風に舞う時季、野口は身を隠すように療養生活に入った。そ
のときも世話を名乗り出たのは大岩だった。病状は急速に進んだ。大岩は病院に泊
まりこみ、介護を行った。監督にはご家族がいませんから、と、撮影所の人間が見舞
いに訪れるたび大岩は繰り返した。床ずれができないように野口の体をさすり、排便
の処理をした。まるで、ほかの誰かに触らせまいとするかのように。
 夏の終わり、最後の作品の公開を待たず、野口は息をひきとった。
葬儀の日は、折しも接近する台風のせいで雨であった。大岩は傘もささず、葬儀会場
入り口から動こうとしなかった。次々に乗り付けるハイヤーから姿を現す大物俳優に、
報道陣が群がる。それをよそに、大岩は弔問客に頭を下げ続けた。
 ほどなくして、撮影所は人員整理を行い、大岩は現場から総務セクションへと異動
になったのだった。

※        ※        ※

 大岩は、撮影所に戻り、デスクに雑誌の入った紙袋をどさりと置く。
「大岩」
 背後で声がした。同期の島田だった。
「話しておきたいことが、あって」
「なに。役員じきじきに」と笑いながら大岩は、隣のデスクの椅子を勧めた。
「野口監督の没後10年てことで、ちょいとした企画があってね。野口監督の伝記映画
を撮ろうっていう…公開先は劇場じゃなくて、衛星テレビなんだけど」
「ふうん」
「で、それの監督を…誰にやってもらおうか、という話になって」
 大岩は、島田のほうを見ず、タバコをくわえた。火がうまくつかない。
「おれは、君を推したんだ。君は監督作こそないけれど、なんといっても、野口監督をい
ちばん知ってるのは君だし…」
 島田は、次の言葉が固形物でもあるかのように口をもぐもぐとさせてから、ようやくそ
れを吐き出した。「でも、取締役連中は、森山に、やらせたほうが…と…」
「だれって?」大岩ははじめて島田の目を覗き込んだ。
「…森山。森山順」
「ああ。森山くん」
 と大岩は大きくうなずき、まばらになった髪をかきあげた。頼りなげな感触が指を伝う。
「適任だ。去年のホラーものは30億いったんだろ?構成力も確かで…なにより若い」
「いやあ、おれは反対だ。彼は経験が少ないし」
 と言う島田の顔に安堵の色が広がるのを大岩は見逃さなかった。
「森山くんが、適任だ」
 大岩はそう言って、椅子を回しパソコンに向かった。
「すまない」と頭を下げる島田に大岩が「こちらこそすまなかったな」と付け加えた。
「失笑買ったろう。助監督経験しかない、おれの名前なぞだして」
 一瞬の間の後、そんなことはないさ、と言いながら島田は席を立った。

大岩の脳裏に、ある夏の日の光景が浮かんだ。野口のガンが発見されるよりも何
年も前のことだ。冷房の壊れた会議室で大汗をかきながらロケハン資料を整理し
ているところへ、野口がいきなりドアを開けた。
「こんどやる原作ものの監督を、さがしてるらしい。やらんか」
 そういいながら、刷りたての台本を投げてよこした。
 大岩は、あやうく落としそうになりながらそれを受け取る。
「監督…ですか」
「うん」
「…公開はいつですか」
「…?」野口は意外だという表情を見せ「スケジュールによって変わるのか?返事が」
「今準備してるシャシンと、ぶつからないかなと思いまして」
「正月」
「来年の?」
「ああ」
「それじゃあ…」
 大岩は一呼吸おいて続ける。
「完全に、重なるじゃないですか」
「だから?」
「監督の現場は…だれが助監やるんですか」
 その質問に野口はこたえず
「おまえ何歳になった」
 と訊いた。
「34です」
「やれるときにやっておけよ監督は」
「…」
 何秒かの沈黙ののち、大岩が口を開く。
「いえ、俺…まだ演出のほう力不足なんで…監督の現場でもうすこし勉強させ
てください」
「やりたくないのか」と野口がさらに訊いた。
 大岩は驚いた。野口が、ここまで大岩と言葉のやりとりを重ねることは珍し
かったからだ。
「そんな。やりたくないなんてことは…」
「こわいのか」
 図星ではあった。ただ、大岩が恐れたのは、「野口監督の優秀な右腕」とい
う自分の地位を失うことだった。さらにいうなら、ほかの誰かがその地位に滑り
こんでくることだった。
 「…」
 野口はやや脱力したように、そうか、とだけ言って踵を返し部屋を出た。それ
以来、この映画の話題が二人の間にのぼることはなかった。
 後年、大岩に監督をさせようと発案したのはほかならぬ野口であり、プロデュ
ーサーを強引に説き伏せた上で台本を持ってきたことを、大岩は知った。

※        ※        ※

 大岩は、積み上がった「シネマ芸術」の一冊を手にとり、デスクの上に広げると、
野口の顔のアップが載った表紙以外、すべてのページをカッターで切り裂いていっ
た。一冊、また一冊。ゆっくりとその作業は続き、2時間ほどたったころ、大岩のデス
クの上には、紙片のうず高い山ができた。
 感情の炎が大岩を焼いていた。
 島田が監督候補として自分の名をあげるのではと一瞬期待したことへの羞恥。
森山への嫉妬。そして何より、定年を間近に控えたこの年になって、いまだこのよう
な自意識を捨てきれぬ情けなさ。

大岩は考えた。
映画人なら、こんなときには映画から答えを導くべきだ。映画の登場人物、あるいは
映画作者−−−本当に映画を愛しているなら、ほかならぬその映画が、大岩を答えへ
と導いてくれるはずだ。そう思い、大岩はこれまでの人生で見てきた膨大な映画達
を、次々と頭の中で再生してみた。だが、野口と現場を共にした映画達以外は、どれ
も、大岩の心を素通りした。なんらの切迫感ももたらさない、スクリーンの表面を漂う
光の明滅だった。
 結局、確認したにすぎなかった。大岩が愛していたのは、映画などではなく、野口
いう男だけだったことを。
 
 すると…なぜか、笑いめいたものが大岩の顔の表面を伝った。
灰皿の向こうからこちらを見る野口と、目が合った。

 大岩は、携帯で島田の番号を表示した。
 −−−−さっきの映画の助監、もう決まってるのか。
 口の中でこれから言う言葉を反芻し、携帯の発信ボタンを押した。
                         
     (終)

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

 

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