直川隆久 「川のある村からの使い 2022」

川のある村からの使い

     ストーリー 直川隆久
        出演 大川泰樹

雑居ビルにある事務所のガラス窓を、強い雨がしきりに叩いている。
近頃台風が多く、大雨の日が続く。

信頼していた経理の人間の裏切りのせいで、私の会社は窮地に立たされていた。
先々月次男の浩次郎(こうじろう)が生まれ、
これから踏ん張らねばならないと思っていた矢先だった。
土砂降りの中をずぶぬれになりながら資金繰りに奔走する日が続いた。

万策つきたかと思われたある日、
疲労困憊して事務所のソファに体を沈めていると、
ドアを開けて一人の男が入って来た。
80…いや、90近いだろうか。
ジャケットにループタイというスタイルに、ソフト帽。
ズボンの裾が、濡れて黒い。
男は名を名乗らず、ただ水落村の者だとだけ言った。

水落村? …どこかで聞いたことがある。
「ご存知ありませんかな。あなたのお祖父様、それと…
お父様がお生まれになった村です」
そう言って男は来客用デスクに座り、ジャケットの内ポケットをまさぐった。
分厚い茶封筒を取り出すと「不躾かもしれませんが…」と、こちらへ差し出した。
「もし何か今お困りなのでしたら、この金をお使いください」
「はい?」
「いえ、差し上げるのです。受領書も要りません」
私は呆気にとられた。そんなものをもらういわれがない、と突き返すと男は
「あなたのお祖父様と水落村の約束があるのです。
だから、このお金はあなたのものなのです」と答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
わたしは父方の祖父について多くを知らない。
わたしがごく幼い頃亡くなったし、
父が生家について話すこともあまりなかったからだ。

父は、青年期まで過ごした水落村を出た後、東京で就職した。
結婚を機に近郊の新興住宅地に家を買い、そこで私と弟の英二が生まれた。
そんな父に、一度故郷のことを尋ねたことがある。
父は、自分の弟を幼い頃なくした記憶があり、
その村のことはあまり思い出したくないのだと語った。
村の話を父としたのは、その一回きりだ。

父は、英二をとても可愛がっていた。
自分の弟を亡くした後悔がそうさせるのか、溺愛と言ってもよかった。
その英二が行方不明になったのは、わたしが小学3年生の頃だった。
ちょうど今年のように台風が全国的に猛威をふるう年だったのを覚えている。
父は半狂乱で町中を駆けまわったが、弟の姿は現れなかった。

その後、どうしたわけか我が家の家電製品がすべて新しくなり、
クルマも新車になった。
ぴかぴかと眩しく輝くモノが家の中に増えるのと相反するように
父はふさぎこみがちになり、数年後、病で亡くなった。
大学進学を機にわたしは家を出たが、父の残してくれた遺産は充分あり、
経済的には分不相応なほど恵まれた学生生活を送った。
その数年後、母は家を処分した。
弟をなくした記憶のしみつく家が消えたことで、
安堵に似た気持ちがわき起こったのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いったいどんな約束がうちの祖父とあったのです」
わたしが問うと、男は懐をまさぐってショートピースの箱を取り出した。
マッチでタバコに火をつけ、きつい匂いの煙をゆっくりと吐き出してから話し始めた。
「水落村は、昔から暴れ川に悩まされてまいりました。
開墾以来…何百年でしょうな。ひとたび川の水が溢れますと、
赤くて酸のきつい泥を田畑がかぶってしまい…難渋します。
ですから、手立てを打つ必要があった。川の神を鎮めるために、犠牲を払う必要が」
「犠牲?」
「ええ。誰かがそれをやらなくてはいけないのだが、手を挙げる者はない。
しかしその中で唯一…」
男はタバコに口をつけ、もう一度煙を吐いた。
「唯一あなたのお祖父様が、
末代にまで渡ってその犠牲を払うという約束をしてくださいました。
本当に貴い申し出だった。私はまだその頃小僧でしたが、
あなたのお祖父様のご勇断を家の者から伺い、大変感銘を受けたのを憶えております」
男は、煙をすかして遠い景色を見るような目つきをした。
「ですから我々は、あなたのおうちを代々…村を挙げてお助けする義務があるのです。
取引だなどと言いたてる者もおりましたが、
そういう口さがない連中に限って、何もしないものです」
そう言って、男は茶封筒に手を添えると、こちら側へ押してよこした。
その仕草には何か有無を言わせぬ力があった。
男はタバコをもみ消し「そろそろお暇(いとま)しましょう」と立ち上がった。
「おそらく、伺うのもこれで最後になるでしょう。
 水落村の暴れ川も来年あたりようやく護岸工事が始まりそうでして…
 捧げものの必要も、ようやっとなくなりそうなのです」
男は帽子を取ると深々と一礼した。
「本当に、感謝いたしております」
男が去ったあと、茶色い封筒の横の灰皿から薄く煙が上っていた。

 そのとき、携帯が鳴った。
出ると、妻の震える声が耳に切りこんできた。
「こうちゃんがいないの。窓際のベビーベットに寝かせていたら…
 窓が割れてて……こうちゃんが…こうちゃんが…」
窓ガラスをさらに猛烈な雨が叩き始め、
轟音が電話のむこうの妻の声をかき消した。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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直川隆久「ベンチで笑う人」

ベンチで笑うひと

    ストーリー 直川隆久
       出演 遠藤守哉

真っ白に塗られた顔。真っ赤な口紅。口紅と同じ色の、赤い髪。
彼は、国道沿いのファーストフードチェーンの店先におかれたベンチ、
その中央にゆったりと身をくつろげ、背もたれに腕をかけている。
夏も、冬も。
晴れた日も、雨の日も。
彼は、その色褪せたベンチに座って、じっと笑っている。

その人形…いや、彼は、いつからここに座っているんだろうか。
10年前。いや、20年前からか。
「おいでよ。一緒に写真を撮ろう」とさそいかけるように、
こちらに笑顔をむけ続けている。
たしかに、隣に座れば、
彼に肩を抱かれているように見える写真が撮れるのだろう。
だが、彼の両側はいつも空席のままだ。

昔は、そのチェーンのマスコットとして、
コマ―シャルにもでていて、「人気者」というキャラ設定だったそうだ。
正直、それが納得できない。
彼の、ピエロを模した風貌。
はっきり言って…怖すぎないか?
江戸川乱歩の「地獄の道化師」からスティーブン・キングの「IT」まで、
ピエロは現代においてはむしろ恐怖のアイコンのはずだ。

ベンチに座っている「彼」を見ていると…
脚を不意に組み替えるのではないか、
腕を背もたれから離すのじゃないか…
そんな妄想がうかんで、皮膚の下をなにか冷たいものが走る気がする。
そして、そういう目で見ると、その口を真っ赤に濡らしているものは、
口紅でも、ケチャップでもないもののように見えてくるのだ。

きょう、最終バスを逃した。
タクシー乗り場で待ったが、いつまでたってもクルマはこない。
家まで歩けば30分ほどだが—-ひとつ、問題がある。
家に戻るには、あのファストフードの店の前を通らなければいけない。
だがこの時間、店は閉まっており、灯りは消えているはずだ。
つまり、暗闇の中「彼」の前を…微笑む「彼」の前を、通らなくてはならない。
それは、どうにか避けたかった。
だが、クルマはこない。
さらに30分待ったところでわたしはあきらめ、家に向かって歩き出した。

駅前の閑散とした商店街をぬけ、橋をわたって区をまたぎ、国道に出る。
しばらく歩くと、右前方にあの店の看板のシルエットが見える。
近づく。
看板も、店内も、すべての電灯が落とされている。
わたしは、視界の右端にその店を感じながら、なるべく前だけを見て歩く。
店の前を通り過ぎる。
そのとき、わたしの目が反射的に…普段とちがうなにかを感じとって、
店のほうを見やった。
視線の先にはベンチがある。
いつもの、あのベンチだ。
だが…なにかがちがう。
そうだ。
「彼」がいないのだ。
誰も座っていないベンチが、そこにある。

どこへ行ったのだ。
…歩いていったのか?
まさか。
おそらく撤去されたのだ。
長年の雨ざらしで、傷んでいたのだろう。

そのとき…足音がきこえてくる。
店の前の駐車場のほうから、
とっと、とん。
とっと、とん。
…と、軽やかなステップの音。
タップダンスを踏むような。
わたしは、視線を、その足音の方向からそらすことができない。
駐車場に植えられた樹の陰からその音は聞こえてくるようだ。
そして、一本の樹の裏から、にゅ、と、赤い靴が飛び出た。

靴は、はずむような動きで、樹の裏に引っ込んだり、また出てきたりを繰り返す。
そして、不意に「彼」が現れた。
黄色と白のしましまの服。真っ赤な紙。真っ白な顔。真っ赤な唇。
笑っている。
笑っている。
アニメキャラのようなリズミカルさで、上下に体をはずませながら、歩く。
ウキウキ!
ワクワク!
という擬音語の書き文字が横に書いてあるようだ。

声をあげることができない。
彼は、ベンチまですすむと、その真ん中にすとんと腰を下ろす。
そして、ぴょこりと素早い動きで脚を組む。満足そうな笑みを浮かべ、
言葉を発しない手品師がよくやるような、思わせぶりな仕草でわたしに手招きをする。
自分の左側の場所を手でたたく。「ここへお座り」と言っているようだ。
逃げられず…わたしは、彼の隣に腰をおろす。
シャツの中を、冷たい汗が何筋か流れ落ちる。
彼は、手の中の何かを別の手の指で触るような仕草をする。
わたしがスマホを出すと、にやにやと笑いながら、
わたしと、スマホと、自分を交互に指さす。
写真を撮れ、といっているのだ。
彼の顔が、こちらに近づき、その腕が、わたしの肩に回された。
とても冷たい。
スマホをかざし、わたしと彼をフレームに収める。
なぜか、魚のような生臭いにおいが一瞬漂った。

彼は、スマホで撮られた自分とわたしの姿を見ると、声をたてず大笑いをし、
ぴょんとベンチの上に飛び乗った。
その足は陽気な仕草でステップを踏み、その口は何かの唄を唄っているように、
パクパクと音もなく動いた。
そして、ベンチを飛び降りると、踊るような足取りで、駐車場へと向かっていく。
とっと、とん。
とっと、とん。
ととっと、とん、とん。
ぴたりと足がとまる。
彼は振り向いて、こちらに手をふると…
おどけた仕草で木立の中へ消えていった。
わたしは、全身の力が抜け、気が遠くなり―――

翌朝、目をさました私は、ベンチに座っていた。
あのまま気を失って、朝までこうしていたらしい。
不自然な姿勢で長時間いたせいか、体が痛い。
のびをしようとする…が、体が動かない。
自分の体なのに、まったく自分の意志が通じない。
わたしは、自分の体の状態をスキャンした。
どうやら今わたしは…腕をベンチの背もたれにかけ、脚を組んでいる。

ドライブスルーにスピードを緩めて入ってくる一台のクルマが見えた。
そのクルマのフロントガラスに映ったのは、
ベンチに座った、ピエロの顔をした男。
白と黄色のしま模様の服。真っ赤な髪。真っ白な顔。真っ赤な唇。

なんということだ。
わたしは…「彼」になってしまった。

長きにわたってこのベンチという牢獄に捕らえれてきた「彼」は、
夕べ、私という後釜をみつけ…晴れて自由の身となったのだ。かわりに、
わたしを、このベンチに、身動きできない状態で残して。
傍らには、わたしのスマホが残されていた。
だが、それを手にとることは、もうわたしにはできない。

以来、わたしは、このベンチに座り続けている。
雨の日も。晴れた日も。
春も。夏も。秋も。そして冬も。
道行く人にこう、誘いかけ続けているのだ。

さあ、おいでよ。
一緒に写真を撮ろう。
一緒に写真を――



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 「帳尻 2022」


★2022年3月は直川隆久特集です

帳尻

ストーリー 直川隆久
 出演 清水理沙

 こと。
 という音がして、目の前に、豆の入った小皿が置かれた。
 炒った黒豆のようだ。 
 取材で初めて訪れた街のバー。
 70くらいのママが一人でやっている。
 カウンターにはわたし一人だ。
 中途半端な時間に大阪を出ることになって、
町についた頃にはほとんど店が開いてなかった。
とりあえずアルコールが入れられればいいやと開き直って、飛び込んだ店。
 タラモアデューがあることに喜んで、水割りを注文した。
 ママは、豆を置くと、氷を冷蔵庫から取り出した。
黒いセーターにつつまれた体の線はシャープで、
ショートボブの頭には白いものがまじっているが、生えるに任せる、
というその風情がさばさばした印象を与える。
 なかなかいい感じの店じゃないの?
 今回はB級グルメが取材目的だから少しずれるけど、
ここは覚えておいて損はないかもしれない。

 水割りを待ちながら、豆を噛む。
 あ。
 おいしい。
 なんというか、黒豆の香りが、いい姿勢で立ち上がってくる感じ。
 
「あの、このお豆、おいしいですね」
「あら、そうですか?よかった」
「ふつうのと違うんですか」
「わたしの知人がね、篠山の方で畑をやっていて。
農薬はむろん、肥料も使わない農法で育てた豆を、
時季になると送ってくれるんです」
「へえ」
「お口にあいましたか」
「すごく」

 うん。なかなかの「趣味のよさ」…
しかも、おしつけがましくなく、さらりと言うところが
また上級者という感じだ。
 と。
 と音がして、革製のコースターの上に水割のグラスが置かれる。
 お。
 黒の江戸切子のグラスだ。淡い水色と透明なガラスのパターンが楽しい。
 一口飲む。
 うん。少しだけ濃いめ。好みの感じだ。
 当たりだわ。
 
 と、メールの着信音が鳴った。
 見ると編集部からで、記事広告の修正案を大至急送れという。
タイアップ先のガス会社の担当者が明日から休暇なので、
今日中にOKを貰わないと、というのだ。
 わたしは、心の中で盛大な舌打ちをして、鞄からパソコンを取り出した。
「すみません」とママに一礼してから、急いでワードのファイルと格闘をする。
アルコールが頭に回りきる前でよかった。
 30分ほども使ってしまっただろうか。ようやく形が整ったので、
メールに添付する。
メール本文には「お疲れ様です」の一言を入れず、要件だけ。
あなたに気遣いしている余裕はこちとらありませんよ。
という無言のアピール。
 送信ボタンを押したとき、ママの声が聞こえた。
「氷が融けちゃいましたよ」
 あ、と気づき、すみませんと言いながらグラスに手を伸ばしたその瞬間。
 ママの手がすっとわたしの視界に入ったかと思うと、グラスを取り上げ、
そのまま流しにじゃっと中身をあけてしまった。
 え、ええっ?
 わたしが目を丸くしていると、ママはグラスを洗いながら早口に言う。
「ごめんなさいね。でも、氷で薄まった水割りって、まずいから…」
 いや、そうかもしれないんですが…あの、怒ってません?怒ってますよね。
「つくりなおしますからね」
「あ、いや、でも」
「いいの、サービス」

 そうか。たしかに、サービスなら、いいのかもしれない。
 ん?いい…のか?
 わたしは妙な気分だった。怒ったほうがいいのか、喜んだほうがいいのか。
 これは、人によって反応が違うだろうなと思った。
勝手にグラスの中身を捨てられて激怒する客もいれば、
新しい酒がただで飲めて嬉しいという人もいるだろう。
 確かなことは、わたしが水割を放置したことを、
彼女は「失礼」だと思っている。
 それは確かだ。
でも、そこまでしなくてもいいのではと思っているわたしがいる。

 と、ふと、いつも考えていたこととつながった気がした。
 (わたし含めて)小さい人間は、いつも心の中で「期待」と「見返り」の
帳尻を合わせながら生きている。と思う。
 おはよう、という。これは、相手があとで「おはよう」という返事を
返してくれることを期待している。
で、実際に相手から「おはよう」と返ってくる。
気分がいい。なぜなら、帳尻があうからだ。 
 逆に、ラインでメッセージをだしても、返事がないようなとき。
これは、期待にみあった見返りがない。帳尻があわない。だから怒る。 
 この帳尻合わせを、頻繁にしないと気がすまない人と、
わりと長いスパンの最後の最後に合っていればいいや、という人がいる。
この時間感覚はみんなバラバラで、
かつ、各々が自分の感覚をスタンダードだと思っている。
人間どうしの齟齬とか行き違いって、
ほとんどこれが原因で起こっているんじゃないかと思うくらいだ。
(ついでに言うと、この帳尻をあまり頻繁に考えない人のほうが、幸せそうだ。)

 脇道が長くなったけど…要するに、このママは帳尻合わせをものすごく
頻繁にしないと気がすまないタイプなのでは、と思ったのだった。
 ケチなわけではない。
 相手への投げかけは、ちゃんとした品質のものを差し出す。手はぬかない。
そこには「これだけの投げかけにはきちんと反応してよ」という高い期待も
込みだ。
 だから、というべきか。その期待が裏切られたかどうかという判断も、
すごく早い。
 ある、理想の店主、という役を演じたからには、客も理想の客であって当然だ。
と考えるタイプの人なのだろう。でも、わたしはそうでなかった。
だから、見切りをつけ、グラスの中身を捨てたのだ。
「恩知らず」と言わんばかりに。
 
 と。
 と音がして、目の前に次のグラスが置かれた。
 これを飲んで帰るべきか。
 それともグラスには口をつけないまま席を立ち、
ママに「貸し」をつくるべきか。
 わたしは、しばし答えを出しあぐねた。
 ママが、カウンターにこぼれた豆の粉を布巾で拭くのが見える。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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中島英太 2022年2月27日「長い冬の終わり」

長い冬の終わり

  ストーリー 中島英太
     出演 大川泰樹

日本には、冬の寒さを利用してつくられる食べ物が数多くある。
中でも味噌や醤油、日本酒といった発酵食品は、
寒い時期に仕込むとゆっくりと発酵がすすみ、おいしくなる。
これを「寒造り」あるいは「寒仕込み」と呼ぶ。

ある酒蔵では、仕込み中の酒にクラシック音楽を聴かせる。
原理はわからないが、実際味がよくなるという。
酵母も生き物だ。いい音楽を聴くことで気分良く発酵するのかもしれない。

ところが。
それと正反対の酒蔵があるのをご存知だろうか。
名前や所在地は明らかにできないが、その蔵では素敵な音楽ではなく、
酒に「駄洒落」を聞かせるのだ。

冬の間中、蔵で働く人々は酵母に向かって語りかける。
「今月もお金がない。おっかねー」
「トイレに行っといれ」
「ゴミを捨ててごみん」
寒い。
この上なく寒い。

そう、それこそが狙いであった。
駄洒落を聴かせることで、蔵をさらに寒くする。
繰り返すが酵母も生き物だ。
物理的な冬の寒さと、精神的に寒い駄洒落。
究極の寒仕込みである。

この風変わりなやり方がいつはじまったかは定かでないが、
蔵の人々はごく当たり前に受け入れている。
ただひとり、跡継ぎ息子の次郎(仮名)を除いて。

次郎は幼い頃から駄洒落の修得に明け暮れた。
本当はサッカーをやりたかったのだが、蔵の伝統が許さなかった。
この蔵に生まれたからには、
寒い駄洒落を自由自在に扱えないといけない。
スポーツなどやっている暇はないのだ。

中学に上がると、大人に混じっての特訓がはじまった。
駄洒落100本ノック。月に一度の駄洒落スピーキングテスト。
かっこつけたい年頃である。
思春期の少年にとってそれは地獄の日々だった。

うちも駄洒落じゃなくクラシック音楽とか聴かせようよ。
そう訴えたこともあったが、親は激怒。朝ごはん抜きの刑に処された。
その時次郎の口から自然に飛び出た言葉は、
「チョーショック!」だった。
自分がすっかり駄洒落人間になってしまったことに、
次郎はチョーショックを受けた。

好きな子の前で駄洒落を連発してしまい、フラれたこともある。
彼女に着信拒否された次郎はただ「電話に出んわ…」とつぶやいたという。

高校卒業後、蔵で働きはじめた次郎は、
最も冷える深夜、酵母に駄洒落を聞かせる係になった。
眠気と寒気と羞恥心と戦いながら、蔵でひとり駄洒落を繰り出す日々。
こんな馬鹿げた伝統いつかぶち壊してやる。
そして本当に美味い酒をつくるんだ。
酒造りへの情熱だけが、彼を支えていた。

そんなある日のこと。
次郎が蔵でウトウトしていると、小さな声が聞こえた。
(寒い…寒くて敵わん…)
誰だろう。声は酒を仕込んでいる桶の方からだ。
(寒い洒落はよしなしゃれ…いや、やめて…)
なんと声の主は、酵母であった。
蔵に百年以上住み着いている酵母が、次郎の頭の中に直接語りかけてきたのだ。

(わしはもう駄洒落には耐えられない…)
聞けば、長年居候している手前ずっと我慢してきたが、もう限界だということ。
これまで何度も訴えてきたが、耳を傾けたのは次郎が初めてということ。
酵母は思いの丈をぶつけてきた。
次郎もまた、理不尽な伝統への怒り、そして酒造りへの思いを酵母へぶつけた。
青年と酵母は、意気投合した。

酵母は言った。
春になったら、わしといっしょに旅立とう。
新しい場所で酒をつくろう。お前のやり方でお前の酒をつくるんだ。 
駄洒落でもクラシック音楽でもない。
新しい人間だけがつくれるものがきっとある。
お前ならきっとできる。

次郎の目にみるみる涙が浮かんだ。
世代と生物の垣根を越え、ついに仲間が現れたのだ。
若者は照れ隠しに元気よく酵母へ返事した。
「オッケー牧場!」

長く寒い冬が、もうすぐ明けようとしていた。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

 

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田中真輝 2022年2月20日「冬がやってくる」

冬がやってくる

   ストーリー 田中真輝
      出演 地曳豪

ディミトリは窓の外をひらひらと舞い落ちる、
無数の白い切片を眺めている。幼い彼は思う。
今年初めての雪だ。もうそこまで冬がきている。

「冬がやってくる」
市場に出かけた父親が帰ってきて母親に告げた。
そんなこと見ればわかるのに、と思ってディミトリは
ちょっとおかしくなった。

ディミトリは雪が降るのを眺めるのが好きだ。
じっと見ているとだんだん目がおかしくなってきて、
なんだか気持ちがぼうっとしてくるから。

暖炉には赤々とまきが燃えていて、
その前に座る父親と母親がその陰を床に長く落としている。
二人とも、何をするでもなくぼうっと火を見つめている。
なんだかちょっと変、とディミトリは思う。
毎年、雪が降りだすずっと前から、大人たちは忙しく動き出す。
長くて厳しい冬を乗り切るための準備を始めるのだ。
暖かいわらくさを敷き詰めた小屋に家畜を追い込み、
しっかりと燻した肉や魚を天井から吊るす。
もちろん、家の周りには屋根まで届くほどたくさんのまきを積み上げる。
ディミトリは、舌が凍り付くほどの寒さは嫌いだったが、
たっぷり準備をして冬を迎える気持ちは好きだった。

そして雪に埋もれた家の中、ひっそりと息を潜めて日々を過ごす。
暖炉の前の父親の膝の上で、母親の胸の中で、
うつらうつらしている間に、いつの間にかまた春がやってくる。
それがディミトリにとっての冬だった。

でも、今年は何かがおかしい。
赤く燃える暖炉の前に座ってぼんやりしている父親と母親。
いつもは天井から木立のように吊るされる肉や魚が見当たらない。
窓の外、降りしきる雪の中でうずくまるいくつかの黒い影。
あれは、うちの家畜だろうか。

「冬がやってくる」
どうしてそんなあたりまえのことを父親は言ったのだろう。
そういえば、父親は市場に手ぶらででかけ、そして手ぶらで帰ってきた。

窓についた雪が少しもとけていないことにディミトリは気づく。
こんなに部屋は暖かいのに。空からひらひらと舞い落ちてくる
この白いものは、もしかすると雪じゃないのかもしれないとぼんやり思う。
見つめれば見つめるほど、目がおかしくなって、頭がぼうっとしてくる。
大丈夫。息を潜めて、静かに小さく丸くなっていれば、またきっと
春がやってくる、とディミトリは思う。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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大江智之 2022年2月13日「門限と撥ねられた友だち」

『門限と撥ねられた友だち』

   ストーリー 大江智之
      出演 遠藤守哉

夜が明けるのがめっきり遅くなった。
どうやって家に帰ったのかも思い出せない。
いま分かるのは、
とにかく酒をしこたま飲んでトイレから出られないことぐらいだ。
もう二度と無茶な飲み方はしないので、
いますぐ元に戻してほしいと神様にお願いしてみる。
大人とは、他者に決められたルールが無くなって初めてなれるものなのかもしれない。
自制というルールを自分に課して生きていく、それが大人なのだろう。
駅で買った割高なお茶のペットボトルが、トイレの床で不満そうに横たわる。
子どものころのように門限があったなら、
こんなになるまで飲み歩かなかったのにな。
トイレでほとんど意識を失いかけながらそう思った。

日が沈むのがめっきり早くなった。
もうそろそろ冬になる、それを幼少期は門限で感じていた。
夏の頃は19時ごろまで明るく、冬になれば17時で暗くなる。
我が家の門限は年間で一律18時だった。
暗くなったら帰っておいでだと、子どもはいつまでも明るいと言い張る。
実に公平で明快なルールだと子供心にも思えた。
第一公園は、第三公園と並ぶ、このあたり一帯で人気の公園だ。
昔、刃物が見つかり警察が調べにきた第二公園を子どもたちは避けるから、
街の東側に住む子と、西側に住む子で遊ぶ公園はハッキリと分かれている。
東側に住む自分と”王子”は、第一公園でよく遊んでいた。
ふたりとも門限が18時だったから、
その日も17時50分ギリギリに自転車にまたがった。
公園の入り口は急勾配な道路に面している。
自分も王子も家に帰るにはその下り坂をおりて丁字路を右折する必要がある。
あたりは薄暗くなり、ほとんど日は落ちかけていた。
先に坂を下った自分は丁字路を曲がった先に車が来ていることに気がついた。
気がついていたが、後ろからダッシュで降りてくる王子に
それを伝えるところまでは気が回らなかった。
王子は撥ねられた。
ドンッという鈍い音がして振り返ると、
ちょうど丁字路の先の駐車場の上を、王子とその自転車が舞っているところだった。
カシャっと軽い音がして、駐車場に王子が落っこちた。
車は数メートル先で停車し、中から運転手が出てきた。
近くのアパートに住んでいる同級生とその兄も出てきた。
助け起こされた王子はケロッとしていた。
警察が来た。
居合わせた大人が詳しい状況を伝えている。
子どもだった自分には何もできなかった。
そうこうしているうちにあたりはすっかり暗くなり、門限のことを思い出した。
そうだ、帰らなければいけなかった。
でもここに残って事の顛末を見届けたい。
あたりはどんどん暗くなり気持ちは焦ってゆく。
だんだんと冷たくなってゆく空気が何度も肺を往復する。
迷った末に自分は門限で帰ることにした。
後ろ髪を引かれるとはまさにこの感覚なのだろう。
結果彼は無傷だったわけで、
警察や周りの大人が事態を収拾してくれているのだから、
子どもの自分にできることは何も無い。
何も無いけど、そのときはその場にいることが正解だったような気がした。
それでも自分は、門限のルールに逆らうことができなかった。
他者が決めたルールをどこまで守ることが正解なのか。
いま自分がその瞬間に戻ったなら、
門限を無視してでもずっとその場に残ったであろうか。
携帯電話なんて持っていない。
いま思えば、自分はあのとき試されていたのかもしれない。
あそこで残る選択ができたのならば、
自分はその日、大人になっていたのだろうか。
誰かのルールを破り、
自分の責任でルールを上書きすることができていたのだろうか。

気がつくと夜が明けていた。
冬の朝はとても冷え込む。
トイレで半分寝てしまっていたようだ。
重たい頭を無理やり持ち上げ、寝室の方向へ歩き出す。
乾いた音を立てて冷たい廊下がきしんだ。
多少は気分が良くなった気がする。
ベッドの上の遮光カーテンを閉めようとして、ふと外の空気が吸いたくなった。
窓を軽く開ける。
凍てつく明け方の空気が、乾いた頬を突き刺す。
そのまま肺に流れ込み、瞬く間に白くなって口から出てゆく。
薄暗い冬の日は、少年時代の不思議な葛藤を思い出すのだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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