2011 年 8 月 20 日 のアーカイブ

古居利康 11年8月20日放送



エッフェル塔を見上げて ①ロラン・バルトのまなざし

フランスの思想家、ロラン・バルトは、
『エッフェル塔』という本の冒頭を、
こうはじめている。

「モーパッサンは、しばしばエッフェル塔の
レストランで昼食をとったが、しかし彼は
この塔が好きだったわけではない。
『ここは、エッフェル塔を見なくてすむ、
パリで唯一の場所だからだ』と彼は言っていた」

1889年、フランス革命100周年を記念して
パリで開かれた万国博覧会のために建てられた、
鉄骨の塔。建設当初は、地上312.3メートル。

高い建築物などなかった19世紀末のパリの
ひとびとにとって、それは想像を絶する高さだった。

そして、問題は、鉄だった。
鉄骨で組み上げたエッフェル塔は、
長い歴史をもつ石の街、パリにおける
巨大な違和感だったのだ。



エッフェル塔を見上げて ②モーパッサンの畏れ

小説家、ギィ・ド・モーパッサンは、
1886年、当時まだ建設中だったエッフェル塔について
早くも警告を発している。

「この怪物は、悪夢のように視線を追い、
精神に取り憑き、純朴でかわいそうな者たちを脅かす」

それは、敵意に近かった。
エッフェル塔の登場を畏れているようにも見えた。

フローベールゆずりの自然主義を信奉し、
古き良き19世紀を生きてきたモーパッサンにとって、
無粋な鉄の塊にすぎないこの建造物は、
みずからの美学に、まっこうからノン!を突きつける
存在なのかもしれなかった。

モーパッサンだけではなかった。
エッフェル塔のデザインに対し、
何人もの作家・画家・彫刻家・建築家が、
連名で抗議文まで提出する騒ぎになった。



エッフェル塔を見上げて ③アポリネールの発見

19世紀の知識人たちには理解不能だった
エッフェル塔を、興奮と熱狂で受け入れた
若者がいた。

ギョーム・アポリネール。
のちにシュールリアリズムの詩人となる
この若者は、1900年、万博を見るために
パリにやってくる。まだ無名の19歳だった。

この鉄の塊にこそ、新しい美がある!
これは20世紀の美だ!

1850年生まれの小説家にとって、
不愉快な怪物だった鉄の塔は、
1880年生まれの詩人にとって、新しい世紀の
開幕を象徴するランドマークとなった。

石・対・鉄。自然・対・人工。
調和的な美・対・挑戦的な美。

ふたつの陣営が
312.3メートルの塔をはさんで対立した。
それは、美学と美学の衝突であった。



エッフェル塔を見上げて ④ギュスターヴ・エッフェルの確信

エッフェル塔に名を残すギュスターヴ・エッフェルは、
塔の建設を発案した設計技師にして、
2年2ヶ月に及ぶ工事を請け負った建設業者でもあった。

「同じ素材を用いるならば、われわれが先人よりも
はるか遠くまで進むことはほぼ不可能だと思われる」

エッフェルは1885年の時点でそう語っている。
「同じ素材」とは、石のことだ。
石を使って何百メートルもの建造物をつくるのは、
重力的に危険である、というのが彼の持論だった。

万博にふさわしいモニュメントを、という
コンペティションは、いっとき700を超えるアイデアが
集まった。やがて案は絞られ、エッフェルの鉄の塔と
最後まで決定を争ったのは、高さ360メートルの
石造りの塔だった。

エッフェルは、鉄橋や駅舎など、鉄道関係の仕事で
多くの実績を積んでいた。鉄は耐久性と弾力性を
あわせもつため、高所の強風にも強い。加工も自在で、
石よりも軽いから工事もスムーズ。工期が短くなれば、
人件費も削れる・・。

デザイン以前に、工期やコストという
ビジネスの角度から見て、その主張には説得力があった。
明らかに、鉄というモダンな素材には未来があった。
時代はエッフェルの味方になった。

かくして、250万個のリベットで溶接された
鉄柱の塔が、パリの街に出現することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑤夏目漱石の驚き

1900年、英国留学の途上にあった
夏目漱石がパリのリヨン駅に降り立った。
万博見物が目的だった。

尋常でない数の人でにぎわうパリの街に、
「停車場を出でて見れば
まるで西も東も分らず恐縮の体なり」
と、日記にしるした33歳の漱石は、
エッフェル塔の印象を妻・鏡子に書き送っている。

「名高き『エフエル』塔に登りて、
四方を見渡し申し候。これは三〇〇米の高さにて、
人間を箱に入れて綱にて吊るし上げ吊るし降ろす
仕掛けに候。」

明治維新から、30年余り。
近代化を急ぐ日本の、はるか先をゆくヨーロッパ。
エッフェル塔のエレベーターの中で、漱石は、
東洋と西洋の差に愕然としたのではないだろうか。



エッフェル塔を見上げて ⑥トリュフォーのパリ

エッフェル塔建設から、43年後に
モンマルトルで生まれた映画監督、
フランソワ・トリュフォーは言う。

「わたしにとって、
パリはエッフェル塔なのです」

生まれたときからそこにあって、
どこにいても空の一角にそびえるエッフェル塔。

デビュー作『大人は判ってくれない』は、
街を歩く少年の視点で、
近づいてきたり、遠ざかったりする
エッフェル塔の映像からはじまる。

その後、彼の映画には、
当たりまえのようにエッフェル塔が
登場することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑦ふたたび・ロラン・バルトのまなざし

ロラン・バルトの文章の、
官能的な修辞の連なりを要約することほど
愚かしいことはないけれど、
エッフェル塔をめぐる彼の本には、
たとえば、こんなことが書いてある。

「つまり、人がそれを眺めているときは対象(オブジェ)であるが、
そこに登ると、こんどは塔が視線となり、さきほどまで
塔を眺めていたあのパリを、塔の下に集まり
広がっている対象(オブジェ)に変える」

パリに住むひとびとから“見られる存在”としての
エッフェル塔は、同時に、パリ全域を視野に
入れることのできる“見る存在”でもあるということ。

「エッフェル塔を訪れるひとは・・
パリの空高く昇ることによって、何百万という
人間の私生活を覆い隠している巨大な蓋を持ち上げる
ような錯覚をもつ」

と、バルトは言う。鳥の眼か、神の眼か。
天空からひとの生活を鳥瞰し、俯瞰する。
そんなエッフェル塔にバベルの塔を重ねるひともいた。

ギュスターヴ・エッフェルは、
エッフェル塔とニースの天文台を除けば、
ほぼ、橋しかつくらなかった。
自然に抗って対岸を結び、ひとびとの交通を促す。
エッフェル塔は橋にほかならない。
それは、直立して天と地をつなぐ橋。

そんなふうに、ロラン・バルトは考えるのだ。

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