2011 年 8 月 のアーカイブ

蛭田瑞穂 11年8月21日放送



EAMES STORY①

1978年の今日、ひとりのデザイナーが亡くなった。
彼の名はチャールズ・イームズ。

駅のホームにある、丸みを帯びたプラスチック製の椅子。
空港のロビーにある、スチール製のロングシート。
あるいは、世界中のオフィスにある、肘掛け付きのデスクチェア。

いずれもその原型はチャールズ・イームズによって
デザインされたものである。

チャールズ・イームズ。
彼は20世紀の中期、いわゆるミッドセンチュリー以降の、
工業デザインの流れをつくった革命的なデザイナーである。



EAMES STORY②

デザイナー、チャールズ・イームズは
1907年、ミズーリ州のセントルイスに生まれた。
18歳で地元の大学の建築学科に入学。
奨学金をもらいながら建築を学んだ。

当時、チャールズはフランク・ロイド・ライトの
手がける建築が好きだった。
だが、それが理由となり、3年で大学を辞めさせられる。
大学の保守的な研究から見ると、ライトの建築はあまりに前衛的過ぎた。

大学を辞めたチャールズはその翌年、
最初の妻と結婚し、自分の設計事務所を設立する。

しかし時は大恐慌の真っただ中、チャールズの会社はあえなく倒産した。



EAMES STORY③

最初の起業に失敗したチャールズ・イームズは
1935年に友人と共同で建築事務所を設立した。

ある時、彼らが設計を手がけた教会が、建築雑誌に掲載された。
それを見ていたのが著名な建築家のエリエル・サーリネンだった。

美術学校の学長も務めていたサーリネンは、
チャールズをその美術学校に招いた。

美術学校の教授に就任したチャールズはそこで、
校長の息子、エーロ・サーリネンと出会う。

意気投合したふたりは1940年、
ニューヨーク近代美術館が主催した家具デザインのコンペに参加。
当時注目されていた成型合板という素材を用いた椅子を出品した。

成型合板とは薄い木の板を何層にも貼り合わせた木材で、
曲線や曲面を自由につくることができた。

背もたれと座板が一体となり、美しい曲線で構成された
チャールズとエーロの椅子は、そのコンペで一位を獲得する。

チャールズ・イームズの人生が大きく動き始めた瞬間だった。



EAMES STORY④

1940年、デザイナーのチャールズ・イームズが
教授を務める美術学校に、ひとりの女性が入学した。

彼女の名前はレイ・カイザー。

ほどなくレイはチャールズの作業を手伝うようになる。
当時チャールズはニューヨーク近代美術館が主催する、
家具デザインのコンペに取り組んでいた。

やがてふたりは互いの才能に惹かれあい、恋に落ちる。

1941年、チャールズの離婚が成立すると、ふたりは入籍。
こうしてデザイン史上、最強のカップルが誕生した。



EAMES STORY⑤

1941年、デザイナーのチャールズ・イームズとその妻レイは、
活動の拠点をロサンゼルスに移す。
そこで成型合板という新しい素材の可能性を探るべく、
さまざまな試みを行った。

もっとも成功したのが成型合板をつかった医療用の添え木だった。
第2次世界大戦中のアメリカ海軍に採用され、
15万を越える製品が軍に納品された。

同じ機能、同じデザインの製品を大量に生産するというこの経験が、
のちのイームズ夫妻の家具づくりに大きな影響を及ぼす。

第2次世界大戦終了後の1946年、
チャールズはニューヨーク近代美術館で個展を開催する。
タイトルは「チャールズ・イームズによる新しい家具デザイン展」。

その個展でチャールズは成型合板を使った独創的な家具を展示した。
メディアは絶賛し、チャールズは一躍時の人となった。

高い機能性とデザイン性、そして大量生産に適しているという点で、
チャールズのつくる家具はまさしくモダンであった。



EAMES STORY⑥

1948年、デザイナーのチャールズ・イームズとその妻レイは、
雑誌の企画の一環としてモデルハウスを建築した。

ふたりはすべての建築資材をハウスメーカーのカタログから取り寄せる
「オフ・ザ・シェルフ」という建築方法を採用した。

既製品だけでつくられた家だが、
モダンアートを感じさせる外観の色彩と
ミニマリズムに徹したシンプルな室内には、
イームズ夫妻のデザインセンスが見事に表現されていた。

結局ふたりは完成した家に移り住み、そこを終の棲家とする。
のちに人々はその家を「イームズ・ハウス」と呼ぶようになった。



EAMES STORY⑦

デザイナー、チャールズ・イームズとその妻レイ。

1960年代に入ると、彼らの活動領域は家具デザインから
展覧会のプロデュースや映像制作へと移行していく。

64年のニューヨーク万博ではIBM館のプロデュースを担当し、
22画面に同時に映像を流す、マルチスクリーンの先駆けとなる
展示をおこなった。

1968年には、映像作品『パワーズ・オブ・テン』を発表。
ミクロの世界から銀河の果てに至る宇宙の構造を
カメラ視点の移動だけで表現した。

情報を整理し、多くの人に効果的に伝えること。
ふたりにとっては、展示会も映像制作もやはりデザインなのである。



EAMES STORY⑧

さまざまな独創的な家具を生み出し、
ミッドセンチュリーの工業デザインに革命を起こした
チャールズ・イームズ。

その傍らにはいつも妻レイの姿があった。

すぐれた色彩感覚とアートのセンスで、
38年という長期に渡って、夫の仕事を支えたレイ。

1978年にチャールズが亡くなった10年後の1988年、
レイもこの世を去る。
奇しくもその日はチャールズが亡くなったのと同じ、
8月21日であった。

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古居利康 11年8月20日放送



エッフェル塔を見上げて ①ロラン・バルトのまなざし

フランスの思想家、ロラン・バルトは、
『エッフェル塔』という本の冒頭を、
こうはじめている。

「モーパッサンは、しばしばエッフェル塔の
レストランで昼食をとったが、しかし彼は
この塔が好きだったわけではない。
『ここは、エッフェル塔を見なくてすむ、
パリで唯一の場所だからだ』と彼は言っていた」

1889年、フランス革命100周年を記念して
パリで開かれた万国博覧会のために建てられた、
鉄骨の塔。建設当初は、地上312.3メートル。

高い建築物などなかった19世紀末のパリの
ひとびとにとって、それは想像を絶する高さだった。

そして、問題は、鉄だった。
鉄骨で組み上げたエッフェル塔は、
長い歴史をもつ石の街、パリにおける
巨大な違和感だったのだ。



エッフェル塔を見上げて ②モーパッサンの畏れ

小説家、ギィ・ド・モーパッサンは、
1886年、当時まだ建設中だったエッフェル塔について
早くも警告を発している。

「この怪物は、悪夢のように視線を追い、
精神に取り憑き、純朴でかわいそうな者たちを脅かす」

それは、敵意に近かった。
エッフェル塔の登場を畏れているようにも見えた。

フローベールゆずりの自然主義を信奉し、
古き良き19世紀を生きてきたモーパッサンにとって、
無粋な鉄の塊にすぎないこの建造物は、
みずからの美学に、まっこうからノン!を突きつける
存在なのかもしれなかった。

モーパッサンだけではなかった。
エッフェル塔のデザインに対し、
何人もの作家・画家・彫刻家・建築家が、
連名で抗議文まで提出する騒ぎになった。



エッフェル塔を見上げて ③アポリネールの発見

19世紀の知識人たちには理解不能だった
エッフェル塔を、興奮と熱狂で受け入れた
若者がいた。

ギョーム・アポリネール。
のちにシュールリアリズムの詩人となる
この若者は、1900年、万博を見るために
パリにやってくる。まだ無名の19歳だった。

この鉄の塊にこそ、新しい美がある!
これは20世紀の美だ!

1850年生まれの小説家にとって、
不愉快な怪物だった鉄の塔は、
1880年生まれの詩人にとって、新しい世紀の
開幕を象徴するランドマークとなった。

石・対・鉄。自然・対・人工。
調和的な美・対・挑戦的な美。

ふたつの陣営が
312.3メートルの塔をはさんで対立した。
それは、美学と美学の衝突であった。



エッフェル塔を見上げて ④ギュスターヴ・エッフェルの確信

エッフェル塔に名を残すギュスターヴ・エッフェルは、
塔の建設を発案した設計技師にして、
2年2ヶ月に及ぶ工事を請け負った建設業者でもあった。

「同じ素材を用いるならば、われわれが先人よりも
はるか遠くまで進むことはほぼ不可能だと思われる」

エッフェルは1885年の時点でそう語っている。
「同じ素材」とは、石のことだ。
石を使って何百メートルもの建造物をつくるのは、
重力的に危険である、というのが彼の持論だった。

万博にふさわしいモニュメントを、という
コンペティションは、いっとき700を超えるアイデアが
集まった。やがて案は絞られ、エッフェルの鉄の塔と
最後まで決定を争ったのは、高さ360メートルの
石造りの塔だった。

エッフェルは、鉄橋や駅舎など、鉄道関係の仕事で
多くの実績を積んでいた。鉄は耐久性と弾力性を
あわせもつため、高所の強風にも強い。加工も自在で、
石よりも軽いから工事もスムーズ。工期が短くなれば、
人件費も削れる・・。

デザイン以前に、工期やコストという
ビジネスの角度から見て、その主張には説得力があった。
明らかに、鉄というモダンな素材には未来があった。
時代はエッフェルの味方になった。

かくして、250万個のリベットで溶接された
鉄柱の塔が、パリの街に出現することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑤夏目漱石の驚き

1900年、英国留学の途上にあった
夏目漱石がパリのリヨン駅に降り立った。
万博見物が目的だった。

尋常でない数の人でにぎわうパリの街に、
「停車場を出でて見れば
まるで西も東も分らず恐縮の体なり」
と、日記にしるした33歳の漱石は、
エッフェル塔の印象を妻・鏡子に書き送っている。

「名高き『エフエル』塔に登りて、
四方を見渡し申し候。これは三〇〇米の高さにて、
人間を箱に入れて綱にて吊るし上げ吊るし降ろす
仕掛けに候。」

明治維新から、30年余り。
近代化を急ぐ日本の、はるか先をゆくヨーロッパ。
エッフェル塔のエレベーターの中で、漱石は、
東洋と西洋の差に愕然としたのではないだろうか。



エッフェル塔を見上げて ⑥トリュフォーのパリ

エッフェル塔建設から、43年後に
モンマルトルで生まれた映画監督、
フランソワ・トリュフォーは言う。

「わたしにとって、
パリはエッフェル塔なのです」

生まれたときからそこにあって、
どこにいても空の一角にそびえるエッフェル塔。

デビュー作『大人は判ってくれない』は、
街を歩く少年の視点で、
近づいてきたり、遠ざかったりする
エッフェル塔の映像からはじまる。

その後、彼の映画には、
当たりまえのようにエッフェル塔が
登場することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑦ふたたび・ロラン・バルトのまなざし

ロラン・バルトの文章の、
官能的な修辞の連なりを要約することほど
愚かしいことはないけれど、
エッフェル塔をめぐる彼の本には、
たとえば、こんなことが書いてある。

「つまり、人がそれを眺めているときは対象(オブジェ)であるが、
そこに登ると、こんどは塔が視線となり、さきほどまで
塔を眺めていたあのパリを、塔の下に集まり
広がっている対象(オブジェ)に変える」

パリに住むひとびとから“見られる存在”としての
エッフェル塔は、同時に、パリ全域を視野に
入れることのできる“見る存在”でもあるということ。

「エッフェル塔を訪れるひとは・・
パリの空高く昇ることによって、何百万という
人間の私生活を覆い隠している巨大な蓋を持ち上げる
ような錯覚をもつ」

と、バルトは言う。鳥の眼か、神の眼か。
天空からひとの生活を鳥瞰し、俯瞰する。
そんなエッフェル塔にバベルの塔を重ねるひともいた。

ギュスターヴ・エッフェルは、
エッフェル塔とニースの天文台を除けば、
ほぼ、橋しかつくらなかった。
自然に抗って対岸を結び、ひとびとの交通を促す。
エッフェル塔は橋にほかならない。
それは、直立して天と地をつなぐ橋。

そんなふうに、ロラン・バルトは考えるのだ。

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三島邦彦 11年8月14日放送



前を向く言葉/森繁久彌

戦争が終わった時、森繁久彌は満州の放送局に勤めていた。
森繁は芦田伸介らと有志を集め、劇団を作った。
当時を振り返りこう語る。

まったく、世紀の劇団であった。
異国のはてに一切の希望を失って毎日を送っている、
   そんな街の人々とともに、
私たちは少しでも、生きる力や勇気や、
喜びや幸福を語り合う時間を持とうとしたのだから。

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三國菜恵 11年8月14日放送



前を向く言葉/仁木ふみ子

1964年。
戦争がおわり、少し落ち着きをとりもどした日本では
教育に対する新しい試みがはじまっていた。

大分県立別府青山高校。
受験を目的とする進学校で、しかも女子校だった。

何もかもが真新しいこの学校に赴任してきたのが、
教員・仁木ふみ子。

スターターメンバーとして
一から学校を「つくる」権利をあたえられた彼女は、
これから入ってくる一期生に向けて、
入学式のしおりに、こんな言葉を添えた。

教えるとは希望を語ること、
学ぶとは誠実を胸にきざむこと

学校の「これから」を
たしかに指し示している言葉だった。

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中村直史 11年8月14日放送



前を向く言葉/ロン・クラーク

世界中の人が差別や仲たがいなんかせず、
認めあって生きていく方法は何だろう。

政治的観点から、経済的観点から、歴史的観点から、
専門家たちが専門的な見解を披露してきた。
もちろん、その多くは示唆に富むけれど、
ときにはちょっと難しくて、ひとりひとりが
具体的にどうしたらいいか、わからない場合もある。

そんなときは、ムズカシイ話をカンタンにしてくれる人に聞いてみよう。

アメリカの小学校教師ロン・クラーク先生の本
「みんなのためのルールブック」

子どもたちのために書かれた
50ある、「あたりまえだけど大切なルール」の
23番目のタイトルには、こう書かれてある。

「だれであれ、なかまはずれにしない。」

 だれかがとなりに座りたがったら、
 座らせてあげよう。
 決まった友だちとしか
 座らないのは、よくないことだ。

ほら、話はカンタン。
大人もこんな気持ちでやってみましょうか。



前を向く言葉/齋藤孝

「声に出して読みたい日本語」を書いた斎藤孝。

教育者である彼は、
子どもたちに向けて、熱く語りかけつづけている。

著書のタイトルから熱い。たとえば、
「ガツンと一発・カッコよく生きてみないか!」

カッコよく生きるとはどういうことか、
わかりやすく、熱っぽく書かれたその本の中に、
ひときわ目立つ一行があった。

 逆風がふいているときこそ、人はカッコよくなれるんだ。

いま、カッコよくなれるチャンスかもしれません。

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三島邦彦 11年8月14日放送



前を向く言葉/小津安二郎

映画監督、小津安二郎。
「東京物語」や「秋刀魚の味」など、
人生の機微を淡々と描く独自の作風で、
世界中の映画監督に大きな影響を与えた。
国内では戦前から若き巨匠としてその名を知られていたが、
33歳で徴兵され、
「ちょっと戦争に行ってきます」という言葉を残して、
2年間を中国で過ごした。

帰国後第一作は、「戸田家の兄妹」。
一人の軍人も出てこない、ホームドラマだった。
映画記者の、戦争映画を撮らないのかという質問に、小津はこう答えた。

何?今度の映画かい?戦争ものじゃないよ。だって考えてもみたまえ。
二年間も毎日泥んこの中に足をつっこんで来ているのに、
また映画でそれをすぐやれるかというんだ。

その後も小津は、人々のささやかな生活にひそむドラマを描き続け、
生涯一本も戦争映画を撮らなかった。
小津の戦争から帰国してすぐのインタビューに、こんな言葉がある。

生まれたことを感謝しなくちゃいかんのだよ。
自分がこの世に生きているという事実に対して、自信を持ち、
生き甲斐を感じなくちゃいかんのだね。



前を向く言葉/藤沢周平

小説家、藤沢周平は、18歳で終戦を迎えた。
世の中の価値観が大きく変わりゆく様を目にして、
これまで見知らぬ他者が自分の運命を左右してきたことの恐ろしさに気がついた。
藤沢は、後にこう語る。

いざというそのときに、
自衛隊から借りた銃を持って辺地に行くか、
それとも家の中で降服のための白旗を縫うかは、
今度こそ自分で判断するつもりである。

30歳を過ぎて本格的に作家となった藤沢周平。
「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」などの時代小説にはどれも、
歴史の表舞台には登場しない主人公たちの、
一世一代の決断が描かれている。

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前を向く言葉/タモリ

前を向いて、明るくいこう。
それはとても正しいけれど、
そう思ってもいられないときだって、人間にはある。

誰もが知っている名司会者・タモリも
そう思うところがあったのか、こんな言葉を残している。

前を向いて歩いてたって、つまんないよ。
後ろを振り返ったほうが「あれが楽しかった」って楽しいよ。

要するに、その人らしいことが大事なのかもしれない。



前を向く言葉/チャールズ

ノーベル賞、受賞数学者
ジョン・ナッシュ。
彼の名言にこんな言葉がある。

 数学は正確さにかけては芸術だ

しかし、人を好きになる気持ちは数学とは無縁のものだった。
彼は自分の愛する女性が本当に自分を好きかどうか
確かめるのがこわくて思い悩んだ。

そんな彼に、友人・チャールズは
こんな言葉をかける。

人生に確かなことなんてない、
それだけが確かなことなんだ。

友人のその言葉には
彼が信じるに足りる確からしさがあったらしい。
自分の言葉で彼女の気持ちを確かめた彼は、ぶじ、結婚。

数字はもともと確かなものだが
人を信じることは
自分のなかに確かなものをつくることだと思う。

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八木田杏子 11年8月13日放送



佐藤初女

どんなに心と体が弱っていても、
佐藤初女のつくるものは、食べられる。

自然のいのちを料理にこめて、
手渡してくれるから。

その作り方を、教えてもらいました。

素材の気持ちになって、
常に心を通わせることを大切にしています。

それだけで、お浸しも煮物も、
まったく味が違ってきます。

料理をすることは、いのちを預かること。

レシピだけを見ていると、
いのちの抜け殻を、食べることになる。



エジソンの母

エジソンの最終学歴は、小学校中退。
わずか3カ月しか学校に通っていない。

先生に教えられたことを暗記するより、
自分が素直に感じた疑問を口にした少年、エジソン。

なんで、風は吹いてくるの?
なんで、空は青いの?

学校教育の枠にはまらず、
先生から煙たがられ、
エジソンは落ちこぼれとされた。

小学校教師だったエジソンの母親は、
わが子を自らの手で育てることにする。

エジソンが「なんで?」と言うと、
親子はいっしょに実験をし、百科事典を調べ、
答えを見つけていった。

落ちこぼれた子に寄りそって、のびやかに育てる。
それが、天才を育てあげる方法のひとつ。



エジソンの言葉

エジソンの言葉は、
しばしば誤解されて伝わっている。

天才とは、1パーセントの閃きと、
99パーセントの汗である。

今でもよく聞く、この言葉。
汗をかくことの大切さばかりが伝わることを
エジソンは懸念した。

無目的の努力だけでは
大海をさまよう小船のごとく、
あるいは密林の中を迷い続ける迷子のように
いつか力尽きる。
ときどきでいい、閃きを考えてみてくれ。
それが羅針盤となって方向を示してくれる。
99パーセントの汗が実るのは、
1パーセントの閃きを大切にしたときなのだ。

汗をかくのをお休みして、
のんびり閃きを待つ時間、つくっていますか。



山本周五郎と原田甲斐

極悪人とされてきた男を、
山本周五郎は、
まったく逆の視点で書き上げた。

江戸時代前期、
伊達六十二万石を滅亡に追い込む
内紛をおこした伊達藩の家臣、原田甲斐。

伊達騒動として歴史に残る事件の
中心人物だった原田は、
極悪人の烙印を押されてきた。

山本周五郎が
歴史的事実を紐といて描いたのは、
真逆の人物像。

それは、
汚名を背負うことで、
伊達藩を守ろうとする忠臣、原田甲斐。

藩内の悪評を恐れずに
陰謀の中心に飛び込んでいく、
孤独な美学をまっとうした男。

断片的な情報がつむぎだす人物像は、
悪人にも善人にもなりうる。

悪口を言われているその人は、
憎まれ役を買って出ている人なのかもしれない。



J. K. ローリング

ハリーポッターの作者、J. K. ローリングは、
ハーバード大学を卒業したのに、
ホームレス一歩手前のような暮らしに陥ったことがある。

結婚が上手くいかず、仕事もなく、
生活保護をうけながらハリーポッターを執筆していた。

そのときのことを、彼女はこう語っている。

最も恐れていたことが現実となりましたが、
それでも私はまだ生きていました。
私には愛する娘がいて、
古いタイプライターと、
途方もないアイデアが残っていました。
そのどん底の状況が、
私の人生を立てなおす強固な基盤となりました。

人は逆境で試されて初めて、
真の自分自身や人間関係の強さを知るのです。

人生の失敗から這い上がるチカラを、
J. K. ローリングは言葉にこめて、わけてくれる。



ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

映画「ハウルの動く城」の原作者、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズが
まだ少女だったころ。

父親の書斎にあるギリシャ神話や古典文学は、
男性が主役のものばかりで、
読みたい本が手に入らないことをもどかしく思った。

いつしか自分で物語を創作するようになり、
妹たちを楽しませるようになっていた。

ダイアナは、父の書斎にないものを
自らの手で創りだす喜びを堪能した。

欲しいものすべてを買い与えられなかったから、
ダイアナは小説家になれたのだ。



天童荒太「悼む人」

まわり道を恐れないから、
予想もつかない物語が生まれる。

直木賞作家、天童荒太は、
300枚もの原稿をすっぱりと捨てて、
書き直しをする。

物語の終わりへの見通しがついて、
予定調和になる予感がしたとき、
その原稿を捨てたのだ。

僕自身が、
これはどう書いていいかわからないという
着想を乗り越えたときに、
新しい感動を読者に届けられるのではないか。

直木賞を受賞した
「悼む人」を書き上げるのに
天童荒太は7年をついやした。

見ず知らずのひとの死を悼む主人公は、
死者と縁のある人に、こう尋ねる。

亡くなった方は誰を愛し、
誰に愛され、感謝されていたのか。

天童荒太自身も、
新聞記事で見つけた死者を悼むことを日課として、
誤魔化しのない物語の結末へ、辿りつく。

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薔薇がなくちゃ生きていけない 20110619-2

コンペの提出が全部終わったのは20時半ぐらい。

わたしたち含むのんびり組の人たちの
プリント出力に時間がかかったので、
少し時間がおしました。

事務局のひとたちはとてもやさしく、
最後のメール提出のところまできちんと見守ってくれ、
「たのしくつくれたかい?」「二人とも満足しているかい?」と聞いてくれたので

「イエース!」

ほんとはとってもたいへんだったけど、
二人でひとつのことをやりきったというのは
やっぱりね、気持ちよかったのです。

で!

やっと ごはん!

じゃなくて、

ビール!!

おいしかった・・

お店の人が気をきかせて
「ふつうのビアー?コロナもあるよ」
と言ってくれたのですが、
ものすごくふつうのが飲みたかったのでそっちにしました。
(基本的に、フランスはハイネケンが主流?ぽかったです)

ちなみに、バックをみていただくと
わかると思うのですが明るいんです。
これで夜の・・21時とかそのくらいです。

ごはんもとてもおいしかった。
ユーちゃんがその感想を
「味がいいね」と言っていて、
若者にしてはしぶい言葉を使うなあというのが
とってもツボでした。

さて。
量をこころえた今回は、ちゃんと完食。
そのタイミングをみはからってお店の人が

なんと バラをくれた・・

「来てくれてありがとうマドモワゼルたち」
「カンヌをたのしんでいってね」

ですって・・

フランス・・!

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Urgent request to support “Mori wa Umi no Koibito”

Urgent request to support “Mori wa Umi no Koibito” (“Forests are lovers of the sea”)

The massive earthquake and tsunami that hit Tohoku in Japan devastated the nation. Today, I ask your urgent support to help continue a very important movement to save lives in the sea of Japan and in the world.

Shigeatsu Hatakeyama is an oyster fisherman in Kesennuma, Miyagi. Since 1989, together with many children and adults, he has been planting trees in the forest to bring life back to the sea. The movement is called “Mori wa Umi no Koibito” (“Forests are lovers of the sea”) and has spread throughout the nation.

You might ask, “Why plant trees to protect the sea?” The answer is that fallen leaves in the forest create vital nutrients for a bountiful sea. The rivers carry them there to feed the plankton, which in turn feed other creatures such as oysters. We must protect forests. They are mothers to every living organism.

Many children and adults alike joined the movement and planted thousands of trees in the forest, and Kesennuma Bay finally returned to what it used to be. Now, the flesh of oysters growing there is a translucent white. The children are especially excited to see that they can make a difference.

Sadly, the tsunami destroyed everything. Countless trees were swept away. So were the oyster cultivation farm and the facilities for educating children. They lost their very foundation. There is no place for generous friends to come back to, where their serious work can continue. Children are losing hope for the future of their sea.

May I appeal to you? It’s urgent. Professor Tanaka from Kyoto University kindly organized a fund-raising team called “Mori wa Umi no Koibito Kinkyu Shien no kai” (“Support group for ‘Forests are lovers of the sea’”). Please make a donation by one of two following ways:

Postal transfer:
Account number: 009830-6-2821710
Name on the account: Mori wa Umi no Koibito Kinkyu Shien no kai

Bank transfer:
Bank: Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ
SWIFT:BOTKJPJTXXX
Branch: Kyoto Ekimae (branch #: 434)
Account number: 3095280
Name on the account: Mori wa Umi no Koibito Kinkyu Shien no kai

For inquiries:
Mori wa Umi no Koibito Kinkyu Shien no kai
Call: 0774-33-2503

Thank you in advance for your support. Many children and adults are eagerly awaiting your help so they can continue to work to protect our sea. We need your help, now.

●reference
Highlighting JAPAN「Forests Are Lovers of the Sea」
http://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/201011/201011_02.html

<<森は海の恋人緊急支援の会義援金 発起文>>

森は海の恋人運動ならびに畠山重篤さんへの緊急支援のお願い

東北は史上空前の言いようのない深刻な事態に至りました。
皆様方の中にはご親族やお知り合い等身近な方が東北太平洋沿岸域に
お住まいになっている方もおられ、
大変心を痛めておられるのではないかと思います。

森は海の恋人運動を1989年以来、
気仙沼大川流域を中心に進めて来られた畠山重篤さんご一家も
大津波の直撃を受け、
心の支えになっていたお母さんを失われ、カキやホタテガイの養殖筏、
5艘の作業船、陸上の施設などは壊滅状態と伺っています。
幸いにもご自宅は高台にあり、浸水を免れ、
3月15日には自宅にも戻られて復旧への第1歩をスタートされました。

森は海の恋人運動は今では小学校5年生の全ての社会の教科書に
掲載されるほど全国に広まり、森と海にこの上なく恵まれた日本が
これから進む道を見定める上でも“国民的財産”と言えるほど
重要な存在となっています。
これまで私たちはこの森は海の恋人運動に多くのことを学び、
大いに励まされてきました。
この運動とこれを支えて来られた牡蠣の森を慕う会の多くの皆さん
想像を絶する極めて厳しい現実に直面されています。

私たち個々にできることは限られていますが、
今こそ人と人のつながりの力を発揮することが
こうした難局を克服する上で不可欠と思われます。
多くの皆さんから何か支援したいとの申し出をいただいており、
本日緊急に「森は海の恋人緊急支援の会」を立ち上げ、
募金を始めることに致しました。

かつて気仙沼流域の環境と人の心を大きく動かして
地域と日本全体に元気を与え続けてきた森は海の恋人運動が
ふたたび不死鳥のように蘇り、気仙沼から東北、
そして日本を元気にする希望の星になるよう
できる限りの支援をできればと願っています。

この趣旨に賛同いただけるようでしたら、
下記の郵便振替口座により募金いただければ大変ありがたく存じます。

義援金口座

<<郵便振替>> 
口座記号番号 00930-6-282171
店名 八一八(818)
加入者名   森は海の恋人緊急支援の会
<<三菱東京UFJ銀行>>
支店名    京都駅前支店(店番号434)
普通口座   3095280
口座名義   森は海の恋人緊急支援の会

皆様方の周りにかかる趣旨に御賛同いただける方がおられましたら、
このメールを転送いただきますよう、お願い申し上げます。

森は海の恋人緊急支援の会代表 田中 克

<東日本大震災「森は海の恋人運動」継続へのご支援のお願い>

私達の「森は海の恋人運動」並びに「森は海の恋人植樹祭」は、
皆様の多大なるご協力のもと、本年で23年目を迎えようとしております。

しかしながら、この度の未曽有の震災によって、
たくさんの子供達の笑顔あふれた環境教育フィールド、
気仙沼市唐桑町舞根地区は道路や岸壁が大きく破損、水没し、
この地区の90%近い家屋が津波により跡形もなくその姿を消して
しまいました。また、運動の起点となる水山養殖場は、事務所や船、
養殖漁船やトラック、カキやホタテの養殖施設など、
そのすべてを流失し、運動の起点としての機能を果たすことは、
もはやできません。

森川海と人の連環を取戻し、
将来の自然環境を担う子供たちの「心の木」を植え、育み、
その大きな輪を広げてゆきます「森は海の恋人運動」は今、
運動の継続の帰路に立たされております。

皆様にお願いです。私たちに、皆様のお力をお貸し下さい。

この度、森里海連環学の生みの親である京都大学名誉教授 田中克先生のご厚意により「森は海の恋人緊急支援の会」が設立され、
義援金の募集が行われることになりました。

皆様からお寄せ頂きましたご厚意は、「森は海の恋人運動」の継続、
牡蠣を育てつつこの運動の起点となり、また環境教育フィールドでもある水山養殖場の復興、運動の中核となる「牡蠣の森を慕う会」事務局機能の回復などに大切に使用させていただきます。

復興を心に誓いながらこのリアスの海辺より、
皆様方のご支援、ご協力を心よりお願い申し上げます。

最後に、この度の大震災により亡くなられた方々のご冥福と、
未だ行方の分からない方々の一日も早い発見とご無事を
心よりお祈り申し上げます。

「森は海の恋人」牡蠣の森を慕う会
代表 畠山重篤

http://mizuyama-oyster-farm.com/shien-no-kai.html

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