2012 年 10 月 27 日 のアーカイブ

阿部広太郎 12年10月27日放送


Maantjuh&Mosselmaniac
起業家という生き方 劉金標(キング・リュウ)

台湾でウナギの養殖業を営んでいたキング・リュウ。

あるとき台風の被害で破産寸前となった彼は、
1972年、自転車製造業に転身。
欧米有名ブランドの製造を請負いはじめた。

しかし初年度の受注は、たった1821台。
「Made in Taiwan」といえば
品質が悪いと思われていた時代。

キングは欠陥がひとつでも見つかると、
同じ生産ラインの自転車をすべて回収し
ローラーで押しつぶした。

それから40年。

彼のオリジナルブランド「ジャイアント」は、
世界最大のスポーツバイクブランドへと成長する。

「Made in Taiwan」は、信頼のしるしになったのだ。

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阿部広太郎 12年10月27日放送



起業家という生き方 フレデリック・ジョン・ペリー

テニスプレーヤー、フレデリック・ジョン・ペリー。
その経歴は、輝かしい偉業に満ちている。
1934年からウィンブルドン3連覇。
1935年には、男子テニス選手初のグランドスラムを達成。
テニスの神様とまで呼ばれるようになった。

プレーヤーを退くと彼は会社を起こし、
ファッションビジネスに挑戦する。
ブランド名は、自らの愛称「フレッドペリー」。

だぶだぶのシャツが当たり前の時代に、
身体にフィットするシャツを開発。
革新的でカッコ良いと、イギリスで瞬く間に浸透していく。

胸に輝く月桂樹のロゴ。
それは王者のつくった、挑戦する服のしるしだった。

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村山覚 12年10月27日放送



起業家という生き方 菊池武範

菊池武範は明治28年に愛媛県で生まれた。
家は裕福で、父は実業家だった。

しかし武範が12歳の時、父が事業に失敗。
病気で寝たきりになった。
武範は大阪に奉公に出て、朝から晩まで働いた。
食事はいつも一番最後。冷えた麦めしを食べながら、思った。

「熱いお茶が飲みたい」

その体験を元に彼は魔法瓶をつくる会社を起こし、
美しさと強さを追求した「虎印魔法瓶」を発売した。

後に「タイガー魔法瓶」となるその製品は
関東大震災でも壊れなかったほどで、たちまち人気商品となった。

はじまりは、一人の少年のちいさな願い。
彼の「魔法」で日本中の食卓が変わった。

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村山覚 12年10月27日放送



起業家という生き方 カーネル・サンダース

ハーランド・サンダースが
ガソリンスタンド兼レストランを開業したのは、
40歳になった頃だった。

持ち前のサービス精神とこだわりの味で
店は大繁盛したが、その後、火災で焼失。

彼は自動車にスパイスと圧力鍋を積み込んで、
レストランの看板メニューだった
「フライドチキン」のレシピを売り歩いた。

行く先々で断られ、
やっと契約にこぎつけたのは、なんと1010軒目。
チキンが1本売れると、4セントの報酬。
それは世界初のフランチャイズ契約だった。

やっとの思いで再建した自分のお店は、
近くにハイウェイができたせいで売却。
ほぼ無一文になった65歳の老人は
フランチャイズビジネスに本腰を入れた。

彼が90歳で亡くなった時、
店舗数は世界各国で、6000店に達していた。
カーネル・サンダースはこう言った。

「いくつになったって、自分の人生を
 より価値あるものにするための努力をするべきだ」

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藤本宗将 12年10月27日放送



起業家という生き方 田辺茂一(もいち)

田辺茂一は、備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれた。

家業を継ぐのが当たり前の時代だったが、
本に魅せられた田辺は
炭を売る傍らで「紀伊國屋書店」を創業する。

長い戦争の時代に大きな被害を受けたが、
田辺は事業を諦めなかった。

戦後豊かな時代がやってくると、
劇場をつくり文化を発信した。

こうして日本一の書店をつくりあげた彼に、
あるインタビュアーが言った。

「炭屋の片隅で始めた本屋が日本一の本屋になるなんて、
 そんな時代というのはもう来ないんでしょうねえ」

田辺はこう応えた。

「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」

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藤本宗将 12年10月27日放送


kevin dooley
起業家という生き方 カール・ツァイス

19世紀初頭、
ドイツに生まれたひとりの少年が
ガラス職人の弟子として
レンズの製造を手伝いはじめた。

高熱でガラスを溶かし、
固まったら根気よく手で磨きあげる。
寝る間も惜しむ師匠の姿に、彼は学ばなかった。

勘と経験に頼る限界を悟り、
大学の聴講生として
数学や物理学、鉱物学などを学んだのだ。

そして30歳のときに起業。
社名は、彼自身の名をとって、カール・ツァイスといった。

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藤本宗将 12年10月27日放送


uskidz
起業家という生き方 ニコラス・G・ハイエック

ニコラス・G・ハイエックが時計の製造に乗り出したのは、
スイスの時計産業が死にかけていたときだった。

コンサルタントであった彼は、
日本製の時計の台頭で危機に瀕したスイス企業を
引き継ぐかたちで新会社を起こしたのだ。

そして1983年。彼は新製品を送り出す。
それはスイス伝統の高級機械式時計とはまるで違ったものだった。
プラスチックのボディーに、部品は従来の半分しかない。

「スウォッチ」と名付けられたその時計は、
斬新なデザインで半年ごとに新作を発表。
1つのモデルは1シーズンかぎりの販売とされた。
ハイエックは時計を、ファッションに変えたのだ。

ビジネスに勝つ秘訣を、彼はこう述べている。

「時間を無駄にせずに、予定を立てて行動すること。
 ただし、予定表をすべて埋めてはいけない。
 それでは独創力が死んでしまう」

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