2016 年 11 月 のアーカイブ

佐藤日登美 16年11月13日放送

161113-05
pelican
食欲の秋 ピェンロー鍋

妹尾河童の「ピェンロー鍋」をご存じだろうか。

干しシイタケを一晩水につけたダシに、
白菜・豚バラ肉・鶏モモ肉・春雨、そしてたっぷりの胡麻油を投入。
ぐつぐつと煮立て、塩と一味唐辛子だけで味わう。

くたくたになった白菜がなんとも美味しく、
ついつい紹興酒が進む。

シンプルな鍋だけに、ひとつでも工程を飛ばすと
この至福にはたどり着けない。
妹尾が言う通り、
「うんと寒くなって白菜がウマク」なってから、ぜひお試しあれ。

topへ

佐藤日登美 16年11月13日放送

161113-06
Johnson Wang
食欲の秋 金子半之助

天ぷら職人・金子半之助が「閻魔帳」と呼ばれたレシピ帳に遺した、
「秘伝の江戸前の丼たれ」。

このたれに合う天ぷらダネを見つけ出したのが、その孫、金子真也である。
天丼屋を開いた真也は、
敬意を表し、その店に祖父の名前をつけた。

季節の野菜、あなご、海老、半熟玉子。
さくさくの衣と、それに絡む至極のたれ。

それを味わいたくて、今日も「金子半之助」に人々は列をなす。

topへ

蛭田瑞穂 16年11月13日放送

161113-07

食欲の秋 シーザー・カルディーニ

1924年のある日、
メキシコ、ティファナのレストラン「シーザーズ・パレス」。
その夜、客が大挙して押し寄せたため、
店の食材は底をつきかけていた。

そこでオーナーのシーザー・カルディーニは
ありあわせの食材でサラダをつくった。

ロメインレタスの上に、
塩、コショウ、ガーリックオイル、レモン汁、ウスターソースを
合わせたシーザードレッシングをかけ、
パルメザンチーズとクルトンをトッピングした。

このサラダが「シーザーサラダ」として評判となり、
のちに世界中に広まった。

topへ

蛭田瑞穂 16年11月13日放送

161113-08

食欲の秋 ロバート・コブ

1937年のある日、
ハリウッドのレストラン「ブラウン・ダービー」。
その日、オーナーのロバート・コブは
夜まで何も口にしていなかった。

空腹に耐えかねたコブは
冷蔵庫にあったありあわせの食材でサラダをつくった。

レタス、アボカド、トマト、鶏肉、ゆで卵、
カリカリに焼いたベーコンを細かく切って、
その上にフレンチドレッシングをかけた。

そのサラダを、客として来ていた
チャイニーズ・シアターのオーナーに試食させると、
その味は絶賛された。

このサラダが「コブサラダ」として評判となり、
西海岸から全米へと知れ渡るようになった。

topへ

藤本宗将 16年11月12日放送

161112-01

岩倉具視と洋服

明治4年。岩倉使節団が
まず到着したアメリカで注目の的になったのは、
髷と和服姿の岩倉具視だった。

熱烈な歓迎に上機嫌だった岩倉は、
真実を聞かされ愕然とする。
アメリカ人たちは、
未開の国の奇妙な風俗を見物するために
集まっていたのだ。

ついに岩倉は断髪。装いも洋服に改めた。
そのニュースが伝わると
日本でも洋服を着る習慣が広まることになった。

topへ

永久眞規 16年11月12日放送

161112-02

陸奥亮子と洋服

陸奥宗光の妻、陸奥亮子は
もとは新橋の芸妓だった。

宗光に見初められ社交界に入った亮子は、
「鹿鳴館の華」と呼ばれる。
さらに夫が駐米公使になると、ともに渡米。
その美貌と聡明さで「ワシントン社交界の華」となった。

着慣れていた着物を脱いで洋服を着こなし、
世界の賞賛を集めた大和撫子。
彼女こそ、文明開化そのものだった。

topへ

藤本宗将 16年11月12日放送

161112-03

広岡浅子と洋服

女性実業家の先駆けであり、
女子教育の発展にも尽力した広岡浅子。

新しいことをどんどん取り入れる合理的な彼女らしく
洋服をとても好んだといい、
現存する写真のほとんどは洋服姿で撮影されている。

ただ、「西洋のものはすべて正しい」
と言わんばかりの浅子に対して、
当時の大阪毎日新聞は
こんな皮肉たっぷりのコラムを載せている。

 浅子女史は洋服が好きだ。
 生まれ落ちるとき洋服を着ていなかったのが
 残念に思われるほど、洋服が好きだ。

topへ

村山覚 16年11月12日放送

161112-04

小篠綾子と洋服

大阪・岸和田の呉服屋の長女として育った

小篠綾子は洋服が大好きだった。



ふとんの裏地を縫い合わせて自分のワンピースをつくった。

女学校をサボっては、町で唯一ミシンのある店に通いつめた。



そのことは父の耳にも入る。

呉服屋からしてみれば、洋服屋は商売仇。



「許して」「あかん!」「許して」「あかん!」



父の反対を押し切り、

ミシンや裁断の勉強をするために学校を中退。15歳だった。



およそ20年後。着心地がよくおしゃれな洋服が評判になった

コシノ洋装店に、ある注文が届く。自分が中退した母校から、

制服をつくってほしいという依頼だった。



洋服は時代とともに変わり続けるが、

ぴかぴかの服を着る喜びは、今も昔も変わらない。

topへ

村山覚 16年11月12日放送

161112-05

福沢諭吉と洋服

今から144年前。福沢諭吉は大学内に
衣服仕立局という洋服屋をつくった。

当時、洋服は半年分の学費に相当する超高級品。
西洋を学ぶ若者たちのために
国産・低価格の服を仕立てて販売した。

 洋服の便利なるは今更いうに及ばず。

一万円札の肖像で和服のイメージが強い福沢先生。
学問だけじゃなく洋服もすゝめていたんですね。

topへ

大友美有紀 16年11月6日放送

161106-01

「日本の灯台の父/R・H・ブラントン」明治元年

リチャード・ヘンリー・ブラントン、
日本の灯台の父と呼ばれるイギリス人。
1868年、明治元年に来日。
日本は新政府が発足したばかりで、紛争が絶えなかった。

 日本に在留する最初の外国人土木技師だった私は、
 来日間もなく各方面から援助を求められる立場にあった。

 
彼は灯台技師として日本に赴任したにもかかわらず、
日本政府は横浜・東京間と大阪・京都間の
電信線架設を命じられた。
灯台を建てる前に
東洋で最初の電信線の架設者となってしまった。

topへ


login