2018 年 2 月 のアーカイブ

原央海 18年2月11日放送

180211-05
AJ Kelman
有吉弘行 未来

有吉弘行。
彼の猿岩石人気が終わり、仕事がなくなってからは、
7、8年間は月収一桁、給料ゼロの時もあったという。
事務所の先輩からご飯を奢ってもらうことになっても、
「僕、食べなくてもいいですから、僕の分現金でください」
なんて言ってしまう始末。
とにかくお金がなかった頃、
ホームレスになることも、本気で覚悟したそうだ。

そんな低迷期を味わった彼は、
リストラや派遣切りがいつ自分の身にふりかかるか
分からない現代のサラリーマンに、こう言った。

 「自分は大丈夫だ」とか、「ウチの会社だけは安心だ」とか、
 絶対にそんなこと想っちゃいけないんです。
 10年後に会社があるかどうかなんてわからないんですから。
 10年後に家があるかどうかなんてわからないんですから。
 気が付いたらホームレスかもしれませんから。

安定が確保されているなんて、もう過去の話。
未来のことで既に決まっていることは、
「まだ何も決まっていない」ということだけかもしれない。

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原央海 18年2月11日放送

180211-06
Matthew Black
有吉弘行 転換期

有吉弘行。
彼がドン底から這い上がっていった時期、
心の中で、こう決めていたそうだ。
「女性にモテたいという気持ちは辞めて、
同世代の男、一点集中でいこう!男が面白いと思ってくれるなら何でもいいや。」

だからテレビ朝日「内村プロデュース」に出演する時も、基本は裸。
人気絶頂期には考えられない姿である。
しかし、そこから有吉の人気が復帰し始める。
街で声をかけられる時も、猿岩石時代は「感動しました!」だったのが、
男の人からの「面白いですよね!」へと変わっていく。

彼の言葉を借りるなら、こうだ。

 世の中、何がきっかけになるか分かりませんよね。
 「内村プロデュース」に出て裸になって、仕事が来るようになったっていう。
 僕自身はそれで仕事が増えるなんて考えてなかったんで。
 そう考えると、「結局世の中、“運”だよな」って思うんですよ。
 実力じゃねーな、運だけだなって。

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原央海 18年2月11日放送

180211-07

有吉弘行 キープ

有吉弘行。
どん底から抜け出した彼は、
給料も少しずつ増えていき、月収30万にも届いてきた。
給料ゼロの時代も過ごした彼は、
「30万あったら俺、無敵だ!」とも感じたそうだ。

しかし、ここで思わぬ壁にぶち当たる。
「毎月30万の給料をキープしよう」と思っていると、
給料がどんどん減っていってしまったという。
「キープ」と思った瞬間、そこから欲が出ない。
守りに入り、「この番組だけやってりゃいいや」とか、
「他に呼ばれなくてもいいや」と思ってしまう。
他の番組スタッフとも付き合わなくなり、人脈も増えなかったそうだ。

そんな苦い経験をした彼だからこそ、こんな言葉が出てきた。

 守りに入っちゃダメなんですよね。
 ちょっとぐらい欲出さないと、
 現状から落ちていくんですよ、確実に。

これは、すべてのビジネスマンにも当てはまる話かもしれない。

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原央海 18年2月11日放送

180211-08

有吉弘行 理想

有吉弘行。
今や年間テレビ番組出演本数が400を越え、
芸能界トップクラスの人気ぶりを誇る彼だが、
もともとの理想はどこに置いていたのだろうか。
ちょっと意外な例え話を使いながら、彼はこう言っていた。

 僕の理想をいえば「芸能界の窓際族」になりたいですね。
 特にゴールデンに出たりすることもなく、
 深夜番組とか、誰も見てない仕事とかして、
 それでもなんか収入はちゃんとあるよなっていう状況が理想です。
 そのほうが長く生きられると思うんですよね。
 最終的には、名誉なんかより金ですから。

この発言、実は約7年前。
その頃とは、人気も忙しさも大きく変わった。
今の彼は、何を思っているのだろう。
今の自分を、どう感じているのだろう。
あの頃から理想は変わりましたか、有吉さん。

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川野康之 18年2月10日放送

180210-01

浜口庫之助が産んだ歌

ラテンバンドを結成して『紅白歌合戦』にも出場した浜口庫之助。
しかし何かが物足りなかった。
自分が本当に歌いたい曲がないことに、ふと気がついた。
「よし、それなら僕は作る方にまわろう」
歌手をやめて、作曲家をめざした。
お金はなかったが、歌を作るのは、自由で、楽しかった。
最初の曲が生まれた。

 僕の恋人 東京へ 行っちっち
 僕の気持ちを 知りながら
 なんで なんで なんで

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川野康之 18年2月10日放送

180210-02

浜口庫之助が産んだ歌

「音楽家は人生のラッパ手だ」と、浜口庫之助は言う。
大衆の気持ちを、生活の最前線に立って、わかりやすい言葉で歌にして吹いていく。
その歌の中には、生きている人間そのものがいる。
かっこつけない気持ちが歌になる。

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
 あなただけを 死ぬ程に

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川野康之 18年2月10日放送

180210-03

浜口庫之助が産んだ歌

こんなことが歌になるのか。こんな小さなことが。
多くの人が驚いた。
どんなことでも歌っていいんだ。
それは日本人が新しい自分たちの音楽を手に入れた瞬間だったかもしれない。
この曲の後にフォークソング時代がやってくる。

 バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
 淋しかった僕の庭に バラが咲いた

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川野康之 18年2月10日放送

180210-04

浜口庫之助が産んだ歌

作曲家とは歌を産むニワトリである、と浜口庫之助は語っている。
「僕を感激させるものに出会ったとき、僕は歌を産む」
生まれた歌は、人の耳に入ると、その人の心の中に生きる。
出会いと別れ。生と死。
ハマクラ・メロディーは人の一生の中で輝き続ける。

 恋は短い 夢のようなものだけど
 女心は 夢をみるのが好きなの

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川野康之 18年2月10日放送

180210-05

浜口庫之助が産んだ歌

浜口庫之助と出会って恋をして、結婚を決意する前。
真弓夫人は周囲の猛反対に会い、自分自身もぐらついたという。
何しろ、二人は27歳も離れていたのだ。
そんなとき、庫之助から眞弓に手紙が届いた。
便箋に楽譜が1行だけ書いてあった。

 ミファミドミー
 (愛してる)

真弓の気持ちは決まった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-01

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 私がやりました

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。
学生時代、食事の時間、
先生がお喋りしていた生徒は立つように命じた。
ヴィヴィアンは、しゃべってもいないのに
「わたしです」と立ち上がった。

 名乗り出たことをほめられるんじゃないかと
 思ったの。案の定、先生はほめてくれたわ。

 
ヴィヴィアンは他の子も立ち上がると思ってた。
でも名乗り出たのは彼女だけ。
その時、自分が変わり者だと自覚した。
自ら危険にとびこもうとするところがある。
二度とこんなことはしない。
でも、そうはいかなかった。

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