小山佳奈 2016年3月6日

koyama

「桜の季節のとある話」

   ストーリー 小山佳奈
      出演 藤谷みき

王様は困惑していた。
王様には生き別れた双子の弟がいる。
皇太后、つまりは、自分の母親が、
死ぬ間際に王様を一人、部屋に招き入れ、
泣きながらそう告白した。
この国の古くからの言い伝えで、
双子はその家に災厄をもたらすもの、
特に王族でそれは禁忌に近く、
双子は生まれた瞬間に片方だけ野に放り出されるのが常だった。
母親はそれがどうしてもどうしても嫌で、
出産の狂乱状態の中で乳母たちに懇願し、
極秘で母親の郷里近くの村の老夫婦に引き取ってもらったという。
王様はその弟の行方を調べに調べさせ、
ようやくその居場所を突き止めた家来の報告をいま聞いている。
「我が弟はどこにいる」
「は。はるか遠く東の果ての小さな島国におられます」
「かわいそうに。して、その地で何をしておる」
「ユーチューバーになっています」
「え?今何って言ったの?」
「ユーチューバーです」
「チューバ?楽団員か?」
「いやユーチューブに動画をあげてPVでお金を稼ぐ人たちです」
「全然わかんないんだけど、それは素敵な仕事なの?」
「はい、若者を中心にとても人気があります。見てみますか?」
「うん」
王様は家来が開いたパソコンをじっと見ていた。
「っていうか、そもそもこの銀のまな板みたいなものは何?」
「これは説明しだすと長くなるので後で」
そこでは、桜の木の枝を頭につけた裸のおじさんが、
炭酸を一気飲みして鼻から吐いたり、
はちみつを全身に塗って蜂の巣に突進したりしていた。
「こんな拷問のようなことが金になるのか?」
「はい。少なくとも我が国の国家予算は軽く超えるほど稼いでいます」
「えー」
「しかもアカウント名がですね」
「え、何?」
「要は名前がですね、”キングスブラザー”っていうんです」
「どういうこと?」
「つまり、この弟さんは自分が王様の弟であるということを知ってるんです」
王様は困惑した。
王様の描いていたシナリオは、
異国の地で頼るべき身寄りもなく辛酸をなめているであろう弟を、
ある日突然迎えに行き「弟よ」とこの手に抱きしめ、
何も知らずに驚く弟を国に連れて帰り、
王族として盛大に迎え入れるというもので、
なんなら相応の婚姻も用意しようと思っていた。
「結婚はしているの?」
「えぇ、インスタグラマーと結婚しています」
「え?何?」
「一応ネット上でメッセージを送ってみたんですけど
 ”元気にしてるんで、構わないでください。
  それよりそっちもがんばってチョリス”って」
王様はもはや聞き返す気力もなかった。

出演者情報:藤谷みき http://ameblo.jp/knockonwood/

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中山佐知子 2016年2月28日

1602nakayama5

フキノトウを食べたい

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

暦が春になると
川べりに積もった雪に小さな穴ができる。
その穴に手を入れてそっと雪を掻き分けると
フキノトウが見つかった。
芽を出したばかりの固い蕾のフキノトウ。
母はそれを台所に持っていき
茹でて刻んで味噌と突き混ぜて食膳にのぼせた。
そうだ、あのフキノトウを食べたい。

雪の穴が少し大きくなると、耳を近づけてみる。
囁くような水音が聞こえた。
ああ、雪が溶けている。
雪解けは雪の底から始まるのだ。
フキノトウの呼吸が雪を溶かすのだ。
それは景色であり、音楽であり、詩でもあった。
思えば、あのフキノトウをもう一度食べたい。

17歳で船に乗り、大陸に渡って長安の都に来た。
試験に受かって官僚になり、皇帝に仕えた。
長安の都には遥か西からも南からも人と文化が集まってくる。
そこは世界最大の国際都市だった。
まるで竜宮城にいるような数年が過ぎた。
詩人の李白くんと友だちになった。
それにしても、あのフキノトウを食べたい。

ある日、皇帝から帰国のお許しが出た。
しかし日本へ向かう船は嵐に遭って遭難し、
遥かベトナムまで流されてしまった。
詩人の李白くんは私が死んだと思って七言絶句の詩を詠んだ。
3年かかって再び長安の都に帰りついたとき、
皇帝は私の身を案じて
二度と日本に帰ろうとするなとお命じになった。
しかし、あのフキノトウを本当に食べたい。

長安の都に骨を埋めることになっても
あのフキノトウをもう一度食べたい。

皇帝の宴会料理はときとして100に及ぶ。
世界から集まってくる山海の珍味。
そしてエキゾチックなスパイスの数々。
この国の文化は壮大で豪華だ。
この国の人々は春の盛りを愛し、花ならば満開を愛し
満足の上に満足を重ねる。
それでも私はあのフキノトウを食べたい。

凍てつく寒さがほんの少し緩んだ頃に
雪をかき分けて探す、
あの親指の先ほどのちっぽけな春の芽生えを
もう一度手にしてみたい。

天の原、ふりさけ見れば 春日なる…
フキノトウを食べたい。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2016年2月21日

1602naokawa

ふきのとう

    ストーリー 直川隆久
       出演 吉川純広遠藤守哉

大学生活最後の春休み。
K先輩が、大学5年間を過ごした世田谷代田の部屋を引き払い、
練馬のさる機械メーカーの独身寮へ引っ越すことになり、その手伝いに呼ばれた。
先輩のアパートに出向いて2階にあがると、目指す部屋の引き戸は半開きだった。
タバコのにおいがする。中を覗くと、先輩は壁に向かって座り込んでいた。
壁を雑巾で一心にこすっている。
「先輩」
「おお、来てくれたか」
「なにしてはるんですか」
「煙草のヤニ落としてんねや」
 見ると、たしかに、先輩がこすっている周囲だけ壁が白い。
「そんなこと、せなあかんのですか」
「いや、まあ、せんでもええねやけどな。
 ひょっとしたら、敷金の引かれ方が違うかもしれんから」というと
また先輩は、黙々と壁をこすりはじめた。
俺もしょうことなしに手伝うことにした。
えらいもので、こすった分だけ壁の元の色があらわになる。
ものすごい主張をともなう白い丸が、忽然と現れる。目立つ。
これはむしろ何もしないほうがよいのでは、とも思ったが、
顔を真っ赤にして壁をこすりつづける先輩を見ると、言う気も失せた。

作業は遅々としてすすまず、
30分かけても、清浄なスペースはせいぜい下敷き一枚分くらいしか広がらない。
「あかん。やめや。しんどい」
そうつぶやくと先輩は、雑巾を放り出してしまった。
そして煙草に火をつけると、ぼんやりとした顔で壁を見つめる。
「ええんですか」
「ええわ。どうせ敷金なんか返ってけえへんねやろ」
くわえっぱなしのマイルドセブンの先っぽから、ぼたりと灰が畳に落ちた。
この人はこういう具合に、雑に人生をやり過ごしてきたんだろうなと、あらためて思う。
ぼく以外にはゼミの人間は誰も手伝いにこんのですか、と言いかけてやめた。

先輩は、本当は出版社に就職したがっていた。
でも、坂口安吾がいくら好きで全集を借金してまで買ったとはいっても、
それだけで就職できるほど、出版業界は甘くない。
同時代のベストセラーを小馬鹿にしながら
さりとて文学についての該博な知識があるわけでもない先輩の底の浅さは、
おそらく就職活動先の社員にはお見通しだっただろうと思う。
ちなみに、全集を買う金は、いくばくかおれも貸し、結局返ってこなかった。

大家さんに借りた軽トラックを先輩が運転し、寮に乗り付ける。
3階建ての古い建物で、エレベーターはない。
すると先輩は「あ、ポケベルが」とだけ言って、出て行ってしまった。
公衆電話なら、寮内にもあったはずだが。
一人残されたおれは、荷台の段ボールを手でおろし、運ぶ。
都合20回も往復したあたりで、先輩が戻ってきた。
疲労の極みで最後の箱を運びこむと、
先輩は「いやお疲れさんお疲れさん。茶でも飲むか」と大きな声で言い
「寮生用の食堂があるんや」と続けた。
一階に降りると、なるほど50人ほど入れるホールがあった。
いまどきこれだけの設備をもっているなら立派な会社といえる。
しんと寒い。
空気の底に、干物やら、ハンバーグやら、卵焼きやら、味噌汁やら、
柴漬けやら、ナポリタンやら、いろんなおかずの残り香が折り重なって淀んでいた。
平日の昼間のこととてテーブルにも厨房にも誰もいなかったが、
先輩は勝手知ったるといわんばかりに、
備え付けの給湯器から茶をそそいでおれにさしだした。
「来月から、毎朝ここで朝飯を食うのか」と先輩はぼそりと言った。「信じられんな。今でも」
先輩が、くしゃみを一つした。
ホールの冷え切った壁や床に、短い残響が残った。
「そういうたら、お前は優文堂にうかったんやったな」と先輩がこちらをむかずに言った。
「はい。ま、あそこしか拾(ひろ)てくれませんでしたんで」
「ええやないか。おれもあの会社は、ええ本だしてると思う」
その出版社の就職面接で、おれと先輩は、顔を合わせていた。
おれは通り、先輩は落ちたのだ。
「やっぱり留年がひびいたんかな。おまえは現役やからな」
と先輩が不服そうな顔でつぶやいた。
いや、問題はそこやないでしょうね、とおれは思ったが
「どうでしょうね」とだけ言った。
味のない茶を飲み干すと、おれは、先輩に挨拶して寮を去った。
引き止めるかな、と思ったが、先輩は引き止めなかった。

4、5日後。
先輩から小さい段ボール箱が届いた。
開ける。と、「おれは植物だ」という濃厚な主張を伴った匂いが鼻に襲い掛かった。
生のふきのとう。数えると36個あった。その上に、メモ用紙が一枚。
「このあいだは礼も至らず失敬。実家より送ってきたふきのとう、おわけします」とある。
改めて箱を見ると、宛先が先輩の名になった伝票を剥がしもしていないのがわかった。
察しがついた。
実家から届いたふきのとうを一目見て、処置がめんどうだと思った先輩は、
そのまま伝票を剥がしもせずに後輩に送りつけて厄介払いすることにしたのだろう。
それでさらに感謝でもされればもうけものだ、と。
雑だ。
この人のこういうところはたぶん、一生治らないのだろうなと思った。

優文堂での面接の日、待合室にはおれのほうが先に着いていた。
開始時間ぎりぎりにやってきた先輩はおれをみつけると
「お」という口の形になって、目元を緩ませながらおれに近づいてき、
ひそひそと囁いた。
「優文堂の最近の一番のヒットってなんやったかいな。面接でその話題になるかもしれんやろ」
と訊いた。おれは
「『清貧の思想・実践マニュアル』やないですか」と答えた。
嘘だった。

ふきのとうの天ぷらというものは知っていたが、揚げ物なんてしたことがないし、
そんな大量の油も後の処置に困る。
とりあえず電子レンジで蒸してマヨネーズで食ってみたが、
アクがひどく、食うのに難渋した。よほど捨てようとも思ったが、
それはすまいと思った。それを食い切ることが最後の務めのように思えたのだ。
3日ほどかかって、なんとか全てのふきのとうを腹に入れた。
そして、手帳に控えていた先輩のアパートの電話番号に線を入れた。
 
それ以来、K先輩とは連絡をとっていない。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/
      遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/


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篠原誠 2016年2月14日

1602shinohara

最後の質問

     ストーリー 篠原誠
        出演 吉川純広

別に嫌いになったわけじゃない。
かといって時間を一緒に過ごせるほどの気持ちも今やない。
そんな理由で、僕は彼女と別れることにした。

僕の突然の別れ話を
彼女は、ずっと前から知っていたことのように受け止めた。
泣くこともなかったし、拒否することもなかった。
けれど、別れ際に彼女は、こうつぶやいた。

「一つだけ、最後の質問があるの」

最後の質問?

「フキノトウって食べたことある?」

そう彼女の声は発した。
フキノトウ。フキノトウって、ツクシとかの、フキノトウ?
僕は、彼女に聞き返した。

「そうよ。私、ツクシは食べたことあるんだけど、
 フキノトウは、食べたことなくて」

僕も食べたことはなかった。少し苦みがあるという話を
聞いたことはあったのだけど、
僕はフキノトウもツクシも食べたことがない。と答えた。

「私、ツクシは食べたことあるんだけどなぁ」

彼女は僕の答えに、落胆するでもなく、喜ぶでもなく、
ただただ無表情だった。

フキノトウと僕たちに何か関係があるのだろうか。
なんでそんな質問をするの?と僕が言うと、
彼女は「ダメだよ、さっきのが最後の質問なんだから」
と杓子定規に答えた。

「今度、フキノトウ食べてみようかな」

彼女がそういった時、少しだけ微笑んだように見えた。
それは、5年間つきあってきた中で見たこともない顔だった。
フキノトウ…。フキノトウ…。デクノボウ…。
関係ないか。
それとも、春ということか?
春がなんだというんだ。
僕たちが付き合い始めたのは夏だったし、彼女の誕生日は秋だ。
春なんて関係ない。
フキノトウ…。フキノトウ…。オメデトウ…。
関係ないな。ほんの数秒そんな風に考えていたら、
彼女はすくっと立ち上がった。

「じゅあね、フクシくん」

そういって彼女は人がたくさんいる駅の方へ
歩いていった。フクシくんが、ツクシくんに聞こえた気がした。
彼女は、人ごみに消えるまで、一度も僕の方を
振り返らなかった。彼女の背中に羽が生えているように見えた。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/

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佐藤義浩 2016年2月7日

1602sato

ふきのとうについて考える。

    ストーリー 佐藤義浩
       出演 遠藤守哉

ふきのとうのことを書いてくれ、と言われたので書きます。
ふきのとう…。自分の人生とはあんまり関係ない。
食べないか、と言われたら、食べる。
春だね〜とか言いながら。ちょっと苦いとこが人生ポイねとか…
さすがにそんなことは言わないけど、まあ美味しく食べる。

子どもはこんなもん食わんだろうと思う。
苦いからな。自分も子どもの頃は好きではなかった。
なんで大人になると、うまいって思うんだろうねーとか言いながら食う。
酒があるからかな?とか思っているが、口には出さない。
そう言えば、酒と言えば梅酒のソーダ割りしか飲まないあいつは、
あんまり苦いものは食べないような気がするなあ。

…いかんいかん。飲みながらだと話が酒から離れられない。
気を取り直して。ふきのとうのいいところを考えてみる。
春が近づいてるイメージが85%。
とか言いながら実はまだまだ寒いんだけどな…を23%含む。
寒いとこにちょこっと見える春がみんなは好きみたいだ。
だよな。実はふきのとうのイメージは冬だ。
もっと正確に言うと、まだ春が来てない季節。
それがみんな好きなのかもしれない。
「春の予感」という歌があって「秋の気配」という歌がある。
春の訪れは待ってる中にやってくる。
秋は気がつくとそこにいるってことだな。
「恋の予感」って歌があって「別れの気配」って歌がある。
恋は春で、別れは秋なんだな。なんかうまく出来ている。

いかんいかん。
どうも飲んでて、店に安い歌謡曲なんかかかってると
どんどん話が逸れていってしまう。
ふきのとうのいいところ。残りの15%は名前だ。
おいおいそれで100%になっちゃうわけ?と言われそうだが、
なっちゃうんだな〜。

ふきのとうは漢字じゃ書かない普通。
それはもちろん難しいから…なんだけど、
ひらかなで書くところに、なんかいい感じが生まれてる。
ひらかな5文字ってのは曲者で、
日本語のいい感じの言葉にはひらかな5文字が多い。
ありがとうとか、さようならとか。たぶん優しい響きがいいんだと思う。
リズムが平板で、跳ねたりしない。
初めて会ったのに、お、こいついい奴だな、というリズム。
特徴としては、5文字それぞれが独立している。
隣の文字に寄りかかったりしていない。
そういう言葉を日本人は好きなんだな。
んでこの5文字がまた地味で。

そもそも「ふき」って地味だよね。
明治の終わりに、ふき、という名の少女が
その後の動乱の時代をたくましく生きて立派な人になったっていう
朝ドラ作れるくらい地味。
そのベースがあるから
ふきのとうの「その中の花んとこ」って感じがいいんだと思う。
さっきの冬の中の春っていう理屈と同じ。
5つの文字がそれぞれ独立してるから、
じっと見てるとどこで切るのかわかんなくなる。
ゲシュタルト崩壊ぽい感じ。
ふきの、とう。ふ、きのとう。
ふきのさんが、「トゥッ」ってジャンプしたり、
フッと気の遠くなることがあったり、
文字の並びにあんまり意味がないから、
応用範囲が広いって言うかイメージが広がりやすい。
癖がないんだね。
ふきを「帰ってこないの不帰」とうを「高い塔」だと考えると、
…『あの戦争のあと、世界中が冬に包まれた。
そんな中、帰らぬ人を待つ岬の高い塔を人は
「不帰の塔」と呼ぶようになった。』
…という出だしのSFも書けるね。
いかんいかん。飲んでるとなんでもできるような気になるけど、
どうせ出だししか書けないんだよいつも。

…そろそろまとめないと。
でも自分が酔っ払ってまとまんない今の状況を考えると、
まとまるとは思えないわ。
冬眠してた熊が、目を覚まして最初に食べるのが、
ふきのとうなんだってね。
そんときお酒もあるといいのにね〜。
あ、やっぱりまとまんなかったね。
もう一杯飲んでから帰ります。読み返さないね。んじゃ

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

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中山佐知子 2016年1月31日

1601nakayama

暗殺者は思った

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

美しい少年だ、と暗殺者は思った。
邪気というものがまったく感じられなかった。
誰かを疑ったり悪く思ったことは一度もなさそうだった。
おそらく一点の濁りもない湖のような心をお持ちなのだろう。

例えば誰かを殺すとき
暗殺者は相手の濁りを狙って刃を振り下ろす。
濁りとは相手に生じた恐怖であり憎しみであった。
相手に自分を憎む気持ちがあれば仕事はやりやすかった。
しかし、濁りのない湖に向かってどんな刃を向ければいいというのか。

暗殺の理由は政治にあった。
少年は南朝の帝だった。
1336年に後醍醐天皇が吉野に逃れて開いた南朝は
100年余りを経たいま、
山の民に守られて吉野の奥に潜んでおられる年若い帝と
その弟の宮がおいでになるだけだったが、
それでも正しいお血筋は南朝にあり
三種の神器のひとつもこちらにあった。
南朝の帝を殺して神器を奪うことは室町幕府の宿願だったのだ。

暗殺者は南朝に味方すると見せかけて一年ほど様子を探った。
木樵しか歩けないような絶壁の杣道を辿り、
急斜面を四つん這いで這い登ると
川が滝となり、渓流には無数の温泉が湧き出る処がある。
そこからさらに登り下りを繰り返すと見えてくる
隠し平という狭い谷に仮の御所を建て
帝はお住まいになっていた。

おそばに仕える人数は少なかった。
険しい山の守りは固く、
万一敵の軍勢が攻め寄せてきても
あたり一帯の村々が砦となって戦うのだ。
狭い谷に大勢がひしめく必要はなかった。
吉野の民は決して裏切らないだろうと暗殺者は思った。
しかし、自分は吉野の民ではない。

そしてあの12月の大雪の日が来た。
暗殺者は仲間とともに雪に紛れて御所を襲った。
帝は急を知って寝巻きのまま刀を手にされた。
美しい少年だ、と暗殺者はふたたび思った。
このときでさえ、湖に濁りはなかった。
しかし不運にも帝の刀が鴨居に突き刺さり
はじめて暗殺者は湖に波が立つのを見た。
それは濁りではなく焦りのようなものだったが、
暗殺者はそのわずかにざわめく波に、静かに刀を差し入れ、
南朝最後の帝の十八歳の生涯を終わらせた。

さて、この暗殺の物語には続きがある。
雪のなかを逃げる暗殺者の一行は三日めに追っ手と遭遇し、
激しい戦いになった。
その戦いのさなか、暗殺者が雪に埋めておいた帝の首は
おびただしい血を噴き上げ、
みずからの居場所をお示しになったという。

南朝の帝のご最期は吉野の伝説となっていまに伝えられるが
その一方で詳細な記録も残されている。
暗殺隊の生き残りが当時の手帳に書き残しているからだ。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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