三島邦彦 2018年8月12日

穴に住む 

    ストーリー 三島邦彦
       出演 遠藤守哉

あ、目が覚めましたか。

びっくりしましたよ。
川に水汲みに行ったら人が倒れてるもんだから。

ここですか。私が住んでる穴の中です。
私ね、穴の中に住んでるんですよ。この山で。

涼しいでしょう。

やっぱり空気が違いますよね。深い穴の中って。

奥に行けば行くほど冷えて来るんで、
ここまで来ると、もう冷蔵庫の中みたいですもんね。
外はあんなに暑いのに。あ、冷蔵庫は言い過ぎか。

とにかく、気温が安定してるんですよね。
夏は涼しいし、冬はあったかいし、
遠い昔の原始人たちも
こんな穴の中に住んでたんでしょうね。
よくわからないですけど。

すみませんいきなり喋り過ぎですね。
目が覚めたばかりなのに。
ちょっと、人と会話できるのが嬉しくて。

あなたが倒れてるのを見て、
最初はこりゃ大変だって思ったんですけど、
生きてることが分かってね。
必死でここまで連れて来ましたよ。
久しぶりに人と話せると思ってね。

あ、見えてますか。私のこと。
見えてませんよね。暗いですもんね。
しばらく目が慣れませんけど、
だんだんと目が慣れて来ますからね。

私ね、今とっても笑ってるんですよ。

見えないですよね。
私はあなたの表情がぼんやり見えてますよ。
そう怖がらないでください。ただのおしゃべりですから。

暗闇は慣れるんですけどね、
孤独は慣れないんですよ。
生まれつき一人で生きて来たら
慣れるのかもしれないですけどね。
人と会話した記憶があるとどうしても寂しくなってね。

ふとした時に、
暗闇の中で壁を見つめながら色々考えるんですよ。
この穴の中でもう誰とも会えないのかなって。
誰に強制されたわけでもなく、
自分で選んだ人生なんですけどね。

もちろん、人間関係のあれこれが嫌で
この穴の中にいるわけだから、
そもそもは一人でいるのが好きなんです。
穴の中で生活を始めてから心は穏やかになった気がしますし。
一人でいることと、孤独はちょっと違うんですよね。
難しいことはわかんないんですけど。

で、寂しい時はね、壁をひたすら見つめるんです。
壁をじっと見てるとね、
そのでこぼこなんかが人の顔に見えて来る瞬間があってね、
その顔の人がどういう人なのかを考えるんですよ。
そして浮かんで来た顔の人と会話をしてみるんです。

例えば、もし穴の外に出て、ふもとの川で人を見つけて、
穴に連れて来たらどういう会話をするとかね。

一人で壁を見つめながらでも、
おしゃべりする相手はいくらでもできるんですよ。

というわけで、今日は、あなたに会えました。

穴の中へようこそ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年7月15日

ひまわり男

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

 廊下のほうから、べたべたという靴音が響いてきて、
いつものベレー帽をかぶった菊池の顔が、
病室入り口からぬっとのぞきよった。
「お、ベーやん。こーこやったんかいな」
 やかましい声をはりあげて入ってくる。
「さがしたでえ。406号室!」
 いつものアロハ。片手にはギターケース。
片手にはなんやしらん、でかいスーパーのレジ袋。
俺は「おお、キィやんか」とだけいうと、
ベッドの脇のパイプ椅子を顎でしゃくった。
菊池は、べたべたと病室の中を横切ってくる。
 相部屋にいるほかの3人の患者たちはみなこちらに背をむけるか、
仕切りのカーテンを閉めるかしてるが、
注意の矢印が空気を突き破ってこちらに向けられてる。
 菊池は、どさりと荷物をおろすと、
 「あ、あらっ。あらっ」
 と、こっちの顔を覗き込みながら、わざとらしく明るい声をあげよる。
「元気そうやんか。元気そうやがな」
「そう見えるか」
「見える見える!」
 そう言うと菊池は、レジ袋の中から、
カップ入りの水ようかんを2つ取り出すと、
ベッド横のキャビネットに置いた。
「好きやろ」
「ああ」
 さらに菊池はガサガサと袋の底をまさぐる。
中からにゅっと取り出したのは、
茎を20センチほど残して切り取られたひまわりの花。
直径30センチもあるやろうか。重そうなその花を菊池は持って
「花瓶あるか?」
と訊いた。
「いや…ない」
というと、菊池は肩をおとした。
公園か小学校かに生えているのを無断で切り取ってきたんやろうか。
ばかでかいそのひまわりは、病室の中でなにやらえらい間抜けな感じがした。
「あれやで。入院する前より、顔色ようなってるんとちゃうか?」
 ほんまに、何をぬかしとんのか。
俺が入院したのは、おまえのせいやないか。と喉まででかけて、こらえた。

父親が倒れて家業のプレス工場をどうしても継がなならんようになった…
というのは事実ではあったけど、
正直おれは菊池とのバンド生活にほとほと嫌気がさしていたので、
工場の件は、半分はいい言い訳でもあった。
2人で行った天満の立ち飲み屋でそれを告げたときは、菊池は意外に素直やった。
 勘定を俺が済ませている横で、
「べーやんが決めたことやったらしゃあない」と何度も言っていた。
 本当は二軒目には行きたなかった。酒乱の菊池のことで、
行けば荒れるのは目に見えていた。しかし、行かんわけにいかなかった。
で、案の定荒れた。俺に馬乗りになり、首を締めあげ、
なめくさっとんのかわれ、と声を上げた。
今まで喧嘩になったことはあっても、俺から手をあげたときは一度もない。
でも、これが最後やと思ったから、俺は菊池の顔面におもいきりパンチをあびせた。
するとあいつがカウンターにあった焼酎のボトルで俺の顔面を殴りやがった。
俺はその日、歯を2本と我慢の理由とを、なくした。

「一曲やろか」
「なに?」
 菊池は嬉しそうに病室内に愛想を振りまいた。
「みなさん、すんまへん。こいつね、うちのバンドのベースですねん。
ちょっと事故で入院してるんですけど、元気づけてやろうと思いまして…
一曲だけ、すんまへん」
 と言いながらギターケースを開ける。
「おい、やめとけ」と俺は苦い顔をするが、菊池は
「練習してん」
と言いながら、ギターを抱える。
 練習。久々に菊池の口から出た言葉やった。
ピッキングハーモニクスでチューニングを整えると、菊池は演奏を始めた。
聞き覚えのあるコード進行やなと思うと、菊池の唄がかぶさってきた。

♪You are the sunshine of my life..

スティービー・ワンダーの名曲を、アレンジした曲やった。
今までステージではやったことがない。
自分の声の個性を少しおさえた歌い方で、そういうやり方は、
最近菊池が…自分の声の力によりかかって、
そこから一歩踏み出すことを邪魔くさがっていた菊池がやらんかったことやった。
ここから、もう少しあるかもしれない。そう思わせる演奏やった。
なんで今までやらんかったんか、と思った。

最後のコードをストロークで弾いたあと、弦が鳴りやむまで菊池はじっとしていた。
病室の全員がじっとその演奏をきいていたのがわかったが、
最後の音がやんで静寂が訪れた。拍手はおこらんかった。

「どうかな」と菊池が俺のほうを見た。
「よかった。あんたの声におうてる。レパートリーになるで」
俺も指が動いてもうたで、とは言わんでおいた。
菊池の顔が、「は」と笑う顔になった。
おれは続けた。
「けど、俺は、やらんで」
 菊池の顔はそのまま笑い声をあげることなく、硬い表情にかわっていく。
「すまんな」
おれは、水ようかんをパカリと開けて、黙って食べた。
様子をうかがうと、菊池は窓の外を見ている。震えていた。
俺は反射的に、ナースコールのボタンを握りしめた。菊池の様子次第では、
押すつもりやった。
そやけど、菊池は、それ以上何も言わんかった。
ギターケースにギターをしまい、立ち上がって、
「ほな」
とだけ言うと、またべたべたと足音をさせながら、病室を出ていった。
振り向くかな、と思ったが、振り向かなかった。

キャビネットの上で生首みたいに横たわってるひまわりを、
看護師さんに頼んで捨ててもらった



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年6月17日

雨の来た方向

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ぷつ、ぷつ、と窓をたたく音がするので
外光透過モードに切り替えると、
雨が見えた。窓辺に寄り空を見上げる。
風に軌道を曲げられながら遥かの高みから
きりもなく落ち続ける水滴の運動。
そういえば。地位、価値、評判。
そういったものがより望ましい状態であることを示すために、
地位が「高い」、価値が「高い」という表現をしていた時代があった。
考えてみれば不思議だ。
地面から垂直方向へより離れた状態をさす言葉がなぜ「よい」という意味を?
太古の時代には、雨や太陽の光といった農作物を育てる恵みが
「上」のほうから降ってきたからだろうか。
そこから「上」すなわち「よきもの」という感覚がうまれた、
というのはありそうな話だ。

人間にとって上空というものがとりたてて憧れを呼ぶものでなくなって久しい。
おそらくは、月や火星といった遥か我々の頭上にある場所が、
資源採掘の対象となり、
劣悪な労働環境の象徴とされるようになってからだろう。
現在地球上の人間は一般に「善い」「正しい」という意味をもつ言葉として
「screeny」という言葉を使うが、
その語源は「スクリーンでしばしば見られる、
スクリーン映えする」ということだったようだ。
それも、ある特定の価値観を反映した言葉である以上、
また変わっていくのかもしれない。

雨は、降り続く。おそらく、あと3週間はやまないだろう。
空気の中に湿りが充満していき、
肌との摩擦が少なくなる。自分と外との境界が少しだけ曖昧になる気がする。
これは、好きな気分だ。
とても、screenyだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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川野康之 2018年5月6日

鬼の刀~菖蒲湯伝説

    ストーリー 川野康之
      出演 遠藤守哉                          

もう桜も咲いたというのに雪が降った寒い日の晩。
嘉七の家の前で人の気配がした。
戸を開けて見ると見慣れない男が一人。
身なりはぼろぼろだが腰に刀をくくりつけている。
飯を食わせて欲しいという。
「ただでとは言わん」
といって腰の物に手をかけた。
嘉七の背中で妻のみつと息子の小太郎が悲鳴をあげた。
男は刀を鞘ごとはずして嘉七に手渡した。
「これをやる」
勝手に中に入って床にあぐらをかいた。
嘉七は刀など欲しくはなかったし、帰ってくれと言いたかったが、
機嫌を悪くして暴れられては困る。
ここは飯を一杯食わして穏便に去ってもらおうと決めた。

「ごちそうじゃった」
男は満足そうに茶碗を置いた。
それから不思議なことを語り始めたのだ。
「神隠しというものがあるだろう。
子どもが突然消えたりするあれだ。
あれは神隠しというがじつは山に棲む鬼の仕業だ。
春になると鬼は人間の子どもが食いたくなるのだ。
なぜかといってもわからぬがとにかく無性に食いたくなるのだ。
七つぐらいの男の子が一番うまいという。
子どもをさらってくると河原で火を焚いてな、
鍋で菖蒲の葉といっしょに煮て食う。
菖蒲を入れるのは人間の肉の臭みをとるためである。
・・・ところで 」
と今年七つになったばかりの小太郎をじっと見た。
「この子はいくつだ」
男の眼ににらまれて小太郎がぶるっとふるえた。
その体をみつが抱いて引き寄せた。
「七つか。ふん。せいぜい気をつけろ。
しかし、いったん鬼に目をつけられたら最後、ぜったいに逃れる方法はないぞ」
そう言って男は帰って行った。
朝になって外を見ると、雪の上に足跡が残っていたが、
10歩ばかり歩いたところで消えていた。

この話を村の衆にしたところ、
「それは鬼じゃないか」
と声をひそめて言う者があった。
今年はどの子を食おうかと鬼が下見に来たというのである。
「かわいそうに小太郎は鬼に見初められたんじゃ」
そう言われて嘉七はぞっとした。
あの男は鬼だったのだろうか。
小太郎をじっと見ておったな。
あの眼はそんな恐ろしいことを考えていたのか。
「ぜったいに逃れる方法はないぞ」
男の言葉がよみがえってきた。

その日から三日三晩、嘉七は田んぼにも出ないで家の中にこもった。
床下に隠しておいた刀を取り出して、じっと考え込んだ。
あの男はなぜこれを置いて行ったのか。
鞘を膝に乗せ、表面の漆を削って下の木材をむき出しにした。
そこにヨモギの葉をすりつぶして手のひらで丹念にこすり付け始めた。
「みつ、もっとヨモギを取ってこい」
手の皮がすりむけるまで何度も何度もヨモギの汁をすり込んだ。
嘉七の手が緑色に染まり、黒く血がこびりついたのを見て、
青鬼のようだとみつは思った。
草色に見事に染まった鞘は、まるで菖蒲の葉のように見えた。
この鞘に刀を収めて、小太郎の体にくくりつけた。
「寝る時も厠へ行く時もけっしてはずすな」
恐れていた日はすぐにやってきた。
とつぜん強い風が吹いた。
家が揺れ、屋根がめりめりとはがされるような音がした。
嘉七が屋根を見て戻ってくると、もう小太郎の姿はなかった。
風の音に混じって鬼の笑い声が聞こえてきた。

小太郎は暗い鍋の中で、菖蒲の葉と一緒に水に浮かんでいた。
下から熱い湯が沸いてくる。
菖蒲のうちの一本は自分の体にくくりつけて持ってきた刀である。
湯はどんどんと湧いてきて、どんな熱い風呂よりも熱くなった。
足の裏が焼けた。
菖蒲のにおいでむせびそうになる。
意識が遠くなってきた。
父の言葉をとぎれとぎれに思い出した。
「鬼は鍋の前にいる。煮えるのが待ちきれなくて、
蓋を持ち上げて中をのぞこうとするだろう。その機会を逃すな」
目の前が明るくなったので、小太郎ははっと意識を取り戻した。
天井が少し開いている。
もうもうとした湯けむりが消えて、その向こうからぎらぎらと大きな目玉が一個、
こっちをのぞきこんでいた。
小太郎は草色の鞘から刀を抜くと、全身の力を込めて跳び上がって、
湯気たてる刀身を目玉の中心に突き刺した。

恐ろしい叫び声が山中にこだました。
嘉七は山道を急いだ。
河原まで来た時、倒れていた小太郎を見つけた。
小太郎は足の裏にやけどを負っていた。
嘉七はわが子を背負って山道を降りはじめた。
「眼を見たか」
と背中の子どもに声をかけた。
雪の日に刀を置いて行ったあの男、
あれはほんとうに鬼だったのだろうかと、嘉七は考えていたのである。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2018年4月15日

王国

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

――潮目が変わったな。
と、はまだこうすけは思った。

担任を「ママ」と呼んでしまったことは、
たけだやまとにとって、悔やんでも悔やみきれぬ痛恨事であった。
どっと沸くチューリップ組の中で、たけだやまとは顔を真っ赤にして
うつむくよりなかった。

はまだこうすけには、わかっていた。
これは、穴だ。
そして、それはけっして塞がれることのない穴なのだ。
砂場のダムに木の枝であけられた穿ちが、
その口径を決壊の瞬間まで広げ続けるように。

ドッジボールをしても競走をしても
誰にも負けたことのないたけだやまとは、
チューリップ組のリーダーとして君臨していた。
園庭で鬼ごっこをするのか、泥団子づくりをするか、
決定権は常にたけだやまとにあった。
ともすれば、傲岸な態度をチューリップ組、
はては隣のひまわり組の人間たちにまで向けがちであった。

――やまと、センセのことママていうた。
休み時間に、チューリップ組の中を、
黒い笑いのさざなみが満たした。
笑いながら、彼らもそう考えていたのだ。
――潮目がかわった。
と。

大衆の心理というものはおそろしい。
弁当の時間、たけだやまとがおかずを略奪しても
曖昧な笑いを浮かべるだけでされるがままになっていた人間たちが、
公然とたけだやまとに反抗的態度をとりはじめた。

はまだこうすけは、虎視眈々とチャンスをうかがっていた。
焦ってはならない。
潮目はかわった。だがまだ十分ではない。
まだ、動くタイミングではない。
たけだやまとのポジションを奪いに行った、
という印象を与えてはならない。
あくまで、チューリップ組の自由意思によって
「リーダー」として承認されねばならない。
たけだやまとの威信の「決壊」の瞬間を、彼は辛抱強く待った。

ある日、たけだやまとが、癇癪をおこした。
たけだやまとがつくった砂場のトンネルを、
はせがわれおが蹴り潰したのである。
たけだやまとは逃げるはせがわれおを追い、園庭内を走りまわった。
そして足を滑らせ、ブランコの支柱に顔面を強打した。
鼻から血を迸らせながら、たけだやまとは、号泣した。
園庭にいるすべての人間の動きがとまる。
だが、そのけたたましい声と鮮血に気圧されたのか、
誰もが遠巻きに見るだけで、たけだやまとに近づこうとしない。

今だ。と、はまだこうすけは思った。
そして、泣きじゃくるたけだやまとの傍へ歩み寄り、
アンパンマン柄のハンカチを取り出すと、
たけだやまとの顔を濡らす涙と鼻血を拭ってやった。
周りを見渡す。
そこには、はまだこうすけを新しいリーダーとして迎える目が並んでいた。

権力の座は、頂に据えられる。
下から見上げているときの方が、その様子は寧ろ仔細に見てとれるものだ。
一度そこに座ってしまえば、
もはや自らの姿を顧みることはできない。

いったんは温和なリーダーとして現れたはまだこうすけだったが、
日を追うに従い、その専横ぶりが目につくようになった。
仲間が園に持ってきたカントリーマアムを取り上げる。
ブランコを長時間独り占めする。
泥団子を、別の人間に磨かせ、出来上がりを簒奪する。

はまだこうすけはときおり、
自分が自分でなくなっていくような感覚をすらおぼえた。
権力というものがそれ自体の意思をもって、
はまだこうすけの体を乗っ取っていくような不安。
そしてその不安を忘れるためであるかのように、
はまだこうすけは専横の快感を貪り続けた。
はまだこうすけは強奪したハッピーターンを齧りながら砂場に目をやる。
日々、山や城が築かれては茫漠たる砂に戻る、
その往復運動を飽きもせず繰り返す場所がそこにあった。
以前たけだやまとが築いたダムは、無論、跡形もない。

ある日、はまだこうすけは、急に腹部に差し込む感覚を覚えた。
まずい。
と、はまだこうすけは思った。そして、トイレに駆け込んだ。
だが、折悪しく2つしかない個室の扉は閉ざされていた。
大人用のトイレを借りよう。
造作もないことだ。自分ならやり遂げられる。
はまだこうすけは自分に言いきかせた。
廊下に出た瞬間、ばたばたと走る年少の男が、はまだこうすけに激突した。
次の瞬間、はまだこうすけの下腹部が決壊した。
半ズボンに、黒いしみが広がっていった。

しまった。
これは、なんとか皆に知られぬようにしなければ。
そう思いながら歩き始めたとき――
「なんや、くっさ」「くっさあ」
という声があがった。
はまだこうすけは、思わずズボンの後ろを手でおさえた。
だが、下腹部の決壊は止まらなかった。
はまだこうすけの半ズボンの下部から、奔流があふれだした。
廊下を歩いていた人間は悲鳴をあげ、立ち止まり、あとずさった。
はまだこうすけの周囲の空間が広がっていった。

はまだこうすけには、わかっていた。
およそこの幼稚園にいるかぎり、
自分の威信は二度と回復することはないことを。

だが一方で彼は、何か奇妙な…
安堵にも似た感情を抱いている自分に気づいた。
この世は、砂場の砂と同じ。
常なるもの無し、という理(ことわり)以外に確かなものはない
――その巨大な真理の一隅を占め得たという、
安堵感でもあったろうか。

はまだこうすけは目を閉じ、
腿の裏を伝う温かな流れの感触をもう一度味わった。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2018年3月18日

ナグー

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。

族長一家の召使が高らかに声を上げながら、村々をまわった。
—われらが偉大なる長(おさ)パパンギロ、
その愛娘、イ・ギギが、婿をとる齢(よわい)となった。
髪あくまで黒く、螺鈿のようなその瞳。どんな男も虜にしよう。
我こそはと思う者は、次の嵐の夜、東の砂浜に集うべし。
沖の鎌首岩まで泳ぎを競い、見事一番手をとった若者に、
イ・ギギは与えられるであろう。

鎌首岩とは、島の遥か沖、波間から蛇のように
にょきりと突き出した岩礁である。
イ・ギギに求婚を望む者は、
荒ぶる高波に揉まれながら岩礁までの数百メートルを泳ぎ切り、
自らの肉体の壮健ぶりを証明せねばならない。
そこで波に飲みくだされるようなら、
神からの寵愛がその程度だということ。
ならばそもそも高貴な血族に求愛する資格などない。
それが族長の意思であり、この島のならわしであった。

3日後、はげしい南風とたたきつける雨が島を襲う。
その夜、浜辺に、島中の美丈夫どもが集った。
たくましく、しなやかな筋肉の群れが砂浜を埋め、
月もない暗闇の中、すべらかな肌が雨をはじきながら、号令を待つ。
沖の波は、もはや椰子の木を遥かに上回る高さだったが、
生きて帰れるだろうか、などと不安がる者はその中にいなかった。
それほどまでに、イ・ギギ—
そして、彼女との結婚が約束する支配者一族としての暮らし—は
男たちにとって魅力的だったのである。

若者のうちの一人がある異変に気付き声をあげた。
—女だ。女がいる。
戸惑いのさざ波が、浜辺に広がる。
—なぜ、こんなところにいる。
ここにいるのはイ・ギギの婿になりたい男たちだ。
と言いながら、憐れなものでも見るかのような目つきをむけた若者に、
まだ年端もない娘は答えた。
—勝てば、わたしのものになる。
—なにが?
そう言いながら若者が、笑いながら娘の頬を撫で回した。
娘は、その手を娘は振り払い、じっと荒れ狂う海を見つめた。

その娘は、名をナグーといった。
母親どうしが幼馴染みだったことから、
イ・ギギとナグーは小さい頃から多くの時間を過ごした。
無二の親友といってよかった。初めて泳ぎを覚えたときも、
初めて鶏の喉を裂いたときも、二人は一緒だった。
イ・ギギの寝床でとりとめもないことを話しながら、
よく抱き合って眠りについた。
ナグーもイ・ギギも、その関係がいつまでも続くように思っていた。
だが、二人は成長し、イ・ギギの婿取りの時期となる。
イ・ギギは穢れを払うために、一族以外の者との接触を禁じられた。
ナグーはむしろイ・ギギが結婚によって穢されるように思えた。
あのつややかな肌を、男の無骨な手がまさぐるのは、
考えるだにおぞましかった。
ナグーは、イ・ギギのことが不憫でならなかった。

ナグーをつまみだそうとする若者達を制したのは、族長であった。
たしかに、この競い合いに女の参加は許されぬという断りは
なされていなかった。その娘の望むようにさせよ。
族長が火のついた薪を振るのを合図に、
若者たちは、黒い海の中へ我先にとなだれ込んでいった。

ナグーは、泳ぎの名手だった。
平時の海なら男に負けない自信は十分にあったものの、
嵐の、しかも夜の海は初めてだった。
どう、と波が砕ける衝撃が体を揺さぶった次の瞬間、
ナグーたちを取り囲む水の全てが一気に走り始め、
ナグーの体を猛烈な力で押し流した。
風に舞う木の葉のように、
おびただしい数の若者の体が水中を飛ばされてゆき、
海底から突き出した岩の群れに、叩きつけられていった。
何人かの頭が、地面に落ちた椰子の実のように、ぱかりと割れた。

砂浜では、イ・ギギが海を見つめていた。
自分の身を求めて群れ集まり、
波の中へと突進してった者達の誰ひとりの名も、イ・ギギは知らなかった。
ただ一人、ナグーのその名を除いては。

辛くも岩への衝突を避けたナグーは、遠回りをする策をとった。
鎌首岩の南側を大きく回り込めば、まだしも潮の流れは遅く感じられた。
進んでいるのかいないのかも判然としない中を、
果てもなく水をかく。ところへ、雲が切れ、月の光がさした。
ナグーの目に、月を背にした真っ黒な鎌首岩の輪郭が飛び込んできた。

岩礁の上にやっとのことで体を引きずり上げたナグーは、周りを見渡した。
一番乗りだ。
心臓が口から飛び出しそうだった。力が抜け、膝がくずれる。
放心状態の中で、ナグーは思った—イ・ギギはわたしのものだ。
たたきつける雨も、むしろ天の施す温かい愛撫のように感ぜられ、
ナグーは手足を伸ばした。
どれくらいの間そうしていたか…
ぜいぜいという荒い息づかいを聞いてナグーは我に返った。
見下ろすと、今しも、鎌首岩をこちらへ上ってくる男がいる。
さきほど、ナグーの頬を撫でまわした男だ。
男は、ナグーの姿を認めると、びくりと一瞬体を震わせ、
そのまま動かなかった。
—わたしが一番乗りだ。
ナグーがそう言って、男の顔をまっすぐに見つめ返した。
—腰抜け。
言葉を重ねて、ナグーが、不敵な笑みを漏らした。
そのとき、月がふたたび雲で翳った。
男は身をおどらせ、ナグーに覆いかぶさった。
ナグーの首に回された手に満身の力が込められ、
その力は、ナグーの抵抗と痙攣が止まるまで緩むことはなかった。

ナグーを殺した若者は、晴れてイ・ギギの婿となった。
婚礼の宴は七日七晩続き、
島の内外から祝いの使いと贈り物がひきもきらず押し寄せた。
花婿は、次々とやってくる使いに覚えたての慇懃な返答をしながら、
しごく上機嫌であった。
だが、イ・ギギの顔を覆う曇りが晴れることは、なかった。

初めて床をともにした夜、
婿は、族長の血族となりえた心の昂まりゆえか、
イ・ギギの体を組み敷きながら、あの嵐の夜のことを話し始めた。
—鎌首岩の上に、狂った女がいた。イ・ギギに執着していた。
あれは、おそかれはやかれ災いをもたらす。
だから、俺が始末した。イ・ギギのためだ。
—一番乗りはナグーだったのか?
男は身を離し、起き上がった。
そして、そうだ、と言うかわりにただ卑猥な笑いを浮かべた。
—ナグーは最後に、なんと言った?
—ナグーといったのか、あの娘は。名乗る暇も与えなかった。
あんな娘に言葉を吐く資格もない。こうした。

そう言って、男は、自らの喉を手の平で絞る仕草をした。
イ・ギギは身をおこし、寝台から出た。
そして、寝室の床に積み上げられた贈り物の山の中から、
隣島の族長がよこした青銅の剣を手にとった。
イ・ギギは飛ぶように男に近づき、
次の瞬間には、男の口に剣が突き込まれていた。
剣の切っ先は男の後頭部から肘の長さほども飛び出、そのまま壁を貫いた。
男は「あ」と声をあげたときそのままの顔で、絶命した。
切り落とされた舌が、勃起したままの陰茎でぴしゃりと跳ね、
床に落ちた。

その後、イ・ギギは、自らの住居にこもり、
島の者たちの前に姿を現わすことはなかった。
身の回りの世話をする使用人が漏らした話によれば、
額、手、足、背中、腹それぞれに、ナグーの名を…
婿選びの夜に命を落とした憐れな娘の名を、
刺青で刻んだということであった。
そしてイ・ギギは、新たな婿を迎えることはもとより、
一生言葉を発することなくその後の人生をおくった。

南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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