直川隆久 2021年6月20日「蕎麦屋炎上」

蕎麦屋炎上

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉

商店街の端っこにある古ぼけた蕎麦屋。
木造の建物は若干傾いでいて、
その外壁を茶色く枯れた蔦がびっしりと覆っている。
店には、八十がらみの頭髪の薄い主人が一人だ。

俺は、ときどきこの蕎麦屋で昼飯を食う。
行きつけの古本屋から近いからだ。
蕎麦は、正直まずい。
いつもべたべたしていて、ざるの上の二、三本を箸でつまめば、
全部の蕎麦が一斉に持ちあがる。
つゆの量もけちくさくて、蕎麦猪口に二分目ほどしか入っていない。

いちど、ある客がそばつゆのお替りを頼んだときだ。
主人は厨房から出もせず、
「あーあ、蛇口ひねりゃつゆが出てくるとでも思ってんのかね。
あがったりだよ。あがったり」
という、聞えよがしの独り言をよこしてきた。
こんなホスピタリティのかけらもない店を、
なぜこの主人は開け続けているのか。

古本屋が言うには
「昔、この商店街が賑わっていたころは、あの店もそこそこうまかった」
のだそうだ。
――「いや、でも、ご多聞に漏れずここいらも人が来ないようになってさ。
起死回生ってことで、商店街の会長がマンションデベロッパーと組んで、
端っこの何軒かの立ち退きをすすめて。
ほかの店は、ま、従ったんだけど、一軒だけゴネたのが、
あの蕎麦屋だったみたいね」
確かに、蕎麦屋の建物は、通りに向かう面以外の三方を
マンションの敷地にぎっちりと囲まれており、
その境界の壁が不自然に高い様子は、
なにやら異様な圧迫感を放っている。

それを知ると、蕎麦屋の主人が店を閉めない理由もわかる気がした。
意地である。いや、意地といえば聞こえはいいが、
「おまえらの思うようにはならない」という攻撃的な反応が
常態と化した、というべきか。
この社会、この世間は、主人の自尊心を、長年かけて、
やすりでこするように毎日削り取っていったのだろう。
その世間に吠えかかるかわりに、
主人は、来る日も来る日も暖簾を掲げ続けているのだ。
さも、不本意な顔で。

コロナ禍となって、しばらくその商店街から足が遠のいていたのだが、
先日久しぶりに古本屋を覗きに行った。
そして、いつものように蕎麦屋の前までやってくると、
何か異様な熱気に店が包まれているのに気づく。
開け放たれた引き戸から中をうかがうと、
どういうものか、店はすし詰めだった。
そして、客は全員真っ赤な顔をして大声で喋りあっている。
あらゆるテーブルの上に、ビール瓶、日本酒の瓶がならび、
転がっていた。
この緊急事態宣言下、酒をだせば、この蕎麦屋でも超満員になる。
酒の力は恐ろしい。
路上には、スーツ姿の市役所職員らしき一群が
メモやらカメラで記録に忙しく、近所の住人であろう人たちが、
マスクの位置を直しながら警戒心もあらわに店の前を通り過ぎていく。
喧騒の奥、見たことのないようなにこやかな顔で、
主人が酒瓶を手に走り回っていた。
俺は、蕎麦屋の中には入らず、もと来た方向へ引き返した。
笑ってはいながらもやけに遠くに焦点のあったような主人の目の残像が、
頭から離れなかった。

一週間後、新聞で、その蕎麦屋が火事となり全焼したというニュースを読んだ。
何者かがガソリンをまいて火を放ったらしい。
俺はもう一度その記事を読み、死傷者はなく…
店の主人の遺体も未だ発見されていない、ということを確認した。

焼けた蕎麦屋に足を運んでみると、炭になった柱の残骸以外、
そこに建物があったことを示すものはほとんど無くなっていた。
足元に、見覚えのある品書きが、踏みしだかれ、
ずぶ濡れになっているのを見つけた。
周囲には焦げ臭い匂いが濃厚に漂っている。
マンションとの境界の壁は、煤で真っ黒に染まっていた。
ガソリンの命を与えられた炎が、
その壁に執拗に噛みつく様子が目に浮かんだ。

誰の犯行かも、主人の行方も、わからない。
だが…俺は、火を放ったのが、
当のその主人であってほしいと考えずにいられなかった。
不本意に続けた店を、本意から焼いたのであって欲しかった。
長年の鬱屈を反動として、
主人の生命が爆発的アクションを見せたのであって欲しかった。

そう思わずにいられなかった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

Tagged: , , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久 2021年5月16日「西へ」

西へ  

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉
  
列車は、みっしりと乗客を詰め込んだ長い体躯を、
舞い散る砂ぼこりをかき分けながらいかにも大儀そうに
西へ西へと押し進めていた。
乗客…とはいっても、我々の扱いは「貨物」だ。
東部地域を脱出しようとなだれをうった人間をさばききるには、
通常の旅客車両では追い付かない。
 
わたしも、その「貨物」の一人だ。
人の群れは車両を埋めていたが、
冷たい鉄の床の上になんとか座る場所を確保することができた。
壁際ではないのでよりかかって眠ることはできないが、
およそ20時間の旅のあいだ立ちっぱなしになることに比べれば、
何ほどのこともない。
周りを見渡す。皆黙りこくっている。
終着地に着きさえすれば清浄な空気を思うさま吸えるのだから、
それまではなるだけ息を殺していよう、ということか。
以前なら、こういうときスマートフォンを触っていない人間を
探すほうが難しかったものだが、
今は誰もが、ただ、ぼんやりと空中を眺めているか、
床の上の油じみを凝視している。

隣国からの度重なるサイバー攻撃で、ネットの機能が全面崩壊し、
デジタル空間のすべての情報の真/偽、新/旧の判別が不可能になった。
われわれは豊かな情報の海から途絶された――いや、むしろ逆か。
情報は無限にあるが、
その一片とて信用するに足るものとして扱うことができない。
燃えさかる太陽の下、海のただなかに放り出され、
はてしない量の水に囲まれているのに
それを一滴も飲むことができない漂流者に、我々は似ていた。

西へ行けば、澄んだ空気と仕事がある――それも単なる推測だった。
それを主張する者たちの唯一の論拠は、
「西へ行って帰って来た者はいない」ということだった。
「あっちがひどい場所なら、戻って来るはずじゃないか」と。

「あなた、ワコーさんじゃないかね」
誰かかがわたしに話しかけた。
顔を上げると、顔を煤だらけにした若い男がこちらを見ている。
わたしはかぶりを振った。
男は、これならどうだ、と言わんばかりに懐から、
何か白い――いや、以前は白かったのだろうが
今やすっかり手垢で薄黒くなった封筒を取り出した。
わたしが怪訝そうにその封筒を見ていると、男は
「ユニタからの手紙だ。あなたがワコーなら、渡したい」
と言う。
「わたしはワコーじゃないし、ユニタという知り合いもいない」と私が答えると
男はさして気落ちした様子もなく「そうかい」とだけ言い、
また手紙を懐にしまった。

わたしは長旅の退屈を紛らわせる気になり、少し男に関わることにした。
「なぜわたしに?ほかにも乗客はいるのに」
「きいてた背格好が似てたんだ。悪かったな」男は長く話すつもりはないようだ。
だが、わたしは食い下がった。
「どんなメッセージを預かってるのかね」
男は、不審げな眼でこちらを見返してきた。お前に何の関わりがある?
わたしは、手持ちの大麻タバコ――合成ものだが――を男に一本差し出す。
「中身は知らない」男はひときわゆっくりと煙を吸い込み、
そしてさらに倍ほどの時間をかけて吐き出した。
「ユニタってのも、通りがかりの町で会った女だ。
西行きの列車に乗るなら届けてくれないかと言われた」
つまり、ユニタという女は、「西へ行く」と言って旅立ったまま
連絡絶えて久しいワコーという人間に手紙を書き、
この若い男に託したということだった。

ユニタとワコー。恋人同士か、あるいは、夫婦か。
どんなのっぴきならない事情があって、親しくもない人間に手紙を――
おそらくある程度の金を払って――託したのか、
わたしには想像がつかなかった。
手紙などという悠長で牧歌的な存在は、明日、今夜、
いや、1分後でさえ何が起こるか見通せないこの世界には、
およそそぐわない物に思える。
だが…これを預けたユニタという人間にとっては、
そうではないということらしい。
時も場所も隔てた二人の人間がつながりあえると信ずる、
その無根拠さそのものが
――深い井戸の中へと落とされた一本の蝋燭のように――
唯一、未来という暗闇に光を投げかけるものだったのだろうか。
さらに言えば…届くかもしれない/あるいは届かぬかもしれない、
と未来を曖昧にし、先伸ばしすることにしか、希望の根拠はないということか。

一方、この若い男も…とわたしは、思った。
その手紙を預かったことで、何か希望の欠片のようなものを、
旅の駄賃とすることができた――だから金を持ち去ることもなく、
渡し主との約束を守り続けているのだ、と。

がく、と衝撃を感じた。
製鉄所で聞いたことがあるような、金属のきしむ音が響いた。
と、つぎの瞬間、体が右に傾き、
目の前の乗客の群れがトランポリンで嬌声をあげる子どもたちのように、
宙を舞い――轟音とともに回転する車両の天井に激しく叩きつけられ、
わたしは意識を失った。

脇腹の激痛で目を覚ます。
暗闇の中で、うめき声があちこちから上がっている。
全身を手で探る。髪は血で濡れていたが、傷は浅そうだった。
肋骨が何本か折れたようだが、命に別状はない。
体を起こす。
そのとき、誰かが、扉を開け、
砂ぼこりを通過した光が車両の中になだれ込んできた。
傍らに、さっきの若い男が横たわっているのが見えた。
首が不自然な方向にねじれ、
半分開いた眼の中で瞳は糊付けしたように動かなかった。
 
わたしは、上下さかさまになった扉から、外へ出る。
黄色い砂漠。焦げ臭い匂いが鼻を襲う。
列車は、レールを大きく逸脱し、車輪を空にむけて――
白い腹を見せて死んでいるトカゲのように――横たわっていた。
そして、呆然とした様子の乗客たちがその周りを取り囲んでいる。
車両の先頭からは、黒煙が遥か上空にまで立ちのぼっていた。
 
攻撃。事故。いくつかの単語が脳裏に浮かぶが、
もはや原因を詮索する気力を残す者はいなかった。
この状態になったのは、この列車だけなのか。
東地域も、西も、同じ惨状なのか。救助は来るのか、来ないのか。
何も、わからない。
だが、このあたりの夜の寒さは、人の命を奪う。
たちどまっている時間はなさそうだった。
 
わたしは、もと来た車両に取って返し、先程の男のところへ戻った。
上着の内ポケットをまさぐる。手紙はそこにあった。
封筒を手にしてみると、想像していたよりも分厚く、そして重い。
男の体温もまだいくばくか残っていた。
「ユニタ。ワコー」と口の中で繰り返した後、
「あんたの名前もきいておけばよかった。すまない」そう男に声をかけ、
ポケットへ手紙を押し込み、外へ出た。
 
生き残った乗客たちは、線路をたどり、歩き始めていた。
わたしは、傍らで足をひきずる老人に肩を貸し、
西へと向かう一群の末尾に加わった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

Tagged: , , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久 2021年4月18日「春の悦楽」

春の悦楽

   ストーリー 直川隆久
     出演 遠藤守哉

松枝(まつがえ)さん、さきほどからくしゃみを立て続けにされてますが…
あ、花粉症。
去年から、突然?
ああ、そういうこと、あるらしいですな。
高齢になってからの突然の発症、増えているそうですよ。
目がかゆい?
そうでしょうなあ。

いや、じつはかく申す私も、花粉症もちでして。
きょうも、じつは…
じ…
…ふぁああっくしょーん。ひぇっくしょーん。
かなり、来てますな。
(鼻をすする音)
あー。
鼻がもう、むずむずむずむずと…

いや、私の場合は長年でして。
毎年、この季節になるのが憂鬱でした。

「でした」…と申しますのはね。
数年前、ある手術をうけまして。
ええ、外科手術なんですれども、それを受けましてから、花粉の季節が、むしろ待ち遠しくなり…なり…
ふぁああっくしょーん。
ひぇっくしょーん。
…なりました。

え、どんな手術か?
はいはい、これがですな…ま、説明するよりご覧いただきましょうか。
では、ちょっと、鼻をつまみまして、こう、引っ張りますと…
(鼻をつまむ)
よ、と。

…松枝さん、松枝さん。
いやいや、すみません。驚かせてしまった。

そうですな、目の前の人間がいきなり鼻をはずしてしまったら、そりゃびっくりなさる。
まあ、顔の真ん中に、こんなくぼみをつくった状態でお話するのは
いささかお恥ずかしいですが。

いや、最近の医療技術の進歩というのは目覚ましいもので。
こんなふうに、鼻の取り外しができるようになったのです。
え?
いや、これは、正真正銘わたしの自前の鼻でして。
プラスチックとかそういうのじゃありません。

ちゃんと神経も通っていましてな。
しかも、ブルートゥースかなんかが埋め込まれてまして。
手の上の鼻をこう、触ったり、つまんだりしても…
ちゃんと、鼻をつままれた感覚がいたします。

いや、なんでこんな手術をしたのかと申しますとね。
長年来、夢想しておったのです。
花粉症で、むずむずするたびに。

鼻を、内側の肉ごとごぼっと取り出して、つめたーい水でじゃぶじゃぶじゃぶっと洗う…
そんなことができたらどれだけ気持ちが良いものかと。

そんな戯言を、ある日、病院を経営しております高校時代の同窓生に話してみたところ、
なんと、できるかもしれないと言うんですな。
で、早速医者を紹介してもらいまして。
こういう鼻になったといういき…いきさ…
ふぁああっくしょーん。
ひぇっくしょーん。
(鼻をすする音)
いきさつでして。
ああ、むずむずしますなあ。
でも、こういうときなのです。
むずむずが猛烈になったそのときこそ、格好のタイミングでして。
こういうときにですな。
こちらに、…冷水をいれた水筒がありますので、
これを…開けて…と…
この鼻の、内側をですな、この、冷たい水でもって…
じゃばじゃばじゃば…

あーーー!

じゃばじゃばじゃばじゃば…

あーーーー!

清冽!
にして、爽快!

いや、この歳になって、こんな楽しみが新たにできるとは。
長生きはしてみるものです。
ではちょっと失礼して、この顔の真ん中のくぼみも洗わせていただきましょう。

上を向きまして、こちらのくぼみに、先ほどの冷水を…

じょぼじょぼじょぼ…

あー、よい気持ちだ。
本当に、よい気持ちだ。

ちゃぽちゃぽ。ちゃぽ。…とゆすいで、
ばしゃ。と捨てる。

仕上げに鼻のほうを、も一度やりまして、元に戻すことにいたしましょう。

じゃばじゃばじゃば…

ふひー…む。(鼻を戻す)

…清涼なること、薫風深山をわたるに似たり…
いやあ、お見苦しいところを。
しかし、松枝さんももし花粉症でお悩みなら、検討なさるのも一興かと思いますな。
わたしが手術を受けた頃よりは、さらに技術も進歩しているはずですから…

え。
なんです?
ええ。
後頭部を…
はたけ?
…はたく?とは…あ、たたくと同じ。え?
…平手で?
たたけとおっしゃったのですか?
松枝さんの、後頭部を?
わたしがですか?
いや、そんなこと、まさかでき…

はい。
わかりました。
ま、そこまでおっしゃるなら……

えい。

…え、もうちょっと強く?
いや、それはさすがにでき…

わかりました。
ま、そこまでおっしゃるなら……

いきますぞ。
ええい!

わ!
松枝さん!
松枝さん!

…目!
目玉が飛び出した!
目…

え、なんですと?
去年、手術を受けられた?
「花粉症で目がかゆくなったときに、目玉をとりだして冷水でじゃぶじゃぶ洗えたらどんなに気持ちがよいかと考えて」…?

なんとそうでしたか。
はっはっはっはっは。
まあ、松枝さんもお人の悪い。
はあっはっはっはっは。

では、こちらの冷水で。
いや、これもね、熊本から取り寄せておりますミネラルウォーターなので、ものは悪くありません。
じゃぶじゃぶじゃぶっと、いきましょう。

よろしいかな。
じゃぶじゃぶじゃぶ…

ああ、これは、気持ちよさそうだ…
本当に気持ちよさそうだ…

じゃぶじゃぶじゃぶ…

ううむ…松枝さん。
どちらで手術受けられたか、私にも教えていただけませんでしょうかな?



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

中山佐知子 2021年3月28日「歩幅」

歩幅

   ストーリー 中山佐知子
      出演 遠藤守哉

歩幅が狭くなった。

理由はわかるような気がする。
家にいる時間が長過ぎるのだ。
家の中を大きな歩幅で歩いていると、敷居を踏む、
ドアノブに上着をひっかける、
トイレへ行こうとしてトイレのドアを行き過ぎる。
挙げ句の果てに足音がうるさいとも言われる。
そんなことを繰り返すうちに
歩幅が自宅サイズになってしまったのだろう。

そういえば、ここしばらく一生懸命に歩くということがない。
仕事はほとんど自宅のパソコンでことが済むし、
歩くといえばせいぜい買い物か散歩だ。
道端に咲いているタンポポ や
もうすぐ咲きそうな母子草を眺めながら
だらだらと歩くのがいけないのだろうか。
人が二本の足で歩くようになって
もう700万年にもなるというのに、
たった一年で歩く機能が退化するとは情けない。
なんとかしなければ。
それにはまず「歩く」ことへの意識を高めることが大事だ。

まず、家の廊下を歩いてみた。
重心は完全に後ろ足で、体重の乗らない足が前に出ている。
足音を立てないために着地は足の裏全体で行い、
その足が完全に着地してから後ろ足が床を離れ、
体重が前に移動する。
静かだし、安定感は抜群だが、
歩幅は狭くなるし、あまり早くは歩けない。
歩幅を広げようとちょっとだけ腰を落としてみると
子供の頃にやった「抜き足さし足」にそっくりだった。
家の中はもしかしたら、
歩くのに適していないのかもしれない。

次に外に出て歩いた。
会社へ行くときのように、前を見て真剣に歩いた。
後ろ足が地面を蹴り、前に出した足は体重を乗せて着地する。
体重を受け止めるのはカカトという小さな面積だ。
その衝撃がなかなか手強い。
床ならさぞ大きな音を立てるだろう。
足の裏は着地と同時に次の動きに入るので安定が悪い。
重心が足の裏に戻ってこない。
意識したことがなかったが、二足歩行はわりと危険だ。
そう考えると、
人が歩いているのは偉大なことのような気がした。

雪国では滑らないように膝を曲げ、
山道は小さい歩幅で。
田んぼでは足の裏全体を使って、人は歩く。
たくさん歩きかたを持っている人は
どんな場所でも自由自在に対処できる。

歩くことは生きること。
ふとそんな気がした。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久 2021年3月7日「旅人たち」

旅人たち

   ストーリー 直川隆久
     出演 遠藤守哉

参った。
給油スタンドを出て300㎞のところでエンジンが止まってしまった。
昼までには次の町に着きたかったが。
イグニションキーを何度回しても、
ぎよぎよぎよといううめき声があがるばかりだ。

クルマを降りる。
先を見やれば、道は、地平線へとひたすらまっすぐに伸びている。
今来た方向を見ても、道は、地平線へとまっすぐに伸びている。
両側には、赤茶色の土の平原。
ところどころ黄色い枯草が風に揺れている以外には、生き物の気配はない。
太陽は分厚い灰色の雲のむこう側に隠れたまま。
前を見ても、後ろを見ても、まったく同じ光景。
傍らに停まったクルマがもしなかったら、
自分がどっちから来たのかさえわからなくなりそうだ。

地平線に目をこらす。
動くものはない。
あきらめて、クルマの中に戻る。
シートに身を沈め、前方、空と地表の接線にひたすら視線をあわせる。
どんなクルマが来ても、いち早く飛び出て、救援を求めなければいけない。
見る。
見る。

30分もそうしていたろうか。
遥か彼方、路上に、何か黒い点が現れた。
傍を走り去ってからでは遅い。おれは、クルマを飛び出る。

だが…
その黒い点は、なかなか大きさを増さない。
クルマじゃないのか?
動物だろうか。
ひょっとして、熊とかだったりしたら、危ない。
20分ほどじっと見ていると、形がある程度判別できるようになった。

あれは…リヤカーだ。
屋台のリヤカーだ。

屋台が、地平線の彼方から、こちらに向かってきている。
ラーメン屋?
この平原に?
ゆっくりゆっくりと、近づいてくる。
ぎっちらこ、ぎっちらこ、という車軸のきしみが、
かすかに風に乗って聞こえてくる。
その音は、一定のリズムを刻み、速くも遅くもならない。
目を凝らすと、腰をほぼ二つ折りにしながら、
屋台を引っ張っている人間が見えた。
ぎっちらこ、ぎっちらこ。
ハンドルに寄り掛かるようにしながら進んでくる。
着ているのは割烹着らしい。
婆さんのようだ。

さらに待つこと、1時間。
ぎっちらこ、ぎっちらこ、と屋台が傍らまでやってきた。
だが、近づいても、屋台は止まる様子はない。
行き過ぎかけるリアカーに慌てて声をかける。
「あの。あのう」
ぎちら、と音をたてて屋台が止まった。
「へえ」婆さんは、腰を二つ折にしたまま応える。

「おばあさん、これはなんの屋台ですか」
「くみ上げ湯葉どす」
「湯葉」
「へえ、お嫌いどすか」
「…いや…。嫌い、じゃないけれどもね。嫌いじゃないけれども」
この荒野の真ん中で、エンストのクルマを抱えて
露頭に迷っているときに出会ってうれしいものではない。

見ると、屋台には、四角いステンレスの鍋が据え付けられてあり、
そこには白い液体がなみなみと湛えられ、白い湯気を上げている。
豆乳だろう。
「お召し上がりになられおすか」
と婆さんが訊く。
腹はたしかにすいているが、しかし、いま食べたいものは湯葉ではない。
口ごもっていると、婆さんがやおら腰を伸ばす。
白粉を塗りたくった顔が俺の胸元の高さまで持ちあがった。
婆さんは俺の返答を待つつもりもない様子で、長い竹箸を手にとると、
釜の中の豆乳の表面をなぜる。
と、その端に、白く薄い膜がまとまわりついた。
婆さんは、それを小皿に乗せ、あさつきネギを散らし、
ポン酢らしきものを振りかけて、こちらによこした。
食べる。
湯気のたった湯葉はたしかに、できたてで、うまい。
大豆の風味が生きている。ポン酢も、昆布だしがきいて上品だ。
…しかし、やはり、これは今俺に必要なものではない。

「お婆さん、いま、エンストで困ってるんです。
こちらを通りがかりそうなクルマは、ありませんでしたかね」
「へえ、うち、ようわからしまへん」
「わからないかね」
「860円頂戴します」
婆さんが、また、深々と体を二つに折って頭を下げる。
これ以上訊いても無駄なようだ。
860円。一皿の湯葉にしては、高い。
だが、地平線の彼方から屋台を引いてやってきた、
その労賃を鑑みれば安いような気もする。
「よく売れるものですか。路上でも」
と、金を渡しながら愛想がわりに尋ねると、婆さんは受け取りながら
「売れるわけおへんがな。湯葉どっせ」と吐き捨てるように言った。
婆さんは、リヤカーのハンドルに手をかけると、
またぎっちらこ、ぎっちらこ、と屋台を引き始めた。

ゆっくり、ゆっくりと、その後ろ姿は来たときと同じ時間をかけて小さくなり、
やがて、地平線の上の黒い点となり、ついには、見えなくなった。

その姿を見送った俺の頭に、ユーバー・イーツ、という言葉が浮かぶ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

直川隆久 2021年2月7日「寒気」

寒気(さむけ)

   ストーリー 直川隆久
     出演 遠藤守哉

月灯りの下、森の中を4時間ばかりも歩き詰めに歩いた頃だろうか。
行く手に焚火らしい光を見つけた私は、やれ嬉しや、と
危うく大声をあげるところだった。
「西の森に入るのは昼より前に。狼と夜を迎えたくなければ」
――宿屋の主人の忠告をきかずに、市場で古書を漁ったのが災いし、
目指す城下町へ抜ける前に陽が沈んでしまった。

冬間近い夜の空気に、私の体温は容赦なく奪われていた。

私が声をかけると、火の傍に座っていた男は、びくりとし、
かなりの時間黙っていたが、しばらくするとうなずくような様子を見せた。
見ると男は頭から毛布―といっても、
ぼろぎれをつなぎあわせたようなものだったが

―をかぶり、体を小刻みに震わせている。
熱病にでも罹っているのか、と私はひるんだが、
火の温かさの魅力には抗いがたかった。
私は努めて快活に、同じ旅行者を見つけた喜びを伝えたが、
男の表情は毛布のせいで読み取れない。
一言も口をきかず、ときおり手を炎にかざし、擦り合わせているのみだった。

男の手の奇妙な質感に目がとまった。
炎が投げる光の前で男の手が動くと、
青白いその手が一瞬黒く染まったかのような
色になり、かと思うとそれが退いていくのだ。
小刻みに震える動きとあいまって、何やら男の手の肌の上を、
黒い波が這っているようにも見える。
――…は、本当に堪える。
男の声で私は、我に帰った。声にまじった、何かひゅうひゅうと
空気が漏れるような音のせいで男の声が聞き取りにくい。
――失礼。今、なんとおっしゃいましたか。
男は、しばらく息を整えている様子だった。
そして、もう一度がくがくと体を震わせた。
――この辺の寒さは、堪える。

男が言葉の通じる相手だったことへの安心と炎のあたたかさから、
私は急に饒舌になり、夜の道中で望外の焚火を見つけた喜びを語り、
この旅の目的――私が私財を投じて研究している錬金術に関する文献が、
めざす城下町にあるらしいこと――を語ってきかせた。
すると不意に男が、ではお前は、呪いを使うのか。と私に問うた。
私は、いや、そうではないと答えた。呪術と、連金術は別のものである。
錬金術は、物質の持つ性質を理解し操作することであり、
その術は精霊や土俗の神といったものによって媒介されるものではないのだ、
とも。
では、呪いがあることは信じるか、とさらに男は問うた。
私は、信じない、と答えた。

しばらくの沈黙ののち男は話柄を転じ、ぽつりぽつりと身の上話を語り始めた。
農村で食い詰め、昨年の冬、宿場街に仕事を求めて出てきたが、
ろくな金にはならず、
寝床も満足に確保できなかったという。

一枚の毛布さえ買う金がなく、
なるべく風の通らない場所を夜毎探して体を丸めていた、
と男は一言一言、ゆっくりと、苦いものを吐き出すように話した。
私は、ポケットの中に隠し持っていた革袋の葡萄酒を男に勧めた。
だが、男はかぶりを振って断った。

ある晩男は、寒さがどうにも耐えられなくなり、毛布がほしさに、
宿屋の裏庭の納屋を借りて住む貧しい洗濯女の家に忍び込んだのだと語った。
寝床を漁っていたときに、女が帰ってきた。女が騒ぎ出したので、
口を封じるために首に手をかけた。というところまで語ると、
男は、いったん言葉を切った。断末魔で男をにらむ女の口が、
異教の神の名前を唱えた、と。

そして、歯をむいたその顔が、まるで犬のようだったと、
何やら可笑しそうな口調で言った。

男は、話しすぎたせいか疲れ切った様子で、しばらく肩を上下させた。
ひゅうひゅうという音が一段と高くなった。
毛布の奥から、男が私の表情をうかがっているのが見えた。
無言の私に、再び男が問うた。呪いというものを信じるか、と。
男は、不意に、頭の毛布をまくった。あらわになったその顔の肌は、
錐の先で穿ったほどのうつろでびっしりと覆われていた。
その数は、何千、いや何万だろうか。
光の向きの加減ではその穴がすべて漆黒の点となり、
男の肌を覆うのだった。
そして、肉を穿った穴の奥まで光が届けば、
その底に白い骨と血管が寒々と見えた。
私は、首筋が粟立つのを感じた。
女が唱えたのは、神の名ではなかったのだろう。
それはおそらく――

おお、寒い。畜生。体の芯まで冷え切る――
そう言って男は再び毛布の中へ全身をひっこめ、力のない笑い声をあげたが、
その声は、空気の漏れるしゅうという音に飲み込まれた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  1 Comment ページトップへ