![120527-01](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-01.jpg)
最期にこう言った 大宅壮一
テレビばかり見て、
自分の考えをなくしていく国民たち。
それを男は、「一億総白痴化」と指摘した。
地方の個性のない国立大学が
むやみに増えていく。
それを男は、「駅弁大学」と風刺した。
歳を重ねれば生き方が顔に表れる。
それを男は、「男の顔は履歴書である」と書いた。
男は、社会評論家、大宅壮一
世の中を斬る新語をつぎつぎに生み、
毒舌でならした大宅が死ぬ直前、
妻に最期にこう言った。
おい、だっこ。
![120527-02](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-02.jpg)
最期にこう言った マーク・トウェイン
『トム・ソーヤの冒険』が有名な
アメリカの作家、マーク・トウェイン
死ぬ1年前に彼は、
私は1835年ハレー彗星とともに地球にやってきた。
来年はまた彗星が近づく。
私は彗星と一緒に去っていくだろう。
と周囲に語っていた。
はたして来年が来た。
ハレー彗星が75年ぶりにやってきた日の翌日、
彼は突如狭心症の発作を起こし、絶命した。
最期に、こう言った。
じゃあまた、
いずれあの世で会えるんだから。
![120527-03](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-03.jpg)
最期にこう言った 一休
室町時代の禅僧、一休さんこと、
一休宗純は自由を貫いた。
禁じられていた
酒を呑み、
肉を食べ、
女と寝た。
戒律、形式に縛られない人間的な禅。
権威を否定し、悟りさえも否定し、
生涯をほぼ定住することなく、
各地を巡り、相手の身分の差別なく平等に
布教していった。
そんな一休に民衆は共感し、
生き仏とあがめられた。
応仁の乱後、
天皇の勅命により京都大徳寺に落ち着くまで
80歳まで全国を歩いた。
87歳、高熱が襲う。
ぎやく、といわれたマラリアにかかり、
とうとう臨終の時。
座ったままの姿で、眠るように死ぬ際、
一休は人間臭く、最期にこう言った。
死にとうない。
![120527-04](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-04.jpg)
最期にこう言った 葛飾北斎
生涯に発表した作品数 3万点以上
弟子・孫弟子の数 200人
絵師の名前を改号すること 30回
引っ越しすること 90回
葛飾北斎の熱量は異常である。
熱しられた意志が絵となり、世界に伝わり、
北斎はゴッホやドガ、マネ、セザンヌが
こぞって憧れる存在となった。
向上心に燃える執念は、
自己評価の厳しさになった。
希代の絵師は88歳の時、
死の床で、まだまだまだまだという思いで、
最期にこう言った。
あと10年生きられたら
本当の絵師になれるのに。
いや5年でいい。
![120527-05](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-05.jpg)
最期にこう言った 樋口一葉
五千円札の中に、若い女がいる。
貧困のまま生涯を終えた樋口一葉である。
お金がない自分が、
お金になっている。
なんて、思いもしなかったろう。
晩年というには早すぎる22歳~23歳にかけて、
『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』といった
優れた作品群を発表、絶賛された。
その期間は「奇跡の14カ月」と呼ばれる。
一葉は近代文学史における奇跡だったのだ。
そこにはお金にかえられない意味を持つ、命があった。
いったい一葉は何になっていただろう。
どこまで大きくなれただろう。
しかし、絶望的に、結核が一葉を襲う。
24歳の11月、見舞いに来た恩師が
冬休みにまた上京しますから、
そのときまた参りましょう。
と言うと、
一葉は苦しそうな声で切れ切れに、こう言った。
その時分には、私は何になっていましょう。
石にでもなっていましょうか。
![120527-06](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-06.jpg)
最期にこう言った ヴィクトル・ユゴー
フランスの詩人であり、
小説『レ・ミゼラブル』で有名な
ヴィクトル・ユゴー
80歳で亡くなる時の様子は
こう伝えられている。
ベッドで横たわるユゴーが
付添人に訊ねる。
きみ、死ぬのはつらいね。
死んだりなさるものですか。
いや、死ぬね。
そして、しばらくすると
ここで夜と昼が戦っている。
と、つぶやいた。
200年後の今日まで
燦然と光り輝いている作品を書いた一人の老人は、
一行の詩のように、最期にこう言った。
黒い光が見える。
![120527-07](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-07.jpg)
最期にこう言った 徳川夢声
徳川夢声は、元祖マルチタレントである。
大正時代、無声映画の弁士として人気者となった。
40歳で妻を亡くしたが、
縁あって親友の未亡人となっていた女性と
おたがい再婚。
戦後も漫談家、俳優として
舞台、映画、ラジオ、テレビなどジャンルを
軽くとびこえて活躍した。
77歳で、病に倒れた時。
妻に爪を切ってもらうと、夢声がその手をじっと眺めた。
妻は、病人が自分の手を見つめるようになると
死が間近という話を思い出し、
疲れますよ、と、夢声の手を下ろさせた。
その3日後、夢声は亡くなった。
妻に、最期にこう言った。
おい、いい夫婦だったなあ。
![120527-08](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2012/05/120527-08.jpg)
最期にこう言った 小津安二郎
映画監督、小津安二郎。
12月12日生まれ。
12月12日死去。
還暦60歳の誕生日が命日となった。
鎌倉の円覚寺の墓にはただ一字
「無」と刻まれている。
がんセンターに入院し、
手術後、一度退院したが、
亡くなる2カ月前に再入院。
何も悪いことをした覚えはないのに、
どうしてこんな病気にかかったんだろう。
ともらしたという。
突然ともいえる自分の死に、
どこまで「無」と意識できたのだろうか。
最期にこう言った。
右足がどっかに行っちゃったのかね。
ベッドの下に落っこちているんじゃないかね。