2012 年 9 月 30 日 のアーカイブ

名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルートヴィヒ・グットマン①

戦争は、殺す。
そして、障害を負わせる。

第二次大戦中、爆撃で脊髄を損傷し、
下半身不随になった兵士たち。

彼らが次々と運び込まれる病院が、
ロンドン郊外にあった。

ストーク・マンデビル病院
国立脊髄損傷センター。

責任者は、ナチスの迫害から逃れ、亡命した医師、
ルートヴィヒ・グットマン。

ベッドで身動きとれないまま床ずれになる
若者たちの姿勢を変える作業を夜通ししながら、
グットマンは一つの信念をもつ。

 やがて戦争は終わる。
 そのとき、この若者たちは自分で生活を送れるように
 なっていなければいけない。

その信念によって、グッドマンは
やがてパラリンピックの父となっていく。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン②

第二次大戦のせいで下半身不随となり、
入院してくるイギリス人兵士たち。
人生に自信を失っていた。

医師ルードヴィヒ・グットマンは、
病室に女性ラインダンサーを招待し、
若者たちを奮い立たせた。

 失ったものを数えるな。
 残されたものを最大限に活かせ。

そうグットマンは訴えつづけた。
若者たちは車椅子に乗り、
病院の庭に出て、遊び始める。

ポロ、バスケットボール、やり投げ、アーチェリー。

車椅子でスポーツに打ち込むことで
身体的に、精神的にだんだんと自信がついていった。

スポーツこそ、最適なリハビリテーション。
そう考えたグットマンは、
入院患者が参加するスポーツ競技会を始める。

これがパラリンピックの起源となる。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン③

64年前も、ロンドンオリンピックだった。

1948年。つい3年前までの第二次大戦で国のために戦い、
下半身不随となった若い障害者たちに、
イギリス社会は目を閉ざし、
華やかなオリンピックのほうばかり見ようとしていた。

若者たちの医師であった
ルードヴィヒ・グットマンは真剣に企んでいた。

 世界が戦後初のオリンピックに沸く。
 車椅子の若者にも参加する資格がある。

そう考え、自分たちのストーク・マンデヒル病院で
車椅子の患者による競技会を開催した。

それはまさしく1948年7月28日。
ロンドンオリンピック開会式と同じ日だった。

参加選手はわずか16人。
それでも、その後も毎年開催された。

4年後の1952年。オランダを加えた国際大会となった。

12年後の1960年。オリンピックが開催されたローマで、
23カ国400人が参加。
これが実質、第1回パラリンピックとなった。

64年後の2012年。
発祥の地に戻ってきたロンドンパラリンピック。
史上最大の164の国と地域、4280人の選手が参加した。

すでに他界していたパラリンピックの父、
グットマン医師はいなかった。

けれども、16人で始まったパラリンピックのふるさと、
ストーク・マンデヒル・スタジアムには
グットマン医師の娘エバさんが姿があった。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン④

障害者のスポーツ競技会を提唱し、
パラリンピックの父といわれる
ルードヴィヒ・グットマン医師。

グットマン医師が生前、
戦争や交通事故で下半身不随になった
患者たちに向かってよく言った言葉。

 もう一度、税金を納めるようになれ。

そう口癖のように励ました。

その励ましのなかに、
障害者が普通に暮らしていく社会を実現させたい
というグットマン医師の強い情熱があふれる。

パラリンピックが発祥した
ストーク・マンデヒル病院の隣にあるスポーツ施設では
障害がある人も、ない人も
一緒にスポーツを楽しんでいる。

子どもたちが自然に、
車椅子と過ごして育っている。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 伊藤智也選手

34歳の時、突然、原因不明の病に襲われた。
多発性硬化症。
1万人に1人という難病。

医師から「余命3年」と宣告された。
これから、体の自由が効かなくなる。

注文した車椅子を間違えてしまい、
ある日届いたのは、競技用の車椅子。

まったくの偶然だった。
いや、運命だったのか。

リハビリのつもりが、競技に目覚め、
どんどん夢中になっていった。

ロンドンパラリンピック。
陸上男子で伊藤智也選手は
3個の銀メダルを見事獲得した。

400mレース後には
明るく素直な言葉が弾んだ。

 最高やね!最高にストレートにうれしいね! 
 男、伊藤智也は絶好調です。

最後の200mレース後には、こう言った。

 悔しさはないね。もうほんと精いっぱい走ったし、
 僕は僕なりのオンリーワンなパラリンピックだった。

それは現役を締めくくる、
引退の弁でもあった。

3年の命、といわれた日から15年。
全力で走りきった、最高の49歳。

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名雪祐平 12年9月30日放送


Karva Javi
パラリンピックの父、子どもたち オスカー・ピストリウス選手

南アフリカの男子陸上選手、
オスカー・ピストリウス

ロンドン大会で
両脚義足の陸上選手では初めて
オリンピック、パラリンピック出場を果たした。

先天性の障害をもったこと。
義足の優位性への批判。
出場ルール、標準記録との闘い。

これまで、
いくつもの乗り越えなければならない壁が
ピストリウスの前に立ちふさがってきた。

それでも、彼は言う。

 敗者とは一番最後にゴールする人のことではなく、
 最初から挑戦することそのものを
 諦めてしまう人のことだ。

ピストリウスがいた夏、
障害がある者も、
障害がない者も、
分け隔てなく競う、その歴史的地点に
わたしたちは立ったのかもしれない。

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名雪祐平 12年9月30日放送


robbiesaurus
パラリンピックの父、子 国枝慎吾選手

史上最高の男子テニスプレーヤーともいわれる
ロジャー・フェデラーが質問を受けた。

日本男子はどうやったら強くなるか?

フェデラーはこたえた。

日本にはクニエダがいるじゃないか。

国枝慎吾選手。
車いすテニスプレーヤー。

世界メジャー大会シングルス24勝、ダブルス17勝の歴代最多記録。
わずか1年間でキャリア・グランドスラム達成。
シングルス108連勝。

そして、ロンドンパラリンピック

国枝選手は、1セットも奪われることなく
見事金メダルに輝き、
北京に続き、男子シングルスで連続王者となった。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 日本人命名者

オリンピックのあとの
パラリンピック。

この、パラリンピック
という名前は、日本人が名付け親。

1964年、東京オリンピックの一カ月後、
車椅子の選手たちによる国際大会が
同じ東京で開催された。

この大会に愛称をつけることになった。

車椅子の下半身麻痺者のことを
パラプイレジア(paraplegia)という。
そのパラと、オリンピックを合わせて
パラリンピックと命名された。

ただ、名付け親の日本人が
だれなのかは、定かでないらしい。

現在では、車椅子以外の
多くの障害者が参加するようになり、
「もう1つのオリンピック」という意味から
パラレル(parallel)との合成語で
パラリンピックと呼ばれる。

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