佐倉康彦・片岡サチ 2008年作品「鏡」



   鏡

                
ストーリー さくらやすひこ
出演 片岡サチ
             
試着室のドアをそっと閉める。
店の女に勧められるままに選んだ
真っ白なマキシ丈の
ワンピースを手にしたまま、
わたしはゆっくり目を閉じる。
姿見とわたしの距離は、
どのくらいだろう。
        
わたしは、
目を閉じたまま
真っ新な服に素早く袖を通す。
そして、
時間が過ぎるのをただ待つ。
わたしがこれまで生きてきた
気の遠くなるようなときに比べれば、
一瞬にも満たない時間。
         
新しい服を纏った自分を
鏡に映して試し替えし
吟味する女を
つかの間、やり過ごす。
わたしの前には
おそらくわたしの背丈よりも
高くて大きな鏡があるはずだ。
その鏡が微かに軋む。
小さな悲鳴のような振動が
目を閉じたままの私の
耳朶(みみたぶ)を震わせる。
閉店間際に飛び込んだ一見の客に
少しだけ苛ついている
店の女のダルな声が、
鏡の悲鳴に重なる。
「いかかですかぁ?」

ドア越しに聞こえる女の声を遮り
わたしはドアを開け、
そっと告げる。
「これ、いただきます」
惚けたようにわたしを見つめる
店の女に
値札の倍の金を払い
さっきまで着ていた服の処理を頼む。
店の入口でわたしを待つ男は、
ウィンドウに映る己の姿を
眺めながら
ひとり悦に浸っている。
          
「知り合いの店に
いいワインが入ったらしいんだよ」

ショウウィンドウに映るのは、
脂下がった男の姿だけ。
男の前ではにかみ俯く
白いワンピース姿の女はいないはずだ。
タクシーで移動の途上、
向かうはずの場所が
「知り合いの店」から
完成したばかりの外資系のホテルへと
すり替わる。
在らぬ方向を見つめたまま
何食わぬ顔で男は行き先を変えた。

飲み過ぎたのか
男は、わたしの足下に仰臥している。
はだけた胸元から
透けるような白い肌が見え隠れする。
男の言う「いいワイン」のせいだろう。

わたしの真っ白なワンピースの胸元には
小さな赤いシミが出来た。
これもきっと
「いいワイン」のせいだ。

わたしの口元から零れて落ちた
その小さな雫が、
わたしの赤い乾きを癒やす。

わたしの強さと弱さは、
抗(あらが)えない掟に従っているから。
男の心が傷付き、
そしてその躯から血が流れれば
わたしの心だって一緒に血を流している。
男の暖かい命で
わたしは生き続ける。

抜かれることのなかったワインは、
テーブルの下に
男と並んで転がっている。

わたしはワインと男を
リビングに残したまま
バスルームに向かう。
そして、
鏡には映らないわたしと対峙する。
誰も映ってはいない鏡を凝視し続ける。

鏡が、
また、小さな悲鳴を上げはじめた。

出演者情報:片岡サチ 03-5423-5904 シスカンパニー

shoji.jpg  動画制作:庄司輝秋

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倉成英俊・森田成一 2007年作品「秋について知っていること」



秋について知っていること

                    
ストーリー 倉成英俊
出演 森田成一

かなり南の方の国に
赴任することになったお父さんにくっついてきて
ちょうど1年が経ったころ、
スグルがつぶやいた。

「うわあ、もう秋かあ。」

といっても
涼しくなってきたからじゃなくて、
トーニャが8月のカレンダーを破って捨てたから、
なんだけれど。

そのつぶやきは、トーニャを振り向かせて、
当然こう質問させた。

「秋って?」

秋のある国から、秋のない国に来たスグルは、
まず、秋を知らない人がいることにびっくりした。
けれども、トーニャがあんまりキラキラした目で
せまるもんだから、
それに答えなきゃと思った。

ちょっと考えて、まずは、
「夏と冬の間だよ。」
とこたえた。

トーニャは冬のことは、見たことがあった。
流氷の上の北極グマの写真。

でも、太陽が特産品、みたいなこの島と
グレーの氷の上のシロクマを足して頭の中で2で割るのは
算数の宿題よりも難しかった。

トーニャのとてつもなく難しい顔を見て
スグルはこたえを変えた。

「涼しくなってきて、虫が鳴くんだ。」と。

これならどうだと、自慢げに言ったのもつかの間、
トーニャは今度はうたがわしい顔をした。
この国で虫っていうと
まずみんなが思うのはイモムシで。
あの虫が鳴くなんて
こいつはやっぱりおかしい国からきたんだと思ったから。

そんな顔で見つめられたものだから
すっかりあわててしまって
つぎにスグルはもう
最初に頭にうかんだことをそのまま早口で言った。

「クリスマスに向けて彼氏のいない女の子が
 彼氏をゲットしようと焦り始めるんだ。」

ドラマで見たまんまの受け売りは、
クリスマスプレゼントすら知らない少年の頭の中を
さらにパニックにした。

トーニャはもうスグルの答えにたよるのをやめて、
聞きたいことを聞くことにした。

秋はなにいろか。
秋はいいにおいがするか。
秋は男か女か、大きいか小さいか
食べられるのか、どこからくるのか、かっこいいか。
などなど。

むしろ哲学的になってしまったこんな質問に
スグルが答えられるわけもなく、
ついには、うーん、とうなるしかできなくなってしまった。

ただ、
最後にひとつ、
秋についてわかっていることを言った。

「来年の秋には日本に帰んなきゃ。」

そしたらトーニャは、
自分がきいた質問のことなんかわすれて
みるみるうちに切ない顔になった。
彼が短い人生のなかでしたことのある
一番さみしい顔に。

みんなとおなじみたいに、
ずっと一緒にいられると思ってたのに。

「あ、そんな感じ。秋って、そんな感じなんだよ。」

と、スグルは言おうと思ったけど
これ以上秋のはなしをつづけたら
泣いてしまうと思ったから
なにも言うのはやめて
トーニャと同じく
生まれてこのかた秋を知らない、海の方をながめた。

*出演者情報 森田成一 03-3479-1791青二プロダクション

Photo by (c)Tomo.Yun

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古川裕也・大川泰樹 2011年作品「彼は彼女を。彼女は彼を。」


彼は彼女を。彼女は彼を。

         ストーリー 古川裕也
            出演 大川泰樹

彼女は、今、ジョナサン・スイフト精神病院にいる。
3歳の頃から集めている、飛行機雲のコレクションの展示会を
ジョナサン・スイフト市民ホールで催したいと、
ジョナサン・スイフト市役所に申しこんだためだ。
彼女によれば、飛行機雲が現れ、形が完成した瞬間にライフルで撃ち落とす。
地上に落ちてきた飛行機雲をその場で血抜きして冷凍保存。
これがいちばんきれいに雲をコレクションする方法だという。
そうして集めた飛行機雲は全部で868個。
いちばん古いのが、ハノイで採集された全長50メートルにもおよぶ
あかね色の飛行機雲。
いちばん新しいのが、ナパヴァレーで採集された渦巻き型の飛行機雲だ。

残念ながら、この話を信じた市役所職員はいなかった。
心神喪失かどうかの判断に絶対的基準はない。
ひとつの決定的行為によってではなく、
たいていの場合、絶対ではないが疑わしい行為の積み重ねによって判断される。
狂気のマイレージのようなものだ。
ジョナサン・スイフト市役所職員は職務に忠実なことに、
ジョナサン・スイフト精神病院に通報した。
彼女の場合、これが既に、3度目の入院で、
今回の主治医はミッシェル・フーコー先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

彼は彼女を見舞いにやってきた。朝晩欠かさずに。
彼女の夫は、要するにハリソン・フォードのような顔で、
たいていの人に好意を抱かせる種類の人間だった。
その彼に、彼女はひどくつらくあたった。
“あのナブラチロワとかいう女とまだつきあってるのね”とか、
“わたしに無断でなぜポルシェ968を買ったのか”とか、
“歯医者の受付のチャスラフスカとできてるのを知らないとでも思ってるの”とか、
内容は他愛ないのだけれど、
それが、彼の髪の毛を引っ張りながら病院の庭を3周しながらとなると、
良し悪しは別として、確かに人目についた。
言うまでもないことだが、
彼には彼女に対する愛はまったく残っていなかった。
彼は今、全知全能を傾けて膨大な量の浮気をしていた。

去年の夏、彼女は空に向ってライフルを乱射していた。
彼女としては、飛行機雲を撃とうとしているつもりだが、
傍目にはどう見ても、飛行機を撃ち落とそうとしているようにしか見えなかった。
居合わせたジョナサン・スイフト市役所職員の通報により、
すぐジョナサン・スイフト病院に入院した。
それが彼女にとって最初の入院だった。
見舞いに来た夫には、“5年前に一度別れたジークリンデとかいう女と
またつきあいはじめたでしょ”と罵声を浴びせた。
そのときの主治医はロラン・バルト先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

今年はじめ。ルキノ・ヴィスコンティ航空でミラノに行くとき、
彼女は、飛行機雲を素手で獲ろうとして
旅客機の窓をハンマーで叩き割っているところを取り押さえられ、
そのままジョナサン・スイフト病院に入院した。
見舞いにやってきた彼に、“あなたが今夢中なブリュンヒルデとかいう女は
そもそも男なのよ”と言い放ってから殴りつけた。
そのときの主治医は、フェリックス・ガタリ先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテには、はっきり、心神喪失と書き込んだ。

この国の行き過ぎた福祉政策のおかげで、
ジョナサン・スイフト精神病院では極めて快適な暮らしを送ることができた。
3食とも明らかに彼女のふだんの食生活よりも豪華かつヘルシーだった。
そこには、無限の時間と完全な自由があった。
そもそも精神病院では、自分がなりたいと思う人間になることができる。
医者に向かって、ファッキンと言いたければ言えばいいし、
セクシーなインターンの前でいきなり裸になってもかまわない。
正常だとここにいられないわけだし。

彼女が、2週間ほどの入院と半年くらいのふつうの生活とを
繰り返していることは、
町中のひとは、もう、おおよそ知っていた。
そろそろだわ、と、彼女は思った。

やっぱり日曜がいい。それも午後2時くらい。
みんなが集まるジョナサン・スイフト広場。
彼女は彼と腕をくんで歩く。まるで、ほんとは仲がいいかのように。
知った顔がたくさんいる。
みんな彼女を見かけると少し不安そうな表情を浮かべた後、会釈を交わす。
今日は大丈夫そうだ、と思いながら。
そのとき、彼女は、“あ。飛行機雲”と叫び、銃を取り出す。
それを空には向けず、そのまま、彼の方へ向ける。
すぐ、撃つ。再び、撃つ。もう一回、撃つ。
まるで、広場にいるみんなに見せるかのように、
なんだか説明的なゆったりとした動きで。
誰が殺し、誰が殺されたか、みんな知っている。
けれど、誰も、その殺人者を捕まえることはできない。
罪に問うことはできない。

心神喪失は、数字だ。
彼女は、2週間ずつ過去3度精神病院に入っていたことがある。
心神喪失は、多数決だ。
ジョナサン・スイフト裁判所が精神鑑定を依頼するのは、
ミッシェル・フーコー医師。ロラン・バルト医師。
フェリックス・ガタリ医師の3人。

彼女は、微笑んだ。銃を持ったまま。
これから、1年くらい、大好きなジョナサン・スイフト病院で暮らせる。
たまった本を読もう。好きなだけ音楽を聴こう。
彼女には、無限の時間がある。何をしてもいい自由がある。
それは、愛する彼と引き換えに、手に入れたものなのだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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岩崎俊一 ・仁科貴 2008年作品「よっちん」



よっちん

                   
ストーリー  岩崎俊一
出演    仁科 貴

よっちんが東京に逃げたという話は、ヒデオから聞いた。

2日前、よっちんはけんか相手にケガをさせた。
木屋町通りを、恋人の今日子さんと歩いていたよっちんは、顔見知りの
3人連れの男にからまれ、今日子さんの肩に手をかけた男の顔面に思いき
りパンチを入れた。男は倒れ、気を失った。

よっちんは、僕より4つ上の24歳だった。もともとは、僕の大学の同
級生であるヒデオの遊び仲間だった。
京都の街なかで育ち、小さいころから男女のやりとりや、大人の酔態を
見てきたヒデオは、僕よりはるかに世間に通じていたけれど、その何歳も
年上で、高校を中退したあと、いろいろな世界を見てきたよっちんの成熟
度は、僕の想像をはるかに越えていた。
気性は激しいけれど、よっちんはやさしい男だった。インテリであり、
熱かった。義に感じて無茶ばかりやり、そのあげく損ばかりしてきた。高
校をやめたのも、職を転々としたのも、ケンカばかりしてきたのも。
うわべしか見ない人は、たぶん彼をチンピラと呼んでいただろう。でも、
よっちんは、チンピラとはまったく次元が違っていた。
そのよっちんが、
「わし、ほれた女できてん」
と照れながら話してくれたのは、一年前だった。シマちゃんも、シマち
ゃんの店の大将も、明石焼きのおばちゃんも、喫茶店のマスターも、ヒデ
オも、僕も、よっちんのためにとてもよろこんだ。
それからしばらくして、よっちんは仕事に就いた。前からやりたかった
インテリアの会社に入ったのだ。もともと好きなことであった上、頭がよ
くて情熱家のよっちんは、その会社ですぐ頭角をあらわした。恋人のため
に働く男は強いと思った。もう前のように一緒に遊べなくなったヒデオと
僕は、ちょっとさびしい思いもしたけれど。

よっちんが東京に逃げたのには理由がある。
2年前に、彼は、やはりケンカで傷害騒ぎを起こしていた。その時は大
事にならずにすんだのだが「次、あると、まちがいなく実刑だから」と警
察に強く釘をさされていたのだ。
一年間、東京に行く。待っててくれと言うよっちんに、昨夜、今日子さ
んは泣いて怒った。
「なんでケンカなんかするんや。あんたは、ケンカしたらあかんのや。
あんたは人をなぐってるつもりかしらんけど、あんたのそのげんこつはな、
うちをなぐってるんやで」

結局よっちんは、東京に2年いた。京都の会社の社長が紹介してくれた
内装関係の店で働き、一人前の職人として京都に戻り、もとの会社に勤め
た。そして3年後独立した。騒動の元になったけんかは、男のケガも大事
に至ることはなく、事件にならずに終息したらしい。
でも、京都に戻ったよっちんに、今日子さんはいなかった。
よっちんが東京に行った3ヶ月後、今日子さんに新しい恋人ができたと
ヒデオから聞いた。それを聞いて、なぜか僕はとても傷ついた。胸がどき
どきして、そして痛かった。
大人になることは大変だと思った。ただ恋人を失うのではない。腕の中
にあった恋人を失う痛手に、大人は耐えなければならないのだ。

出演者情報:仁科貴 03-3478-3780 MMP

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山本高史・山田辰夫 2009年作品「影」


  影
             
ストーリー 山本高史
出演  山田辰夫

奥さん、影ですよ、と。
だいじょうぶ、なにも売りつけたりしませんよ、と。
今日はちょっとしたクレームに参りましたよ、と。

広告会社にお勤めのご主人、頑張ってらっしゃいますねえ。
男はよく働いてたくさん稼ぐ。
それがいちばん。ところがですねえ。
この間ご主人がおつくりになったチョコのCM、見ましたよ。
女子高生たちが♪ウチらのハートはドキドキ、って
縄文式土器から出てくるやつ。
ものすごいインパクトでした。
こんなことどんな頭が思いつくんだろうな?ってね。
こんなの通すクライアントもクライアントですが、
考えるほうの責任ですわな。

ふ~(鼻息)。ここまではいいんですよ。
少なくとも私の問題じゃない。
そんでね、歌の続きの♪ちょっと「カゲ」あるいい男~のテロップが、
陰気の陰じゃなくて、私の影、シャドウですわな、
その影になってたんですよ。
私、陰気の陰じゃないですから。私、シャドウですから。
最近パソコンで文章書いたりすると、
こういう誤字多いですけどね、
陰気とシャドウの違いもわからないのは、誤字じゃないですから、
誤脳ですよね、脳みその脳。

よくね、私のこと暗いっておっしゃる。誤脳の人、おっしゃる。
陰気とシャドウの区別もつかないお宅のご主人のような方、
おっしゃる。
奥さんもきっと、思ってる。仲良きことは美しきかな、
えぇえぇ、そうですよね、似た者夫婦。
ところがどっこい、あなた方大間違い、残念賞。
ヤツはそうなのよ、陰と陽って言うでしょ、
ヤツは暗い、陰気の陰だから。
その勢いで、光あるところ影がある、なーんて私のことおっしゃる。
ところが私、暗くないです。ぜーんぜん暗くない。
光の下ですよ、太陽の下ですよ、私のいる場所。
光り輝くシャンデリアの下ですよ、私のいる場所。

暗闇で見ました?陰気な雨の日に、私いましたっけ?
明るくまぶしい場所にしか、私いませんから。
真夏の砂浜の上に、胸のふくらみも腰のくびれもくっきり浮き出た影が、
暗いですか?ヤフオクでは、その影だけでも売ってくれ、って
マニアが高値をつけてるんですよ。

あのね、影はむしろ光ですよ。私は光の子ですよ。
つまり♪ちょっとシャドウあるいい男~じゃねえ、
太陽の高い晴れた真っ昼間の短い影のことですぜ、奥さん。
ご主人がそれを言いたかったんなら別ですがね。へへへ。

ではこの辺でおいとましますよ、と。もうすぐ夜ですからね、と。
暗い夜が怖いんですよ、私。消えちゃいますから。
最後に関係ないこと一つ、いいですか。
奥さん、かわいいですね。奥さんの影になっちゃおうかなあ。
影のように付きまとえるしね。あ、これは、私の「影」でいいんです。
しつこく付きまとうのは、シャドウ。

出演者情報:この収録が山田辰夫さんの最後の仕事になりました。

shoji.jpg  
動画制作:庄司輝秋


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中山佐知子 2020年4月26日「チグリスとユーフラテスの三角地帯で」

チグリスとユーフラテスの三日月地帯で

    ストーリー 中山佐知子
       出演 遠藤守哉

チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月地帯で
1万年ほど前から栽培されていた大麦が
ウイスキーという金色の液体に変貌を遂げるには
奇跡のような偶然が重なっている。

大麦ははじめこそパンやお粥になって
貴重な食料とされていたが
古代ローマの時代になると小麦にその地位を奪われ、
家畜の餌に転落してしまった。
エジプトではすでに大麦を使ったビールの製造が始まっていたが
ローマ人はワインばかり飲んでいて
大麦はちっとも大事にしてもらえなかった。

ところが、4世紀になるとゲルマン民族の大移動という事件が起きた。
地中海を支配し、文明を築いたローマ人にとって
ゲルマンは北の森や沼地の暗黒地帯に棲む野蛮な民族だったが、
ビール造りの名人でもあった。
ゲルマンの大移動はヨーロッパの地図を塗り替え、
各地にビールをひろめた。
大麦も酒の原料としての地位を得た。

7世紀になるとオーデコロンの蒸留技術が
イスラムからアイルランドに飛び火する。
香りの技術は同時に酒の技術であり、
イタリアあたりでは葡萄を蒸留した酒を飲んでいた。
しかし、アイルランドは寒くて土地が痩せた貧しい国で、
葡萄の栽培ができない。
代わりになりそうなのは
主食のジャガイモとビールの原料になる大麦くらいだ。
大麦とジャガイモ、大麦とジャガイモ…
どっちにしようか迷ったかもしれないが
結局彼らは大麦を選んだ。
麦から生まれた蒸留酒、ウイスキーの始まりである。
当時のウイスキーは、つくるそばから飲む無欲透明のきつい酒だった。

さて、そのウイスキーが
アイルランドのお隣のスコットランドに伝わる。
スコットランドはウイスキーの風土に適していたらしく、
修道院や貴族の館、農家の庭先に無数の小さな蒸留所ができた。
ウイスキーという名前が付いたのもスコットランドだ。

ところが18世紀のはじめ、
スコットランド王国はイングランドに吸収合併されてしまった。
国がなくなった国民は、
さらに愛するウイスキーにかけられた過酷な税金に激怒する。
しかも税金を取り立てに来るのはにっくきイングランド人だ。
彼らは税金を逃れる方法を必死で考えた。

深い森で、山の奥で、誰も知らない谷間で
スコットランド人はウイスキーを密造し、樽に詰めて隠した。
保存期間が長くなると、無色透明だったウイスキーは熟成し、
金色に色づき、果物や樫の木やくるみの香り、
花やクリームの香りを放つようになった。

まったく、何が幸いになるかわからない。
ヨーロッパ全土を震撼させたゲルマンの大移動も、
アイルランドの痩せた土地もスコットランドの過酷な税金も
ウイスキーにはプラスに作用した。

そうして、
世界史を肥やしにして成長し、花開いたウイスキーを
我々は今夜も飲んでいる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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