田中真輝 2023年3月19日「桜会議」

「桜会議」 

ストーリー 田中真輝
   出演 遠藤守哉

新町スカイハイツ管理組合 第43回通常総会議事録より一部抜粋。

司会:
それでは本会最後の議案に移らせて頂きます。
議案は、敷地内自転車置き場横の桜の木についてになります。
現在、この桜の木について、住人から伐採してほしいとの要望が出ており、
本会議にてその決議を取らせて頂きたいと考えております。

301号室住人発言(以下301):
該当する樹木(桜)については、マンション住民だけではなく、
多くの地域住民から古くから愛されており、
一部住民からのクレームで伐採してしまうというのは、いかがなものかと思う。

205号室住人発言(以下205):
一部住人とはおっしゃるが、そうした小さな声を圧殺するのが、
このマンションの自治のいつもの在り方であり、
わたしとしては今の発言は全く容認することができない。

301:
別に圧殺しようとしているわけではない。
わたしは一個人としての思いを述べたまでである。
というか、伐採の要望を入れたのはあなたなのではないか。

205:
わたしではない。わたしではないが、要望については賛同する。
地面から張り出した根が自転車の通行の妨げになっているし、
落ち葉がベランダに大量に落ちるのにも辟易している。
何よりも毎春、花が咲くと多くの人が木の下に集まって
朝から晩まで大騒ぎするのが迷惑極まりない。
年をとると大声や騒音が一番堪える。
それでなくても最近は体調を崩しがちで毎日高い漢方を飲んでいる。

301:
花見はみんな楽しみにしている。やはり要望を入れたのはあなたではないのか。
そして漢方の話はいま関係ない。

204号室住人発言(以下204):
一言申し上げておきたいのだが、
205は前々から些細なことを取り上げて大きな問題にするので困る。
桜の件についてもそうだ。
以前は電気料金のメーターが自分のところだけ速く回っているという議案を提出され、
たいへん長引いて大変だった。
みんな忙しいところわざわざ集まっているのに、
どうでもいい議案で時間を取られるのはどうかと思う。

708号室住人発言(以下708):
ちょっとよろしいでしょうか。

205:
メーターの件は、目下弁護士に相談中である。そのうち目にものみせてくれる。

204:
あと、毎朝謎のお経を唱えるのもやめてほしい。あれこそ公共の迷惑である。

205:
この(不適切な表現なので割愛)

204:
なんだと(不適切な表現なので割愛)

301:
話を戻すが、桜の木はこのマンションの住人にとって心のよりどころになっている。
なにかと疎遠になりがちな昨今において、
みんなで集まって花見ができる機会があるのはとてもいいことだと思う。

参加者一同:拍手

708:
そのことで少し申し上げたいのだが。

205:
そんな優等生のような発言をしているが、わたしはこの人(301号室住人のこと)の
ほんとうの姿を知っている。

司会:
議案に関係のない発言は控えてください。

301:
そうだそうだ。

204:
それはわたしも聞きたい。

205:
この人(301号室住人のこと)が前にこのマンションの管理組合理事長を務めていたときの、大規模修繕工事のことだ。

301:
いま関係ない。

205:
あのとき工事を依頼した業者が実は、

301:
わーわーわー(など意味不明な発言)

司会:
最後の議案、桜の木について話を戻したい。

708:
その件についてなのだが。

204:
誰か何か言っている気がする。

301:
たぶんこの人が何か言おうとしている。

司会:
708、意見があるなら大きな声でお願いします。

708:
わたしは43年前にこのマンションが建設されたときからここに住んでいるが、
あの桜が植わっている場所は、このマンションの敷地内ではなく、
市の管理地になっている。よって、市の所有物だということができる。

参加者一同:静まり返る

司会:
続けてください。

708:
今までも何度かいまと同じような議論になったことがあるが、
結局は市の所有物だから伐採できないという結論に至っている。
今回も結論としてはそうなるのではないかと考える。

参加者一同:そういうことは早く言え。

司会:
以上をもって本日の管理組合定例会を終了とする。
7時間にわたる議論、誠にありがとうございました。やれやれ。



出演者情報:遠藤守哉

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佐藤義浩 2023年3月12日「桜の記憶」

桜の記憶

   ストーリー 佐藤義浩
      出演 遠藤守哉

桜には「死」のイメージがある。
散り際の潔さから来てるのだと思うが、
パッと咲いてパッと散る、あの短さが
人生を連想させるのかもしれない。

そのせいか、
時代劇だと切腹する武士の後ろに花びらが舞っていたり、
特攻する若い兵士が「同期のサクラ」なんて歌ってたりする。

美しさと儚さが好きな日本人は多いようで、
雪月花の「花」は桜のことだと思う。
雪も月も花も一瞬で風景を変える力があって、
一瞬でそれが消えてしまうものでもある。
そういう、現実であって現実じゃないようなものが
心に響くんだろうなと思ったりする。

3年前の春、昔の同級生が死んだ。
そんなに頻繁に会うような間柄ではなかったが、
年に数回、集まって飲むような仲間が何人かいて、
その中の一人だった。

彼は一人暮らしで、もうすぐ定年を迎えるタイミングで、
会社を辞め、海のそばに引っ越していた。
明るくていいやつだが、一人で突っ走ってしまうところもある
典型的なB型のひとりっ子で、
こっから先は好きなカメラで写真撮って生きてく、
なんて言っていた。

結婚していたがとうの昔に別れていて、
気楽なもんだという顔をしていたが、
その実、すごく寂しがり屋なのもみんな知っていた。

そんな彼が死んだのを、見つけたのは例の飲み仲間だった。
何度連絡を取ろうとしても返事がないので、
これはおかしいと思った一人がマンションまで行ったのだ。
その時の様子はリアルタイムで連絡が入っていて、
返事がない、これはおかしい、管理人を呼ぶ。
郵便物が溜まっている。やっぱりおかしい。警察を呼ぶ。
そして部屋には彼が死んでいた。
その経過を仲間たちは実況中継のように聞いていた。

人の人生が長いのか短いのかわからないけど、
散り際は誰にとってもきっと一瞬で、
その前にあった楽しさも寂しさも、
消えてしまえばあっという間に過去になる。
結局彼のことは彼にしかわからないし、
彼の人生がいいものであったと信じたいと思う。

その後、気の利く仲間の一人が彼の元妻を探し出して
連絡を取ることができた。
そしてまだ籍が入ったままだったということを聞いた。

桜が咲く季節になると、この顛末を思い出す。
景色が桜色に染まると、現実なような現実じゃないような
そんな世界に引き込まれそうになる。
そして桜が散った後はまた急に風景が変わり、
また一年、記憶には蓋がされることになる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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福里真一 2023年1月8日「テーマがない」

テーマがない 

ストーリー 福里真一
   出演 遠藤守哉

この東京コピーライターズストリートは、
毎月、決められたテーマのもとで、書かれている。

たとえば、昨年1月のテーマは、
「はじまり」。

何人かのコピーライターが、
それぞれに「はじまり」というテーマを解釈して、
それぞれの文章を書いた。

私もまた、そのテーマのもとに、
たしか、人類のはじまりが、
地球にとっての災厄のはじまりだった、
というような内容の文章を書いた気がする。

ところが、
今年の1月に関しては、テーマなし、
という連絡がきた。

テーマがない。

よーし、自由だ!思うぞんぶん、書きたいこと書いてやるぞ!
という感じには、
私の場合はならなかった。

テーマがないと、
何について書けばいいのかわからない。

そこで当然頭に浮かぶのは、
自分でテーマを設定する、という考えだ。

たとえば、とりあえず1月だから、
お正月
というテーマで書いてみよう。

実際、お正月には、
いくつかの、よかったり悪かったりする思い出がないわけでもないので、
少し書きはじめてもみたのだ。

あるお正月に、
数年前に亡くなった祖父から突然年賀状が届いた話とか、
けっこうそれなりにおもしろく書けそうでもあったのだ。

しかし、どうなんだろう。

せっかくいつもの月とは違う、
テーマなし、
というときに、
自分でテーマを決めて書く、というのは、
なんというか、
テーマなし、
ということから逃げていることにはならないのだろうか。

テーマなし、というテーマに、
ちゃんとこたえていることにならないのではないだろうか。

そこで、
テーマもなく、ただやみくもに書いてみる、
ということも、
少しだけやりかけた。

サッカーの試合は長すぎる。
45分ハーフではなく、30分ハーフぐらいにした方が、
プレイする側も見る側も、
緊張感をもって試合に臨める気がする。

それと、オフサイドとかいうルールは、
判定も難しそうなので、
やめてしまった方がいいと思う。

そう、それを書いているときが、
ちょうどサッカーワールドカップが盛り上がっているときだったので、
心に浮かんだことをそのまま書いたら、
ただのサッカーの感想になってしまった。

テーマもない、感想の羅列を、
このコピーライターズストリートに書くのも、
どこか違う気がする。

…そんなプロセスを経て、
いま、こうして、
テーマがない、ということについて書くという、
ひねっているようでいて、
一番ベタともいえる地点に立って、
書いているわけだ。

私は、広告をつくることを仕事にしている。
広告には必ずテーマがある。
商品のおいしさを伝えたい、とか、
企業の先進性を伝えたい、とか、
はっきりしたテーマがあり、
それに沿って企画をすればいい。

あまりにもその仕事に慣れてしまったが故に、
どうやらいつしか、
テーマがないと、
たじろいでしまうような体質に、
なってしまっていたらしい…。

まあ、とにかく、2023年がはじまった。

テーマがない、ということに苦手意識があるわりには、
「人生のテーマ」とか、
「今年のテーマ」とかを設定したことは、
いままでほとんど、なかった気がする。

生きることにおいては、
テーマもなく、ただズルズルと生きてこれたのは、
なぜなのだろうか。

むしろ、人生にテーマを持つことへの、
嫌悪感すらある気がする。

しかし、
このコピーライターズストリートで、
新年早々、
テーマについて考えたのも、
何かの縁だ。

今年ははじめて、
「今年のテーマ」というものを
自分でしっかり定めて、生きてみようか。

いや、やっぱりやめておこう。(おわり)



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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川野康之 2022年11月13日「夕焼け病院」

夕焼け病院

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

30年ぐらい前のことである。
僕は急性盲腸炎になった。
入院したのは工場街の中にある古い病院だった。
大人の手術台があいてなくて、子供用の手術台に乗って、麻酔を注射された。
麻酔はなかなか効かなかった。
このままメスが入ったらいやだなと思った。
もう1本注射された。
覚えていたのはそこまでだ。
気がついた時、見知らぬじいさんたちが僕をのぞき込んでいた。
目が合うと「あ、起きた」と言った。
そこは病室だった。
麻酔が効きすぎたらしい。
視界に妻と看護婦さんが現れた。
手術は無事に終わったこと、切った盲腸を見せてもらったこと、
臭かったこと、麻酔が切れたら痛むということなどを僕は聞いた。
それはつまり生きているということだ。
「よかった、よかった」
じいさんたちが笑った。
彼らは僕の相部屋の人たちだった。

言われた通り、麻酔が切れた時は痛かった。
生まれて初めて座薬を入れられた。
尿瓶がうまく使えなくて夜中に泣きながらナースコールした時は、
尿道に管を入れられた。
それでも僕は生きていた。
一日ごとに僕は回復して行った。
待望のガスも出た。
まだお腹に力を入れると痛いが、その痛みは日に日に軽くなって行く。
病の根源を切り取った以上、後は良くなる一方である。
妻に持ってきてもらった宮本武蔵を読む余裕も出てきた。
隣のベッドの重田さんが病室の外に運ばれていった。
数時間後に重田さんは戻ってきた。
ぐったりとして顔色が青ざめていた。
まるで血が通っていないみたいだった。
こんな時はそっとしておくのが無言のルールだった。
この病室はガンの患者のための部屋だった。
なぜ盲腸の僕がここにいるのか。他に部屋があいてなかったからである。
手術台と同じだ。
窓際のベッドの島袋さんは、いつも僕らに背を向けて窓の外を見ていた。
島袋さんは誰ともあまり話をしない。誰かがお見舞いに来ることもなかった。
小針さんは最年長で、頭に髪の毛が一本もない。
冗談が好きでいつも人を笑わせていた。
奥さんが来た時だけなぜか無口になった。
重田さんのあの治療は一日おきに行われた。
戻ってくるたび顔色はさらに青くなり、衰弱していくようだった。
それぞれが自分の病気と静かにたたかっていた。
自分一人だけが毎日良くなっていく。それが申しわけないような気がした。
ある日の夕方、窓から見える工場の屋根に赤い日が反射していた。
「屋上行こうぜ」
小針さんが言った。
僕は喜んでついていくことにした。
珍しく島袋さんが一緒に来た。
エレベーターに乗って屋上に上がった。
並んだ洗濯物の白いシーツが夕日を受けてピンクに染まっていた。
西の空の雲の中に日が落ちようとしていた。
「やあ、夕日だ、夕日だ」
と小針さんがうれしそうに言った。
「夕日だ、夕日だ」
と僕もうれしそうに言った。
「久米島の夕日はもっときれいなんだがな」
と島袋さんがつぶやいた。
島袋さんの故郷は久米島であることを知った。
川崎に来て工場で働き始めてからもう何年も帰ってないそうだ。
故郷を遠く離れて病気になった島袋さんの気持ちを思った。
久米島の夕日、見たいだろうなあ。
「見ればいいよ」
と小針さんが言った。
「見ればいいよ。元気になって久米島に帰ってさ」
西の空の雲が次第に赤く染まりだした。
一秒ごとに色が深くなり、空が赤く燃え始めた。
僕らは黙って見とれていた。
世界の片隅の工場街のこんな古いきたない病院の屋上で
パジャマ姿の3人が夕焼けを見ていた。
生きているんだ。
そう叫びたい気分だった。
その時、後ろでドアが開く音がした。
重田さんが出てきた。看護婦さんに支えられて。
よろよろとした足取りでゆっくりと歩く。
たちどまって、空を眺めた。
重田さんの青い顔が夕焼けで赤く染まった。
血が駆け巡っているみたいだった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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2022年10月16日 遠藤守哉 朗読「悟浄歎異」より抜粋

「悟浄歎異 」  より抜粋
      
          作:中島敦
          朗読:遠藤守哉

三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。
変化(へんげ)の術ももとより知らぬ。途(みち)で妖怪(ようかい)に襲われれば、
すぐに掴(つか)まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。
この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉(ひと)しく惹(ひ)かれているというのは、
いったいどういうわけだろう? 
 (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空(ごくう)も八戒(はっかい)も
  ただなんとなく師父(しふ)を敬愛しているだけなのだから。)

私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに
惹(ひ)かれるのではないか。
これこそ、我々,妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。
三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)
位置を―その哀れさと貴(とうと)さとをハッキリ悟っておられる。
しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。
確かにこれだ、我々になくて師に在(あ)るものは。
なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。
しかし、いったん己(おのれ)の位置の悲劇性を悟ったが最後、
金輪際(こんりんざい)、正しく美しい生活を真面目(まじめ)に続けていくことが
できないに違いない。
あの弱い師父(しふ)の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。
内なる貴さが外(そと)の弱さに包まれているところに、
師父の魅力があるのだと、俺(おれ)は考える。
もっとも、あの不埒(ふらち)な八戒(はっかい)の解釈によれば、
俺たちの――少なくとも悟空(ごくう)の師父に対する敬愛の中には、
多分に男色的要素が含まれているというのだが。

 まったく、悟空(ごくう)のあの実行的な天才に比べて、
三蔵法師は、なんと実務的には鈍物(どんぶつ)であることか! 
だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。
外面的な困難にぶつかったとき、師父は、
それを切抜ける途(みち)を外に求めずして、内に求める。
つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。
いや、そのとき慌(あわ)てて構えずとも、
外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、
平生(へいぜい)から構えができてしまっている。
いつどこで窮死(きゅうし)してもなお幸福でありうる心を、
師はすでに作り上げておられる。
だから、外に途を求める必要がないのだ。
我々から見ると危(あぶ)なくてしかたのない肉体上の無防禦(むぼうぎょ)も、
つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。
悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、
しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が
世には存在するかもしれぬ。
しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、
何も打開する必要がないのだから。

 悟空には、嚇怒(かくど)はあっても苦悩はない。
歓喜はあっても憂愁(ゆうしゅう)はない。
彼が単純にこの生を肯定(こうてい)できるのになんの不思議もない。
三蔵法師の場合はどうか? 
あの病身と、禦(ふせ)ぐことを知らない弱さと、
常に妖怪(ようかい)どもの迫害を受けている日々とをもってして、
なお師父(しふ)は怡(たの)しげに生を肯(うべな)われる。
これはたいしたことではないか!

 おかしいことに、
悟空は、師の自分より優(まさ)っているこの点を理解していない。
ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。
機嫌(きげん)の悪いときには、
自分が三蔵法師に随(したが)っているのは、
ただ緊箍咒(きんそうじゅ)(悟空の頭に箝(は)められている金の輪で、
 悟空が三蔵法師の命に従わぬときには
この輪が肉に喰(く)い入って彼の頭を緊(し)め付け、
 堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。
そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、
妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。
「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」
と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍(れんびん)だと
自惚(うぬぼ)れているらしいが、
実は、悟空の師に対する気持の中に、
生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬(いけい)、
美と貴さへの憧憬(どうけい)がたぶんに加わっていることを、
彼はみずから知らぬのである。

 もっとおかしいのは、
師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。
妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。
「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。
だが、実際は、どんな妖怪に喰(く)われようと、師の生命は死にはせぬのだ。

 二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、
ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。
およそ対蹠(たいせき)的なこの二人の間に、
しかし、たった一つ共通点があることに、俺(おれ)は気がついた。
それは、二人がその生き方において、ともに、所与(しょよ)を必然と考え、
必然を完全と感じていることだ。
さらには、その必然を自由と看做(みな)していることだ。
金剛石(こんごうせき)と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、
その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、
ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。
そして、この「必然と自由の等置(とうち)」こそ、
彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?

 悟空(ごくう)、八戒(はっかい)、俺(おれ)と我々三人は、
まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。
日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、
三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。
悟空はかかる廃寺こそ究竟(くっきょう)の妖怪(ようかい)退治の場所だとして、
進んで選ぶのだ。
八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫(おっくう)だし、
早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、
俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精(ようせい)に満ちているのだろう。
どこへ行ったって災難に遭(あ)うのだとすれば、
ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。
生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 
生きものの生き方ほどおもしろいものはない。

 孫行者(そんぎょうじゃ)の華(はな)やかさに圧倒されて、
すっかり影の薄らいだ感じだが、
猪悟能八戒(ちょごのうはっかい)もまた特色のある男には違いない。
とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。
嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執(しゅう)しておる。
あるとき八戒(はっかい)が俺(おれ)に言ったことがある。
「我々が天竺(てんじく)へ行くのはなんのためだ? 
善業を修(ず)して来世に極楽に生まれんがためだろうか? 
ところで、その極楽(ごくらく)とはどんなところだろう。
蓮(はす)の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけでは
しようがないじゃないか。
極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、
こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張(ほおば)る楽しみがあるのだろうか? 
そうでなくて、話に聞く仙人のように
ただ霞(かすみ)を吸って生きていくだけだったら、
ああ、厭(いや)だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! 
たとえ、辛(つら)いことがあっても、
またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世が
いちばんいいよ。少なくとも俺(おれ)にはね。」
そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。
夏の木蔭(こかげ)の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛(すいてき)。
春暁の朝寐(あさね)。
冬夜の炉辺歓談。……なんと愉(たの)しげに、
また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! 
ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、
彼の言葉はいつまで経(た)っても尽きぬもののように思われた。
俺はたまげてしまった。
この世にかくも多くの怡(たの)しきことがあり、
それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、
考えもしなかったからである。
なるほど、楽しむにも才能の要(い)るものだなと俺(おれ)は気がつき、
爾来(じらい)、この豚を軽蔑(けいべつ)することを止(や)めた。
だが、八戒(はっかい)と語ることが繁(しげ)くなるにつれ、
最近妙なことに気がついてきた。
それは、八戒の享楽主義の底に、
ときどき、妙に不気味なものの影がちらりと覗くことだ。
「師父(しふ)に対する尊敬と、
孫行者(そんぎょうじゃ)への畏怖(いふ)とがなかったら、
俺はとっくにこんな辛(つら)い旅なんか止めてしまっていたろう。」
などと口では言っている癖に、
実際はその享楽家的な外貌(がいぼう)の下に戦々兢々(せんせんきょうきょう)として
薄氷を履(ふ)むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。
いわば、天竺(てんじく)へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、
幻滅と絶望との果てに、最後に縋(すが)り付いたただ一筋の糸に違いないと
思われる節(ふし)が確かにあるのだ。
だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽(ふけ)っているわけにはいかぬ。
とにかく、今のところ、俺は孫行者(そんぎょうじゃ)からあらゆるものを
学び取らねばならぬのだ。
他のことを顧みている暇はない。
三蔵法師の智慧(ちえ)や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。
まだまだ、俺は悟空(ごくう)からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。
流沙河(りゅうさが)の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 
依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(きゅうあもう)ではないのか。
この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。
平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、
毎日の八戒の怠惰(たいだ)を戒(いまし)めること。
それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。
俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、
調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。
けっして行動者にはなれないのだろうか?
 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。
「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。
 自分は燃えているな、などと考えているうちは、
 まだほんとうに燃えていないのだ。」と。
悟空(ごくう)の闊達無碍(かったつむげ)の働きを見ながら俺はいつも思う。
「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、
おのずと外に現われる行為の謂(いい)だ。」と。
ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。
学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気の持つ桁違(けたちが)いの大きさに、
また、悟空的なるものの肌合(はだあ)いの粗(あら)さに、
恐れをなして近づけないのだ。
実際、正直なところを言えば、悟空は、
どう考えてもあまり有難(ありがた)い朋輩(ほうばい)とは言えない。
人の気持に思い遣(や)りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。
自己の能力を標準にして他人(ひと)にもそれを要求し、
それができないからとて怒(おこ)りつけるのだから堪(たま)らない。
彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。
彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解(わか)る。
ただ彼には弱者の能力の程度がうまく呑(の)み込めず、
したがって、弱者の狐疑(こぎ)・躊躇(ちゅうちょ)・
不安などにいっこう同情がないので、
つい、あまりのじれったさに疳癪(かんしゃく)を起こすのだ。
俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、
彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。
八戒はいつも寐(ね)すごしたり怠(なま)けたり化け損(そこな)ったりして、
怒られどおしである。
俺が比較的彼を怒らせないのは、
今まで彼と一定の距離を保っていて
彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。
こんなことではいつまで経(た)っても学べるわけがない。
もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、
どんどん叱られ殴られ罵られ、こちらからも罵り返して、
身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。
遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

 夜。俺(おれ)は独(ひと)り目覚めている。
 今夜は宿が見つからず、山蔭(やまかげ)の渓谷の大樹の下に草を藉いて、
四人がごろ寐(ね)をしている。
一人おいて向こうに寐ているはずの悟空(ごくう)の鼾(いびき)が
山谷(さんこく)に谺(こだま)するばかりで、
そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。
夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。
俺は先刻から仰向(あおむ)けに寐ころんだまま、
木の葉の隙(あいだ)から覗(のぞ)く星どもを見上げている。
寂しい。何かひどく寂しい。
自分があの淋(さび)しい星の上にたった独りで立って、
まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。
星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、
どうも苦手(にがて)だ。
それでも、仰向(あおむ)いているものだから、
いやでも星を見ないわけにいかない。
青白い大きな星のそばに、紅(あか)い小さな星がある。
そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、
それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。
流れ星が尾を曳(ひ)いて、消える。
なぜか知らないが、そのときふと俺は、
三蔵法師(さんぞうほうし)の澄んだ寂しげな眼を思い出した。
常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫(あわ)れみを
いつも湛(たた)えているような眼である。
それが何に対する憫れみなのか、
平生(へいぜい)はいっこう見当が付かないでいたが、
今、ひょいと、判(わか)ったような気がした。
師父(しふ)はいつも永遠を見ていられる。
それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をも
はっきりと見ておられる。
いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、
それでも可憐(かれん)に花開こうとする叡智(ちえ)や
愛情(なさけ)や、そうした数々の善(よ)きものの上に、
師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差(まなざし)を
注(そそ)いでおられるのではなかろうか。
星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。
俺は起上がって、隣に寐(ね)ておられる師父の顔を覗(のぞ)き込む。
しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、
俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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三島邦彦 2022年9月25日「眼の多さについて」

「眼の多さについて」 

ストーリー 三島邦彦
   出演 遠藤守哉

それがとんぼだと気づいた時にはもう遅かった。
日本海に浮かぶ小さな島の港のそばにある宿で早めの夕食をとった後、
腹ごなしに船小屋が並ぶ海沿いの道を歩いていると
薄暗いかたまりに出くわした、
と思った時にはもうそのかたまりに飲み込まれていた。

それはとんぼだった。
数百匹のとんぼが静かに羽音を立てている。
全身をとんぼの群れに包囲されたまま、
さてどうしたものかと考えていると、
一匹のとんぼが話しかけてきた。

「いくつもの目を持つということがどういうことかわかるかい。」
こちらの回答を待たずにとんぼは話を続けた。
「人間には二つしか目玉がないだろう。
とんぼには一匹あたり一万を超える目玉がある。
一万を超える目玉が同時にものを見ているわけだ。
ここには今、数百匹のとんぼがいる。
その全部のとんぼが一万の目で見ているんだ。」

とんぼは続けてこう言った。
 「とんぼがどういう世界を見ているかを想像してみるといい。
  二つの目玉で見えている世界から、目玉を一つずつ増やしていくんだ。
そしてそれをずっと繰り返すんだ。」
そこでとんぼは沈黙した。

静けさの中で、二つの眼で見えている視界から、
眼を一つずつ増やすことをイメージしてみた。

見えている世界を万華鏡のように
いくつもの面に切り取っていく。
しかしそれはどうにも一つの像を結ばなかった。
そして、一万というのはいくらなんでも多すぎる。
そう思ってあきらめた。
「頭がくらくらするよな。」

またとんぼが話しかけてきた。
「一万の眼というのは多すぎる、と思っただろう。
その通りなんだ。多すぎるんだよ、一万の眼は。」
そう言うと、とんぼたちはどこかに行ってしまった。

日が暮れた海のそばで静かな波音を聴きながら、
一匹のとんぼはこの夜を一万の眼で見ているのだと思った。



出演者情報:遠藤守哉

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