2009 年 10 月 21 日 のアーカイブ

五島のはなし(51)

かつて五島はクジラ漁の基地だった。
・・・という事実は知っていたのですが
その歴史が江戸時代初期にさかのぼり、
さらにその発展に尽力した一人の薩摩藩士がいたことは
まったく知りませんでした。

ああ。多くの人にとって興味のわかなそうな書き出しだなあ。
少しでも興味がわくように、
今日の文章のしめくくりを先に書くと
「五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ」
です。
・・・書いてみたけどやっぱ興味わかなそうだなあ。

先に書いた薩摩藩士。名を山田茂兵衛。
島津家の家臣として、
薩摩藩で豊臣秀頼に仕えた男。
薩摩藩で秀頼に?
というところが不思議なのですが、
山田茂兵衛の伝記によれば、
(現在は、大阪夏の陣で大阪城において自害したとされる)
秀頼は島津家によって救い出され、薩摩に逃げ延びたとなっています。
その後、秀頼をかくまっている事が徳川家にばれて、
秀頼は(薩摩にて)自害、仕えていたものの多くも自害するのですが、
薩摩生まれの家臣たちはそれほどつながりも深くなかったことから
自害を免れ、ただそのまま薩摩藩に残るわけにもいかず、
いろんな地域へと移り住んだ、のだそうです。

で、山田茂兵衛、です。
彼は五島の宇久島に移り住みました。
そこからしばらく後、江戸に住んだりもするのですが
また五島に戻り、「クジラ漁」の発展に尽力します。
小さな船でクジラをとるための技術とは大変なもので、
そのために、山口県から船大工を呼ぶなど、
全国のエキスパートたちを集め、創意工夫を重ねた結果、
多くのクジラをとるようになり五島はぐんぐん発展することになった
のだそうです。

この話は全部、宮本常一という民俗学者の
「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)に
書かれていることなのですが、
いやあほんとに、
五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ。
と思ったです。

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