2016 年 6 月 のアーカイブ

三島邦彦 16年6月25日放送

160625-03
yoruwo
雨や植物や木のはなし いとうせいこう

作家でお笑いタレント、
ラッパー、作詞家と様々な肩書きを持つ
いとうせいこうには、
ベランダーという肩書きもある。

それは、庭で草木を育てるガーデナーに対抗し、
ベランダで植物を育てる自らを呼ぶために作った言葉。

都会のベランダでいかに多くの草木を育てるか。
狭いスペースに無駄なく鉢を並べる。
植物にとって快適とは言えない環境で育てるからこそ、
きちんと育ってくれた時の喜びは大きい。
彼はベランダでの園芸についてこう語る。

 田舎で畑を持つのも確かにいいだろう。
 だが、俺はこの暮らしがやめられねえんだ。
 長年都会に生きてると、くだらないことに感動出来るからな。

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三國菜恵 16年6月25日放送

160625-04

雨や植物や木のはなし Isabel Joy BearとR.G.Thomas

雨がふると、雨独特のにおいがする。
その正体が気になって、
1964年、鉱物学者のIsabel Joy BearとR.G.Thomasの
2人が研究に乗りだした。

においの源は、植物が発する油分だとわかった。
コンクリートの街よりも、
農村の山道の方が雨のにおいを強く感じるのはそのためである。

研究者の2人はこのにおいに名前をつけている。

 “ペトリコール”

ギリシャ語が由来らしいけれど、
ふしぎな名前の本当のところは、ふしぎを愛する2人にしかわからない。

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三國菜恵 16年6月25日放送

160625-05

雨や植物や木のはなし 松田素子

絵本編集者であり作家でもある、
松田素子(まつだもとこ)。

彼女の代表作にこんなものがある。
屋久島の木々を主人公に書かれた
『わたしは樹だ』という絵本。

執筆にあたって、
松田は初めて屋久島を訪れた。
本もたくさん読んでいったけど、
知識なんかは置いておいて、
ゼロの気持ちで島の空気に浸りに行った。

驚いたのは、木の「根っこ」だ。
土が少ないため根がむきだしで、
生きるぞ、という執念のようなものが伝わってきた。

そうして、タイトルになったこの一行を書いた。

 わたしは樹だ

不自然な創作はせず、
淡々と事実を書くことに専念した。
自然が示し続けている巨きな合図をしっかり受け取って。
最初の一行を書いたあと、気づけば、
松田の手は止まることなく作品を書きあげていた。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-01
miyappp
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

南極観測船「宗谷」。
1978年10月1日午後3時、竹芝桟橋にて。
東京「船の科学館」の発する国際信号旗に迎えられ
南極観測船の役目を終えた。

その船内は展示施設として整備され、
今は誰でも当時の様子を知ることが出来るが
その一室、第四准士官室に
猫の縫いぐるみが1匹、置かれている。

三毛猫のタケシ。
タロとジロの話で有名な
第一次南極地域観測隊に猫が居たことは
あまり知られていない。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-02

南極に行った猫 三毛猫のタケシ

1956年11月6日。
南極観測船「宗谷」が出発する2日前に
動物愛護団体の女性達が1匹の子猫を連れてきた。

「オスの三毛猫は航海に縁起がいいんです。」

3万匹に1匹しか生まれないというオスの三毛猫は、
江戸時代は航海安全を願って高価で取引されたとも言われる。

かくしてこの猫「タケシ」は南極観測船「宗谷」に乗り込み、
越冬隊のたっての願いで昭和基地に残ることとなる。
しかし、縁起物の三毛猫を下ろした宗谷は、
その帰り道、氷に阻まれて身動きが取れなくなった。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-03
Kentaro Ohno
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

第一次南極地域観測隊に同行したオスの三毛猫は、
隊長の永田武の名をとって、「タケシ」と命名された。

隊員達は隊長に腹が立つと「おいタケシ!」「こらタケシ!」と
隊長の名前を呼び捨てにしては
南極までの航海を楽しんだという。

「キオツケ!」と言うと食卓に前足を揃えて出し、
後ろ足でたって頭をまっすぐ前へ向ける芸は砂田隊員が仕込んだ。

食事の時は誰かの膝の上に乗っていることが多かった。
零下30°の気温でも外に出て遊ぶ頑健さと、
持ち前の人なつっこさを持ったこの猫は、

隊員達にはなくてはならない存在になって行った。

特別に作ったタケシ専用の小さな救命胴衣を着た写真が残っている。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-04

南極に行った猫 三毛猫のタケシ

今は南極への生き物の持ち込みは禁止となっているが
第一次南極地域観測隊には仕事をもった生き物が同行していた。
タロ、ジロをはじめとした樺太犬は
犬ぞりを引くために連れてゆかれた。

カナリヤもいた。
空気の異常にびんかんなカナリヤは、
締め切りになることの多い昭和基地の
空気のチェックという重要な役割があった。

物資が限られる南極観測に、
「縁起物」というだけで実用的な役に立たない
猫のタケシの同行が許された
その理由は
どんな小さな縁起でも担ぎたくなる程
南極は遠く危険な世界だったからだろう。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-05
Dial
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

昭和基地にはこたつが無かった。
酷寒の世界で、佐久間隊員の部屋の大型通信機器は
かなりの熱を発していた。
そこに猫のタケシが目をつけたとしても不思議ではない。

ある日タケシは通信機のケースの中に潜り込んだ。
大きな音とともに毛皮の焼ける匂いがした。
高圧線に触れてしまったのだ。

昏睡状態が続き、
皆がもう駄目かと思っている中、
佐久間隊員の必死の看病で、一命を取り留めた。

自分の子供のような気がしたと、
佐久間隊員は新聞に語った。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-06
pingnews.com
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

通信室の佐久間隊員は
南極物語の中では横峰新吉として描かれている。

彼は昔から動物に好かれやすかった。
昭和基地でタケシと顔を合わせた途端、
お互いが親しみを覚え
近寄ったという。

タケシは佐久間隊員を親だと思っていたらしい。

ある日気晴らしに歩いていた時
タケシは南極の氷の上を、
肉球を真っ赤に凍えさせ
2キロも3キロも付いて来た。

夜は寝袋に潜り込み、お腹の上で眠った。

佐久間隊員の南極の夜の思い出は
お腹の上のやわらかい重みとともにあった。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-07

南極に行った猫 三毛猫のタケシ

1957年12月。
昭和基地に居る第一次隊員と、第二次越冬隊を入れ替えるため
「宗谷」は南極に戻って来た。
しかし、悪天候のため昭和基地へ到着することが出来ず、

翌年2月11日、セスナ6便に分けて第一次隊員の脱出が行われた。
2月24日。本部より第二次越冬、本観測を放棄せよとの命が下り、
セスナの厳格な重量制限のため、
15頭の樺太犬が現地に残された。
断腸の思いでの決断だった。

重量制限は一人につき20キロまで。
佐久間隊員は迷わずタケシを抱き上げ乗り込んだという。

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