川野康之 2019年6月「酒をおくる」

酒をおくる

       ストーリー 川野康之
          出演 遠藤守哉 

ぼくたち人類は10数万年前にアフリカで生まれたと言われている。
5万年前にはアフリカを離れて、世界中に旅を始めた。
食料を求めて、生きぬくためだった。
氷河期の終わりには、世界のあちこちで、
狩猟生活をやめて農耕生活を始めるようになった。
農耕を始めると、土地がいるし、水を引かなければならない。
その結果、隣人との間で争いが起きるようになった。
隣人、聞きなれない言葉だ。
獲物を追って旅をしていた頃は隣人なんていなかった。
自分の好きな場所を寝床にすれば良かったのだから。
農耕生活が始まるとともに、ぼくたちは土地を持ち、
隣人を持たなければならなかった。
狩猟時代の自由気ままな生き方と引き換えに手に入れたものが、
隣近所との絶えざる喧嘩だったというわけだ。

人間がお互いに憎み合うようになったのはこのときからだ。
猜疑心という悲しい心が生まれ、恐怖と嫉妬という感情が芽生えた。
きみにはその意味すらわからないだろうね。
汝の隣人を愛せよ、とぼくたちのふるさとアフリカの近くで誰かが言ったらしいが、
それはそうすることがいかにむずかしいことであるかを語っているようだ。

もちろん狩猟時代にも争いはあった。
女をめぐる争い。獲物をめぐる争い。
だがそれらはすぐに片がついた。
強い方が勝ちだ。
負けたやつはしっぽを巻いて去る。
あとくされなし。
おおらかなものだったね。

人々はお互いに傷つけあうようになった。
水のために、隣の村を襲って一人残らず殺してしまったこともあった。
そうしないとこっちがやられる。
疑心暗鬼、復讐、裏切りがあたりまえになった。

人類はいったいどうなってしまうのだろう。
これからずっとこんな世の中が続くのか。
もう一度狩猟生活に戻ったほうがいいのではないか、とぼくは思うことがある。
きみがそれを続けることを選んだように。

そうだった。
あたたかい、海に囲まれたヤマトの地を見つけたとき、
ぼくはそこに残ることを決めた。きみは狩猟生活を続けるために、
再び北に向かって旅立ち、ぼくたちは別れたのだった。
今ごろきみはどのあたりを歩いているのだろうか。

ビッグニュースがある。
米を入れた甕に水を入れて、数日置いておくと、
おいしい飲み物ができることをぼくは発見した。
それを飲むと、愉快な気持ちになるのだ。
自然に歌が出て、踊りたくなるのだ。
ぼくは隣人たちにこれをふるまった。
彼らは、家の奥にしまいこんでいた米を持ってきて、ぼくに預けるようになった。
この不思議な飲み物をぼくたちは「酒」と呼んだ。
今では収穫のあとにはみんなで集まって、
酒を飲んで、歌ったり踊ったりする。

酒は、もしかしたら人類を救うかもしれない。

今年も収穫が終わり、素晴らしい酒ができた。
この酒をきみにおくろうと思う。
ヤマトの海の水は太陽が昇る方向に向かって流れている。
酒を入れた甕を船に乗せて、この海に流そう。
この海の彼方にもきっと大きな陸があるだろう。
もしかしたらきみはそこにいるかもしれない。
そんな気がするのだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2019年5月19日「寄り道」

寄り道

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

電車の扉が開いて降りた客は、その男一人だった。
無人駅。
かすかに、潮の匂いがする。
岬の展望台までは、きつい登り坂だそうだが、
歩いて2時間もかからないだろう。
早すぎるな、と男は思った。
暗くなるまでにはまだずいぶん時間がある。
経験がないから確証はないが、
飛び込みを図るなら、
やはり人目につきにくい時間のほうがいいだろう。

男は、腹が減っていることに気がつく。
これから死のうというのに、何か食うのもおかしな話だろうか。
だが、時間もつぶしたい。
男は、なにか店を探すことにする。

改札機に切符に吸い込ませて、駅の外へでる。
駅前には、公衆便所と、パンや日用品を売る小さな商店が一軒あるきりだ。
線路と並行に、一本の道路が走っている。
とりあえず右の方向に歩き出ししばらくすると、
「500m先 手打ちそば」と書かれた看板があった。
そばか。悪くない。最後の晩餐、いや、昼飯に、
枯れた感じが似つかわしい。
男は、看板に描かれた矢印を確認し、足どりを速めた。

道路わきに、愛想のないつくりの、四角い建物があった。
アルミサッシが埋め込まれた壁は、
建てられた頃は白かったのだろうが、今は全体に黒ずんでいる。
「そば」と書かれたのぼりが、鉄の傘立てに突っ込んで立てられ、
入り口の引き戸のガラスには「名物山菜そば700円」と書かれた紙が
セロテープで貼られている。

引き戸を横にすべらせて中に入ると、薄暗い。
店の床はコンクリートの土間で、年代物のテーブル…
といっても、キャンプのときに使うような、
足の細いもの…が8つほど並ぶ。
誰もいない。

―すみません。
と男は店の奥に声をかける。
すると、厨房らしきところから、もそもそと一人の男がでてきた。
見たところ70ほどか。店主だろう。
七分丈の調理用白衣の前身頃がネズミ色に変色している。
ずいぶん長い間、洗濯していないと見える。
―あの、そば、頼みたいんだけど。
店主は、返事もせず奥に引っ込んだあと、
メニューとコップの水を両手にそれぞれ持って戻ってきた。
男はメニューを眺める。
かけそば。もりそば。たぬき。山菜。コロッケそば。唐揚げそば。

唐揚げそば。
どうも、そば屋らしい職人的こだわりには無縁の店のようだ。
―山菜そば、ひとつ。
男の注文をきいて店主は、口元の形をほとんど変えることなく
「え」とも「う」ともつかぬ小さな音を発した。
「はい」という言葉の発音にかける労力を長年かけて節約し、
最終的にその形に落ち着いた、ということのようだった。

店主が奥に引っ込むと、男は手持ちぶさたになる。
テーブルの天板の下には、古い漫画雑誌がつっこまれているので、
めくってみる。
だが、連載ものの話の途中からでは、ついていけもしない。

麻雀漫画の表紙が目に飛び込んで、男は反射的に雑誌を閉じた。
男が死ななければならない原因が、
そのゲームでできた借金だったからである。

店主が、丼を片手に持ってふたたび現れた。
さっき同様、盆にのせず、直接手に持っている。
両手をつかうのが癪にさわるのだろうか、
かえって重いだろうに。と男は思う。
店主がテーブルにそばを置いて去る。
男は、割りばしで、そばをたぐる。
すすったそばをかみしめると、
舌の上にざらざらといらだたしい感触を残しながら、
粘土のように歯にまとわりついた。
うへえ、と男は思った。
男は、十割そばというものを食べたことがなかった。
食べたことはないが、それはラーメンやうどんとは違って、
やや口ざわりのなめらかさに欠けた食べ物ということは知っていた。
この食感は、本格的なそばの証拠…なのだろうか。
だが、やはり、もう一口食いたいという気持ちがどうしてもおこらない。
こんなものをありがたがる人間が世の中にそう多いとは思えず、
要するにこれは単にひどく不味いだけのそばなのだ、
と男は結論づけた。

そばの上にのった山菜を食べる。
ビニールのパックで売っているやつで、食べなれた味だった。
かまぼこも、かまぼこらしい味がした。
出汁をすすってみる。
これに味がなかった。出汁というより、ほぼ湯であった。

男は、だんだん、情けなくなってきた。
おれの人生最後の食事が、この不味いそばなのか。
運命というやつに、どこまでも小馬鹿にされているような気がしてくる。
男は、箸をおき、コップの水を一口のんだ。
席を立つ。丼の中のそばはほとんど残っている。
勘定のとき、こんなまずいものを出して、よく平気でいられるね。と
嫌味の一つも言ってやろうと男は思った。
あんたにとっては、どうということもない一杯のそばだろうが、
俺にとっちゃ深い意味があったんだよ。

レジに、店主が入る。男のだした1000円札を受け取る。
男が、よし、一言、と息を吸い込んだその瞬間――
店主は破顔一笑し、あーりがとうございましたー、と高らかな声をあげた。
さっきまで、口を動かすのも億劫だ、と言わんばかりの態度だったのが
信じられない豹変ぶり。
現金と引き換えにだけ、感情表現という労働をする…
それがこの店主のルールらしかった。
300円の、ぉー、おぅかえしでぇす。
男はタイミングを狂わされ、黙ってつり銭を受けとるしかできなかった。
まぁたおこしくぅださいませぇ。
店主の声を背中で聞きながら、男は引き戸を開け、店の外に出た。

まだ、日は十分に高かった。むしろ、ようやくそろそろ昼という時間。
腹はまだ、満ち足りていない。

男は、このそば屋の人生をしばし思った。
愛想と労力の出しおしみをしながら、ただ不味いだけのそばをつくる人生。
あの男にも、若く希望に満ちた頃があったのだろうか。
ひょっとすると、他人から受けた度重なる裏切りや、
思いにまかせぬ事々が、
長年の間に彼の心をいびつな形にねじり固めてしまったのかもしれない。
が…他人の人生はわからない。
余人にはうかがいしれない、彼なりの生きがいが、
そこにはあるのかもしれぬ。

男は決めかねていた。
来た道を戻るか。
もう少し先まで歩いてみるか。
目の前の道路を、ぶおん、と音をさせてトラックが1台通り過ぎる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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勝浦雅彦 2019年4月14日「わからない顔」

「わからない顔」

   ストーリー 勝浦雅彦
      出演 遠藤守哉

娘の顔がわからなくなる。
男にその兆候が現れたのは、
小学校の授業参観でのことだった。

三日前、妻が「あなたが行ったら?」と
洗濯物を畳みながら男に言った。
そうだな、と生返事をした結果、
男はハナミズキが咲く校門の前に立っていた。
どうしたことか、
男は一度も授業参観というものに出席したことがなかった。

授業はもうはじまっているようだった。
廊下には男が妻に持たされたスリッパの音だけが響いていた。
教室に入ったと同時に、生徒たちが侵入者に向けて一斉に振り返った。
丸い無数の目が、男を凝視している。
男は混乱した。
いない?娘が。一瞬教室を間違えたのかと思った。
しかし、父兄が寄り添い立っている壁に掲出された
「遠足の思い出」
と題された三十枚ばかりのクレヨン画には、
2年4組としるされている。
やはりここだ、なのに娘の顔が見つけられない。

やがて子どもたちはまた教師の質問に答えるべく、
その小さな顔と艶やかな黒髪を旋回させた。
それっきり一度も振り向くことはなかった。
男は授業の流れに乗ることができず、吐き気すら覚えていた。
出し抜けに終了のチャイムが鳴った、ああ、解放されたと思った。
その瞬間、娘が男の元に駆け寄り、どん、とぶつかってきた。
じっと男を見上げる娘の顔をなでながら思った。
ほんとうに昨日までこんな顔だったか。

どうしてそうした事態が起きたのか、男はまるでわからなかった。
30歳になって購入した中古のマンションには、
部屋中の壁を覆い尽くすように、家族の写真が並べられていた。
写真展を毎日しているみたいだな、
男は新婚当初そう冗談交じりに話したが、妻は無反応だった。
だから男は遅く目覚めて、妻も娘もいない無人のリビングを
まるで世界中の誰もがいなくなったような気持ちに襲われながら
歩くときにすら、娘の表情はいつもそこにあったはずなのだ。

男は娘の顔を今まで以上に注意深く観察するようになった。
まだ七歳の娘の顔は、めまぐるしく変化していた。
ある日は妻を何分の一かに縮小したとしか思えないくらい
同じ顔をしていた。
と思えば、もうすでにこの世にいない男の祖母の顔で学校に出かけていく。
ある日は、誰にも似てないと結論づけたその顔は、
早逝した遠縁の伯父だった。
自分と妻の系類の間を自由に飛び回りながら
娘は毎日生まれ変わっているように思えた。
そして、娘から目を離した瞬間、男はその顔を構成している要素を
何ひとつ思い出せなくなるのだった。

男は時々夢を見た。
大きな竜巻が起き、町中を人々が逃げ惑っていた。
小高い丘に立つとおびただしい数の子供達が一直線に丘に向かってくる。
「パパは、私のパパだから、きっと私を探し出してくれるはず」
そんな娘の声が頭の中で響く。
だが、その子供達の誰もが同じ顔に見える。
名前も呼ぼうにも声が出ない。
寝床から飛び起きると、
開かなかった喉の奥が灼けるように乾いていた。

男は洗濯物を取り込もうとしている妻に話しかけた。
「ミドリの顔が、時々わからなくなるんだ」
きっと妻は「何をバカなことを言っているの」と
笑い飛ばすはずだった。
「ああ、あなたもそうなのね」
「あなたも?」
「私の父もそうだったみたいだから」
どういうことなのだろう、妻の話が普遍的なことなのだとしたら、
世の父親はどこかで娘の顔、
あるいは顔からなるイデアのようなものを
見失うということなのだろうか。
それはたとえば男の子、息子ならば起こり得ないことなのか。
男は、義父とすぐに話したかった。だが、叶いはしない。
彼は三年前に鬼籍に入っていた。
「私はたとえ大きな災害が起こって、
世界に何百万という子供が逃げまとっている中でも、
ミドリを見つけ出せる自信があるわ、母親だから」
男は仰天した。
「君は俺の夢をのぞいたのか?」
やはり妻はそれには答えなかった。

やがて男は、娘の顔を正確に把握することを諦めた。
目の前にあることをただ認めていくこと。
あるがままを受け入れることで父としての役割を全うしようとした、
そうでないと何かの拍子に細い糸が切れるように、
日常のすべてが崩れ落ちてしまいそうだった。

そうして毎日、違う顔になる娘を見守りながら、
十八年の月日が流れた。
男は初老を迎え、娘が結婚する日がやってきた。

三人で過ごす最後の夜だった。
定位置のように、妻はいつもと同じ場所で洗濯物を畳み、
娘はソファで膝を立てて座っていた。
どうしてかまるで、そこに男はいないかのように
二人は男の思い出話をしていた。

「お父さんのチュー、あれ嫌だったのよね」
「中学から高校まで、お父さんのことを無視しちゃったな」
「式で泣くのかしら。泣いたところを見たことないけれど」

男はそのやりとりをぼんやり眺めていた。
まるで自分だけが取り残されたまま、このリビングを中心に
気の遠くなるような時間が過ぎ去っていった気がした。

「私って、お父さん似だもんね」

男は驚いて娘を見た。
一瞬、今までぼやけ続けていた娘の輪郭がはっきりとした像を結び、
その顔をしっかりと捉えた。

そうか、お前はそんな顔だったんだな。

だがそれは生まれたばかりの、
まだ目すらあかない頃の面影を残しているようで、
やはり血を分けた自分の何かを引き継いでいるようには
思えないのだった。

どうしていいかわからず、リビングを視線がさまよった。
鈍色のガラスに映ったのは、
かつてみた自分の父親と同じ顔をした、老いた男だった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2019年3月17日「ういろう」

ういろう

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

よく晴れた春の日。
やや明るすぎる色の着物に身を包み、
叔母の光代が訪ねてきた。
叔父の葬式からひと月たつかたたぬかの頃のことだ。

叔母は客間に通され、
座卓を挟んで父母と相対(あいたい)した…はずであった。
様子を隣の部屋からうかがってみたが、
叔母の声は小さく、聞き取りにくい。
父母の相槌は聞こえず、
叔母だけが喋る様子がきれぎれに聞こえる。
そんな時間がしばらく続いた。
なにやら不穏な雰囲気を感じて襖に耳を近づけた時。
「それはつまり、なにかいね。浜口の家と縁を切りたいということかいね」
母親の、棘を含んだ声が聞こえた。

母と叔父の幸彦は雑多な農具やら工具を商う金物屋の
二人姉弟(きょうだい)であったが、
母が役場勤めの父と所帯を持つために実家を出たので、
家業は弟である叔父が継いだ。
継いだといえば聞こえはいいが、要は身の処し方を決めないうちに、
ずるずると既成事実に流されてそうなったようだ。
叔父はどちらかといえば線の細い芸術家気どりの男で、
東京の藝術大学に進学できず田舎の金物屋を継いだ我が身を
いつまでも拗ねているところがあった。
35まで独身であった叔父と、商工会議所の会長の紹介で
5年ばかり前に祝言をあげたのが、光代叔母だった。
東京出身である叔母は会長の遠い親戚筋にあたり、
空襲で身寄りを亡くしていた。

襖の隙間からのぞくと、
ちょうど光代叔母がこちらを向いて座っているのが見えた。
その前には、茶碗と茶菓子がある。
茶碗からの湯気はとうに立たなくなっている。

東京で育った光代叔母はこの村の旧風に馴染めなかったようだ。
寄合だの集会があれば、女達は早朝から酒肴(さけさかな)を準備し、
男共の騒ぎの傍に控え従わねばならない。
そういう集まりに、光代叔母は、遅れて行くことが多かったらしい。
あんな朝寝の癖のある嫁では大変だ。
そう噂する口幅ったい女には事欠かない土地柄であった。
陰口がいつしか面とむかった皮肉へと変わっていくに従い、
光代叔母は、村の公の場に姿を現さなくなった。

私の家は、叔父の金物屋と遠くないところにあった。
私は、父宛てに届く中元や歳暮の品のお裾分けを持って、
よく遣いにやらされた。
だが「お裾分け」は口実であって、
私の真の任務は、叔母が「世間体の悪い暮らしぶりをしていないか」の
偵察をすることだった。
掃除の行き届かない金物屋の奥に、叔父夫婦の暮らす住居があった。
「ご苦労様、公一さん」
叔母はいつも、学生服の私を、なにかほっとしたような顔で迎え、
茶を淹れてくれた。
叔父は、たいてい留守であった。
「忙しいらしいの」と叔母は言ったが、忙しいのは商売よりも金策であったろう。
何やら怪しい投機の話に乗せられたという噂もあった。
叔母が一人で番をする留守宅には、いつも同じ落語のレコードがかかっていた。
「あの人はこういうの嫌いでね。留守のときでなきゃ聞けやしないの」
そういいながら叔母は、文楽の「明烏」を聞きながらくつくつと笑った。
そして私の帰り際には、公一さん、少ないけど、といいながら、
百円硬貨を握らせてくれた。
洗濯物が畳の上に無造作に積み上げられている様子や、
店屋物の丼が洗わぬままに戸口に置かれている様子を
叔母に気づかれぬよう目に焼き付けながら、
私は、何か後ろめたい気持ちでその百円を受け取るのが常であった。

ほどなくして叔父が金銭がらみの心労からか倒れた際、
病室で光代叔母は母に面罵された。
普段あなたが嫁として務めを果たさないからこういうことになるのだ、と。
「うちの公一も言うとったがね。あんたが、呑気に店屋物を食い散らかしとるて。
どこのお大尽のつもりか」
病室の外の廊下のベンチで待っていた私は、その母の声を聞いて、ひやりとする。
少しして、病室から外へ出て来た叔母は私に気付いた様子だったが、
私は目を合わせることができなかった。
その三日後、叔父は息をひきとった。
光代叔母と叔父の間には、いまだ子がなかった。

「せめて四十九日待つくらいのことが、なぜできやせんの。
それでもあなた、浜口の家の人間かいね」
客間の母はいら立ちを隠そうとしない。
光代叔母は、母の語気につられる様子もなく、淡々とした調子で答える。
「ちがいます」
「何?」
「わたしは、こんな人間だから…浜口の家の人間と認められたともおもってません。
だから…」
「だから、何かいね」
「浜口家の人間として…幸彦の…
浜口の家のお墓掃除をするために生きていくつもりもない」
んま。絶句する母に、叔母は畳みかけた。
「お姉さん。私今日、お許しを乞いに伺ったんじゃないんです。
ご報告をしに伺ったんです」
そう言いながら、叔母は、眼の前の黒文字を手にとった。
菓子皿の上には、桜色のういろうがのっていた。
叔母の黒文字が、ういろうの上にあてられる。
そしてその黒文字がゆっくりと、垂直に下っていく。
重く柔らかな、ほの赤いういろうの肉を裂いていく。
二つに切り分けられた片方に、その黒文字が突き刺された。
叔母は、重みにしなるういろうを口元に運び、ひとかぶりに口に含んだ。
少し滑稽なほど頬が膨らみ、細い顎が緩慢に上下するのが見えた。
母も父も、叔母も、言葉を発しない。
無言の時間が過ぎていった。

小一時間ほどたって、玄関口で暇を告げる叔母の声が聞こえた。
父母は、客間に座ったままで、見送りをする様子もなかった。
引き戸を閉める音が聞こえてから、
私は、客間を通らずに縁側から庭に降り叔母を追った。

門を出たところで、ほんの3~4歩先を歩く叔母の背中が目に飛び込んだ。
「光代叔母さん」
と私は声をかける。叔母は振り返り、何も言わずこちらを見た。
少しあって、叔母が口を開いた。
「公一さん。ういろうって、この辺りの名物なの?」
虚をつかれた思いで私は、ただ、はい、とだけ答えた。
「そうか…今日の今日まで知らなかったな。初めて食べたの」
と叔母は言って、日傘を開いた。そしてこう付け加えた。
「おいしくなかったわ」
そう言って叔母は、あははは、と、今までに見たことのない晴れやかな顔で笑った。
彼女の心の中の明るい広がりが見えるようだった。
その明るい広がりの中に、私が占める場所はおそらくなさそうだった。
だが私は、それでいいと思った。
叔母は踵を返し、歩き出した。
そして、振り返ることなく私の視界から消えていった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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中山佐知子 2019年2月10日「欲望という名の電車に乗って(2019)」

欲望という名の電車に乗って

   ストーリー 中山佐知子
      出演 遠藤守哉

「欲望という名の電車に乗って墓場に乗り換え…」
というセリフから始まるテネシー・ウイリアムズの戯曲は
ニューオリンズを舞台にしている。
「欲望ストリート」という道路が本当にあって
そこを走る電車の表示板に「欲望」と記されていた。
テネシー・ウイリアムズがこの戯曲を書いた頃は電車だったが
蒸気で走ったりロバが牽いた時代もあったそうだ。

ニューオリンズはその土地の70%が海抜0メートル地帯で
まわりを湿地に囲まれている。
だいたいがジメジメと暑い気候で嫌な臭いもする。
3センチ足らずの雨が降ると水害が起きる。
台風が来ようものならえらいことになる。
昔は夏が来ると疫病が流行り、湿った墓場と呼ばれた。
過去1年以内に移住したアメリカ人の3分の1が死んだ年があった。
ヨーロッパから来た人々がほとんど死んだ夏もあった。

あまりに死が身近にあったので
ニューオリンズでは、死ぬことは生きることからの解放と
考えるようになった。
低賃金の生活苦から解放され、疫病の心配からも解放され
死んでめでたしめでたしというわけだ。

葬式はだんだん盛大になった。
ジャズを演奏しながらパレードをする。
まるでカーニバルだ。
その一方で、死人を埋葬しても洪水になるとプカプカ浮かんで
どこかへ流されてしまったりもした。
まあ、仕方がない。そういう町なのだ。

「欲望という名の電車」には
メキシコ人の花売りが登場する。
Flores. Flores. Flores para los muertos
フロレス パラ ロス モエタス
死者に手向けるお花はいかが。

そのスペイン語を聞くと、
ニューオリンズはメキシコ人が母国語で商売ができるくらい
移民が多いのだなと思う。

ところで、
メキシコの死者に捧げる花はマリーゴールドで
死者を導く花といわれる。
コスモスと同じキク科の花で、コスモスと共にメキシコ原産だが、
ニューオリンズの花売りが売るのはけばけばしい造花だ。

Flores para los muertos
Flores para los muertos

低所得者が住むこの区画では
本物の花を買う余裕のある人がいないのかもしれない。
ニューオリンズの狂気のような暑さが
花を枯らしてしまうのかもしれない。

Flores para los muertos

欲望という電車に乗って墓場に乗り換え天国通りに行くと
テネシー・ウイリアムズが戯曲を執筆した家があるそうだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2019年1月20日「流れでたもの」

流れでたもの

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

その昔、北の方にある国の片隅にある村での話である。
両親と一人娘が暮らしていた。
ある朝、寝床から来た出てきた幼い娘を見て、両親はおどろいた。
娘の眼から青い液体が滴り落ちていたからである。
枕がわりに使っている丸めた麻布も、真っ青に染まっていた。
昨日変わったことがなかったかと尋ねる両親に、
娘は、森の奥の湖で草の舟を浮かべて遊んでいたときに、
ふいに水面がまぶしく点滅するのを見た、と答えた。
光が消えるまでの間なぜか目が離せず、じっと見つめてしまった、と。
そのせいで眼が傷ついたのかもしれない。
そう思って両親は娘を村医者にもとへ連れていった。
しかし、耄碌しはじめの村医者は、なんの異状も発見できなかった
。麻布にしみこんだ青い液体についても、明解な言葉はなにひとつ。

その翌朝。娘は、あざやかな橙色の液体で眼を濡らしながら目覚めた。
寝ている間に痛んだりしなかったのか、両親は娘に尋ねる。
なにもいたくない。娘は答える。ただ…
ただ?と両親が問い返すと、娘は、
きのうは夕焼けの夢を見ていた気もする、
と答えた。
そう言われればたしかに、娘の眼から流れた液体は、
夕焼け空を水に溶かせばかくもという色をしていた。
見た夢をよくおぼえておくように両親は娘に言いつけた。
その夜娘は、森の中を歩く夢を見、
娘の眼からはコケのように鮮やかな緑色の液体が流れ出た。
別の日には、娘は雪だるまをつくる夢を見、
その眼からは山羊の乳のように白い液体が流れ出た。

つまりは、夢が漏れているのだ、眼から。
村医者は、最初からわかっておった、といわんばかりの訳知り顔で解説した。
おそらく、幼いからだろう。幼ければ、夢もよくみる。
苦しくないのであれば、ほっておくがよかろう。
成長すれば、おのずと夢も見なくなる。

ある日、両親と娘の家を、隣村の大地主が訪ねてきた。
高齢のその男の顔の肌は乾燥のあまり粉をふき、
足腰も衰えているとみえ、使用人に脇を抱えられながら親子の家に入ってきた。
地主は、貧しい家の中を眺めまわしてからこう言った。
――あんたの娘の流した「夢」をゆずってほしい。
男は小指の先ほどの大きさの薬瓶を父親に手渡しながら続けた。
これに一杯ためてくれれば、金貨、1枚出そう。

両親は、娘を説き伏せ、夜中、娘の枕元を交代で番をした。
そして、娘の眼から何かが流れはじめると、
すかさず小瓶を娘の眼もとに押し当て、その液体を集めた。
流れ出るものの色は、日によって違う。
濃い紫色のこともあれば、ごく浅い黄色なこともある。
一晩にひとしずく、三晩で三滴、という具合にたまっていく液体は
不思議なことにたがいに混ざらず、
ガラス瓶の中で、虹のような層をつくった。
ひと月の後、地主が再びやってきて、約束どおり金貨を一枚置き、
小瓶をもって帰った。
一体それで何をするのか、という両親の問いかけには、
地主は最後まで答えなかった。

何日か後、娘の母親は、村の井戸の近くで、
介添え人の助けもなく背筋を伸ばして歩く地主の姿を見た。
髪はこころなしか豊かになり、肌艶も別人のよう。
父親が、地主の家の使用人に酒をおごって話を聞きだした。
――旦那は飲んだと見えるね。あんたの娘の眼から流れ出たあれをさ。

ほどなくして、両親の元には、
金貨を握りしめた老人達がひきもきらず訪ねて来るようになった。
そして、皆が娘の流す「夢」を買いたがった。
値は瞬く間に吊り上がる。両親の手元には、大金が転がり込んだ。
それでも、注文は増える一方。
両親は交代で娘の枕元で夜通し番をし、
眠る娘の眼からで流れでる液体をひとしずくも漏らさず集めた。
が、それでも追いつかない。
ある日父親が言った。そうか、起きている間にも夢を見ればいいのだ。
どうやって?母親が訪ねる。
起きている間に見る夢といえば、良い暮らしをする夢じゃないか。
と父親が言った。
父親は、手元の金貨を、娘の眼の前に積み上げた。
――ほら、思ってごらん。一生金貨にこまらない暮らしを。
――どんないいことがあるの。
毎日、うまい肉が食える。牛の乳でつくったクリームで風呂を満たして、
そこで泳ぐことだってできる。
指にずっしりと食い込むようなでかい宝石の指輪だってはめられる。
縫い糸の一本一本まで絹でできていて、
着ていることすら忘れるような、軽い軽いドレスだって。
そして一番大事なことは…
金を持っている人間は、必ず一目おかれるんだ。
気を使われる。人の道具にならずに済む。
そんな暮らしが、3人でできるんだ。そして、父親は付け加えた。
起きて見る値打ちのある夢は、金の夢だけさ。
――わたしにどうしてほしいの?
――夢を見るのさ、いい暮らしの夢を。
これよりもっともっとたくさんの金貨の夢を。

娘は、じっと父親の指し示す金貨を見つめた。
しばらくののち、娘の目の縁が光り、
そこを濡らしたものが、あふれ出た。
両親はあわてて瓶に集める。
だが、それは、何の色もない液体――つまり、涙であった。

その日一日、娘は言葉を発しなかった。
夜、無言のまま寝床に行き、そのまま眠りに落ちた。
そして、翌朝になっても眼をさまさなかった。
三日たち、ひと月たち、1年たっても、娘は眼を開くことはなく、
両親が口に含ませる砂糖水だけで、生き続けた。
さらに長い年月が過ぎ、両親が老衰で死んだ後になっても、
ついに娘は眼をさますことはなかった。
そしてその間、娘の眼から色鮮やかな液体が流れでることは、
ただの一度もなかったということである。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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