引き際の美学①江夏豊
おれはキラキラ光る外角線が見えなくなったら現役引退するよ。
プロ野球史上屈指の左腕、江夏豊は現役時代、記者にそう語った。
左投手でありながら、江夏が得意としていたのは右打者だった。
その秘密が江夏の言う「キラキラ光る外角線」である。
不思議なことに江夏には右打者が打席に立った時にだけ、
外角のストライクゾーン際に光輝く線が見えたという。
その線を頼りに江夏はボールを投げ、
長嶋茂雄など並み居る強打者を手玉に取った。
江夏豊が現役を退いたのはプロ入り18年目の1984年。
成績は1勝2敗8セーブ。
その時の江夏の目にはもう、キラキラと光る外角線は見えなかった。
Ako
引き際の美学②山本浩二
ミスター赤ヘル、山本浩二。
現役最後の年、彼は126試合に出場。
27本のホームランを打ち、チームをリーグ優勝に導いた。
燃え尽きて灰になるか、花のあるうちに潔く散るか。
男の引き際についてはふたつの見解があるが、
山本浩二は間違いなく後者だった。
その年の日本シリーズ、
第8戦までもつれこんだ戦いは西武ライオンズが制し、
広島カープは惜しくも日本一を逃した。
すると、試合後に広島ナインが山本浩二を取り巻き、胴上げを始めた。
その体は8度宙に舞い、山本浩二は男泣きに泣いた。
それは日本シリーズ史上初めておこなわれた、
負けたチームによる胴上げだった。
引き際の美学③平松政次
「巨人キラー」と呼ばれた男、平松政次。
平松のプロ野球人生は「打倒巨人」の言葉とともにあった。
通算201勝のうち、巨人から挙げた勝ち星は51。
歴代の投手の中でその比率はずば抜けている。
その平松が引退を決意したのはプロ18年目の1984年。
巨人戦に先発した彼は7回まで1失点に抑えながら敗戦投手になった。
それまでの平松であればグラブを叩きつけて悔しがるはずだった。
しかし、その時は不思議と無念さがこみ上げてこない。
巨人に負けて冷静でいられる自分を見て、
平松は自らの引き際を決意したという。
引き際の美学④大杉勝男
東映フライヤーズとヤクルトスワローズで活躍し、
多くのファンから愛された大杉勝男。
プロ入り4年目のある試合、
1本もヒットの出ていなかった大杉を見て監督はこうアドバイスした。
「レフトスタンドに月が見えるでしょう。あの月に向かって打ちなさい」。
その言葉で打撃に開眼した大杉はその後2度のホームラン王を獲得した。
大杉が現役を退いたのは1983年、
両リーグ200本塁打という前人未到の記録まで
わずか1本というところでの引退だった。
引退試合で大杉はファンに言った。
最後にわがままなお願いですが、
あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、
この1本をファンの皆さまの夢の中で打たせていただければ、
これに優る喜びはございません。
theseanster93
引き際の美学⑤村田兆治
「人生先発完投」を座右の銘に掲げた村田兆治。
プロ入り14年目に初の最多勝を獲得した村田は、
その翌年、肘の故障に見舞われた。
再起不能もささやかれる中、
当時タブーとされていた肘の腱の移植手術をおこない、
村田兆治は再びマウンドに戻ってきた。
その3年後には17勝を挙げ、カムバック賞を受賞した。
村田兆治が引退したのはプロ22年目の1990年。
史上ふたり目となる、40代での10勝という記録を
彼は自らの花道とした。
先発完投を貫いた男の見事な引き際だった。
うっち~
引き際の美学⑥王貞治
「世界のホームラン王」王貞治が引退したのは
プロ入り22年目の1980年。
その年に王は129試合に出場し、30本のホームランを打っている。
とても引退する選手の成績とは思えない。
しかし、868本のホームランを打った王にしてみると、
それはもう自分の姿ではなかった。
王貞治としてのバッティングができなくなった。
王は最後にそう言って、静かにバットを置いた。
引き際の美学⑦長嶋茂雄
現役時代の長嶋茂雄は打席に立つと、
あえて相手投手の決め球を狙いにいった。
決め球を打つことで相手投手の自信を打ち砕く。
長嶋はそう説明した。
しかし本音はそれだけではなかった。
決め球を打つと体がゾクゾクと震えるんです。
それが快感なんですね。
その長嶋にもやがて引退を決意する時がくる。
1974年5月22日のことだった。
相手投手は江夏豊。互いに相手の腹は読んでいる。
長嶋は江夏のカーブを待ち、江夏は長嶋の待つカーブを投げた。
バットは空を切り、長嶋は三振に倒れた。
自らの限界を悟った長嶋はそれから5カ月後、
「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残し、
ユニフォームを脱いだ。
蛭田瑞穂
蛭田瑞穂 12年1月7日放送
蛭田瑞穂 11年12月11日放送
旅する作家村上春樹①
1986年の秋、村上春樹は突然日本を離れ、ヨーロッパへ旅立った。
半ば衝動的に旅に出た時の心境を、
村上春樹は太鼓の音という比喩的表現を用いて、こう綴っている。
ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、
その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。
そしてその音を聞いているうちに、
僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。
遠い太鼓に誘われて、村上春樹は旅に出た。
それから丸3年、彼は妻とふたりでヨーロッパを流離い続けた。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹②
1986年秋から1989年秋まで、村上春樹は長い旅に明け暮れた。
ローマを拠点としながら、ヨーロッパの各地を転々とした。
こうした異国の生活を村上春樹は「常駐的滞在者」と自ら呼んだ。
その間、村上春樹は集中して小説を書いた。
『ノルウェイの森』はギリシャで書きはじめ、
シシリー島に移り、ロンドンで完成させた。
『ダンス・ダンス・ダンス』は大半をローマで書いて、
最終的にロンドンで仕上げた。
のちに村上春樹はこれらの作品に関して、こう述べている。
このふたつの小説には
宿命的に異国の影がしみついているように
僕には感じられる。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹③
村上春樹が1990年に出版した『遠い太鼓』は、
1986年から1989年までヨーロッパを旅していた間の
生活を綴った長編エッセイである。
外国でいう本格的な「トラベル・ライティング」で、
彼の好きな作家ポール・セローが書いた旅行記に近い。
3年の間に、村上春樹は妻とふたりで、ヨーロッパを転々とした。
イタリア、ギリシャ、イギリス、フィンランド、オーストリア。
慣れない異国の生活は予想外の出来事の連続だった。
ミコノス島では吹き荒れる冬の風に悩まされ、
シシリー島では車の騒音に辟易し、
ローマでは路上駐車と郵便事情に振り回され、
ロンドンではイギリス英語に手を焼いた。
それでも、村上春樹は『遠い太鼓』のあとがきでこう綴っている。
旅行というのはだいたいにおいて疲れるものです。
でも疲れることによって初めて身につく知識もあるのです。
くたびれることによって初めて得ることのできる喜びもあるのです。
これが僕が旅行を続けることによって得た事実です。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹④
旅とはいったい何か。
かつて村上春樹は3年もの間日本を離れ、
ヨーロッパの各地を旅してまわった。
その旅を一冊にまとめた『遠い太鼓』という本の最後で
村上春樹はこう書いている。
僕はふとこういう風にも思う。
今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、
僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。
村上春樹によれば、旅とは人生そのもの。
その意味においては、人は誰もが旅人なのである。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹⑤
村上春樹はかつてウイスキーをめぐる旅をした。
スコットランドのアイラ島を訪ね、
世界的に名高いシングルモルトウイスキーの蒸留所を見学した。
それからアイルランドに渡り、町なかのバーにふらっと入り、
アイリッシュウイスキーを心ゆくまで堪能した。
旅のあと、東京に帰った村上春樹は、
いきつけのバーでウイスキーを飲む度に、
そこで見た風景を懐かしく思い出したという。
緑の草をなでつけながら、丘を駆け上がって行くアイラ島の海風。
あるいは、アイルランドの小さな町のパブに流れる親密な空気。
そして村上春樹はこう綴る。
旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。
人の心の中にしか残らないもの、
だからこそ何よりも貴重なものを旅は僕らに与えてくれる。
そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。
もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹⑥
村上春樹が初めてトルコを訪れたとき、
彼を引きつけたのはそこにある空気だった。
他のどことも違う不思議な空気がトルコにはあった。
そのことを村上春樹はこう綴っている。
旅行というのは本質的には、
空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。
おそらく記憶は消えるだろう。
絵はがきは色褪せるだろう。
でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。
7年後、そのとき感じた空気を確かめるように、
村上春樹はトルコを再び訪れる。
そのために車の免許を取り、初歩的なトルコ語もならった。
そして頑丈な車を一台借りて、21日間でトルコ全土を一周した。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹⑦
旅先で多くの人は写真を撮る。
そこで見た風景を、ずっと記憶に残すために。
しかし、できあがった写真を見て、
旅先で実際に感じた印象と大きな隔たりがあることも多い。
「こんな感じじゃなかったはずだ」というふうに。
村上春樹はいう。
残念ながら、僕らの写した写真が、僕らの目にした風景の
特別な力を写し取っていることは、極めて稀である。
でも、それも悪くないことだと村上春樹は続ける。
僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、
過ぎ去って、もうニ度と戻ってくることのないものなのだから。
村上春樹、作家は旅をする。
旅する作家村上春樹⑧
村上春樹はいう。
僕は旅行というものがあまり好きではない。
旅行というのはそもそも疲れるものだ。
疲れるように出来ているのだ。
そしてこう問いかける。
それでもあなたは旅に出る。それでも僕も旅行に出る。
何のために?
村上春樹によれば、それはこういうことである。
たぶん僕らはそこに自分のための風景を見つけようとしているのだ。
そしてそれはそこでしか見ることのできない風景なのだ。
どれほど使いみちがなかったとしても、
それらの風景を僕らは必要としているのだし、
それらの風景は僕らを根本的にひきつけることになるのだ。
かくして人は旅に出る。
自分だけの特別な風景を探しに、旅に出る。
(ex)旅する作家村上春樹⑨
1995年の阪神淡路大震災の2年後、
村上春樹は西宮から神戸までをひとり歩いた。
そこは村上春樹が幼少期から10代の大半を過ごした場所である。
しかし、被災した実家はすでにその土地を離れ、京都に移っていた。
家という具体的な絆を失った「故郷」が自分の目にどう映るのか、
そして、自分の育った町に震災がどのような影響を及ぼしたのか、
それを自分の目で確かめるために村上春樹は歩いた。
観光名所に行くことだけが旅ではない。
僻地に行くことだけが旅ではない。
旅とは極めて個人的な体験。
だからこそ人はどんな場所にでも旅することができるのだと、
村上春樹は教えてくれる。
村上春樹、作家は旅をする。
蛭田瑞穂 11年11月6日放送
追悼スティーブ・ジョブズ①ロバート・ノイス
さまざまなIT企業が集まるシリコンバレーで、
「シリコンバレーの主」と呼ばれる伝説の起業家がいる。
彼の名はロバート・ノイス。
半導体の集積回路を発明し、
世界最大の半導体企業「Intel」を創業した。
その功績はあとに続く多くの起業家たちから敬われ、
スティーブ・ジョブズがアップルを追放された時、
まず彼のもとを訪れたという逸話が残っている。
追悼スティーブ・ジョブズ②デニス・リッチー
2011年10月5日、アップルの創業者
スティーブ・ジョブズが亡くなったその8日後、
同じくコンピュータの歴史をつくった偉大な人物が亡くなった。
彼の名はデニス・リッチー。
コンピュータの黎明期に「C言語」というプログラム言語や、
「UNIX」というPCのオペレーションシステムなど、
現在の情報化社会の礎となる技術を開発した。
彼がいなかったら、インターネットもスマートフォンも
生まれていなかったかもしれない。
わたしたちは世界を進歩させた偉人をまたひとり失った。
R.I.P.
追悼スティーブ・ジョブズ③
アメリカ合衆国大統領、バラク・オバマは言った。
スティーブ・ジョブズ、彼は私たちの生活を変え、
産業の在り方を変革し、歴史上少ない偉業を達成した。
私たちの世界観を変えたのだ。
マイクロソフト会長ビル・ゲイツは言った。
スティーブのように何世代にもわたって受け継がれる
強い影響を残す人物はめったに現れないだろう。
スティーブが去り、寂しくて仕方がない。
アップルの共同創業者、スティーブ・ウォズニアックは言った。
ジョン・レノンやケネディ大統領が死んだ時のような
衝撃を受けている。心に大きな穴が開いたようだ。
フェイスブックのCEO、マーク・ザッカーバーグは言った。
スティーブ、良き先輩、良き友人でいてくれてありがとう。
つくり出したものが世界を変えられるのだと、
教えてくれてありがとう。
2011年10月5日、アップル創業者のスティーブ・ジョブズが亡くなった。
世界中の人々が哀悼の意を表した。
追悼スティーブ・ジョブズ④ヒューレット・パッカード
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカード、
ふたりのエンジニアが1939年に創業したヒューレット・パッカード。
IT企業の聖地シリコンバレーの草分け的な企業であり、
のちの起業家たちに多くの影響を与えた。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
出会うきっかけとなったのも
ヒューレット・パッカードのインターンシップだった。
意気投合したふたりはガレージでコンピュータを自作する。
それがのちにアップルの誕生につながるのである。
追悼スティーブ・ジョブズ⑤リー・クロウ
“Here’s to the crazy ones”、
「クレイジーな人たちがいる」という一節から始まる
アップルコンピュータのCM。(日本語版)
ジョン・レノンやガンジー、モハメド・アリなど、
20世紀を代表するさまざまな有名人、文化人が現れる映像に、
詩のようなナレーションが重なる。
彼らの言葉に心を打たれる人がいる。
反対する人も、賞讃する人も、けなす人もいる。
しかし彼らを無視することは誰にもできない。
なぜなら彼らは物事を変えたからだ。
彼らは人間を前進させた。
彼らはクレイジーと言われるが、
わたしたちは天才だと思う。
自分が世界を変えられると
本気で信じる人たちこそが、
本当に世界を変えているのだから。
このCMを制作したのはクリエイティブディレクターのリー・クロウ。
スティーブ・ジョブズの盟友として数々のアップルの広告を手がけた。
“Here’s to the crazy ones”
今こそこの言葉を、スティーブ・ジョブズに捧げたい。
追悼スティーブ・ジョブズ⑥ダグラス・エンゲルバート
1961年、エンジニアのダグラス・エンゲルバートは
コンピュータのマウスを発明した。
しかし、その発明は時代の先を行き過ぎた。
当時はまだパーソナルコンピュータがなく、
マウスが製品化されることはなかった。
その23年後、アップルコンピュータがマッキントッシュを発表する。
このコンピュータの登場によって、
人々はマウスの直観的な操作性に初めて触れた。
マウスはコンピュータの標準デバイスとして世界中に普及した。
すでに特許が失効していたため、
ダグラス・エンゲルバートに巨額の富が転がり込むことはなかった。
しかし、現在彼は「マウスの父」と呼ばれ、歴史に名を残している。
追悼スティーブ・ジョブズ⑦ティム・バーナーズ・リー
1955年に生まれ、現在の情報化社会の発展に
大きな貢献をしたふたりの人物がいる。
ひとりはスティーブ・ジョブズ。
ご存じアップルの創業者。
もうひとりはティム・バーナーズ・リー。
「World Wide Web」の構造を考案した、
インターネットの生みの親のひとり。
インターネットの仕組みをつくったティム・バーナーズ・リーと、
それを手軽に使うための道具をつくったスティーブ・ジョブズ。
あなたたちのおかげで、わたしたちの世界は大きく広がった。
追悼スティーブ・ジョブズ⑧アラン・ケイ
1973年、ゼロックス・パロアルト研究所の
科学者アラン・ケイが、
「パーソナルコンピュータ」という構想のもと、
「ALTO」という名前のコンピュータをつくった。
ひとつひとつコマンドを打ち込むそれまでのコンピュータと違い、
「ALTO」はグラフィカルなアイコンやウィンドウを
マウスで操作する画期的なコンピュータだった。
しかし、「ALTO」は試作機のまま、日の目を見ずに終わる。
それから十数年後、アップル・コンピュータがマッキントッシュを、
マイクロソフトがウインドウズを発表する。
いずれも「ALTO」の強い影響を受けて生まれたものである。
アラン・ケイの描いたパーソナルコンピュータの世界は
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの手によって現実のものとなった。
蛭田瑞穂 11年10月9日放送
ジョン・レノン①Power to the People
ジョン・レノンは1940年の10月9日に生まれた。
生きていれば今日、71回目の誕生日を迎える。
ジョンが凶弾に倒れたのは1980年。
その頃はまだ、現在のようなインターネットはなかった。
FacebookもTwitterもYouTubeも、もちろんなかった。
『Power to the People』
『Imagine』
『Happy Xmas(War is Over)』
民衆の団結が世界を変える力になることを信じたジョン・レノン。
もし、ジョンがいまの世界に生きていたら、
どんなメッセージを発するだろう、
どんな行動を起こすだろう、
どんな歌を歌うだろう。
ジョン・レノン②Imagine
1940年10月9日、イギリスのリバプールに生まれたジョン・レノン。
ビートルズの成功により、リバプールという街もまた
世界に知られるようになった。
2002年、リバプールの人々はジョンの功績を讃え、
空港に彼の名前をつけた。
かつて「スピーク空港」と呼ばれていたその空港はいま、
「リバプール・ジョン・レノン空港」と呼ばれている。
空港が掲げるスローガンは“above us only sky”、
「僕らの頭上には空があるだけ」。
それはジョンの代表曲『Imagine』の中の一節である。
ジョン・レノン③Mind Games
1966年、ジョン・レノンは、
ロンドンのインディカ・ギャラリーで開かれた、
あるアーティストの個展に足を運んだ。
ギャラリーの中央に白い脚立がぽつんと置かれていた。
その脚立に登ると、天井から虫眼鏡が吊り下がっている。
ジョンは虫眼鏡を手に取り天井を覗いた。
すると小さな文字で「YES」と書いてあった。
その作品をつくったアーティストはオノ・ヨーコ。
ジョンとヨーコが初めて出会う、有名なエピソードである。
その時のことをジョンはこう語る。
その言葉が「NO」だったら失望していたよ。
でも「YES」と書いてあったから救われたんだ。
のちにジョンは『Mind Games』という曲で、こんな歌詞を書いている。
Yes is the answer and you know that for sure,
Yes is the surrender you got to let it, you got to let it go,
君も知っているだろう。イエスこそが答えなんだ。
イエスに身を委ね、身を任せればいいのさ。
ジョン・レノン④日本語
オノ・ヨーコと結婚したジョン・レノンは日本語の勉強を始めた。
彼が残した日本語の練習ノートには、
ローマ字で書いた日本語が綴られている。
日本語の意味を英語ではなく、
自筆のイラストで説明しているところがいかにもジョンらしい。
例えば、「Jibun」という日本語には、自分の似顔絵。
「Utsukushii」という日本語には、
ヨーコらしき女性と花と太陽の絵が描かれている。
ただの日本語の練習ノートが、ジョンの手にかかると、
言葉と絵のアートブックに見えてくる。
ジョン・レノン⑤Rock’n’ Roll
1957年、ジョン・レノンが最初のバンド
「クオリー・メン」を結成した時、
レパートリーの中心はアメリカのロックンロールや
リズム&ブルースのコピーだった。
そのバンドにポール・マッカートニーが加入する。
ギターテクニックもさることながら、
ポールがロックンロールの歌詞に詳しかったことも、
加入の大きな要因となった。
歌詞を覚えるのが苦手なジョンは
ステージで出まかせの歌詞を歌うこともあったという。
ジョンとポールはやがて、オリジナル曲の制作に力を入れ始める。
右利きのジョンと左利きのポールは向かい合ってギターを弾いた。
そうすると鏡で見るように互いのコードを確認できた。
その後ビートルズで音楽史に革命を起こし、
解散後は平和運動のアイコンにもなったジョン・レノン。
しかし、ジョンはキャリアの晩年、
『Rock’n’ Roll』というアルバムを発表する。
そこに収録されていたのはすべて、
彼が10代の頃に聴いていたロックのカバーだった。
ジョンは永遠のロック少年でもあったのだ。
ジョン・レノン⑥真夜中を突っ走れ
1973年、妻ヨーコから別居を言い出されたジョン・レノンは、
寂しさを紛らわすかのように、
さまざまなアーティストとのセッションをおこなった。
74年に発表した『真夜中を突っ走れ』では
エルトン・ジョンがヴォーカルとギターで参加した。
この曲でジョンはシングル曲として初めてのビルボード第1位を獲得。
ジョンはそのお礼にと、エルトン・ジョンのコンサートに出演した。
コンサート終了後、エルトン・ジョンはジョンを楽屋に誘った。
すると、そこにヨーコがいた。
別居中のふたりを再会させるための、エルトン・ジョンの粋な計らいだった。
これを機にジョンとヨーコはよりを戻す。
そして翌年の10月9日、ジョンの35歳の誕生日に
ふたりにとっての初めての子ども、ショーンが誕生した。
ジョン・レノン⑦俳句
オノ・ヨーコと結婚したジョン・レノンは度々日本を訪れた。
日本でジョンは骨董品を買い漁った。
ある時ジョンは松尾芭蕉の句、
「古池や蛙飛び込む水の音」が書かれた掛け軸を見つけた。
その句にいたく感動したジョンは即座に掛け軸を購入し、
帰路、飛行機に乗るときも肌身から離さなかった。
ジョンの心を捉えたのは、俳句の五・七・五というリズムだった。
そのリズムはのちにジョンの書く歌詞の形体にも
大きな影響を与えたという。
ジョン・レノン⑧Starting Over
1980年10月、ジョン・レノンは
『Starting Over』をリリースした。
この曲は翌月に発売されるアルバム
『Double Fantasy』からの先行シングルだった。
『Double Fantasy』は
息子ショーンの育児に専念していたジョンが
5年ぶりに発表するアルバム。
そして40歳という節目の年に発表する記念すべきアルバム、
になるはずだった。
しかし、『Double Fantasy』の発売から間もない12月8日、
ジョンは凶弾に倒れる。
アルバムは一転、ジョンの遺作になった。
人々はジョンの追悼のためにレコードを聴いた。
『Double Fantasy』は1981年のグラミー賞を獲得し、
『Starting Over』はジョンの最も売れたシングルとなった。
ジョンがいなくなったいまも、人々はジョンの曲を聴き続ける。
ジョン・レノンの音楽に、永遠に終わりはない。
蛭田瑞穂 11年9月17日放送
世界最高のレストラン「エル・ブジ」①
バルセロナから車で約2時間、海辺の町ロザス。
その町のはずれにひっそりとたたずむ別荘風の建物。
それが、世界でいちばん予約が取れないレストラン「エル・ブジ」。
オープンは1964年。
開店最初はリゾート地にある、ごく普通のレストランだった。
1981年、元音楽プロデューサーのジュリ・ソレールが店を買い取り、
オーナーになると「エル・ブジ」の運命は大きく変わり始める。
2年後、その運命に引き寄せられるかのように、
ひとりの若者が「エル・ブジ」に入店する。
彼の名はフェラン・アドリア。
この若者が、やがて料理界に革命を起こすことになるのだが、
この時はまだ、見習いの皿洗いに過ぎなかった。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」②
バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
料理長のフェラン・アドリアが
店に雇われたのは1983年、弱冠21歳の時。
ただの見習いの料理人だったが、
オーナーのジュリ・ソレールによって才能を見いだされると、
わずか3年で料理長へと抜擢された。
目利きのオーナーと天才シェフがつくる料理は、
まずバルセロナで評判になった。
そして、1990年にミシュランで初めて星を獲得すると、
92年に2つ星、97年には3つ星を獲得。
「エル・ブリ」の名声は世界中に轟いた。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」③
バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
ここでは通常、コースの最初に供される、パンとバターがない。
他のレストランと同じことをしない、というのが
料理長フェラン・アドリアの哲学である。
彼は言う。
お客様はここへ感動を食べにやってくる。
だから僕はお客さまが一度も口にしたことがない料理をつくりたい。
エル・ブジで食事をするというのは、
ひとつのゲームに参加するようなものなのです。
その言葉の通り、食前酒から食後のお菓子に至るまで、
「エル・ブジ」の料理は予期せぬ展開の連続である。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」④
バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
この店に「手長海老をローズマリーの香りとともに」という名前の
オリジナル料理がある。
皿には手長海老が2匹載っている。おいしそうな蒸し煮だ。
しかし、すぐにナイスとフォークを手にとってはいけない。
最初に皿に添えられたローズマリーの小枝を鼻に近づけて深呼吸する。
その後に海老を食すのが、この料理の正しい食べ方。
ローズマリーの香りと海老の旨味を想像力で結びつけて食べる、
というわけである。
鰻の蒲焼を焼く煙をおかずに、ごはんを食べるという落語の小噺があるが、
そんな冗談のようなことを実際にやってしまうのが、
エル・ブジの料理長、フェラン・アドリアの創造性である。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑤
バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
料理長フェラン・アドリアは和食からも多くの影響を受けたという。
彼の創作料理に、「玉ねぎの天麩羅 醤油のヌーベ」というメニューがある。
ヌーベとはスペイン語で「雲」。
醤油に水とゼラチンを加えて、きめ細かい泡ができるまで攪拌し、
ふんわりと雲のようになった醤油を天麩羅につけて食べる。
玉ねぎの甘みとサクサクの衣、そして醤油味の泡が口の中で混然一体となり、
体験したことのない味わいが堪能できる。
長い間醤油を使ってきた日本人でも思いつかない斬新な醤油の使い方。
天才フェラン・アドリアの手にかかると、天麩羅もかくのごとく変貌する。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑥
バルセロナ郊外にある、レストラン「エル・ブジ」。
その独創的な料理により「世界でいちばん予約の取れない店」という
名声をほしいままにしたが、今年の7月30日、惜しまれつつ閉店した。
料理長フェラン・アドリアの、これ以上の料理の創造が困難になった、
というのが閉店の理由として伝えられている。
これまでも「エル・ブジ」の営業期間は一年の半分だけで、
残りは研究期間に当てられていた。
フェラン・アドリアの独創的な料理を生み出すには
それだけの時間が必要だったのである。
世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑦
今年の7月30日をもって閉店した、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
閉店を前に、特別に開かれたディナーには、
有名女優やデザイナーなど、華やかなゲストが招かれ、
料理長フェラン・アドリアによる渾身の料理がふるまわれた。
「エル・ブジ」閉店後は料理研究の財団を設立し、
ハーバード大学で教鞭もとることになっているフェラン・アドリア。
彼は語る。
大学も出ず、皿洗いから料理人になった僕が、
名門大学で教えるなんて想像するだけでおもしろいでしょう?
人生は考えられないことの連続なんですよ。
蛭田瑞穂 11年8月21日放送
EAMES STORY①
1978年の今日、ひとりのデザイナーが亡くなった。
彼の名はチャールズ・イームズ。
駅のホームにある、丸みを帯びたプラスチック製の椅子。
空港のロビーにある、スチール製のロングシート。
あるいは、世界中のオフィスにある、肘掛け付きのデスクチェア。
いずれもその原型はチャールズ・イームズによって
デザインされたものである。
チャールズ・イームズ。
彼は20世紀の中期、いわゆるミッドセンチュリー以降の、
工業デザインの流れをつくった革命的なデザイナーである。
EAMES STORY②
デザイナー、チャールズ・イームズは
1907年、ミズーリ州のセントルイスに生まれた。
18歳で地元の大学の建築学科に入学。
奨学金をもらいながら建築を学んだ。
当時、チャールズはフランク・ロイド・ライトの
手がける建築が好きだった。
だが、それが理由となり、3年で大学を辞めさせられる。
大学の保守的な研究から見ると、ライトの建築はあまりに前衛的過ぎた。
大学を辞めたチャールズはその翌年、
最初の妻と結婚し、自分の設計事務所を設立する。
しかし時は大恐慌の真っただ中、チャールズの会社はあえなく倒産した。
EAMES STORY③
最初の起業に失敗したチャールズ・イームズは
1935年に友人と共同で建築事務所を設立した。
ある時、彼らが設計を手がけた教会が、建築雑誌に掲載された。
それを見ていたのが著名な建築家のエリエル・サーリネンだった。
美術学校の学長も務めていたサーリネンは、
チャールズをその美術学校に招いた。
美術学校の教授に就任したチャールズはそこで、
校長の息子、エーロ・サーリネンと出会う。
意気投合したふたりは1940年、
ニューヨーク近代美術館が主催した家具デザインのコンペに参加。
当時注目されていた成型合板という素材を用いた椅子を出品した。
成型合板とは薄い木の板を何層にも貼り合わせた木材で、
曲線や曲面を自由につくることができた。
背もたれと座板が一体となり、美しい曲線で構成された
チャールズとエーロの椅子は、そのコンペで一位を獲得する。
チャールズ・イームズの人生が大きく動き始めた瞬間だった。
EAMES STORY④
1940年、デザイナーのチャールズ・イームズが
教授を務める美術学校に、ひとりの女性が入学した。
彼女の名前はレイ・カイザー。
ほどなくレイはチャールズの作業を手伝うようになる。
当時チャールズはニューヨーク近代美術館が主催する、
家具デザインのコンペに取り組んでいた。
やがてふたりは互いの才能に惹かれあい、恋に落ちる。
1941年、チャールズの離婚が成立すると、ふたりは入籍。
こうしてデザイン史上、最強のカップルが誕生した。
EAMES STORY⑤
1941年、デザイナーのチャールズ・イームズとその妻レイは、
活動の拠点をロサンゼルスに移す。
そこで成型合板という新しい素材の可能性を探るべく、
さまざまな試みを行った。
もっとも成功したのが成型合板をつかった医療用の添え木だった。
第2次世界大戦中のアメリカ海軍に採用され、
15万を越える製品が軍に納品された。
同じ機能、同じデザインの製品を大量に生産するというこの経験が、
のちのイームズ夫妻の家具づくりに大きな影響を及ぼす。
第2次世界大戦終了後の1946年、
チャールズはニューヨーク近代美術館で個展を開催する。
タイトルは「チャールズ・イームズによる新しい家具デザイン展」。
その個展でチャールズは成型合板を使った独創的な家具を展示した。
メディアは絶賛し、チャールズは一躍時の人となった。
高い機能性とデザイン性、そして大量生産に適しているという点で、
チャールズのつくる家具はまさしくモダンであった。
EAMES STORY⑥
1948年、デザイナーのチャールズ・イームズとその妻レイは、
雑誌の企画の一環としてモデルハウスを建築した。
ふたりはすべての建築資材をハウスメーカーのカタログから取り寄せる
「オフ・ザ・シェルフ」という建築方法を採用した。
既製品だけでつくられた家だが、
モダンアートを感じさせる外観の色彩と
ミニマリズムに徹したシンプルな室内には、
イームズ夫妻のデザインセンスが見事に表現されていた。
結局ふたりは完成した家に移り住み、そこを終の棲家とする。
のちに人々はその家を「イームズ・ハウス」と呼ぶようになった。
EAMES STORY⑦
デザイナー、チャールズ・イームズとその妻レイ。
1960年代に入ると、彼らの活動領域は家具デザインから
展覧会のプロデュースや映像制作へと移行していく。
64年のニューヨーク万博ではIBM館のプロデュースを担当し、
22画面に同時に映像を流す、マルチスクリーンの先駆けとなる
展示をおこなった。
1968年には、映像作品『パワーズ・オブ・テン』を発表。
ミクロの世界から銀河の果てに至る宇宙の構造を
カメラ視点の移動だけで表現した。
情報を整理し、多くの人に効果的に伝えること。
ふたりにとっては、展示会も映像制作もやはりデザインなのである。
EAMES STORY⑧
さまざまな独創的な家具を生み出し、
ミッドセンチュリーの工業デザインに革命を起こした
チャールズ・イームズ。
その傍らにはいつも妻レイの姿があった。
すぐれた色彩感覚とアートのセンスで、
38年という長期に渡って、夫の仕事を支えたレイ。
1978年にチャールズが亡くなった10年後の1988年、
レイもこの世を去る。
奇しくもその日はチャールズが亡くなったのと同じ、
8月21日であった。
蛭田瑞穂 11年7月10日放送
印象的な冒頭① 太宰治
メロスは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決心した。
という一文から始まる太宰治の小説『走れメロス』。
国王の悪政に逆らい、処刑を命じられたメロスは、
妹の結婚式のため、3日間の猶予を与えられる。
ただし国王は、3日以内に戻ってこられなければ、
代わりにメロスの友人を処刑する、という条件を出した。
友の命を救うため、そして自分の誇りのため、
メロスは走り続ける。
小説で描かれる青年メロスの燃えるような正義。
太宰はそれを冒頭の一行で見事に表現した。
印象的な冒頭② ヘミングウェイ
かれは年をとっていた。
メキシコ湾流に小舟を浮べ、
ひとりで魚をとって日をおくっていたが、
一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
という一節から始まる、ヘミングウェイの『老人と海』。
餌も残り少なくなったある日、
老人の針に想像を絶するほど巨大なカジキマグロがかかる。
4日間にわたる死闘が繰り広げられ、
ついに老人はカジキマグロを釣り上げる。
しかし、その帰路、
舟にくくりつけてあった獲物がサメに襲われ、
みるみる食いちぎられていく。
大魚と闘う老人の姿を、渇いた筆致で描いたヘミングウェイ。
全編に流れるそのハードボイルドな雰囲気は、
冒頭からすでに漂っている。
印象的な冒頭③ トルストイ
幸福な家庭はどれも似たものだが、
不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。
という一節からはじまるトルストイの小説『アンナ・カレーニナ』。
この冒頭が生まれたのにはこんなエピソードがある。
ある日、トルストイは叔母の病室で
ページが開いたままになっている本をみつけた。
それは10歳の長男が叔母のために読んでいたプーシキンの小説。
物語は「客人たちは別荘へ集ってきていた」という冒頭で始まっていた。
余計な描写をせず、読者をいきなり物語に引き込む書き出しに、
トルストイは「小説の書き出しはこうでなくてはいけない!」と感激し、
すぐに書斎に籠って『アンナ・カレーニナ』を書き始めたという。
1875年の発表当時から高い評価を受け、
現在では世界文学の最高峰とも讃えられる『アンナ・カレーニナ』。
主人公アンナの不穏な運命をわずか一行で暗示させるその書き出しも、
文学史に残る冒頭と言っていい。
印象的な冒頭④ スコット・フィッツジェラルド
「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、
父は言うのである。
「この世の中の人がみんなおまえと同じように
恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」
スコット・フィッツジェラルドの小説、
『華麗なるギャツビー』の冒頭にはこのような一節がある。
たしかに、人はとかく、自分と誰かを比べたがる。
そして羨んだり、嘆いたりする。
しかし結局のところ、人は人、自分は自分。
どんな人生だって捨てたもんじゃない。
フィッツジェラルドがそう言っているような気がする
印象的な冒頭⑤ ロンゴス
レスボスの島で狩をしていたわたしは、
ニンフの森でこれまで目にしたこともない、
世にも美しいものを見た。
それは一枚の絵に描いた、ある恋の物語であった。
という一節で始まる古代ギリシャの小説『ダフニスとクロエー』。
エーゲ海のレスボス島を舞台に、
山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエーとの恋模様が綴られる。
この小説が書かれたのは2世紀の後半から3世紀の前半という遥か昔。
そのため作者のロンゴスという人物についても、いつどこで生まれ、
どのようにしてこの物語を書いたのか、詳しいことはわかっていない。
それでも、ひとつだけはっきりしていることがある。
小説の冒頭にも書かれているように、
古代ギリシャの時代から、恋は美しいということである。
印象的な冒頭⑥ 三島由紀夫
長いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を
見たことがあると言い張っていた。
それを言い出すたびに大人たちは笑い、
しまいには自分がからかわれているのかと思って、
この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、
かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
こんな一節から始まる、三島由紀夫の『仮面の告白』。
小説の主人公である「私」の生い立ちから青年期までが
「告白」という形式で語られる。
『仮面の告白』は三島由紀夫の自伝的小説ともいわれる。
たしかに主人公の人並み外れた洞察力は、
三島由紀夫そのものという気もする。
印象的な冒頭⑦ 江戸川乱歩
「あの泥棒が羨ましい」
二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、
そのころは窮迫していた。
という一節から始まる、江戸川乱歩の『二銭銅貨』。
貧乏のどん底にあるふたりの青年が、
強盗が盗み隠した大金のありかを推理する話。
江戸川乱歩の処女作にして、
日本で最初の本格推理小説ともいわれる。
『二銭銅貨』の執筆当時、江戸川乱歩は失業中だった。
「あの泥棒が羨ましい」という冒頭の言葉は、
乱歩の本心が表れているのかもしれない。
印象的な冒頭⑧ 夏目漱石
こんな夢を見た。
という書き出しで、すべての短編が始まる
夏目漱石の連作小説『夢十夜』。
第一夜から第十夜まで、十篇に渡って、
さまざまな夢の話が語られる。
死んで百合の花に生まれ変わる女と
その百合を100年待ち続ける男を描いた、幻想的な「第一夜」。
自己の存在の不条理な恐怖を描いた「第三夜」。
明治文化への絶望と批判を語る「第六夜」。
夏の夜、漱石の描いた夢を一緒に見てみませんか?






















