![1.ディアギレフの才能 ディアギレフの才能](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/13-300x200.jpg)
1.ディアギレフの才能
才能がないと言われた人の、
才能を見つけだす方法がある。
ロシアの貴族の息子、
ディアギレフはそれを知っていた。
何の才能にも恵まれなかった男。
でも天職を見つけた。
多くの才能を集める仕事、
そして、その才能が活躍する場をつくる仕事。
ディアギレフの一生は、そのために捧げられた。
ピカソやコクトーなどの芸術家の協力を得て
芸術革命をおこすロシアバレエ団をつくった彼は、
世界初のプロデューサーかもしれない。
![2.ディアギレフの意 ディアギレフの意](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/23-202x300.jpg)
2.ディアギレフの意
20世紀のはじめに、音楽、美術、文学
すべてに影響を与えたロシアバレエ団。
1921年に上演した「眠りの森の美女」は
端役のダンサーまで
金糸銀糸の刺繍に宝石を縫い付けた衣装を身につけた
超豪華版で
観客拍手はもらったものの
プロデューサーのディアギレフは、
多額の負債をかかえる。
ダンサーをホテルに泊めるために、
自分は使用人部屋で寝起きすることもあったディアギレフ。
パリの社交界では、ロシア貴族らしい振る舞いをして、
パトロンには弱音を吐かないディアギレフ。
一張羅だったビーバーの毛皮のコートが擦り切れても、
芸術への想いは擦り切れないディアギレフ。
世界中の才能が、
彼に惹きつけられたのも無理はない。
![3.フォーキンの疑問 フォーキンの疑問](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/34-173x300.jpg)
3.フォーキンの疑問
1898年にロシアの演劇学校を卒業したばかりのダンサー、
ミハイル・フォーキンは疑問を感じていた。
踊りのスタイルが、
なぜ曲のテーマや衣装と調和していないのだろう。
バレエの心理表現は、
なぜ、脈絡もない一定の型で表すのだろう。
誰かに答えを求めても
伝統に根ざした決まりごとに疑問を感じる人はいない。
自分の手で、答えを創るしかなかった。
1909年、フォーキンはロシアバレエ団に加わり
振り付け師としてあたらしいバレエに挑戦する。
レ・シルフィード、ダッタン人の踊り、火の鳥…
傑作が次々に生まれた。
中性的なニジンスキーの魅力と跳躍を活かした
『薔薇の精』を見た観客は息をのんだ。
同じくニジンスキーのペトルーシュカは
観客の魂を揺さぶったといまでも語り伝えられる。
この「ペトルーシュカ」でフォーキンは
はじめてのこころみをした。
主役たちの背後で踊る群舞と呼ばれるダンサーたちに
兵隊、警官、子守り、大道芸人などの役柄を与えたのだ。
新人のときに感じた疑問の答えを、
自分の手で創りだしたフォーキン。
バレエにおける民主主義は
フォーキンによってもたらされた。
![4.ニジンスキーの跳躍 ニジンスキーの跳躍](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/43-190x300.jpg)
4.ニジンスキーの跳躍
クラシックバレエの天才ダンサー、
ニジンスキー。
彼の素顔は内気な青年だった。
おそらく「牧神の午後」と出会うまで
自分が振り付けや演出をすることになるとは
思ってもみなかったに違いない。
マラルメの詩とドビュッシーの曲
そしてニジンスキー振り付けの「牧神の午後」は
1912年、ロシアバレエ団によって上演される。
言葉の少ない青年が、心の内からたぐりよせる動きは、
バレエを壊しかねないものだったけれど
静まりかえった客席の何人かは
モダンバレエがいま生まれたことを知っていた。
![5.ロシアバレエ団の春 ロシアバレエ団の春](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/53-200x300.jpg)
5.ロシアバレエ団の春
「春の祭典」は
ロシアバレエ団が1913年にパリで上演した。
不可思議なリズムと、不協和音でつくられた音楽。
奇妙なポーズで、小刻みに飛び跳ねるダンス。
クラシックに慣れていた観客は、耳と目をうたがった。
これは芸術への冒涜ではないだろうか。
観客を侮辱しようとしているのだろうか。
観客は賛成派と反対派に別れて争った。
暴れる観客は警官が取り押さえたが
野次や足踏みや殴り合いの騒々しさで
舞台で踊るダンサーに音楽が聞こえないほどだったという。
今でも斬新に感じる『春の祭典』に、
100年前のパリは、パニックを起こし
翌朝の新聞には「春の虐殺」という見出しが載った。
けれども、
この事件はクラシックが窮屈になっていた芸術家たちにとって
いい刺激になったようだ。
ココ・シャネルも、そのひとり。
ロシアバレエ団の旗印に
ますます多くの芸術家が集うようになってきた。。
![6.ストラヴィンスキーの騒音 ストラヴィンスキーの騒音](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/64-300x237.jpg)
6.ストラヴィンスキーの騒音
不協和音を好んで使う
27歳のストラヴィンスキーは、
才能がないと評されることがあった。
けれどもロシアバレエ団の支配人ディアギレフは
彼の才能を見抜き、「火の鳥」を依頼する。
ストラヴィンスキーが書き上げた曲は、
いかにもストラヴィンスキーらしい
独特のリズムと不協和音でできていたために
主役を務めるはずのバレリーナは、
「騒音みたい」と評して舞台を降りてしまった。
しかし、1910年『火の鳥』が上演されると、
観客は熱狂し、
前衛的な作品にもかかわらず人気演目になる。
新しい才能は、否定されるところからはじまるのかもしれない。
![7.ピカソの恋 ピカソの恋](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/73-203x300.jpg)
7.ピカソの恋
ピカソがデザインするバレエの衣装は、
人体の形や動きを無視した
キュビズム的造形物だったので
立っているだけでも大変なほどだった。
しかし、それが一変したのは
ピカソの恋だった。
そのお相手はロシアバレエ団のダンサー、オリガ。
リハーサルに通いつめて、
動くことでより美しく見える衣装を創りあげた。
1919年。
ピカソの恋から生まれた造形美は、
バレエの舞台から街へ広がり、
流行のファッションになった。
![8.コクトーの再戦](http://www.01-radio.com/vision/wp-content/uploads/2010/06/83-300x225.jpg)
8.コクトーの再戦
社交界のプリンスだった、ジャン・コクトー。
ロシア・バレエ団を率いるディアギレフに、
こんな言葉をかけられる。
ジャン、僕を驚かせてごらん。
20代前半だったコクトーは、
インドをテーマにした
Le Dieu Bleu(青神)という台本を書いた。
しかし、『青神』は、
豪華な衣装とメンバーにもかかわらず、
10回に満たない上演で忘れ去られる。
その5年後。
コクトーは再び、舞台に戻ってくる。
いまこの時代に生きている人、音、動きを
バレエにした「パラード」
作曲にサティ、衣装にピカソを迎えて
1917年に上演されたパラードは
初日から激しい怒号につつまれた。
ついにコクトーはディアギレフをびっくりさせたのだ。