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記録のはなし 澤穂希の記録
6回のワールドカップを経験したサッカー選手、澤穂希。
彼女の功績はFIFA女子ワールドカップ最多出場選手
としてギネスに登録されている。
そんな彼女もサッカーを辞めよう
と本気で思ったことがあった。
1990年代に日本のプロサッカー部が次々廃部を決める中、
澤は思い切ってアメリカに渡る。
「クイック・サワ」と呼ばれ大活躍する中で、
あるアメリカ人と恋に落ちた。
彼と一緒に暮らしながら、サッカーに全力投球する充実した日々。
しかし、突然、プロリーグが休止することになった。
この時、澤は恋人と結婚してアメリカで暮らそうと決意する。
恋人の、「サッカーやめられるの?」
という問いに「もちろん」と答えた。
すると恋人は意外な言葉を返した。
「きみには、とことんサッカーをやってほしい。」
澤はそのひと言に背中を押されて、
再び日本のプロサッカー界へ戻ってきた。
ひたむきな生き方、
それが彼女に多くの記録をもたらしたのだ。
2016 年 7 月 のアーカイブ
熊埜御堂由香 16年7月31日放送
小野麻利江 16年7月31日放送
Corn Farmer
記録のはなし イチロー
2016年6月15日。
サンディエゴ・パドレス戦。
9回2アウト。
イチローは日米通算4257本目となるヒットをはなち、
「プロ野球における通算最多安打数」の
ギネス世界記録を達成した。
マーリンズに移籍した昨シーズンは、
メジャー移籍後最低の成績に終わったが、
今季は、課題となっていた
「強い当たり」のヒットの割合が格段に上がり、
40歳を過ぎても復調する姿に、
専門家さえも驚きを隠せない。
常に人に笑われてきた その悔しい歴史が僕にはある
パドレス戦後に開かれた会見で、
そんな想いを口にしたイチロー。
常にクールな彼のその目には、涙が浮かんでいた。
石橋涼子 16年7月31日放送
記録のはなし 織田幹雄
1928年のアムステルダムオリンピックで
アジア初となる金メダルを獲得したのが織田幹雄だ。
種目は陸上、三段跳び。
織田は著書の中で
私はオリンピックの穴を狙った
と語っている。
この一見すると戦略家のような言葉は、
織田幹雄にはしっくりこない。
なぜなら、なかなか記録が伸びずに
オリンピック出場も危ぶまれ、
周囲から引退をほのめかされながらも
黙々とフォームの改良や基礎の徹底を続けた
織田の愚直なまでの努力を、多くの人が知っているからだ。
今、陸上の神さまと呼ばれている彼の言葉として
しっくりくるのは、こちらだろう。
僕は「精進」という言葉を信条にやってきた。
これは自分なりの解釈で
「精を出せば、必ず進歩する」という意味です。
石橋涼子 16年7月31日放送
記録のはなし 前畑秀子
水泳選手の前畑秀子は幼いころから数々の記録を残し、
若干18歳でロサンゼルオリンピック日本代表に選ばれた。
結果は0.1秒差での銀メダル。金は逃したが、
自分が持つ日本記録を6秒も縮めた結果に、秀子は満足したという。
ところが、日本に戻った秀子を待っていたのは、
多くの人々からの「残念だ」という反応。
4年後のベルリンオリンピックに向けての重圧はすさまじく、
何度も何度も水泳を辞めようと考えたという。
それでも彼女を引き止めたのは、亡き母の教え
「やりかけたことは最後まで」の想いだった。
そんな前畑秀子が、五輪直前を振り返った時の言葉が残っている。
優勝できなかったら、帰りの船から飛び込んで死ぬしかない。
しかし自分は泳げる。
さて、どうやって死ぬか。
何事も最後までやりとげる信念を持つ彼女は、
無事、ベルリンオリンピックで優勝し、
日本人女性初の金メダリストとなった。
薄景子 16年7月31日放送
KUHT
記録のはなし カール・ルイス
オリンピックが生み出した
陸上競技界の世界的ヒーロー、カール・ルイス。
4大会を通じて獲得したメダルは、
9個のゴールドを含む10メダル。
走り幅飛びでは、4連覇の偉業を達成した。
そんな数々の記録を生むために
カール・ルイスは、
日々どんなトレーニングに励んだのだろう。
彼はこんな言葉をのこしている。
楽しいと思う方法でトレーニングせよ。
ベストを尽くせば、誇りに思える。
自分にとってのオリンピックで
「達成感」という金メダルを勝ち取ろう。
それは、スポーツに限らず、
目標をもつすべての人にエールを送る言葉。
楽しむ、そして、ベストを尽くす。
そうすれば、結果は必ずついてくる。
茂木彩海 16年7月31日放送
David W. Carmichael
記録のはなし スルヤ・ボナリー
1991年の世界選手権。
ここで幻の4回転ジャンプが氷上に舞った。
スルヤ・ボナリー。
当時圧倒的に数が少なかった黒人の女性フィギュアスケーターである。
得意のジャンプを武器に、数々の選手権で会場を沸かせたが、
4回転ジャンプですらも、
「表現力が足りない」「回転不足」などの理由から
入賞を果たせず、その実力がなかなか評価されない選手人生が続いた。
そんな中迎えた1998年長野オリンピック。
彼女は、競技ルールでは禁止されている後方宙返りを行った。
見たことも無い大技に歓声を上げる客席。
演技終了後、彼女は審査員に背を向けて、客席に向け、笑顔でポーズを取った。
せめて自分らしく終わろうと、彼女なりに決意した瞬間だった。
委員会の正式な記録では、この11年後、
女性で世界初の4回転ジャンプが成功したとされている。
茂木彩海 16年7月31日放送
記録のはなし 刈屋富士雄
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」
体操ニッポンが大活躍を果たした2004年アテネオリンピック。
男子団体、最終演技者の冨田洋之が鉄棒から降りた瞬間の
実況は、いまでも名実況として記録されている。
テレビ放送史に残る実況を行ったのは、
アナウンサーの刈屋富士雄。
実はこの時、刈屋はもともと別の言葉を用意していた。
「体操ニッポン、日はまた昇りました」。
しかし直前で、ローマ大会から実に28年ぶりの金メダル獲得を
過去の栄光と、これからの未来をつなぐ「架け橋」
という言葉で表現することを選んだ。
刈屋は言う。
言葉は不思議で、その瞬間に出たから伝わる。
1分ずれると伝わらない。命があるんですかね。
その瞬間を、言葉で記録する。
その言葉が、観る者の記憶をつないでいく。
中村直史 16年7月30日放送
音楽に生きる人 新庄清貴さんと小宮大輔さん
国と国の境で
国籍の壁をこえて、
みんなでいっしょに歌いたい。
そんなことを夢想した人たちがいる。
日本と韓国の国境ぞいの島、
対馬生まれの
新庄清貴(しんじょう・きよたか)さんと小宮大輔(こみや・だいすけ)さん。
夢は計画に変わり、計画は行動になった。
日本と韓国のアーティストも動き出した。
「対馬ボーダーアイランドフェスティバル」
新庄さんはこんな風に語ってくれた。
国境の島が、友好の架け橋になる。
困難はいっぱいあるけど、ぜんぶ越えられると思うんです。
国境の壁を越えようとする思いが、
人の気持ちの中にある
いろんな壁を乗り越えようとしている。
三島邦彦 16年7月30日放送
音楽に生きるひと 小澤征爾と斎藤秀雄
世界の音楽通をうならせる日本のオーケストラ、
サイトウ・キネン・オーケストラ。
それは、
指揮者の小澤征爾をはじめ多くの音楽家を育てた教師、
斎藤秀雄先生を偲ぶ演奏会から生まれた。
常設の楽団ではないため、
全体の調和よりも、それぞれの奏者の強い個性が際立つ。
その自由闊達なハーモニーは、
新しいオーケストラの形として高く評価された。
定期的に演奏会を開くようになり、
海外公演にも招待され、
グラミー賞も受賞するなど、
世界的なオーケストラへと成長した。
小澤征爾は、斎藤先生に言われた言葉を思い出す。
伝統といっても、そこには良い伝統と悪い伝統がある。
その国に行ったら、そこの良い伝統だけを取り入れなさい。
もしそれができたら、日本人だって、アジア人だって、ちゃんと分があるぞ。
西洋音楽の伝統のない日本で音楽を教え続けた斎藤先生。
そこから巣立ち、世界中の良い伝統を取り入れた教え子たちによって、
世界に響く音楽が生まれることになった。
三島邦彦 16年7月30日放送
ultraswank.net
音楽に生きる人 フランク・シナトラ
フランク・シナトラ。
アカデミー賞を受賞した映画スターであり、
マフィアとの関係も噂された危険人物。
なにより、20世紀の音楽界に
決定的な影響を与えた歌手だった。
その声でファンの女性達を
失神させた若き日から、
70代になっても現役だった晩年まで、
シナトラの声は、世界中で愛され続けた。
貧しい移民の子からアメリカを代表するスターへ、
歌声だけでのしあがった彼の人生。
彼の声には、彼の人生のすべてがあった。
これは、シナトラの言葉。
傷を隠すんじゃない。その傷が、君という人間を形成しているんだ。
シナトラの声が人々の胸を打つのは、
一筋縄ではいかない人生を、
すべて受け入れてくれるような響きがあるからかもしれない。