2011 年 3 月 のアーカイブ

毬谷友子さんの「虹の橋」



ペットロスの悲しみの淵にいらっしゃる、全てのかたがたの心に捧げます。

毬谷友子(訳・絵・声)

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名雪祐平 11年3月27日放送


サガン 4

フランソワーズ・サガンは、

 孤独というものは、
 平等に訪れる。

という。
優雅な人にも、優しい人にも、
恐ろしい人でも、鬼のような冷たい人にも、
孤独は、平等に訪れる、と。

その孤独と向き合うのは、
たったひとりの自分。

だから、その自分だけは
けっして裏切らないように、と。

『愛と同じくらい孤独』
というサガンの本のタイトルのように、
孤独と同じように、
愛も、平等に、今夜世界中に訪れますように。

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石橋涼子 11年3月27日放送


冒険の話 和泉雅子

勉強が苦手だった少女は、
働けば学校に行かなくていいと考え
児童劇団に入ることにした。

これが、吉永小百合・松原智恵子とともに
日活三人娘と呼ばれた女優、和泉雅子のはじまりだ。

歌も演技も下手だったが、
顔がきれいだからという理由で採用され、そして売れた。

人気がでると今度は自由がなくなった。
どこへ行くのにも母親か付き人が着いてくる。
20代になってもデートをしたこともなければ、
女友だちと会うことすら難しかった。

あるときテレビ番組のレポーターとして南極に行き、
大自然の広大さと自由の魅力にとりつかれた。
初めて自ら何かを望み、成し遂げたいと思ったのが、
北極点到達だった。
女性冒険家・和泉雅子が生まれた瞬間だった。

日本人女性初の北極点到達を成し遂げ、
今も毎年のように北極への旅を続けている。
マイナス40度の寒さに耐えるために脂肪を蓄えている彼女の容貌は
女優時代とはだいぶ異なるが、
和泉雅子はいつも笑顔でこう語る。

昔はキレイだったと言う人もいるけれど、
私は今の方がいい顔をしていると思うの。

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熊埜御堂由香 11年3月27日放送


冒険の話 栗城史多 

寒いです。とても寒いです・・・
その冒険家は、よく泣き。よく弱音をはいた。

登山家・栗城史多(くりきのぶかず)。

登山をはじめたきっかけは、失恋だった。
高卒でフリーターの栗城から彼女は去った。
彼女が求めていたのは、「大卒、公務員、車持ち」そんな男だった。
彼女の気持ちがわからなかった。そのショックから、
彼女の趣味だった登山をはじめる。

そのとき20歳。寒いし、辛いし最初は冬山が嫌いだった。
けれど、1週間ほどかけて冬山を先輩と登ったとき。
その背中を泣きそうな思いで追いながら
不可能を超えていく自分に
気づいた。

それから栗城は小型カメラを背負い
インターネット中継しながらエベレストなど世界の山々に挑みはじめた。
そこにいる栗城は、冒険家というより、ひとりの素直な若者だった。
多く同世代がリアルタイムで応援の言葉を返した。
栗城は言う。

悔しかったら悔しがるし、泣いて弱音を吐いてもいい。
それが頑張る力になるから。


冒険の話 マウ・ピアイルグと石川直樹

地図のない時代。
ミクロネシアの人々は星の位置を頼りに
数千キロの海を渡った。

その航海術の後継者、マウ・ピアイルグ。
勇猛という名をもつこの老人に憧れ、
ある日本人が、突然会いにきた。

冒険家の石川直樹。
当時21歳の石川にマウは星を覚えろと言った。

そして一緒に海へでた。
4日の予定だった航海は6日を過ぎ、飲み水はつきた。
それでもマウは動じない。
星を見つめ、波や風を全身で受け止めながら指示を下した。
そして9日目、波の向こうに島が見えた。

マウは別れ際に石川に言った。

 心の中に星が見えるか?

心のなかに星が見えたら
自分の位置を見失うことはない。
それは冒険家にとっていちばん大切な教養かもしれない。

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三國菜恵 11年03月27日放送


あの人の師/山本かね子

弟子だった人も、
ひとり歩きをしなければならない時がくる。

現代短歌の歌人・山本かね子は心細かった。
師匠、植松壽樹(うえまつ・ひさき)がこの世を去ってから
アドバイスしてくれる人が
いなくなってしまったから。

でも、彼女は思いだすことができた。
困ったときに先生から言われる、いつものことばを。

自分の歌は見えにくいものです。
毎日眺めていてもなかなか良くならない。
そこで、四、五日見ずに置くこと。

師匠のことばを一生の宝に
弟子は今日も、確かな一歩を踏み出していく。


あの人の師/斎藤宗次郎

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の
モデルになったといわれる人物がいる。
彼の名前は、斎藤宗次郎。
『非戦論』をとなえた内村鑑三の愛弟子にあたる青年だ。

雨にも負けず、風にも負けず
毎日新聞配達をつづける彼のポケットには
いつもすこしの小銭とお菓子が用意されていて
それを、行く先々でこどもたちに与えていた。

師匠が晩年、床に伏した時も
必要な薬を駆けまわって探し、
最後まで看病の手を休めることはなかった。

そんな斎藤を弟子に持った内村は、
彼の人柄について、こんな言葉をのこしている。

彼の澄める眼眸(ひとみ)に我等は無量の平和を読めり

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八木田杏子 11年03月26日放送


ベートーヴェンとエリーゼとテレーゼ

「エリーゼのために」という曲は、もともと
「テレーゼのために」だったという説がある。

エリーゼとは誰かについてはいろいろ取り沙汰されているが
ベートーベンの主治医の姪である
テレーゼ・マルファッティという説が有力だ。
ベートーベンは40歳のときに
18歳のテレーゼに結婚を申し込んでいるし
なによりその楽譜を所持していたのが
テレーゼ・マリファッティなのだから。

ではなぜ、テレーゼがエリーゼに?

悪筆で名高いベートーベンが書いた作品のタイトルは
ドイツで筆跡鑑定をしてみた結果
エリーゼともテレーゼとも読めるそうなのだ。
ベートーベンは悪筆に屈することなく
女性に手紙を送り、曲をささげている。

ところで、ベートーベンの生涯にはもうひとりのテレーゼがいる。
こちらは伯爵令嬢のテレーゼ・フォン・ブルンスウィク。
美しく才気にあふれ多くの人々を魅了したといわれる女性だ。

こちらのテレーゼに捧げられた曲は
「ピアノソナタ24番 テレーゼ 作品78」というタイトルで
幸いに名前も読み間違えられずにテレーゼのままだ。

のびやかでエレガントなその曲は女性が弾くのにふさわしいが
少女たちの人気はエリーゼに傾いている。


鴻上尚史の孤独

ひとりぼっちにならないために、
ケータイを握りしめる、

孤独にならないようにしても、
ふと一人になったときに、不安はこみあげてくる。

劇作家の鴻上尚史は、
孤独と向き合う方法を教えてくれる。

人間は、一人でいるときに成長するのです。

一人は少しも悪くない。恥ずかしくない。みじめじゃない。
一人になりたいと思って一人でいることは、
とても快適なことだ
とあなたは、胸を張って、自分自身に言えばいいのです。

そう思うことで、
無理に話を合わせて愛想笑いをしなくなり、
30人に一人の本当の味方に出会えると、鴻上は語る。

明日は日曜日。

携帯電話を忘れて、
一人でふらっと出かけてみませんか。


フジ子・ヘミングの音色

60歳を越えてから、
ピアニストとして活躍のときを迎えたフジ子・ヘミング。

天才少女と呼ばれ、
日本で脚光を浴びていた彼女は
留学のときに国籍がないことが発覚。

その後、難民としてベルリンに留学し
優秀な成績をおさめたが
最大のチャンスを前にして聴覚を失ってしまう。

突然中断されてしまった演奏家としてのキャリア。
しかしフジ子はあきらめなかった。
働きながら耳の治療をつづけ
ピアノ教師の資格を得た後は、
ピアノを教えながら演奏活動を再会するようにもなった。

一流演奏家への道は
二度と開かれることはないはずだった。
しかし、1999年
フジ子・ヘミング67歳のときにチャンスがやってきた。
数年前に日本に戻っていた彼女のドキュメントが
テレビ番組として放送されたのだ。

その番組のなかでフジ子・ヘミングはピアノを弾いた。
その姿にも音にも
フジ子・ヘミングの人生がにじんでおり
それ見て涙した多くの人がフジ子のファンになった。

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中村直史 11年03月26日放送


あの人の師/新藤兼人

「裸の島」「午後の遺言状」など、
世界に誇る作品を送り出してきた
映画監督、新藤兼人(しんどうかねと)。

彼には、師と仰ぐひとりの映画監督がいた。
その名は溝口健二。
巨匠と呼ばれるその映画監督の人となりを描きだそうと、
新藤は関係者にインタビューを重ね、それを一本の映画にする。
映画に入りきらない分は、一冊の本となった。
タイトルは「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」。

女優やカメラマンなど
親交の深かった36人の証言から
浮かび上がる溝口健二像は、一言では言い表せない。
崇拝され、恐れられ、親しまれ、嫌われ、喜ばれた。

そんな、一言では言い表せない人だったからこそ、
型にはまった、安易な人間の描き方を決してよしとはしなかった。
溝口はこんな言葉を残している。

悲しくて滑稽で、それでほほえましくて、しかもそれでいて
どこか腹だたしい話を、その人間を通してまるごと描くんだ。

そうして撮られた溝口のフィルムに、
若き日の新藤兼人が見たものは、
「映画」ではなく
「真実としかいえないもの」だった。

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三島邦彦 11年03月26日放送


あの人の師/吉川英治

天下をとる人は、誰を師とするのだろう。
作家、吉川英治の答えは、
豊臣秀吉の一生を描いた『新書太閤記』に書かれている。

どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、
彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、
そしてそれをわがものとして来た。

小学校を中退して以来、職を転々とし、
独学で己の小説を磨いた吉川英治もまた、
出会うすべての人が師であった。
我以外皆我師(われいがいみなわがし)、
吉川が好んで色紙に書いた言葉である。

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苦しいのがほんのちょっとでもまぎれれば。

今回の地震で物理的な被害にあわなかったけれど、
映像を見すぎてダメージを受けてしまったり、
地震以降、どうも気分が落ち着かない、不安が襲ってくる、と感じ続けている人に
ぼくが昔、人から教えてもらって、今回も役立っていることを少し書きます。
恐怖を煽る情報は多いのに
恐怖に対処するための情報がないと感じているので書きます。

(被災地の方たちの物心両面のケアが今いちばん大事と
 思っているのですが、そのことに関しては今ぼくに語れることがないので、
 ひとまず話をつづけます)

●おなかで呼吸をする。
仕事をしていたり、ぼーっと家にいたり、電車にのっているときなどに
妙に不安に襲われたら、「数を数えながら呼吸をする」というのを
やってみてください。
お腹をふくらませながら、4つ数えながら、息を吸う。
→お腹をふくらませたまま、息をとめて、7つ数える
→お腹をひっこめながら、8つ数えながら、息をはく。
1,2,3,4(吸う) 1,2,3,4,5,6,7(止める)1,2,3,4,5,6,7,8(はく)
これを5回くらい繰り返します。
腹式呼吸と、数を数えることに集中してみてください。
ちょっと落ち着いてきます。

●気持ちを書きだしてみる。
何を不安と感じているか、
何がこわいのか、何が心の中でもやもやしているのか、
とにかく紙に書いてみます。
もし、たとえば電車の中などで紙に書けない場合は
ケータイに打ち込んでもよいです。
とにかく、疲れるくらい書きだしてみるとよいと思います。
書くと客観的になれます。
不安なことを書いた後に、じゃあ、自分がどうなりたいか、何をしたいか、
たとえば、
楽しく生きていきたい!もうこんな気分はいやなんだ!あの人に会いたい!
そういうのも書くとよいと思います。

●泣く。
自分が不安だとか苦しいんだ、と気づいてない人も多いんじゃないかと
思います。あるときふと涙が出てきて、それで、ああ、
自分は辛かったんだ、と気づく人もいると思います。
たぶん、今回の地震で辛くない人はいないと思います。
えたいのしれない罪悪感もあるように感じます。
泣けと言われて泣けるものではないと思いますが
ふと泣けてきたときは、我慢せず、とにかく泣くとよいと思います。
思い切り泣いた方がいいと思います。

●仕事する。
自分がいままでやってきた仕事に集中してみる。
家事でも、なんでも、日常としてやらなきゃいけないことを
リストアップして、それをひとつひとつこなしていく。
ちなみに、被災していない人が自分の仕事をちゃんとやることは
たとえそれがどんな仕事であれ、最後には、
被災地とそこにいる方たちが立ち直るために必要なことだと思います。

●祈る。
苦しさの大きな要因は、被災された方たちへの
健全な想像力のせいだと思います。
まっとうに思いをはせられる人だから、苦しい。
いま、苦しいのが健全なんだと思います。
募金する、物資を提供する、できる人はそれをやるといいと思います。
でもきっと苦しさからは逃れられないと思います。
個人でできるどんな貢献より、被災者の辛さがはるかに大きいことが
簡単に想像できるからです。
あとは祈ることだと思います。
どうかがんばってください。どうかへこたれないでください。
声に出しても、心の中でつぶやきつづけてもよいと思います。
祈ることは無意味じゃないと思います。

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毬谷友子から小さなパートナーを失った人へ



一生懸命 絵を書き、映画「宮城野」のプロデユーサーの方が
編 集して下さいました。
とりあえず第一弾です。

今、この瞬間にも、最愛のものとの別れに、絶望の底にいらっしゃる方
達の心が、少しでも救われたらと願います。
どんな方法でも、被災者の方々に、この歌を届ける方法があれば、
どう か発信して下さい。
よろしくお願いします!!!!!

毬谷友子

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