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2012 年 7 月 のアーカイブ

暑いときの猫は



暑い。二匹の猫の食欲がない。
それでも夜になったら食べていたのだが
数日前から黒い愚猫(黒兵衛♀)が夜も食べなくなった。

医者へ連れて行った。
血液検査をした。これといって悪いところはない。
点滴をした。
帰宅後、やたらと階段を上り下りしている。
さすが愚猫である。
用もないのに階段をズダズダと上がっては下りて
せっかくの点滴養分を無駄に使っている。
その養分が切れたとみるや、
暗い狭いところでまたじっと垂れ込めている。
まったく愚猫である。

病猫(ハエタロー♀)は
夜中から散歩だ散歩だと鳴き喚き
朝になるのを待ちかねて飯も食わずに出かけていく。
見ると、庭の蛇口の下あたりでぐったりと寝ている。
ちっとも散歩ではない。
ほぼ一日中日陰なのでいくぶん涼しいのだろう。
出かけるときはそれを取り込んでから出るのだが
こちらはまだステロイド効果の持続期間内なので
夜になって涼しくなるとなんとか食べてくださる。

こう暑いと家の中の猫も気の毒だと思って
エアコンを夕方までのタイマーにして出るのだが
猫は涼しい部屋にはいない。
階段、玄関、風呂場のどこかで寝ている。
たいへん空しい。
愚猫も病猫もいい加減にしてもらいたい(玉子)

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名雪祐平 12年7月29日放送

ymorimo
ロンドンは遠くても 上野由岐子選手

4年前の北京オリンピック。

日本女子ソフトボールチームは、
悲願の金メダルを獲得した。

絶対的エース、上野由岐子は
413球を投げきった。

ロンドンでは投げられない。

わかっていた。
ソフトボールが正式種目から外されることは、
北京から知っていた。

そのロンドンオリンピック開幕直前の
世界選手権。

日本は接戦の末、
王者アメリカの8連覇を阻止し、
42年ぶりに見事優勝を果たした。

それは、上野たち女子選手たちの
意地ではなかったろうか。

ロンドンよ、見たか!
不屈の、もうひとつの、
なでしこ達を。






ロンドンは遠くても 田知本愛選手

姉も、妹も、
女子柔道選手。

姉も、妹も、
ジュニアの頃から国際大会で何度も優勝した。

そして2012年、
ロンドンオリンピックの代表選考会が
やってきた。

全日本選抜柔道体重別選手権。

姉、田知本愛は78kg超級の準決勝で敗れてしまう。
妹、田知本遥は70kg級で見事初優勝。

姉は落選し、
妹だけがロンドンの日本代表に決定した。

それから一カ月以上たっても、
姉から妹への祝福や激励の連絡はなかった。

姉の心情を思いながらも、妹は冷静だった。

 それでいいと思っています。
 姉ちゃんの気持ちは理解しているし、
 自分で立ち直ってもらえたら。


夏の日射しが、
勝負に勝った者の肩にふりそそぐ。

4年に1度の、
コントラストの強い季節がやってきた。




ロンドンは遠くても 為末大選手

 負けたものは
 一人また一人と去っていく。


そう新聞に書いた。

陸上400m障害で活躍した為末大選手は
現役引退を表明した。

ロンドンオリンピックの選考会となる
日本選手権。

いつものように
トラック1周400mに、
10台のハードルが置かれる。

1台目を1番速く駆け抜けること。
その決め技が決められるか。

その1台目が遠かった。
衝突、転倒した。

けれど、そこでやめなかった。

現役最後の残り9台のハードルを
ちゃんと跳び、ちゃんと完走した。

為末選手のそれがゴールだった。



AirmanMagazine
ロンドンは遠くても ダラ・トーレス選手

女子競泳 ダラ・トーレス選手の記録

1984年 17歳 ロサンゼルスオリンピック 金メダル
1988年 21歳 ソウルオリンピック 金メダル
1992年 25歳 バルセロナオリンピック 金メダル

一度現役引退、7年後、現役復帰

1999年 33歳 シドニーオリンピック 金メダル2・銀メダル3

再び現役引退、長女出産後、40歳で現役復帰

2008年 41歳 北京オリンピック 銀メダル3

2012年 45歳 アメリカ代表選考会 女子50m自由形で4位に終わり、
ロンドンオリンピックの代表落選。

けれど、トーレス選手はチャレンジしたのだ。 
初めてオリンピックに出場した17歳の夏から28年たっていた。

 Age is Just a Number

年齢は数字でしかない。
トーレス選手の自伝のタイトルである。



semicolon;
ロンドンは遠くても 川内優輝選手

ロンドンを目指し、闘い、
敗れ去った者たち。

男子マラソンの川内優輝選手は
県立高校で働く“市民ランナー”として
記録を伸ばしていった。

その自分のスタイルに、
強烈な自負があったから、
実業団からスカウトされても何度も断ってきた。

川内選手が好成績をあげるたびに、
実業団中心の日本マラソン界にとって
大きな衝撃となった。

ロンドン代表には落ちたけれど、
新しい風を起こした。

ちなみに、海外遠征には
有給休暇を使って行くらしい。




ロンドンは遠くても 笹田夏美選手

お母さんはかつての
日本女子体操界のエース。
幻のモスクワオリンピック代表選手だった。

16歳の娘の笹田夏美選手も今年、
ロンドンオリンピックの
女子体操の代表をかけて闘った。

予選で2位。
そして、王手をかけた最終日だったが、
平均台でバランスをくずし、
両手を付く痛恨のミス。

わずか0.400差で6位となり、
号泣した。

代表の夢は叶わなかったものの、
補欠に選出された。

こんどは幻ではないロンドンへ。
お母さんを連れて行く。



Dirk Ingo Franke
ロンドンは遠くても パトリック・マカウ選手

ロンドンオリンピック最後の種目、
男子マラソン。

そのスタートラインに、
世界最速の男が立たない。

2011年ベルリンオリンピックで、
2時間3分38秒という驚異的な世界記録を打ち立てた
ケニアのパトリック・マカウ選手。

しかし今年、ケニアの代表から落ちた。

いま世界歴代トップテンの選手は、
ケニア5人、エチオピア5人。
たった2カ国でランキングを独占している。

ライバルひしめく中では
一度でも失敗すれば、
代わりは豊富にいる。

世界記録保持者は、
チームの補欠になった。

ぜいたく。



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佐藤理人 12年7月28日放送

ymorimo
旅が教えてくれたこと 「岡本太郎の東北」

優れた民俗学者としての顔も持つ画家、岡本太郎。
近代化で失われた日本人らしさを探しに、
彼は東北へ旅立った。

なまはげ。鹿(しし)踊り。
太鼓に合わせ獣となって踊る姿に、
彼は小躍りしてシャッターを切った。

 どうも私は人間よりも動物の方にひかれるらしい
 今日の人間があんまり温帯植物のように、
 無気力に見えるせいだろう


太郎はそこに、芸術に求めた
人間のエネルギーの爆発を見た。

爆発する芸術は、
爆発する人生から生まれるのか。



Vince Millett
旅が教えてくれたこと 「向田邦子のモロッコ」

日本語にはない色や景色や音を求めて、
作家向田邦子はモロッコへ旅だった。

女性が一人でアフリカを旅することは決して楽なことではない。
中でも食いしん坊の向田にとって最も辛かったのが食事だ。

食べられるのはほとんどなく、特に羊の肉は苦手だった。
しかしやがて、

 顔をそむけ、鼻をつまむようにして通った
 羊横町を面白いと思うようになった
 汚いと見えたものが、生き生きとうつるようになった


と、積極的に挑戦し始める。

世界は頭より、
胃袋で理解した方が早いようだ。



New Perspective
旅が教えてくれたこと 「チャトウィンのパタゴニア」

20世紀を代表する紀行文学、
ブルース・チャトウィンの「パタゴニア」。

しかし普通の紀行文とは違い、
彼自身のことはほとんど書かれていない。

幻の共和国の王になろうとした男など
旅の途中で聞いた不思議なエピソードが、
パッチワークのように綴られる。
時間や場所を飛び越えた構成は、
チャトウィンの旅そのもの。

彼は言う。

 つきまとう虹に追いかけられて
 諸国を流浪する女神官のように僕は移動し続ける
 でも、僕に虹はついてこない


旅の本当の目的地は、
旅の途中にあるという。



Jose Pires
旅が教えてくれたこと 「ル・コルビュジエのギリシャ」

近代建築の父、ル・コルビュジエ。
彼は23歳のとき、
古典建築をめぐる半年間の旅に出た。

この旅は後に「東方への旅」という本にまとめられた。
そこには才能ある建築家の卵の興奮が、
生き生きとしたスケッチと率直な言葉で綴られている。
印象的なのが、
ギリシャのパルテノン神殿を訪れたときの記述だ。

巨大な柱が整然と並ぶ空間の美しさに、
若きコルビュジエは圧倒された。
無言のスケッチからは、彼の静かな感動が伝わってくる。

感極まった彼は一言、

 おお!光!大理石!モノクローム!

とだけ記した。この旅を経てコルビュジエは、
当時の流行だった装飾華美な建築と決別。
「家は住むための機械である」と唱え、
現代建築の基礎を築いた。

過去には、未来が隠れていたりする。




旅が教えてくれたこと 「ロバート・キャパのベトナム」

 俺の血がベトナムに従軍するのを止められないんだよ

戦場カメラマン、ロバート・キャパはベトナム戦争に旅だった。

滞在先のハノイで、彼はあるシーンをフィルムにおさめる。
道路を横断する少年少女たちと、
彼らのために車をとめるフランス軍人。

平和に潜む暴力。
それこそがベトナム戦争の本質だと、キャパは気づいた。
そして、その罠にキャパもかかってしまう。

1954年5月25日、
取材の移動中に地雷を踏み、彼は帰らぬ人となる。

彼が学んだ教訓を、
人類は今も探し続けている。




旅が教えてくれたこと 「ブコウスキーのドイツ」

社会から取り残された者を優しく詠んだ
酔いどれ詩人チャールズ・ブコウスキー。

故郷のドイツで朗読会を開いたとき、
彼は人生初の体験をする。
聴衆の拍手喝采を浴びたのだ。

 私はすっかり酔いがさめてしまい、
 もっと飲まなければならなくなった。


ステージに取り残された
ひねくれ者のブコウスキー。

世界中どこにいても変わらないのが、
「本当の自分」というやつらしい。





Poetografie
旅が教えてくれたこと 「チェ・ゲバラのボリビア」

アルゼンチンの裕福な家に生まれた
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナにとって、
医者は自然な人生の選択だった。

ベネズエラで医者になろう。そう決めて旅だった彼は、
ボリビアで革命政権と保守派の争いを目にする。

医者か、革命家か。ゲバラの心は揺れた。

そんなある日「グアテマラに行かないか?」と誘われた。
革命のためにともに戦おうというのだ。
そのひと言にゲバラは飛びついた。

 もともと心の奥底で考えていたことで、
 僕自身が決心するのに、この一押しが欲しかったのだ


日記に彼はそう記している。
そして運命の1955年7月7日。彼は一人の男と出会う。

フィデル・カストロ。一目で互いを気にいった二人は
その後、キューバ革命政権を樹立する。

旅はときに、自分への小さな革命になる。

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藤本組誕生



藤本宗将くんが自分の組を持つことになりました。
組員は阿部広太郎くんと村山覚くんです。
よろしくおねがいします。


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藤本宗将くんがADCグランプリを受賞




ADCというのは東京アートディレクターズクラブの略です。
ここの賞は
グランプリもADC賞も会員賞もぜんぶ合わせても
毎年ほんの数点しか入賞しないので難関なのですが
今年はVisionメンバーの藤本くんが入賞を果たしました。

入賞作品は上のyoutubeからご覧になれます。
HONDAの歴代の名車が勢揃いしています(玉子)

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宮田知明 12年7月22日放送


草野マサムネとザ・ブルーハーツ

スピッツのボーカリスト、草野マサムネは、
大学入学当初、「チーターズ」というバンドを組んでいた。

もともと、そんなに
上昇志向があるわけではなかったが、
たくさんのバンドを見るうちに、
当時のバンドマンたちのあこがれだった「新宿ロフト」の
ステージに立ちたい、と思うようになっていった。

そんな矢先、草野は、ある曲と出会う。
ザ・ブルーハーツの、「人にやさしく」

「こんなバンドがやりたい」という、
草野の理想が、そこにあった。
このままでは、ブルーハーツの後追いになってしまう。
そう思うと、やる気がどんどんしぼんでいき、
結果、チーターズは自然消滅。

でも、その約1年後、草野の出した答えは、
「もう一回、バンドをやろう。
しかも、今度は新宿ロフトをめざせるようなバンドを。」

バンド名は、「スピッツ」。
草野が、高校時代から、バンドをやるならこれがいい、
と思っていた名前だった。



rockheim
草野マサムネとアコースティックギター

「ブルーハーツみたいな音楽をやっていても、
 この先、未来はないんじゃない?」

スピッツのインディーズ時代、
渋谷のライブハウス、「ラ・ママ」でライブを行った後、
草野が店長から言われた言葉。

真似をしているつもりはなかった。
でも、確かにブルーハーツの影響は受けていた。

このときから、草野はエレキギターを手放し、
アコースティックギターを持ってライブに出るようになった。
楽曲も、ビート系から、メロディアスな方向に変わった。

「スピッツらしさ」の原型が、できあがった。
そのきっかけは、ライブハウスの店長の、
ふとした一言。






草野マサムネと新宿ロフト

スピッツの、当初の目標。
それは、当時のバンドマンの憧れ、
「新宿ロフト」のステージに立つこと。

その機会は、意外と早くまわってきた。

バンド結成から2年後、
スピッツのデモテープを聴いたあるイベント会社の人が、
新宿ロフトで行うイベントに参加しないか、
と声をかけてくれたのだ。
そしてその5カ月後、スピッツは新宿ロフトで
ワンマンライブを果たす。

でも、草野は満足しなかった。

新宿ロフトは、日本のロックの歴史を作ってきた老舗のライブハウス。
その、ロフトの名前にふさわしいライブをやらないと。

目標にたどり着くと、また次の目標が生まれる。
そうやってスピッツは成長を続け、
結成から4年というスピードで
メジャーデビューを果たすのだが、
その後の苦労は、また別のお話。



NguyenDai
草野マサムネと売れないジレンマ

メジャーデビューし、3枚のアルバムを出したが、
まったく売れる兆しのなかったスピッツ。

アルバムの売り上げも、
出すごとに少しずつ落ちていた。

スピッツを、たくさんの人に聴いてほしい。
そうやって、真剣に努力してくれている周りのスタッフに、
草野は申し訳ない気持ちだった。

オリコンにチャートインして、
みんなに恩返ししたい。
そのためには、もっとポップな曲を…
4枚目の「Crispy!」は、そんな想いを
形にしたアルバム。

しかし、結果的に「Crispy!」は、チャートインしなかった。
売れようと努力したのに売れなかった。
草野の落ち込みは、相当なものだった。

でも、その影では、新しいファンが生まれ、
ラジオ局やレコード屋がプッシュするようになっていた。

そして次のアルバム、「空の飛び方」は、
オリコン・アルバムチャートで14位に入る。
「Crispy!」での努力は、次のアルバムにあらわれた。




草野マサムネと自分の声

「マサムネの歌は、高いキーで、
もっと張って歌った方が聴き手に届くよ。」

音楽プロデューサー、笹路正徳の言葉に、
草野は驚かされた。

今でこそ、草野のハイトーンの声の美しさが
スピッツの魅力のひとつであることは
誰もが認めるところだが、
当時、草野は、ハイトーンの自分の声が嫌いだった。

「ロックはクールに」という思い込みがあり、
わざとキーを低く設定して唄っていたのだ。

自分では気づかない魅力を
気づかせてくれる人がそばにいたことが、
草野にとって、幸運だった。

ハイトーンの声でそのまま歌う。
これをきっかけに、スピッツの音楽は、
より明るく、美しいものになっていく。




草野マサムネとスピッツバブル

「地味な曲だなぁ。」

そう、メンバーで話しながら作った曲が、
162万枚のミリオンセラーとなった、
「ロビンソン」。

その後のスピッツは、本人たちが
「スピッツバブル」と称するほど、
売れに売れ続けた。

ただ、当の草野は、頂点に立ちたいとか、
いい車に乗りたいとか、
スターの考えるようなことには興味がなかった。

これで、しばらく音楽を続けられる。
それだけで十分だった。

そんな当時の、草野のささやかな幸せとは。

 「CDを買うとき、前は5枚の中から1枚を選んで買っていた。
  でも今は、まとめて5枚、大人買いできることが幸せだ。」



uzaigaijin
草野マサムネと新しい壁

「いまだに、聴きたくないアルバムがある。」

スピッツのボーカル、
草野マサムネがそう言いきるアルバムの名前は、
「フェイクファー」。
音楽プロデューサー、笹路正徳から離れて
最初に作ったアルバムだった。

けれども、自立しようとしたはずなのに
どうやって曲を作ったらいいか、
どんな詞を乗せればいいか、わからなくなった。
ギリギリまで歌詞ができず、ブースの中にまで
ノートと鉛筆を持って入った。

しかし、そんな「フェイクファー」を、
いちばん好きだと言うファンも多い。
それを証明するかのように、『フェイクファー』ツアーは、
大きな成功を収める。
「ライブバンド」としてのスピッツが、確立しつつあった。

壁につきあたっていると感じているとき、
スピッツは、実は前に進んでいた。




草野マサムネと3人の男

「20年以上、同じメンバーで
続けてこられたのはなぜですか?」

そんな問いに、スピッツのボーカリスト、
草野マサムネは、
「4人が、同じ方向を向いていたから。」
と答えている。

しかし
チーターズの頃からずっと草野とともに歩んできたベーシスト
田村明浩は言う。

 スピッツの4人は、誰ひとりとして先のことを
 考えてやってきたわけじゃない。
 ただ、少なくとも草野以外の3人は、
 草野の曲がある限りスピッツは続くと思っている。

20年間、続いた理由は、
「大好きな曲がそこにあるから」

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古居利康 12年7月21日放送

Philipp Salzgeber
コメットイケヤを見つけに ①

1963年1月3日午前5時5分。
静岡県浜名郡舞阪町在住、
河合楽器浜松工場ピアノ鍵盤工の池谷薫が、
星座表にない一つの星を発見した。

それは、
南の空に輝く乙女座の主星スピカから
20度東南にあって、南南東へ移動していた。

1月5日、
コペンハーゲンの国際中央天文局で
その星は、正式に新彗星と確認され、
発見者の名前をとって
池谷彗星=コメットイケヤと名づけられた。

池谷薫、19歳。
毎朝、太陽が昇る前に屋根にのぼり、
星空を見ることを生きがいとする少年だった。
手にしていたのは、じぶんで組み立てた
手づくりの天体望遠鏡。
コメットイケヤは、その望遠鏡で
見つけた初めての彗星だった。



Ashley Dace
コメットイケヤを見つけに ②

1950年代の終わり、
前衛的な短歌や戯曲で登場し、
映画の脚本やラジオドラマでも
活躍していた寺山修司。

寺山は、
池谷彗星の発見者・池谷薫に会いに、
たびたび浜松に出かけていって、
「なぜ星を探すのか」という質問を
繰り返した。

コメットイケヤを題材に、
ラジオドラマを一本つくろうとしていた。

19歳の若者による彗星発見、
という見出しが躍った新聞の片隅に、
或るサラリーマンの失踪という
小さな記事を発見した寺山は、
何の関係もない2つの出来事のあいだに
因果関係を見ようとしていた。

「私たちが何かを発見したときには、
 同じ世界の中で何かを失わねば
 ならないのではないか。」


というのが寺山のモチーフだった。



Ben McLeod
コメットイケヤを見つけに ③

寺山修司が書いたラジオドラマ、
『コメット・イケヤ』には、
アマチュア天文家・池谷薫本人の肉声が
刻まれている。

「なんか薄い雲の切れっぱしが通ったような
 気がしたんです。確かに視界の上の方に
 スゥッと薄いのが通ったように思った
 もんですから、そこをよく見たら
 たしかにあるんです。何回か確かめて
 確かに動いてるってとこを見てから、
 スケッチをして、電報を打ったんです。
 まだ暗いうちに。」


失踪者の行方を探すストーリーと、
池谷薫の彗星発見という現実の出来事が、
寺山修司のイマジネーションによって、
不思議に溶け合っていた。

「無人島の少年が沖を見張るように、
 はてしない空を見張り続けているうちに、
 彼は、『星座表』にない新しい星を発見して、
 たちまち天文学界の話題になった。」


と、寺山は書いている。


Ferny71
コメットイケヤを見つけに ④

1966年のラジオドラマ『コメット・イケヤ』。
演出を担当したのは、当時NHKのラジオ文芸部にいた
佐々木昭一郎だった。

佐々木が寺山と組むのは、初めて演出した
『おはよう、インディア』、吉永小百合の20歳を記念して
企画された『二十歳』につづいて、3度目だ。

あるとき、NHK浜松放送局から、池谷薫を取材しないか、
という誘いを受けた佐々木昭一郎は、
19歳のアマチュア天文家・池谷薫の自宅を訪れる。

「彼は想像通りナイーヴで礼儀正しい好青年であったが、
 彼にとって“星空”は私の考えていたような
 センチメントなど立ち入る余地もない、苛酷なものだった。
 気温零度以下の天候でも、彼はいつ現れるのか全く予測も
 出来ないホーキ星のかすかな光を探し続けるのである。」


と、佐々木は書いている。

「彼の現実は、私の貧弱な想像力をはるかに超越していた
 のだ。それをうまく言葉で表現する事は出来ないが、
 私はそこに何か、“狂的”(或いは熱狂的というべき)な
 現実を感ぜずにはいられなかった。」


この現実に斬り込むには、鋭いフィクションの武器が
必要だ。それをもっているのは寺山修司以外にない、
と、佐々木昭一郎は考えたのだった。



zAmb0ni
コメットイケヤを見つけに ⑤

「きいていい? 池谷さん。」
と、盲目の少女が言う。

「はい、なにをですか?」
と、ていねいに答える池谷さん。

「池谷さん! ほしって何ですか?」
と、少女。

「ほしはいつでも見えてるんですけど、
 そのほしがそこに輝いている
 っていうことに気がついたひとだけに
 見えるんです。
 たとえ目が見えなくても、
 そこにほしがあるっていうことに
 気がついていれば誰でも見えるんです」

と、池谷さん。

ラジオドラマ『コメット・イケヤ』は、
アマチュア天文家・池谷薫の
演技ではない、ほんとうの言葉を引き出して、
ストーリーに取り込んだ。

台本、寺山修司。演出、佐々木昭一郎。
2人のイマジネーションが、
稀有なドラマを生んだ。





Philipp Salzgeber
コメットイケヤを見つけに ⑥

池谷さん、
彗星って何ですか?

それは、
岩石と塵にまみれた氷の玉。

何十年、何百年の周期で
太陽系のまわりをまわっていて、
太陽に近づくと、氷の一部が蒸発し、
ガスと塵の混合物が気体になり、
尾っぽになって流れていきます。

池谷さん。
天上に新しい彗星を発見するとき、
地上でなにかが失われるって、
ほんとですか?

・・さぁ、
わたしにはわかりません。




コメットイケヤを見つけに ⑦

2010年11月3日午前4時58分。
池谷薫は、新しい彗星を発見した。
2002年に発見して以来、8年ぶりのことだった。

1963年、初めて彗星を発見したあの日から、
47年と10ヶ月。池谷薫、66歳。
その人生で出会った7つめの彗星だった。

池谷薫は、いまも毎日、手づくりの望遠鏡を覗いている。
それはニュートン式反射望遠鏡で、2枚の鏡から
できている。池谷薫は、鏡をひたすら自分で磨いてきた。
望遠鏡をじぶんでこしらえる、ということは、
反射鏡をじぶんで磨く、ということなのだ。

鏡の品質によって、望遠鏡の精度が変わってくる。
鏡の研磨によって、見える星の数もちがってくる。

いま、池谷薫は『池谷光学研磨研究所』を主宰し、
多くのアマチュア天文家に、鏡を研磨する技術を
伝授しようと努めている。

磨く、と言っても、ただ布でこするだけ、
というような単純な作業ではない。
いろんな道具や材料を使い、複雑な工程を経て
鏡を加工していく技術。

池谷薫は、ただひとり孤独に、
夜空を見つめているのではない。
星を見つめるひとを見つめる、
もうひとつの目を彼はもっているのだ。なる。
 

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猫じゃないよっ!



夜、大きな猫が塀から庭に侵入しようとしていた。

見かけない猫だな、どこの猫だ。
ちらっと顔が見えた。鼻が獅子鼻だった。
おかしいな…
さらによく見たら鼻から額にかけて白い筋があった。

猫じゃない、断じて猫ではない。
なんてったっけ、これ。中国のやつ。
そうそうそう、ハクビジン。違うよ、ハクビシンだよ。
カメラカメラ。

大騒ぎで写真を撮った。
ちっとも怯えない。悠々としているし
むしろ人を歓迎しているようにも見えた。

飼われて捨てられたのか、脱走したのか知らないが
どうもうちのあたりには
野良化したハクビシンが何頭も生息しているらしい(玉子)

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Tokyo Copywriters’ Street LIVE 5 仮プログラム




詳細:http://www.01-radio.com/guild/

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三島邦彦 12年7月15日放送


遊びの話  ホイジンガ

人間とは、一体。
この問いに、歴史家ホイジンガは一つの答えを見つけた。

 すべて遊びなり。

人の営みは遊びから生まれ、また遊びそのものでもある。
ホイジンガは、人類を意味する「ホモ・サピエンス」という言葉にならい、
人間を、遊ぶ存在「ホモ・ルーデンス」と呼んだ。

人類のみなさん。遊び心をお忘れなく。




遊びの話  後白河天皇

平安時代の末期。
後白河天皇は、
庶民の流行歌を後世に残そうと
「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という書物を作った。
たとえば、こんな歌。

 遊びをせんとや生まれけん
 戯(たわぶ)れせんとや 生まれけん
 遊ぶ子供の声聞けば 
わが身さへこそ動(ゆる)がるれ


遊びをしようと生まれてきたのか。
たわむれをしようと生まれてきたのか。
遊ぶ子どもの声を聞いていると、
私はどうにも感動してしまう。

天皇の心を惹いたのは、貴族の文芸にはない、素朴なリアリティ。
庶民の流行歌を楽しむこころを持った天皇は、
その遊び心を胸に、動乱の世へ立ち向かった。






遊びの話 横井軍平

人々を楽しませるアイデアは、
退屈している時間に考えるのがいいのかもしれない。

横井軍平という青年がいた。
地元京都の企業に就職したが、
任された設備機器の点検は
とても退屈な仕事だったので、自分でおもちゃを作り、暇をつぶした。

その様子を社長に見つかり、社長室へと呼び出される。
社長は言った。「それを商品化しろ。」

手元を閉じると伸びてものをつかみ、
開くと縮んでものを離すそのシンプルなおもちゃは、予想を超えるヒットとなった。

横井はその後、出張の新幹線で退屈している時、電卓で時間をつぶすサラリーマンを見て、
ゲーム&ウォッチという、電卓を利用した小型電子ゲーム機を思いつき、これも大ヒット。

 枯れた技術の水平思考

既にある技術に、新しい光を当てるだけで、ヒット商品は作れる。
そう確信した横井は、おもちゃやゲームを作り続けた。
横井が勤める会社、任天堂が世界のゲーム市場を席巻するのは、
そう遠くない未来だった。

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